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君の傷痕を舐めたい

作者: 雄野ひよこ

 ガランとした教室に(あかね)色の光が差す。

 終わりを告げる鐘が鳴って、もう一時間も経っていた。日中の喧騒(けんそう)が嘘のように静まり返っているのも至極当然。今日の鐘は授業の終わりだが、明日の鐘は学期の終わり。じきにこの静寂が日常となろう。

 そんな高校二年最後の放課後に、たった一人、取り残される少女がいた。掃除はとっくに済んで帰ればいいものを、机に腕を突っ伏している。彼女にとって取り残されることは日常だ。そんな日常を続けたいとは思わないが、終わってしまうことには静かに反抗していた。

 ――だって、誰もいない家に帰っても仕方ない。

 寝たふりをやめて、右手首の新しい傷を見ようとした時――扉の開く音を拾って目線を斜めに移した。


朱美(あけみ)ちゃん、まだいたんだ」


 朱い光を浴びて美しい同級生が、居残る瞳に映り込む。見とれる。その綺麗で長い髪、白い肌、清楚を体現するお嬢様の微笑みに。それが自分に向かってグイグイ近づいてくるのであれば、アンニュイな朱美だって飛び起きる。


「た、鷹野(たかの)さん、なんで」


 いつものことながら、手の届く距離まで踏み込まれると声が上ずる朱美。それを毎度毎度取って食ったりなんてしないとでも言いたげに鷹野ははにかんで見せた。


「図書室で待ってればその内来るかなって思ってたんだけど、来ないからどこにいるのかなって」

「ごめん、でもボクなんか探さなくていいのに。というか部活は……」

「お休み。今日は生理が重いからって」

「そうなの……大丈夫?」

「嘘だから大丈夫。皆変に甘いよね」


 鷹野が上品に笑うのを見て、そりゃそうだと朱美は思う。なにせこの外面の良さでアーチェリー部のエースでもあるのだから。云わば学校のマドンナという奴だ。

 それに引き換え――地味で洒落(しゃれ)っ気がなく、校内行事で写真をコソコソ撮る以外では図書室に籠って哲学書など読んでいるような陰日向(かげひなた)の雑草。そう自分で定義しては惨めな気分になるのが朱美の常だった。

 本来交わるはずのない二人。けれども鷹野は寄ってきた。朱美の右手首を横目に見て、


「朱美ちゃんこそ大丈夫? いや、大丈夫じゃないからだよね」

「まぁ、その、癖になっちゃってて。こんなことしても意味ないのにね……あっ、今のはボクの場合であって、鷹野さんのことでは」

「わかってるから。朱美ちゃんの言うことが正しいよ。この程度じゃ全然、死ねないんだし。それなら朱美ちゃんと話してる方が建設的だね、うん」


 己の傷を隠すよりむしろ強調するように、鷹野は左手で右手を押さえた。じん、と鈍い痛みが走って笑みが崩れる。そんな瑕疵(かし)、当然誰にでもは(さら)さない。(さら)け出せない。同じ傷を持つ朱美の前でしか。


「建設的、かなぁ?」

「えっどうして疑問形? 本当だってばもう。私いつも他の皆には社交辞令ばかり言ってて、朱美ちゃんじゃないとこう気安く出来な……ええと、本! そうそう朱美ちゃん色々面白い本教えてくれるじゃない。キルケゴール、すごく良かったし」


 頬を赤くする鷹野。夕焼けが差し込んでくるおかげで彼女の気恥ずかしさは有耶無耶になった。少なくとも朱美は自身に向けられる好意には鈍感だった。そういう部分で自信がなく人を遠ざけがちな性格を形成する。


「花の栗栖(くりす)高女子が読むような本じゃないけどなぁアレ。ボクも雰囲気で読んでるだけみたいなとこあって」

「でも死に至る病とは絶望って言い得て妙だと思う。すると作者の苦悩にどんどん引き込まれちゃって……でしょ!」


 うんうんと朱美は小気味よく(うなず)く。やはり共感してくれる相手がいるのは嬉しいこと。だから朱美も鷹野に近づきたくて、躊躇(ためら)いながらも椅子を動かす。

 受験で高等部に編入してきた朱美と中等部からエスカレーターで上がってきた鷹野はこの二年で初めて同じクラスになった。それでも住む世界が違ったのは言うまでもない。それが今学期になって互いの手首の傷を見初(みそ)めて以来、この秘めやかな放課後は始まった。


