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【オムニバスSS集】青過ぎる思春期の断片

口噤み人の羞恥

作者: 津籠睦月

 学校で「自分の意見を発表しましょう」と求められるのが、苦痛だ。

 生徒同士で物事を話し合う“グループワーク”の時間が、苦手だ。

 自分の“思っていること”を口から出すのは、恐怖(きょうふ)でしかない。

 意見を求められる場に()るだけで、()(たま)れなくて、()ずかしい。

 どうして私、こんなに“自分を出すこと”を恥ずかしく思ってしまうんだろう。

 

 元から私は、自分の気持ちを言葉にすることが不得手(ふえて)だ。

 心の内の、まだ自分でも上手く整理できていないモヤモヤを、何とか言葉にしてみるものの、全く相手に伝わらない。

 変な(ふう)誤解(ごかい)されたり、「何言ってんの?」って顔をされてしまう。

 たぶん、相手に理解(わか)ってもらえる“正解”の言葉を、ちゃんと選べていないんだ。

 

 私の能力が()りてないせいだと、分かっている。

 毎度毎度のことで、もう()れっこになってしまっている。

 だけど、毎度毎度、ちゃんと傷つく。

 気持ちが曲解(きょっかい)されるのは、(つら)い。「変なことを言っている変な子」って目で見られるのは、もっと辛い。

 

 上手く伝わらないと分かっている“私の言葉”を、どうして人前で口に出さなければならないのだろう。

 まるで“(さら)し者”だ。

 まるで羞恥(しゅうち)拷問(ごうもん)を受けているようだと、いつも思う。

 実際、(みんな)の前に一人立つと、(ひざ)(ふる)えるし、顔は火照(ほて)るし、言葉も(ども)って上手く出て来ない。

 歌や笛の発表だと、緊張(きんちょう)はしても、ここまでじゃないのに。

 自分の(・・・)言葉で話さなきゃいけない時だけ、こうなってしまう。

 

 元から私は、自分の()を通すことが不得手(ふえて)だ。

 他人の意見を()退()けてまで、自分の意見を通そうなんて思えない。

 そもそも他人と“対立”すること自体に拒否感(きょひかん)がある。

 話し合いや討論(ディベート)は、ケンカでも貶し(ディスり)合いでもないと、分かっている。

 だけど、相手の意見を否定(ひてい)することに、どうしても罪悪感(ざいあくかん)(いだ)いてしまう。

 たとえ相手が、こちらの意見を否定することを何とも思っていないとしても。

 

 意見を強く言えない人間は、いつでも強い主張(しゅちょう)に負けてしまう。

 本心では納得(なっとく)していなくても、争いになるのが(いや)だから、つい意見を(ゆず)ってしまう。

 そもそも、発言すること自体、恥ずかしくて無理なんだ。

 その意見が変な風に解釈(かいしゃく)されたり、皆に白い目で見られたりしたらと想像するだけで、心臓がバクバクしてしまって、もう駄目(だめ)だ。

 

 間違(まちが)った言葉で(はじ)をかくより、余計(よけい)なことは言わず口を(つぐ)んでいる方がラクだった。

 心の奥底では「何か(ちが)う」と思っていても、わざわざ指摘(してき)なんてせずに、やり過ごす方がラクだった。

 自分の意思や意見なんて無いフリで「分かりません」「特に何もありません」と、その場を誤魔化(ごまか)す。

 たとえ評価を下げられても、心が羞恥(しゅうち)でボロボロになるよりはマシだ。

 たとえ意見を曲げて自分が(そん)をしても、それを我慢(がまん)してさえいれば、傷つかずに()む。

 ずっと、そうやって生きてきた。

 ずっと、そうやって自分の心を守ってきた。

 

 平気で意見を言える人には、分からない心の境地(きょうち)なんだろうな、と思う。

 自分の本音を(さら)すのに何の躊躇(ためら)いも無い人には、きっと理解してもらえない。

 そしてきっとあの人たちは、意見を“言わない”人間には、意見なんて“無い”のだと、誤解(ごかい)しているだろう。

 そうして“声に出ない”不満や反対意見になど気づかないまま、ますます自分の意見を押し通していく。

 生きやすそうで(うらや)ましい、と思う。

 

