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マガモノは謳う  作者: R-N
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詩吟いの告白 ~とある街外れでの記憶

 大きな樹洞跡の中で丸まっている黒い影が、微かに揺れた。芽吹いた草木が蔓を伸ばすように、黒い二本の影が天へ向けて伸ばされる。ゆっくりと、影の中から少女が姿を現した。


 茨檻の森。かつてそこはそう呼ばれていた。少女が眠っていた樹洞跡は、“森の主”と呼ばれた巨樹が立っていた場所。人の手で燃やし尽くされ、一面焼け野原となったその場所も、今は緑に覆われて他の森と同化している。目を覚ました少女は長い黒髪を揺らしながら、獣毛に覆われた体を起こし、徐に立ち上がった。

 先程天へ伸ばされた二本の黒い影は、少女の腕であった。黒い腕の後ろで伸びるのは、同じく黒い…一対の翼。雛鳥の様に細長く、飛ぶ為というより飾りに近い。数度はためかせて隅々まで羽を広げると、背後から抱きしめる腕の如く胸囲に翼を巻き付ける。瞼を閉じ、息を吸い、胸元で手を組んで、静かに少女は声を上げる。

 その声音が水音ならその足元から湧水し、辺り一帯が清らかな泉に変わる。また、風音なら葉擦れの音が辺り一帯に響き木の葉が舞う。時にさえずるような声は小鳥達を呼び、泡の弾ける響音は辺り一面花畑に変える。旋律は一定しておらず、その都度変化する。だが少女は楽し気に歌っていた。


 ある時、一人の男が歌声に惹かれる様に、ヌシの森へさ迷い込んだ。男は悪党の一味だった。仲間とはぐれて彷徨うろついていたら、不意に拓けた場所に出たのだった。

 目の前には摩訶不思議な光景が広がっていた。澄んだ泉の中心に佇み歌い続ける一人の少女。かと思えば泉は消え、降り注ぐ木の葉に少女は包まれる。またある時は、色とりどりの小鳥が少女と戯れ、気付けば少女は、花弁の舞う花畑の中で一人歌っていた。どれもとても美しい光景だった。

 だが、男が一歩足を踏み出すと、ピタリと歌声は止み、途端に辺りは樹洞跡が残るだけの何も無い草地へと戻ってしまう。そこに居た筈の少女の姿は隠れ、風の音さえ届かない。

 それでも男は歌声が聞こえる度、一人でその場所へ通っていた。

 ヌシの森の端の物影で、そっと少女の姿を見つめながら。


 それから幾日か経った頃。

 いつものように歌う少女の目の前に、黒い塊が降ってきた。一気に辺りに血生臭さが漂う。弱弱しい悲鳴を上げて、見慣れぬ犬狼は落ちたままの姿で横たわる。地面に広がる血溜まりも抉れた脇腹も、その犬狼が瀕死であると理解するのには十分だった。

 突然の不協和音に揺蕩うていた空気が一変する。少女は驚き震えながらも、静かに眼を閉じ、長い黒髪を波立たせた。風も無いのにうねる髪は、それ自体意志のある生き物のように蠢き、辺りに広がっていく。黒い波は森の地面も周囲の木々も次々と飲み込んでいった。

 樹木に絡み付く髪は一体感を醸し、木々共々艶やかに揺れ靡く。草花に至っては髪の触れたものから順に、躍り出しそうな程生き生きと草丈を伸ばしてくる。急激な変化は見る間に犬狼を取り囲み、集束した髪の先が傷口に触れる。躊躇いながら髪先は、肉体の内部へ潜り込んだ。仄かな緑光を放つ髪が傷口だけでなく、半開きで苦し気に喘ぐ口にもヒクつく耳の中にも侵入し、更に体躯へと包み込むよう巻き付いていく。