「ねぇ朱美ちゃん、触っていいかな」


 もう何度も(ささや)かれた誘い。それでも未だ遠慮がちな声のトーン。ゴクッと息を呑んでから、朱美は頷く。

 鷹野の包帯で白い右手が朱美の華奢(きゃしゃ)な右手首にそっと触れ――傷口に絡みつく。赤く(にじ)む、夕焼けの光。


「痛い?」

「今は平気。むしろ……」

「むしろ?」


 ――心地良い。

 なんてとても言えない。今となっては自傷行為も鷹野に触られたいが為の甘えになっているのではないか、なんて。言葉を(にご)ませることさえできず、朱美は紅潮するだけで無言。とはいえ沈黙を責めたりする鷹野ではなく、相手の闇に自分の闇を重ねては安心する。


「ごめんねいつも。こんなこと」

「別にボクは構わないから、鷹野さんがしたいように」

「ありがとう。じゃあそろそろ」

「……まだ、いいよ」


 緩んだ感触に思わず朱美は声を上げた。追い(すが)るように。

 けれど抗おうともこの時間は終わる。後一回のチャイムで終わってしまう。進学コースは二クラスあるから来年も同じ場所に居られるとは限らない。幸いまたクラスメイトになれたとして、後一年猶予(ゆうよ)が伸びるに過ぎない。そう遠くない別れのことを考えてしまえばつい机に伏せっていたくなる朱美だった。

 鷹野も思いは同じだった。一度離れかけた手は輪を保ちながら下へ下へ、相手の掌を握った。先程よりもずっと強い力で。


「ねぇ、もう一つ、お願いを聞いてもらってもいいかな」


 ――沈む太陽より強い眼差しで、朱美を射抜く。


「一緒に帰ってくれない? 私の家に」

「い、家!? お邪魔していいのかな、ボクが」

「ごめんね。わがままだよね。でも今日は一人で帰るの、怖くって」


 声を震わせながら、鷹野は有無を言わせない。朱美に断れるはずなかった。




「朱美ちゃん、お母様の具合はどう?」

「相変わらず。良くはならない。今度が最後の入院になるかも」

「そう、なんだ……ごめんね聞いて」

「そんな、鷹野さんが謝ることじゃないよ。どうしようもないものだし。心配してくれてありがとう、でも大丈夫だから」


 揺れる吊革を揺らしながら、朱美は地下鉄の窓を見つめる。目の前に座っている鷹野を直視できずに。

 朱美の母親は難病で入退院を繰り返していた。生きているのが不思議と医者に言われたのはもう一年も前のことである。それで母のいない家で暮らすことにも慣れてしまっていた。むしろ病気で自暴自棄になった母がいない方が楽だった。

 ただ一人で家に居ても考え込むばかり、それなら鷹野と二人でいることを選ぶ。今日誘われたのは内心嬉しくて仕方がなかった。


「人の家にお邪魔するなんて、いつぶりかな。多分小学校以来だよ」


 つい浮かれてそんな言葉を漏らしてしまう朱美。もし中学時代に交友関係が充実していたならば、遠い私学の女子高など行かず地元で進学しただろう。

 車窓は真っ黒に塗り潰されているが、確実に実家から遠ざかっていく。朱美は未知の景色に思いを()せる。鷹野にとっては見慣れた道に。


「次の駅で降りるよ」

「わかった。へぇ、近いね。十分かからない」

「だから中等部では車だったんだけどね。ちょっとでも自由な時間が欲しくて……あぁ、他意はないんだけど、うん」


 歯切れの悪い言い方が朱美には気にかかった。今に始まったことではなく、鷹野は時々何かから離れたいという(ふし)の話をする。朱美にはそれが家庭や学生生活があまり上手くいってないのではと思えてならない。特にアーチェリー部に関してはハッキリ「辞めたい、けど辞められない」と聞いていた。


「今の話、内緒にしてくれる?」


 そして口癖を言う。鷹野は典型的な外面を良く保とうとしてストレスを内に溜めこむタイプで、その発露がリストカットだった。昨今は朱美に吐露する分自傷回数は減っている。

 いつも通り頷くと共に、今なら自分も秘密を話せるチャンスではないか――朱美は思わず前のめりになった。何せいつもと違い校舎の外だ、同級生に聞かれる心配もないのだからと。

 ちょうど鷹野の隣に座っていた二人組が席を立った。朱美は今だと席に滑り込んで、


「ボクも内緒にしてほしいんだけど……鷹野さんはさ、神様を信じて本当に救われると思う?」

「えっ?」


 きょとんと目を丸くする相手を見て、しまったと朱美は思った。仮にもミッション系の女子高に通う生徒なのに信仰を疑うなどタブーだろう。でも言い出してしまった手前、止まれない。


「思うんだ、母さんはボクよりよっぽど信仰(あつ)かったのに、結局救われなかったなって。このまま世を呪って死んでいったらあの人の人生なんだったんだろうって。なんだろう……全然上手く言えないんだけど、なんだか無意味に振り回されるだけなんじゃないかって。もし神様なんていても人を幸せになんてするかな? そんなことを言ってるとこの異端者め、地獄に落ちろって感じなのかな。けど」

