あれから数十年 コルテオ・ラッジョの日常
昔話を終えて、コルはかつて祖母がそうしてくれたように、温かいミルクを少女の前に差し出す。すっかり皺くちゃになったその手からミルクの入ったカップを受け取り、少女も彼に礼の微笑みを向けた。
しみじみ感嘆の息を漏らして、少女は耳に残る余韻に浸る。
「やっぱり、いつ聞いてもコルさんのお話はいいわぁ。」
「そうかい? そう言うのはモナちゃんだけだよ。」
愛想よく、コルは笑い返した。町から毎日のように通ってくるこの少女は、いわばコルの話す物語のファンみたいな存在だ。彼女が訪れるようになって、かれこれ3カ月位は経つ。
町外れの森の中に佇む小さな一軒家、それがコルの住処だ。生まれ故郷の村を出て放浪し辿り着いた、終いの居場所である。住み始めた当初はそれなりに、町の連中も様子を見に訪れていたが。四半世紀も経つと偏屈者だの変わり者だのと言われ、訪れる者など無くなっていた。当の本人は気に留める事無く、気楽でちょうど良い暮らしが出来ている。他人に煩わされない日常は穏やかで、とても気に入っていた。
「まあ、元々は俺の祖母さんが語ってくれた物語だからね。昔はよく俺も強請って話して貰っていたな。」
コルもまた、しみじみと思い返して言った。モナは手元のコップに残るミルクを飲み干し、ごちそうさまとテーブルに置いた。
「今日は茸のシチューを作ったの。コルさんの口に合えばいいんだけれど。」
そう言って、脇からシチューの入った小鍋を取り出し、テーブルに置く。
「いつも済まないな。そんなに気を使わなくても良いんだよ?」
「ううん。こっちこそ、いっつもコルさんの素敵なお話を聞かせて貰っているんだもの。」
その位は当然、と彼女は胸を張った。
モナを見送って、コルはいつもの見回りをする為に身支度を整えると家を出た。柵で囲った敷地の外に出れば、鬱蒼とした木々が生い茂る。街道沿いなら整備が為されて危険も少ないが、まだまだ森は人間にとっての領域外である。慣れた足取りで、コルは森の奥へ進んでいった。
ぽっかりと空いた空間には一本の樹が立っていた。他のどの樹木よりも高く伸び、頭一つ分飛び出している。コルはその樹の根元に立つと、遥か樹上を見上げた。
「随分大きくなったな。」
優しく樹幹を撫で、柔らかく微笑みかけた。植えてからはまだ20数年しか経っていないが、その風貌はもうすっかり森の主に相応しくなっている。樹はコルに応えるように梢をざわつかせた。
コルは荷物を森の若主に預け、周辺の手入れ作業に勤しんだ。ある程度までやると、残りは森の若主自体が力を付けれる様にと置いておいた。
尤も、この樹木を『森の主』だと考えているのは、今のところコルだけだ。かつてそう呼ばれた化け物は、今の町がまだ小さな村だった頃に切り倒され、焼き尽くされている。
「さてと。」
休憩を終えると、コルは立ち上がり帰り支度を始めた。明日にはまたモナが家に来るかもしれない。新しい物語をせがまれる前に、何かいい話はないか探しておく必要がある。そう思うのは、ネタに困ってつい森の主の事を話してしまったからだ。
今はもう、森の主を知っている者など居はしないだろうと思うものの。前の様に炎で全てが被い尽くされる光景はもう、見たくはない。そんな気持ちがコルの中にはあった。
町の連中には知られないよう、彼女には釘を刺しておかないといけないな。
その代わりという訳ではないが。本来交易でしか手に入らない珍しい花を、森の若主の足元から摘んで、コルは自分の家へと戻っていった。
森を通る街道から、広い牧草地と麦畑を突っ切る街道へ出たモナは、もう間もなく見えてくる町の境界橋を一目散で駆け抜けていった。なだらかな斜面を風が吹き渡っていく。
橋を越えれば、町の中心まではもうすぐだ。そこから高台の途中にある自分の家まで、モナは一直線に走っていく。
「モナッ!」
路地の途中、呼び止められてモナは振り返った。居たのは幼馴染みのアリウスだ。途端にモナの表情が呆れ顔へ変わっていく。
「何か用なの? リュー。」
横柄に声を返す。そんなモナの態度にアリウスこと、リューも不機嫌な顔を見せた。
「ああ。創成祭が近いだろ。だから。」
