口噤み人の羞恥
学校で「自分の意見を発表しましょう」と求められるのが、苦痛だ。
生徒同士で物事を話し合う“グループワーク”の時間が、苦手だ。
自分の“思っていること”を口から出すのは、恐怖でしかない。
意見を求められる場に居るだけで、居た堪れなくて、恥ずかしい。
どうして私、こんなに“自分を出すこと”を恥ずかしく思ってしまうんだろう。
元から私は、自分の気持ちを言葉にすることが不得手だ。
心の内の、まだ自分でも上手く整理できていないモヤモヤを、何とか言葉にしてみるものの、全く相手に伝わらない。
変な風に誤解されたり、「何言ってんの?」って顔をされてしまう。
たぶん、相手に理解ってもらえる“正解”の言葉を、ちゃんと選べていないんだ。
私の能力が足りてないせいだと、分かっている。
毎度毎度のことで、もう慣れっこになってしまっている。
だけど、毎度毎度、ちゃんと傷つく。
気持ちが曲解されるのは、辛い。「変なことを言っている変な子」って目で見られるのは、もっと辛い。
上手く伝わらないと分かっている“私の言葉”を、どうして人前で口に出さなければならないのだろう。
まるで“晒し者”だ。
まるで羞恥の拷問を受けているようだと、いつも思う。
実際、皆の前に一人立つと、膝は震えるし、顔は火照るし、言葉も吃って上手く出て来ない。
歌や笛の発表だと、緊張はしても、ここまでじゃないのに。
自分の言葉で話さなきゃいけない時だけ、こうなってしまう。
元から私は、自分の我を通すことが不得手だ。
他人の意見を押し退けてまで、自分の意見を通そうなんて思えない。
そもそも他人と“対立”すること自体に拒否感がある。
話し合いや討論は、ケンカでも貶し合いでもないと、分かっている。
だけど、相手の意見を否定することに、どうしても罪悪感を抱いてしまう。
たとえ相手が、こちらの意見を否定することを何とも思っていないとしても。
意見を強く言えない人間は、いつでも強い主張に負けてしまう。
本心では納得していなくても、争いになるのが嫌だから、つい意見を譲ってしまう。
そもそも、発言すること自体、恥ずかしくて無理なんだ。
その意見が変な風に解釈されたり、皆に白い目で見られたりしたらと想像するだけで、心臓がバクバクしてしまって、もう駄目だ。
間違った言葉で恥をかくより、余計なことは言わず口を噤んでいる方がラクだった。
心の奥底では「何か違う」と思っていても、わざわざ指摘なんてせずに、やり過ごす方がラクだった。
自分の意思や意見なんて無いフリで「分かりません」「特に何もありません」と、その場を誤魔化す。
たとえ評価を下げられても、心が羞恥でボロボロになるよりはマシだ。
たとえ意見を曲げて自分が損をしても、それを我慢してさえいれば、傷つかずに済む。
ずっと、そうやって生きてきた。
ずっと、そうやって自分の心を守ってきた。
平気で意見を言える人には、分からない心の境地なんだろうな、と思う。
自分の本音を晒すのに何の躊躇いも無い人には、きっと理解してもらえない。
そしてきっとあの人たちは、意見を“言わない”人間には、意見なんて“無い”のだと、誤解しているだろう。
そうして“声に出ない”不満や反対意見になど気づかないまま、ますます自分の意見を押し通していく。
生きやすそうで羨ましい、と思う。
現在の時代は“言えた者勝ち”な世の中だ。
自分の意見を強く言えた者が勝ち。弱くて意見も言えない者は負け。
上手いことを言えて沢山の“共感”をもらえた人が勝利。
恥を恐れ、炎上を恐れ、無難なことしか言えない人間は、何の反応も得られずに敗北する。
こんな性格のままじゃ、この先、成功なんて掴めない――分かっていても、変われない。
どうして私、こんなに“恥をかくこと”を恐れるんだろう。“誰かに叩かれること”を恐れるんだろう。
――それはきっと、私の未熟さ、私の至らなさを、誰よりも私自身がよく知っているからだ。
これはこうだ、と断言できるほど、この世界のことを識っているわけじゃない。
誰も傷つけず、誰も怒らせない言葉を紡げるほど、人間として“出来ている”わけじゃない。
こんな私が、誰からも間違いを指摘されず、叩かれもしない言葉なんて、放てるわけがない――そんな風に、思ってしまう。
これはきっと“自信”なんかとは別次元の話。“悟り”にも似た、諦めだ。
想いを口にすることを自ら禁じ、幾つも幾つも言葉を呑み込む。
そもそも言葉にしたくても、言語化できず、形にもならないものもある。
口から吐き出されることのない“それ”は、消えて無くなってくれるわけじゃない。
胸のモヤモヤに回帰して、ますますモヤモヤを濃く、重くする。
はち切れそうでも、重みに負けてしまいそうでも、口には出せない。
口に出したら、もっと酷い苦痛、もっと耐え難い羞恥が待っている気がするから。
