1-35 思い出してしまった
なんだあれは?
脳内で今すぐ逃げろと警鐘が鳴り響いている。
けれど、縫いつけられたように私の身体はピクリとも動いてくれない。
私のそばを数人の人間が通りすぎていく。立ち止まって、上を見上げる私に奇妙なものを見るような視線を向けている。
ダメだ! その先には!
制止しようとするが、声が出ない。うめきのような言葉にならない音を出すばかりだった。
ふわふわと浮かんでいたそれにいる方向へ、通りすぎた人々はなにも気にすることもなく向かっていく。
見えていない?
まるで自分達の頭上に判別不明の何かが浮かんでいるなんて、露とも思っていない様子だ。
そして、その何かが身体のような塊をうごめかし、無数の触手とも見えるものをのばして自分達を狙っていることも。
「逃げ――!」
やっと声が出た。あらん限りの叫びで伝えようとした。
その時にはすでにそれは跡形もなく霧散していた。
まるではじめからなにもなかったかのように、赤く染まっている夕暮れ空だけが広がっていた。
気が狂いそうだった。
私のあげかけた声に、前を進んでいた人達の視線が振りかえったがすぐに気にすることもなく、歩き去っていった。
なんだ?
自然に消滅した?
いや、違う。
消える寸前、その塊の上になにか他の姿が見えたようにも思えた。
はっきりとはわからない。
けれど、それは人の形をしていて、まるで装束のようななにかをまとっていた。
それが腕を振り上げる。そして、垂直に振り下ろされた。
無駄のない動きだった。遠目でも、それが美しい動作なのだと感じてしまった。
そして、浮かんでいたそれも、それを消し去った人型も、どこにも姿は見えなくなっていた。
どれくらいそうしていたのか。
不意に、
「思い……だした」
知らずつぶやいていた。
そう。思いだした。
ゆうは、死んだんじゃない。
あの病院でずっと眠っていたんだ。
それなのに、そんな大事なことを忘れて、私はあんなひどい言葉を――。
私は呆然と立ち尽くす。
そして、なにより今の今まで恐怖に身をすくませていた自分が許せなかった。
なにが――なにが自負しているだ。自信なんて……結局、私は井の中の蛙で。
強くあろうと思っていた。自分の大切な人を守れるように。誰かが自分と同じ思いをしないように。
なのに、これまでの私の時間を完全否定するかのように、あれは現れ、現に私はなにもできなかった。
結局、私は無力な小さな少女でしかなかった。
唇をかみしめる。強く食い込んで、血が流れでるのも気にならなかった。
ごめんな、ゆう。私はこんなに無力で情けない人間だ。
どれだけそうしていたのか、時間の感覚を無くしてしまったかのようだった。
その間、私の奥底で私でない何かが流れ込んでくる感覚がずっとまとわりついていた。




