食べごろの少女
午前四時四十七分。
ノートパソコンの右下に表示された時刻を見て、梨花はようやく今日が何曜日だったか分からなくなっていることに気づいた。
窓の外はまだ暗い。向かいのビルでは、清掃員が誰もいない会議室の机を拭いていた。
オフィスに残っているのは梨花だけだった。
三日前から手をつけている提案書は、あと四ページ。午前九時の役員会議までに数字を差し替え、想定質問への回答をまとめ、部下が出社する前に最終版を共有しなければならない。
できない量ではない。
そう判断したのは、自分だった。
梨花は冷たくなったコーヒーに口をつけた。舌に広がったのは、焦げたような苦さだけだった。
「あと少し」
誰に聞かせるでもなく呟く。
梨花は三十歳で、外資系企業の営業部長になった。
若い女だからと軽く扱われないように、誰より早く結果を出した。無理だと言われた案件ほど引き受けた。弱音を吐かず、助けを求めず、一人で片づけた。
できる人間には、仕事が集まる。
仕事が集まるほど、梨花はできる人間であり続けなければならなかった。
視界の端で、文字が滲んだ。
瞬きをしても直らない。
睡眠不足のせいだと思い、梨花はこめかみを押さえた。最後に眠ったのがいつだったのか思い出せない。短い仮眠を睡眠と呼んでいいなら、二日前のタクシーの中で二十分ほど眠った。
胸の奥が、妙に速く脈打っていた。
身体が限界を訴えていることくらい分かっていた。それでも今さら止まれなかった。
梨花はマウスへ手を伸ばした。
指先が、届かなかった。
肘から力が抜け、身体が傾く。床が近づいてくるのを、どこか他人事のように眺めていた。
机の角にぶつかる。
そう思った瞬間、すべての音が遠ざかった。
最後に浮かんだのは、助けを呼ばなくては、ではなかった。
保存していない。
それだけだった。
*
最初に感じたのは、寒さだった。
次に、腐った藁と鉄錆の臭い。
梨花は重い瞼を開いた。
薄暗い天井が見えた。石を積み上げただけの壁。裸電球も、空調設備もない。明かりは壁に取りつけられた燭台の炎だけだった。
身体を起こそうとして、両手首に痛みが走った。
鉄の枷が嵌められている。
「……何、これ」
出た声は、梨花のものではなかった。
高く、細い。ひどく幼い声だった。
梨花は息を呑んだ。
自分の手を見る。白く細い指。傷だらけの手首。着ているのは、膝までしかない粗末な麻の服だった。
周囲から、いくつもの視線を感じた。
梨花がいるのは、鉄格子で囲まれた檻の中だった。
同じ檻に、十人ほどの少女が押し込められている。誰もが痩せ、汚れた服を着ていた。声を上げる者はいない。泣くことさえ諦めたように、膝を抱えて俯いている。
悪趣味な撮影か、誘拐か。
そう考えた直後、鉄格子の外を歩いてきた男を見て、そのどちらでもないと悟った。
男の頭から、獣のような耳が生えていた。
作り物には見えない。灰色の耳は男の足音に合わせて小さく動いた。
「商品を起こせ。もうすぐ客が来る」
聞いたことのない響きの言葉だった。
それなのに、意味が分かる。
梨花の頭ではなく、この身体が知っているようだった。
獣耳の男が檻を棒で叩いた。乾いた音に、少女たちの肩が一斉に跳ねる。
「特にそこの蜜血だ。傷をつけるなよ。十七の血は今がいちばん高く売れる」
男の視線は、梨花に向いていた。
「十七……?」
梨花は自分の頬に触れた。
近くに座っていた少女が、怯えながら小さな銀の皿を差し出した。食器として使われていたらしい皿の表面に、ぼんやりと顔が映る。
長い金髪。
透き通るような青い瞳。
汚れていても隠しきれないほど整った、見知らぬ少女の顔。
どう見ても、三十歳の梨花ではない。
首には革の輪が巻かれていた。そこから下がる金属板に、ひとつの名前が刻まれている。
――リリア。
文字を見た途端、胸の奥に知らない記憶が流れ込んできた。
暗い荷馬車。売られていく人々。白い牙。血を吸われ、動かなくなった少女。
人間は、吸血鬼の食料。
若く健康な者ほど高値で取引され、その中でも十七歳前後の血は、香りも甘みも最も優れているとされる。
リリアは、そのために育てられた奴隷だった。
馬鹿げている。
そう切り捨てたかった。しかし手首の鉄は重く、石床の冷たさはあまりに現実的だった。
梨花は目を閉じ、ゆっくり息を吐いた。
混乱している暇はない。
ここがどこであろうと、自分が誰の身体に入っていようと、まず把握すべきことは同じだ。
目的。相手の要求。自分が差し出せるもの。そして、交渉の余地。
「ねえ」
梨花は隣の少女に声をかけた。
「私たち、これからどうなるの?」
少女はしばらく唇を震わせたあと、掠れた声で答えた。
「選ばれたら……連れていかれる」
「そのあとは?」
「ご主人様のものになる。血を飲まれて、いらなくなったら捨てられる」
梨花は檻の外へ目を向けた。
つまり、これは奴隷市場だ。
商品は自分たち。顧客は吸血鬼。選ばれなければどうなるのかは、聞くまでもなかった。
逃げるのは難しい。鉄格子には鍵があり、手首には枷がある。仮にここを出ても、土地勘も金も、この世界の常識もない。
ならば今は、買われる相手を選ぶしかない。
選ばれるのではなく、こちらが選ぶ。
