episode.4
「おい……このクソ犬を今すぐ外に叩き出せ」
ジル・フォードの地鳴りにも似た低い声が、広いリビングの静寂を破った。
まだ仄かに残る夕暮れの明かりが、掃き出し窓を覆う深みあるボルドーのカーテンの隙間から漏れ光る。
日が完全に沈む前に目覚めた吸血鬼は、禍々しいほどの威圧感を放ちながら、不機嫌さを隠すことなく漆黒の髪をかき上げた。眉間に刻まれた皺は、寝起きの悪さも相まっていつもより深く濃い。
ジルの視線の先では、銀灰色の体を丸めた一匹の狼がソファの真ん中を陣取っている。鼻先を自身の体に埋めて寝ているようにも見えるが、ぴくぴくと動く耳はジルの声に反応している。
「アズライトです、ご主人様」
狼が丸まっているソファの傍らで、メイドのビオラが相変わらずの無表情で簡潔に答えた。
「ンなことは分かってる。獣臭えから外に追い出せと言ってるんだ」
一蹴するようにジルがそう吐き捨てると、狼のアズライトは身動きせずにふすっと鼻から盛大に息を吐いた。
「……お前の方がくせぇだろ、煙野郎と言っています、ご主人様」
「あ゛?」
怒気を帯びたジルの表情はまるで地獄の番人か、はたまた地獄そのものか。とにかく吸血鬼よりも恐ろしいものに違いない。
ジルの殺気を敏感に感じとったアズライトが、体を丸めたまま牙を剥き出しにして獣の唸り声をあげた。
「申し訳ございません、ご主人様」
唸るアズライトに代わってビオラが頭を下げると、ジルは短く舌を鳴らす。
ここ数日はもっぱらこのようなやり取りが続いているので、ジルの機嫌も日に日に悪くなっていく一方だ。
日が暮れると狼の姿で屋敷内をうろつくようになったアズライトは、ジルの前で人型になるのを拒み、会話もビオラを通してしか交わされることはなくなった。
狼の姿では言葉も話せないのだから、ジルからしてみれば懐かない獣を一匹飼っているのと同じだ。
ジルはシャツの胸ポケットから煙草の箱を取り出すと、一本口に咥えてゆったりとした肘掛け椅子に腰を下ろした。
暖炉の前のローテーブルやそれを囲むように置かれた椅子は、前の主人の好みか上品なクラシック家具で統一されている。どれも洗練された高級感のあるもので、年季を感じさせながらもそれが味わい深い趣を醸し出していた。
ジルが煙草に火を付けて椅子の背もたれに身体を委ねると、アズライトはすかさず抗議の唸り声をあげた。こればかりは言葉を話さずともジルに伝わっているようで、気のない一瞥をアズライトに投げかける。
「文句があんなら言葉を話せ。俺は犬と会話する気はねぇぞ」
煙を肺まで深く吸い込み、当然の権利を主張するかのようにジルは息を吐き出す。白い煙が室内に漂うと清浄な空気が澱み、アズライトは大きなくしゃみを二回した。
「ご主人様、アズライトは血を吸われるのが嫌で狼になっているそうです」
ビオラは言いながら灰皿をローテーブルに置き、窓を開けて換気を行った。
気の利くメイドはどちらの味方か、アズライトの気持ちを代弁しているようだ。
ジルは透き通るような白い肌をしたメイドの華奢な肢体を上から下まで眺めるが、その目は最初から興味を宿していない。
ビオラの身体には血も肉も存在せず、まるでヒトの皮を被った人形のようなのだ。血と肉に飢えている吸血鬼のジルには、好物の若い女と言えど、皮だけでは食指が動かない。
ビオラが人間の女であればアズライトには目もくれず真っ先に血を啜り、その女体を貪っていただろう。
幸か不幸か、この屋敷でジルの食糧になれるのはアズライトだけなのだ。
ささやかな抵抗を試みるアズライトが滑稽で、ジルは鼻先で笑った。
「悪いが俺にはオスもメスも種族も関係ない。赤い血さえ流れていれば、それが頭の悪い獣であっても、餌は餌だ。試してみるか?」
ソファの上で丸くなっているアズライトを流し目で見やると、彼は狼の姿のまま慌ててソファから飛び退いた。体を低くしてそそくさとビオラの背後に隠れ、また牙を剥いて唸っている。
「ずいぶんと嫌われたものだな」
気にする素振りも見せずに煙草の灰を灰皿に落としたジルは、長い脚を組んでビオラを顎で示した。
「食事の準備をしろ。そいつにも飯を食わせているんだろうな」
「最近は朝晩食事をするようになりました。以前に比べるとまだまだ食事量は少ないですが」
「なんでもいいからとにかく食わせろ。骨と皮だけの犬にうろつかれるのは目障りだ」
「かしこまりました、ご主人様」
ビオラの足元で唸っていたアズライトは、彼女が背を向けて歩き出すのに合わせてそのあとを付いて歩く。
警戒したように何度もジルを振り返って、最終的にドアが閉まる前にふんと鼻息を鳴らしているのだから、悪態をついているのは間違いない。
どうやら負けん気だけは強いようだが、情けなく垂れ下がった尻尾はこの場の己の立場を弁えている。口ほどにものを言う尻尾を見れば、いちいち腹を立てる気にもならなかった。
主人を亡くし屋敷を奪われた憐れな獣は、その喪失から抜け出せないまま悲しみに暮れている。
思い出に縋るように魔女の残り香を求め、ジルの存在を嫌悪しながらも屋敷から離れることはない。
──理解に苦しむ。
ジルは天井を仰いで紫煙を燻らせ、不可解なアズライトの行動を訝しんだ。
このまま魔女の死に寄り添い続ければ、使い魔の契約に縛られたままのアズライトは徐々に命を削られることになるだろう。
分かっているのかいないのか。
開いた窓から緩やかな風が吹き込み、魔女の庭に咲く草花の香りを連れてくる。
夜明けの魔女が纏う香りによく似たそれを掻き消すように、ジルは煙草を口に運んだ。