我慢していれば、それで済むことだと思っていた。
胸のモヤモヤなんて、恐怖や羞恥に比べれば何ということもない。
意思の弱い子、自分の言葉を持たない子と思われても――その“解釈”を甘んじて受け入れて、不満も文句も言わなければ、それで済むことだ、と。
そうすれば、きっと“もっと酷いこと”は起こらない。
――どうして私、そんな風に“自分のことばかり”だったんだろう……。
強い意見は何時でも何処でも、場の空気を決めてしまう。
誰も反対意見を言わないなら、そのまま流れが決まってしまう。
たとえ、それが間違っていることでも。
たとえ、それが誰かを決定的に傷つけることでも。
たとえ、他の皆が「そんなのは間違っている」と気づいていたとしても。
誰もそれを指摘しなかったら、強い意見が罷り通ってしまう。
たとえ意見を言えたとしても、弱くて負けてしまったなら、結局は強い意見だけが残ってしまう。
クラスの誰かを無視しよう、仲間外れにしよう、なんて言い出すのは、いつでも“意見の強い”子たちだ。
自分が間違っているなんて思いもせず、自分の考えを妄信する人たちだ。
他の子たちは、ただそれに逆らえず、口出しできず、気づけば巻き込まれて加害者にさせられている。
強い言葉を言う相手に逆らうのは、恐い。
その強い言葉が、今度は自分に向かって来ると分かりきっているから。
言い返されたその強い言葉に、心折れずにいられるか、分からない。再び立ち向かって行けるか、分からない。
意見の強い人たちは、論破するのも上手かったりする。
もっともらしい言葉で言いくるめて、こちらの反論を封じてしまう。
元から上手く喋れない、気持ちを言葉にできない人間は、端から相手にもならない。
口の上手い相手に言葉で挑むのは、恥ずかしい。
言い負かされて恥をかくのが目に見えているから。
皆の前で、真正面から私の言葉を否定される――その様を想像するだけで、何を言う気も失せてしまう。
だけど、それで良いのだろうか。
あの子たちは「苛められる方が悪い」と言う。
相手の“罪状”を、もっともらしく並べ立てる。
それを聞くとこちらまで、うっかり納得してしまいそうになる。
だけど、それで本当に良いのだろうか?
だって、理由がどうであれ、原因がどうであれ、“結果”の方が明らかに重い。
あの子たちが苛めた相手は、とうとう学校に来なくなってしまった。
教室の中、ぽつんと一つ空いた人のいない机を見るたびに、ヒヤリとする罪の意識に襲われる。
きっと“言い出しっぺ”のあの子たちは、それでも「自分たちが悪い」なんて思っていない。
罪悪感に苛まれるのは、自分の“罪”を自覚する者だけだ。
何も言わず、何もせずに見て見ぬふり――それもまた“同罪”なのだと、気づいてしまっている者だけだ。
どうして私、あの子たちに意見することを“恥ずかしい”と思ったんだろう。
言って恥をかくのと、言えずに罪を背負うのは、どちらの方が“恥ずかしい”んだろう。
私は、自分が傷つくことを恐れて、他の誰かが傷つくことに目を瞑った。
そのことを、恥ずかしく思う。
きっと、私が何を言ったところで、何も変わらなかった――そう“自己弁護”する自分も、心の中にいる。
弱い私の言葉なんて、何も変えられない。
きっと“反逆者”認定されて、苛めの被害者が増えるだけだった――その推測は、そう間違っていないのかも知れない。
弱い意見、弱い言葉じゃ、何も変えられない。
現在の世の中は、強いものばかりもて囃されて、弱いものは“存在してもいけない”くらいに扱き下ろされる。
弱いままでは、戦えない。弱い存在は、うっかり標的にされないよう口を噤んでいるしかない。
もしもこの先、私の“大切な何か”が強者に踏みにじられることになったとしても。
学校って「自分の意見を発表しましょう」と押しつけてくるくせに、“意見を言えること”がどうして大切なのか、どうやったら“上手く意見が言える”ようになるのか、肝心なことは教えてくれないんだな、と思う。
それが人生の岐路で道を分けるものだと知っていたら、もっと真剣に取り組んだかも知れないのに。
どうして私、あんなに“自分を出すこと”を恥ずかしく思ってしまっていたんだろう。
どうして私、“恥をかくこと”“誰かに叩かれること”を恐れてしまっていたんだろう。
そんなことより、もっと恥ずかしいこと、もっと恐ろしいものが、この世には在るのに。
私は、弱い自分が恥ずかしい。
恐がりで、恥ずかしがりで、すぐに口を噤んでしまう自分が、恥ずかしい。
何かを守る意見ひとつ、誰かを助ける言葉ひとつ言えない自分が恥ずかしい。
その恥ずかしさの中に、これ以上、甘んじていたくない。
最近やっと、そう思えるようになったんだ。
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