本当はモナを誘いたくて、リューはあれこれと準備をしていた。創成の伝説に則って、共に過ごしたい相手に銀細工を送る。掌には用意してきた花を模ったブローチが握られていた。それをモナが受け取れば、祭のパートナーとして認めて貰える。町に住む者なら誰でも知ってる習慣だった。
しかも今年は町の創立を祝う400年祭。いつも以上に賑やかで華々しく盛り上がると期待されている。
でも、警戒心丸出しのモナの視線にリューは二の足を踏めなくなった。数年数カ月前までこんな筈じゃなかったのに。気持ちも萎え、だからか言わなくていい言葉をつい口走ってしまった。
「それより、お前はまたあの爺さんの所へ言ってたのかよ。」
「当たり前でしょ。師匠だもの。」
間髪入れずに返してくる。リューはその言葉に、露骨といえる嫌な顔を見せた。
「何? まだ何か用がある?」
苛立たし気にモナは問い詰める。リューはそんなモナの態度に流石に我慢の限界を超えた。
「あんな偏屈爺さんから何を学んでいるのか知らねえけどな。丘向こうの廃城跡くらい、役には立たねえよ!」
捨て台詞を吐いて、リューはその場から走り去っていく。
「何なのよっ! あれ。」
子供みたいに癇癪起こして走り去るリューに、モナは呆れて空いた口が塞がらなかった。一体彼は何をしたかったのだろう。
だが、もうモナにはどうでもいい事だ。溜め息を吐き出し、害された気分にケリをつける。昔から人とは違うものに興味を抱いてきたモナの心を満足させてくれるのは、今の所、コルの聞かせてくれる物語だけだ。
でも。祭りがあるなら、コルさんを誘ってみようかな。
折角だし、と気持ちを切り替えて、モナは楽し気に坂道を登って行った。
翌日。思った通り、モナはコルの家へやってきた。
「こんにちは。コルさん。」
「やあ。今日は早いね。」
扉を開いて招き入れる。部屋の中には先日摘んだ花がドライフラワーになってテーブルに飾ってあった。
「茸のシチュー、とても美味しかったよ。有難う。」
コルは洗って乾かしてあった小鍋を取り、モナに返した。どう致しましてと微笑んで受け取るモナに、ドライミントの茶葉を取り出すと、目の前で湯を注ぎ入れる。
「あのね。今度町で大きなお祭りがあるの。良かったらコルさんも覗いてみませんか。」
香り立つ茶の匂いを嗅ぎながら、モナはそっと彼に提案してみた。祭りでは、各地の掘り出し物が彼方此方で売られる。中には彼の気を引くものがあるかもしれない。
「そうか。もうそんな時期なんだね。」
懐かし気にコルは目を細めて答えた。10年毎に行われてきた町の祭りは、コルも十分知っている。けれど、なるべくなら参加はしたくなかった。
「モナちゃん。誘ってくれて有難う。けれどね、行くんだったらもっと同じ年頃の子達と行った方が良いんじゃないかな。」
やんわりとコルは断った。偏屈者の出る幕ではないし、第一森の事が気がかりだ。街道の通った現在は、不用意に人間が奥へ立ち入る事は減ったけれど。まだ街道が無かった時代は、祭りの度に度胸試しで森の主を捜し荒らしに入ってくる馬鹿者どもが後を絶たなかった。その都度つまらぬ諍いで森は傷つき続けていた。
今は出来る限り、そういうのは避けておきたい。
シュン、と分かりやすく落ち込むモナを励ます為に、コルは例の花に手を伸ばす。
「代わりにコレを君にあげよう。」
テーブルに飾ってあったドライフラワーを取って、モナに差し出す。仄かな香が優しく鼻腔を擽った。珍しい物だとすぐに彼女も気付いたらしい。驚きに丸くした目で、いいの?と問いかけてくる。
勿論。とコルは頷き返した。そして、人差し指を口唇の前に立てて、御願い事の合図を送る。
「此処での話は二人だけの秘密にしてくれるかな。」
彼女も瞳をキラキラさせて、大きく頷いた。コルは念を押すように、昨日の『森の主』の話も内緒だよと囁く。
「じゃあ今日は、町の広場にある銅像の話をしようか。」
「それなら知っているわ。大昔にこの町を作ったとされる若者と乙女の像でしょう?」
「そうだよ。それを詳しく話してあげよう。」
コルが話すとなれば、知っている内容でも違う内容に聞こえるかもしれない。そう考えると、モナは思わず身を乗り出してしまった。