 現在(いま)の時代は“言えた者勝ち”な世の中だ。

 自分の意見を強く言えた者が勝ち。弱くて意見も言えない者は負け。

 上手いことを言えて沢山(たくさん)“共感”(「いいね」)をもらえた人が勝利。

 恥を(おそ)れ、炎上を恐れ、無難(ぶなん)なことしか言えない人間は、何の反応も()られずに敗北する。

 こんな性格のままじゃ、この先、成功なんて(つか)めない――分かっていても、変われない。

 

 どうして私、こんなに“恥をかくこと”を恐れるんだろう。“誰かに(たた)かれること”を恐れるんだろう。

 ――それはきっと、私の未熟(みじゅく)さ、私の(いた)らなさを、(だれ)よりも私自身がよく知っているからだ。

 これはこうだ、と断言できるほど、この世界のことを()っているわけじゃない。

 誰も傷つけず、誰も怒らせない言葉を(つむ)げるほど、人間として“出来(でき)ている”わけじゃない。

 こんな私が、誰からも間違いを指摘されず、叩かれもしない言葉なんて、(はな)てるわけがない――そんな風に、思ってしまう。

 これはきっと“自信”なんかとは別次元の話。“(さと)り”にも似た、(あきら)めだ。

 

 想いを口にすることを自ら禁じ、(いく)つも幾つも言葉を()()む。

 そもそも言葉にしたくても、言語化(げんごか)できず、形にもならないものもある。

 口から()き出されることのない“それ”は、消えて無くなってくれるわけじゃない。

 胸のモヤモヤに回帰(かいき)して、ますますモヤモヤを()く、重くする。

 はち切れそうでも、重みに負けてしまいそうでも、口には出せない。

 口に出したら、もっと(ひど)い苦痛、もっと()(がた)羞恥(しゅうち)が待っている気がするから。

 

 我慢(がまん)していれば、それで()むことだと思っていた。

 胸のモヤモヤなんて、恐怖や羞恥に比べれば何ということもない。

 意思の弱い子、自分の言葉を持たない子と思われても――その“解釈(かいしゃく)”を甘んじて受け入れて、不満も文句(もんく)も言わなければ、それで済むことだ、と。

 そうすれば、きっと“もっと(ひど)いこと”は起こらない。

 ――どうして私、そんな風に“自分のことばかり”だったんだろう……。

 

 強い意見は何時(いつ)でも何処(どこ)でも、場の空気を決めてしまう。

 誰も反対意見を言わないなら、そのまま流れが決まってしまう。

 たとえ、それが間違(まちが)っていることでも。

 たとえ、それが誰かを決定的に傷つけることでも。

 たとえ、他の皆が「そんなのは間違っている」と気づいていたとしても。

 誰もそれを指摘しなかったら、強い意見が(まか)り通ってしまう。

 たとえ意見を言えたとしても、弱くて負けてしまったなら、結局は強い意見だけが残ってしまう。

 

 クラスの誰かを無視しよう、仲間外れ(ハブ)にしよう、なんて言い出すのは、いつでも“意見の強い”子たちだ。

 自分が間違っているなんて思いもせず、自分の考えを妄信(もうしん)する人たちだ。

 他の子たちは、ただそれに(さか)らえず、口出しできず、気づけば巻き込まれて加害者にさせられて(・・・・・)いる。

 強い言葉を言う相手に逆らうのは、恐い。

 その強い言葉が、今度は自分に向かって来ると分かりきっているから。

 言い返されたその強い言葉に、心折れずにいられるか、分からない。再び立ち向かって行けるか、分からない。

 