 全てが仄光る黒髪の蠢流に飲み込まれていくようだった。

 次第に放つ緑光が強さを増し、渦を巻くように風が、光に包まれた犬狼の体躯から立ち上ると、全ての音がざわつき轟音が耳元を掠めていく。そして、風が去るのと同時に、光から解放された犬狼の体が、瀕死であったのが嘘のように元通りになった。

 取り巻いていた髪を元に戻すと、少女は恐る恐る声を上げた。

「キュゥイィ?キャウキャウ?」

 ピクリと犬狼の耳が反応し、固く閉じられていた瞳が開く。

「アウォォォン。」

 一声、犬狼も呼応し、その身を起こす。

 会話をするのは初めてだった。少女の中にあるのは、森の主の記憶だけ。犬狼に触れて、初めて主以外の知識を得た。

 礼を示すように犬狼は首を垂れた。そして踵を返し立ち去っていく。


 次の日より、少女の歌う声に犬狼の遠吠えが混ざるようになった。男には何を喋っているのかわからなかったが、少女は楽しげだった。

 男も時折遠吠えを真似て、声を出す。そんな時はいつも決まって怪訝な顔をする少女だが、姿を隠すことは無くなった。

 試しに男は人間の言葉で、少女に語りかけてみた。けれども言葉の意を解さず、聞こえる声に首を傾ぐだけだった。

 そんな少女の一人語りの歌が聞こえる中、一人の青年が森に迷い込んできた。

 気を失い、倒れ込む青年は傷を負っていた。少女はそっとあの時の様に、髪をなびかせて、青年の身体に触れていく。

 程なく青年の身体に巻き付けられていく黒髪は淡い緑光を纏い、傷口の中へ伸びていく髪先が青年の肉体を癒す。髪は更に青年の顔に近付き、口腔へと潜り込んでいく。

 だがそこで青年は意識を取り戻した。

 青年と少女の目が合った。青年は少女の姿形に驚愕した。そして自身に巻き付く少女の黒髪に恐怖の眼差しを向ける。

 慌てて口から引きずり出し、傷口を埋めた毛束も身体に巻き付いていた黒髪も、引き千切って外し、投げ捨てる。

「近寄るな、化け物がっ!」

 拒絶の声は、少女に届いた。それまでの少女なら、その意味がわからなかったに違いない。けれど少女は大きく瞳を見開き、反対に慄く様に身体を竦め、いつも美声を響かせていた口を自らの手で抑えた。

 森の木々が一斉にざわめく。か細く、とてもか細く、一言だけ少女は発した。

「ゴ…メ…ナサイ、」

 そして、震えるままにその姿を隠した。

 青年は少女の姿が完全に消えたことを確認すると、その場から立ち去った。木々はざわめきを残し、草花は揺れることを忘れる。生き物の気配の消えた森はただ、静かに凪いでいた。


 あれから少女の歌声は、ピタリと止んだままだった。男は時折遠吠えを真似て、少女に呼び掛けてみる。だが、声が返ってくることは無かった。

 いつからだろうか。男の足は森から遠ざかり、月日が謡う少女の存在を忘れさせる。そんな年月が経ったある日。

 男は再び森に足を運んでいた。仲間に遣られた傷からは赤い血が滴り落ちる。緑の大地に赤い染みが点々と続く。そうして男が倒れたのはあの、少女がいつも歌っていた樹洞跡の草地だった。

 顔を埋めた草地からは、少女の匂いがするようだった。長らく忘れていた少女の歌声が、男の脳裏に甦る。

 嗚呼、と男は心に想った。もし、あの時少女の前で青年を殴り付けていたなら、少女は今も歌ってくれただろうか。あの「化け物め」と罵る青年を否定したなら、少女は何も怯えることはなかっただろうか。

 すべては遠い、遠い過去の幻だった。過去を変える事などできはしない。

 徐々に男の意識も草木の中に埋もれていく。もう一度、逢いたいと願う面影は今此の時に現れてくれないのだろうか。そう何度も思い、諦めてはまた願うを繰り返す。くだらない妄想の中で遠くに聞こえる木々の騒めきの後、男は影が顔にかかるのを感じた。