生き延びる可能性が最も高い相手を。
やがて重い扉が開き、檻の並ぶ地下室に着飾った男女が入ってきた。
人間と変わらない姿をしている。ただし全員、肌が異様に白い。笑った口元から、ときおり鋭い犬歯が覗いた。
彼らは檻の前を歩きながら、少女たちの腕や喉を眺めた。
「これは痩せすぎている」
「黒髪は香りが弱いわ」
「十五か。あと二年育てれば、ちょうどよくなる」
品定めの言葉が飛び交う。
梨花は俯かなかった。
客の服装、従者の人数、売人に対する態度を観察する。乱暴に少女の顎を掴む者。酒臭い息を吐く者。連れている奴隷の腕に無数の噛み痕がある者。
どれも駄目だ。
そのとき、地下室から音が消えた。
正確には、誰もが口を閉ざした。
入口に、一人の男が立っていた。
月の光を糸にしたような銀髪。
深い赤の瞳。
血の色が鮮烈に映えそうな、白い陶器のような肌。
怖いほど整った顔には、人間らしい温度がなかった。美しいというより、精巧に作られた人形のようだった。
「シャルル様」
売人が慌てて頭を下げる。
シャルルと呼ばれた吸血鬼は応えず、檻の間をゆっくり歩いた。
商品を見る目ではない。
何にも興味を持っていない目だった。
梨花は、かえって彼から目を離せなかった。
感情で動く相手より、合理的な相手のほうが交渉できる。
シャルルの足が、梨花の檻の前で止まった。
赤い瞳がわずかに細くなる。
「……妙だな」
低く、静かな声だった。
「この娘からだけ、ひどく甘い香りがする」
売人の顔に笑みが広がる。
「さすがはシャルル様。こちらは本日いちばんの品でございます。推定十七歳、混じり気のない蜜血です。少々痩せておりますが、数日よい餌を与えれば――」
「名前は」
「リリアと申します」
シャルルが梨花を見下ろす。
「顔を上げろ、リリア」
命令されるまでもなく、梨花は彼を見返していた。
周囲がざわめく。奴隷が吸血鬼と目を合わせること自体、許されないらしい。
けれど梨花は視線を逸らさなかった。
「あなたが、私を買うの?」
売人が息を呑んだ。
「無礼者!」
振り上げられた棒を、シャルルが片手で止めた。
「傷をつけるなと言ったのは、おまえだろう」
穏やかな声だった。
それだけで売人の顔から血の気が引いた。
シャルルは梨花へ視線を戻す。
「買うかどうかは、まだ決めていない」
「なら、判断材料をあげる」
「判断材料?」
「私を今ここで殺せば、飲めるのは一度だけ。でも健康な状態で生かしておけば、長期間、同じ品質の血を飲み続けられる」
シャルルの表情は変わらない。
けれど、赤い瞳の奥に初めて微かな興味が浮かんだ。
「自分を売り込む奴隷は初めて見た」
「売られる相手を選べないなら、せめて条件くらいは選びたいの」
「君に選ぶ権利があると?」
「権利がないから、交渉してる」
短い沈黙のあと、シャルルが笑った。
唇の端がほんの少し持ち上がっただけだった。作り物のようだった顔に一瞬だけ命が宿り、梨花はかえって背筋が冷たくなるのを感じた。
「条件を聞こう」
梨花は手首の枷を持ち上げた。
「吸血は週に一度。私の生命と健康に支障が出ない量まで。十分な食事と睡眠を与えること。許可のない吸血と暴力は禁止。それから契約期間を決めて、満了後は私を解放する」
「ずいぶん要求が多いな」
「品質管理に必要な経費よ」
「私がここで君の喉を裂けば?」
シャルルの瞳が赤く光った。
逃げられない捕食者を前にして、身体の奥に残るリリアの本能が震えた。心臓が速くなり、指先が冷たくなる。
それでも梨花は、声を震わせなかった。
「一度きりの食事で終わる」
「脅しているのか」
「提案しているの」
また沈黙が落ちた。
周囲にいる誰もが、息をすることさえ忘れたように二人を見ていた。
やがてシャルルは、売人へ金貨の入った袋を投げた。
「買おう」
売人が袋を受け取り、その重さに目を見開く。
「しかし、シャルル様。この娘は少々気性に問題が――」
「だから価値がある」
檻の鍵が開けられた。
シャルルは梨花の前に立つと、鉄の枷に指を触れた。金属が音もなく砕け、石床へ落ちる。
自由になった手首には、赤黒い痕が残っていた。
「立てるか、リリア」
差し出された手は、死人のように白かった。
この手を取れば、おそらく後戻りはできない。
だが、ここに残るという選択肢もない。
梨花はその手を取った。
驚くほど冷たい手だった。
「契約成立ね」
「まだ君の条件を受け入れるとは言っていない」
「私を買った時点で、交渉の席には着いたでしょう」
シャルルは梨花を見つめ、それから再び微かに笑った。
「やはり、君は妙な人間だ」
赤い瞳が、梨花の首筋へ落ちる。
そこに流れる血を確かめるような視線だった。
「その強気が、いつまで続くか楽しみにしている」
梨花は白い吸血鬼の手を握ったまま、開かれた檻の外へ一歩踏み出した。
三十年間、仕事に食べられ続けた人生だった。
そして今度は、本当に自分を食べる男のものになった。
それでも、ただ喰われるつもりはない。
相手が怪物であろうと、条件を呑ませ、生き残ってみせる。
このときの梨花はまだ知らなかった。
いつか自分から彼に血を差し出し、願う日が来ることを。
――愛してるから、食べさせて、と。




