電影男子
飯屋に入るのが、少し面倒になっていた。
飯を食うことが面倒なのではない。店員の対応が気になるのだ。
入口を開けたときの顔。注文を聞くときの声。水を置くときの手つき。食べ終わって会計を済ませたあと、店主がどんな顔で「ありがとうございました」と言うか。
気持ちよく言ってもらえれば、それだけで少し安心する。
反対に、声が小さかったり、こちらを見ずに言われたりすると、帰り道まで気になってしまう。
何か失礼なことをしただろうか。
食べ方が悪かったのか。注文の仕方が気に入らなかったのか。そもそも自分は、あの店に歓迎されていなかったのか。
店主に嫌われたところで、もう二度と行かなければいいだけの話だ。頭ではわかっている。
しかし、そう簡単にはいかなかった。
自分はこの店主に気に入られているだろうか。
そのことが、飯の味よりも気になることがあった。
その日も、駅の近くにある小さな飯屋に入った。
カウンターが七席ほど。奥に四人掛けのテーブルが二つ。壁に貼られたメニューは日焼けしていて、入口の脇には小さな鉢植えが置かれていた。
生姜焼き定食が九百八十円。唐揚げ定食が千百円。
少し迷ってから、生姜焼き定食を頼んだ。
店主は五十歳くらいの男だった。
「いらっしゃいませ」
ごく普通の声だった。
隣の客とは、何か楽しそうに話していた。常連なのかもしれない。店主が何か言うと、客が笑った。
自分の注文を聞くときは、必要なことしか話さなかった。
注文したものが出てきて、食べた。生姜焼きはうまかった。肉は柔らかく、タレも濃すぎなかった。ご飯の量もちょうどよかった。
会計を済ませると、店主は「ありがとうございました」と言った。
普通の声だった。
店を出て、しばらく歩いた。
悪い感じではなかったと思う。しかし、歓迎されていたという感じもしなかった。
そもそも、飯屋で歓迎される必要があるのだろうか。
腹が減ったから入って、飯を食って、金を払って出てきた。それだけのことだ。
そう考えてみても、さっきの店主の声が、頭の隅に残っていた。
家に帰ると、自分の部屋に入った。
机の上には、読みかけの本と、充電ケーブル、飲みかけのペットボトルが置いてあった。壁際には、出品する服が入った袋がいくつか並んでいた。
パソコンの前に座り、電源を入れた。
YouTubeを開くと、いつも見ている怪談のチャンネルに新しい動画が上がっていた。
動画を再生しながら、メルカリを開いた。
出品している商品の一覧を確認した。何日も売れていない服があった。商品説明を少し直し、写真を見直した。
動画では、男が過去に体験したという不思議な話をしていた。
しばらくそれを聞いてから、パソコンを閉じた。
翌日、夕方から友人と会う約束をしていた。
待ち合わせ場所は、駅前の時計台だった。
約束の時間に着いたが、友人の姿はなかった。
LINEを送ると、すぐに返事が来た。
「着いてるよ」
「どこ?」
「時計台の下」
顔を上げて、周囲を見た。
時計台の下には、何人か人がいた。しかし、友人はいなかった。
電話をかけた。
「今どこにいる?」
「だから時計台だって」
「俺も時計台にいるんだけど」
友人は少し笑った。
「いや、いるじゃん。時計台」
電話越しに、駅前の音が聞こえた。
友人が周囲の様子を説明した。近くにある店や、道路の向こうの看板。自分が見ている景色と同じだった。
それでも、友人の姿は見えなかった。
時計台の周囲を歩いてみた。柱の向こう側も、植え込みの脇も確認した。少し離れた場所まで行き、そこから時計台を見た。
見つからなかった。
電話を耳に当てたまま、もう一度、時計台の下に戻った。
そのとき、目の前に友人が立っていた。
「あれ、何してんの?」
友人は、いつもと変わらない顔をしていた。
「いや、そっちこそ」
「ずっとここにいたけど」
そう言って、友人は笑った。
いつからそこにいたのか、聞かなかった。
二人で、昔よく行っていた喫茶店に入った。
店内の様子は、以前と少し変わっていた。カウンターの向こうにいる店員も、見覚えのない顔だった。
コーヒーを飲みながら、仕事や共通の知人の話をした。最近どうしているのか、どこかへ出かけたか、そんな他愛のない話だった。
友人には彼女ができたらしい。
京都に住んでいるそうで、これから遠距離になるけれど、付き合っていくつもりだと話していた。
「へえ、よかったじゃん」
そう答えた。
友人は、彼女と会うために京都へ行く話をした。まだ具体的なことは決まっていないようだったが、楽しそうだった。
それからも話は続いた。
気がつくと、店内の客は少なくなっていた。窓の外も暗くなっていた。
時計を見ると、終電が近づいていた。
店を出て、駅前まで歩いた。
「また連絡するわ」
「うん」
友人は改札のほうへ歩いていった。
俺はそのまま、駅前の通りを歩き始めた。
駅の近くには、まだ人がいた。
飲食店から出てくる人たち。誰かを待っている人。スマートフォンを見ながら歩く人。タクシーが停まり、客が乗り込んでいった。
大きな通りを離れるにつれて、人通りは少なくなっていった。
店の看板が減り、住宅の窓や玄関灯が目に入るようになった。歩道を歩いている人も、いつの間にか見かけなくなっていた。
雨が降り始めた。
傘を差すほどではなかった。街灯の下に入ると、細かな雨粒が光って見えた。濡れたアスファルトには、白い街灯とオレンジ色の光がぼんやり映っていた。
友人の遠距離恋愛の話を思い出した。
俺には彼女すらいなかった。
結婚して、子供がいてもおかしくない年齢だった。
ため息が出た。
歩き続けた。
周囲には、もう人影がなかった。
少し先に、オレンジ色の明かりが見えた。
雨はいつの間にか、少し強くなっていた。
街灯の光がぼんやりとにじんでいた。
遠くの建物も、輪郭がはっきりしなかった。
住宅の玄関灯だと思った。
その先にも、もうひとつ見えた。
家々の明かりだろう。こんな時間にも起きている人はいる。
そう思いながら歩いていたが、なぜか、その明かりが気になった。
近くまできて気づいた。
道路の向こうで、黄色い信号が点滅していた。
周囲に車はなかった。
横断歩道を渡り、先へ進んだ。
いつも通っている道のはずだった。
見覚えのある塀もあった。角にある家の前には、いつものように植木鉢が並んでいた。
それなのに、何かが違うような気がした。
何が違うのかは、よくわからなかった。
やがて、遠くから車の音が聞こえてきた。
ヘッドライトが雨の向こうに現れた。車はそのまま、目の前を通り過ぎていった。
エンジンの音が遠ざかった。
少し先にコンビニが見えた。
横断歩道を、ひとりの歩行者が渡っていった。
俺はそのまま歩いた。
家に帰り、部屋に入った。
いつもの時計が目に入った。
午前3時だった。
駅を出たのは、日付が変わる頃だったはずだ。家までは歩いて十五分ほどしかかからない。
時計をもう一度見た。
やはり、午前3時だった。
急に寒気がした。
部屋は寒くなかった。
それでも、背中のあたりから冷たいものが上がってくるような感じがした。しばらく、その場から動けなかった。
パソコンの前に座り、YouTubeを開いた。
いつも見ているファッションのチャンネルが目に入った。
動画を再生した。
画面の中では、男が服について話していた。
少し音量を上げた。
それから、メルカリを開いた。




