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喪失の灰狼に愛の手を  作者: 宵月碧
前編 駄犬に噛み痕
2/8

episode.2


「どうやら、屋敷の方は俺を主人と認識したようだ」


 煙草の灰をグラスに落としながら、男は興味深そうに明るくなった部屋の中に視線を巡らせた。


 光の下で明らかになった男は、いかにも仕立てのよさそうな黒いスーツに身を包んでいた。シャツにネクタイ、ベストに靴に手袋まで、色調の違いはあれど、そのすべてが黒で統一されている。男が身に付けているもので唯一黒でないものは、左耳で艶めくシルバーのピアスだけだった。

 額から後ろへ撫でつけた髪も黒く、眼光鋭い双眸は、漆黒の闇を映す鏡のようだ。男が例え人間であったとしても、とても一般人には見えない風貌である。


 暗闇に溶け込んでいたとき以上に男の異質さが際立ち、それゆえに畏怖と支配を生み出す存在だということが、対峙しているアズライトにはまざまざと感じられた。


 外見もさることながら、突然目の前に現れて魔女の屋敷を自分のものにしてしまった男は、アズライトにとってまさに悪魔だ。

 自らの意思をもつ魔女の屋敷が新たな主人を受け入れた以上、取り返すすべはひとつしかない。


 憎悪にも似た怒りのまま、アズライトは床を蹴って男の胸ぐらを掴んだ。


「シレネになにをした……、お前が屋敷の主人に選ばれるなんてあり得ないっ……」


 アズライトは獣の唸りをあげながら、白い牙を剥き出しにした。力任せに勢いよく掴み掛かったというのに、筋肉質な男の身体はびくともしない。


 避ける素振りすら見せなかった男は、胸ぐらを掴むアズライトを温度のない目で見下ろし、手にしていた煙草を口元に近付けた。


 ふうっと、白い煙が顔に吹きかけられ、アズライトは思わず咳き込む。


「……躾のなってねぇ犬だ。まだ分かんねーのか」


 地を這うような低音に背筋が粟立つと、アズライトの視界がぐらりと揺れた。


「くっ……!」


 抵抗する暇もなく、アズライトの身体は大きな音を立てて机へと仰向けに押し付けられた。ワイングラスや重なっていた本が、振動に耐えきれず落下する。

 男が投げ捨てた煙草は絨毯の上に転がり、ゆらゆらと煙を漂わせていた。


(くそっ……なんてばか力だ……!)


 首を掴まれ軽々と机に押し付けられたアズライトの身体は、いくら力を入れても男の手から逃れることはできなかった。したたかに打った背中が、ただずきずきと痛む。


 男は自身の胸ぐらを掴んだままのアズライトの手を無理やり引き剥がすと、あろうことかその手のひらを顔に近付け、爪の食い込んだ傷をべろりと舐めあげた。


「っ……な、に、してっ……」


 思いがけない光景に動揺したアズライトは、すぐに息を呑んだ。

 男の漆黒の瞳が、みるみるうちに赤く変色していく。


「お、まえ……」


(吸血鬼かよ……!)


 男が舐めたのは、強く握り締めた拳によって滲み出たアズライトの血液だ。出血していることすら頭になかったアズライトは、躊躇いもなく血を舐める男の正体に気付いて戦慄した。


「言ったはずだ。魔女の()()()は、すべて俺のものだと。お前も例外じゃないってことを、よく覚えておけ」


「ま、て……やめろっ……」


 酷薄な笑みを浮かべた男は、首を掴んで押さえ付けているアズライトのシャツの襟をボタンごと引きちぎると、剥き出しになった首元へ鋭い牙を容赦なく突き立てた。

 皮膚を破って深く埋め込まれた牙が、激しい痛みとなってアズライトを襲う。


「う、ぐっ……」


 食いちぎられるのではないかというほどの強い衝撃に呻くと、溢れ出した熱がじゅるりと音を立てて吸い上げられていく。

 咄嗟に自分を押さえる男の手を掴んで抵抗を試みるが、まるで意味をなさない。それどころか男の喉が上下に動くたびに、アズライトの身体からは力が抜けていく。

 全身の血を吸い付くされていくような感覚に、アズライトの心臓は激しく脈打った。


「はな、せ……くそ野郎っ……」


 朦朧とする意識のなか男の腕を力の限り鷲掴むと、ようやく首に食い込んでいた牙がゆっくりと引き抜かれた。シャツごと真っ赤に染まった首元が、傷の深さと出血の多さを物語っている。ただの人間であれば、命を落としていてもおかしくはなかった。


 首を押さえ付けていた男の手が緩み、アズライトはぜえぜえと荒い呼吸を繰り返す。


 血のように赤い瞳でアズライトを見下ろした男は、親指で唇を拭いながら不満そうに短く舌を鳴らした。


「……男の血はまずい」


 吐き捨てるように呟かれた言葉に、アズライトは一瞬、身体のどこかで血管がぷつりと切れたのではないかと錯覚した。それほど怒りで頭に血が昇った。


「てめぇ……ヒトの血を吸いまくっておいて、まずいだと……」


 未だ血が垂れ落ちる首元を押さえながら、アズライトは身体を起こした。ぐらつく視界のなかで、なんとか足に力を入れて立ち上がる。


「結構吸ったぞ。死にたくなければおとなしくしてろ、犬っころ」


「ふざっ、けんなっ……今すぐてめぇを殺して、死体をカラスの餌にしてやる……」


 男のネクタイを掴んで弱々しく凄んだアズライトは、今更になって男の背が自分よりも高いことに気が付いた。すこぶる目付きの悪い男の顔が、思いのほか若く整っていると分かって苛立ちが倍増する。

 獲物を惹き寄せるための吸血鬼の美しく雄々しい見た目も、アズライトにとっては神経を逆撫でする要素でしかない。


「まじで、ころ……す……」


 しかし意識があったのはそこまでだった。アズライトの身体は再び背後の机にばったりと倒れ込み、そのまま動かなくなった。


 あとには呆れたような男の溜め息だけが、静かな室内に響き渡った。



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