 樹洞より立ち上がる、樹木のような黒い人影。男を覗き込む様に見下ろすソレが、男には何だかすぐに分かった。

 歌声は無く、ただ少女は見下ろすだけだった。それでも、男の心は報われた嬉しさで溢れ、顔情に笑みが浮かぶ。

 口を開いた男の喉から声が発せられる事は無かった。風のざわつく音だけは聴こえている。少女の足元で揺れる長い黒髪が、躊躇う少女の心模様を表しているようだった。

 男は少女を求めた。求めて、けれど思い出す。少女にとっては、相手に触れることが相手の知識を得る術であった事を。

 自らを省みて、男は哀しく笑った。そして声にならない想いを、男は心で呟いていた。

 アンタは、俺なんかに触れちゃなんねぇよ。でも、最期にアンタに逢えて、良かったぜ。

 そう笑んで、男は力尽きた。少女は怖々と髪先を伸ばし、男の顔に触れる。そっと触れた黒髪は恐れながらも男の身体を包み込んだ。

 記憶と共に流れ込む、憎しみも、哀しさも、どうにもならない遣る背無さも。そして、たった一つの愛しさを少女は垣間見る。

 声にならない雄叫びを、少女は叫んでいた。慟哭か、それともそれは他の感情なのか。一頻り叫び続け、天を仰ぎ、そして叫ぶのを止めた。

 少女は上半身を前に倒し、体をくの字に折り曲げた。その少女の背から包皮した突起が二本、空に向けて真っ直ぐに伸びる。腕よりも長く、倍以上伸びていく。そして細かな襞が重なり合う包皮が、帆を張るように薄く伸び広げられて巨大な皮翼へと姿を変えた。

 少女はそのしなやかな脚で思い切り大地を蹴った。真上に跳び上がった少女の身体は伸ばした翼のひと羽搏きで更に、樹上を越えて浮き上がる。撒かれた鱗粉が光を屈折させて─それは光と風の加護の具現か─少女の姿を消す様に煌めいた。

 足元には遠く、男の姿が残る草地に埋もれている。


 男が目を覚ました時には、森はもぬけの殻になっていた。






「…それから男は旅に出た。姿を消した少女を求め、西へ東へ、南へ北へ、宛ど無くさ迷い続ける…」

 道端で独り謳う吟遊詩人は、やがて地面にしゃがみ込んだ。まるでネジの切れた自動人形にも思えるその姿に、憐憫を向けるものも居れば、殆どの人間が無き者として足早に通り過ぎる。

 最後まで聴いていたコルはゆっくりと近付いて、男の前にしゃがみ込んだ。

「それで。少女に掛ける言葉は見つかったのか。」

 話し掛けながら、男の目を見る。死んだままの男の眼は、僅かにコルの姿を映した。

 何も言えない。いや、言葉にならない。開いた男の口からは何も語られなかった。何かを告げる言葉を持っているならば、きっと彼はここで歌ってなどいないだろう。

 コルは軽く溜息を吐き、徐に立ち上がった。

 自分語りの男の話。悪党の一味だという男の事を理解する気は無いが、人間ではない少女の姿が、男には何か惹かれるものがあったのだろう。

『いいかい、コル。化け物は己が化け物であることを知らないんだ。』

 昔、祖母が言っていた言葉を思い出す。少女も男も互いにある意味化け物同士、案外そんなものだったかもしれないな。

 一人ごちに、思ってコルは微笑んだ。 

 所詮は気休めかもしれないが。もしそれが叶ったら、何かが変わるかもしれないと。だったら良いなと心に描いて、コルは男に言葉を投げかけた。

「逢えると良いな。その少女に、さ。」

 篭に硬貨を放り込んで、コルはゆっくりとその場から立ち去っていった。


残りはちまちま上げていきます。

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