 意見の強い人たちは、論破(ろんぱ)するのも上手かったりする。

 もっともらしい(・・・)言葉で言いくるめて、こちらの反論(はんろん)(ふう)じてしまう。

 元から上手く(しゃべ)れない、気持ちを言葉にできない人間は、(はな)から相手にもならない。

 口の上手い相手に言葉で(いど)むのは、恥ずかしい。

 言い負かされて恥をかくのが目に見えているから。

 皆の前で、真正面から私の言葉を否定される――その様を想像するだけで、何を言う気も()せてしまう。

 

 だけど、それで良いのだろうか。

 

 あの子たちは「(いじ)められる方が悪い」と言う。

 相手の“罪状(ざいじょう)”を、もっともらしく(なら)べ立てる。

 それを聞くとこちらまで、うっかり納得(なっとく)してしまいそうになる。

 だけど、それで本当に良いのだろうか?

 だって、理由がどうであれ、原因がどうであれ、“結果”の方が明らかに重い。

 あの子たちが(いじ)めた相手は、とうとう学校に来なくなってしまった。

 

 教室の中、ぽつんと一つ()いた人のいない(つくえ)を見るたびに、ヒヤリとする罪の意識に(おそ)われる。

 きっと“言い出しっぺ”のあの子たちは、それでも「自分たちが悪い」なんて思っていない。

 罪悪感に(さいな)まれるのは、自分の“罪”を自覚する者だけだ。

 何も言わず、何もせずに見て見ぬふり――それもまた“同罪”なのだと、気づいてしまっている者だけだ。

 

 どうして私、あの子たちに意見することを“恥ずかしい”と思ったんだろう。

 言って恥をかくのと、言えずに罪を背負(せお)うのは、どちらの方が“恥ずかしい”んだろう。

 私は、自分が(・・・)傷つくことを恐れて、他の誰かが(・・・・・)傷つくことに目を(つむ)った。

 そのことを、恥ずかしく思う。

 

 きっと、私が何を言ったところで、何も変わらなかった――そう“自己弁護(じこべんご)”する自分も、心の中にいる。

 弱い私の言葉なんて、何も変えられない。

 きっと“反逆者(はんぎゃくしゃ)認定(にんてい)されて、(いじ)めの被害者(ひがいしゃ)が増えるだけだった――その推測(すいそく)は、そう間違っていないのかも知れない。

 

 弱い意見、弱い言葉じゃ、何も変えられない。

 現在(いま)の世の中は、強いものばかりもて(はや)されて、弱いものは“存在してもいけない”くらいに()き下ろされる。

 弱いままでは、戦えない。弱い存在は、うっかり標的(ひょうてき)にされないよう口を(つぐ)んでいるしかない。

 もしもこの先、私の“大切な何か”が強者に()みにじられることになったとしても。

 

 学校って「自分の意見を発表しましょう」と押しつけてくるくせに、“意見を言えること”がどうして(・・・・)大切なのか、どうやったら(・・・・・・)“上手く意見が言える”ようになるのか、肝心(かんじん)なことは教えてくれないんだな、と思う。

 それが人生の岐路(きろ)で道を分けるものだと知っていたら、もっと真剣に取り組んだかも知れないのに。

 どうして私、あんなに“自分を出すこと”を恥ずかしく思ってしまっていたんだろう。

 どうして私、“恥をかくこと”“誰かに(たた)かれること”を恐れてしまっていたんだろう。

 そんなことより、もっと恥ずかしいこと、もっと(おそ)ろしいものが、この世には()るのに。

 

 私は、弱い自分が恥ずかしい。

 恐がりで、恥ずかしがりで、すぐに口を(つぐ)んでしまう自分が、恥ずかしい。

 何かを守る意見ひとつ、誰かを助ける言葉ひとつ言えない自分が恥ずかしい。

 その恥ずかしさの中に、これ以上、甘んじていたくない。

 最近やっと、そう思えるようになったんだ。

Copyright(C) 2024 Mutsuki Tsugomori.All Right Reserved.

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このシリーズ、まだ数作品読んだだけですが短くて読みやすいですし感情が伝わってきて面白いです。 この子が自室で自分の思いをノートにしたためているのを想像して読みました。口下手な思春期の妹を持つ私とし…
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