「朱美ちゃん、落ち着いて」

「あっ……ごめん。ヤバいこと言ってごめん。今のはなかったことにして……」


 朱美の声はどんどん小さくなって消え入る。制服が(こす)れる音に取って代わられ。震える少女の肩に優しく手が置かれて一瞬の静寂。息を呑む音と共に、鷹野は口を開いた。


「朱美ちゃんは間違ってない。神様を信じられない人の方が多いよ。これだけ世の中地獄だと、恨んじゃうのも当然。全然普通」

「鷹野、さん」

「だからね、朱美ちゃんが信じたら救われると思ったものを信じていけばいいんじゃない? 私もあるよ。神様より信じられること」

「そんなのあるの? 何?」

「それはその……」

「西栗栖~西栗栖。ドアが開きますのでご注意ください」


 鷹野が言い淀んだところでアナウンスに遮られた。二人の女子高生は慌ただしく駅に降りる。信仰の話はそれっきりになった。問答を続けるつもりはないが朱美は念を押す。


「さっきのは鷹野さんとボクの秘密にしておいて……」

「うん、勿論」

「三人の秘密ですね! 先輩」


 不意に背後から声を掛けられ、驚愕(きょうがく)のあまり振り返る。すると朱美には見覚えのある顔が栗栖女子中等部の制服を着ていた。


「ムゥ子!? おま、なんでここに!」

「朱美ちゃん先輩こそ、反対方向じゃないんですか。何かあると思ったら取材しますよ。部活ですよ部活。来年は一緒じゃないですか」

「あのなぁ、そういうのパパラッチって言うんだぞ竿屋(さおや)

「苗字勘弁してください、あたいが悪かったです」


 快活なギャルはわざとらしく頭を下げた。朱美にとっては新聞部に所属する直の後輩で、高等部の部室にもよく顔を出すので知っていた――その際本名ではなくあだ名の「ムゥ子」と呼ばせることも。

 なんでも昔苗字に関して散々「たけや~さおだけ~」とからかわれたのがトラウマだとムゥ子自ら説明するのが常だ。あだ名の由来もむぅと唸る癖があるから、というものである意味馬鹿にされているが、本人はあまり気にしていない。どちらかというと親から貰った名前が一番呼ばれたくなく、その点では朱美や鷹野同様家庭環境に悩みを抱えているらしい。そんな素振りはおくびにも出さない性格だが。


「でも先輩が新聞部辞めて鷹野選手のアーチェリー部に行くなんてーと思うといても立ってもいられなくて」

「そ、そんなんじゃないって!」

「ムゥ子ちゃんも家に来る?」


 ストーカーに動揺する朱美をよそに鷹野は堂々と誘う。


「えっいいんですか鷹野大先輩? 行く行く! あっそうか部長もお呼ばれされてそれで……」

「ちょっと、いいの鷹野さん」

(にぎ)やかでいいじゃない。ムゥ子ちゃんなら知ってるし」

「いやー光栄です! 部長もいいでしょ」

「まだギリギリ部長じゃないって!」


 朱美は露骨にふくれっ面をした。決して自分を慕って気安い後輩が嫌いなわけではない。だが折角(せっかく)鷹野と二人きりだったのに、と思えばこそ。

 そんな様子を見て鷹野はクスッと笑みを(こぼ)した――自分にとって唯一の救いはこれなのだ、と。


「それじゃ、行こうか。ついてきて」


 普段よりもずっと軽い足取りで、彼女は改札を潜った。




 すっかり闇が深まる空を圧迫するかのように、その家はそびえ立っていた。

 表札が「鷹野」以外にないと確認するまで来客は三階建ての小洒落たマンションだと錯覚していたが、敷地内の全てが一家のものである。苦学生の朱美には実感がないだけで栗栖高校は所謂お嬢様学校だ。驚き方が大袈裟(おおげさ)だ、これくらい普通だと鷹野は言う。

 インターホンを押すだけで玄関扉は開いた。出迎えたのは鷹野の母親とするには(いささ)か高齢であまりに顔の似ていない、倉田(くらた)というハウスキーパーだった。


「おかえりなさい眩良(クララ)さん、そちらのお客様は?」

(いおり)朱美です、鷹野さんとは同じクラスの……こっちは後輩の竿」

「ムゥ子でーす!」

「御学友の方ですか、珍しい。何年ぶりでしょう」


 それを聞いて朱美はハッとする。鷹野も自分と同じなのかと。だけに意外に思った、自分と違って社交的に見える鷹野なのにと。

 ――家に人を呼びたくない事情がある。

 普段と明らかに様子が違う、表情の強張(こわば)った鷹野を横目に見て朱美は察した。もっとも帰宅時の鷹野がこうなのは普段通り。実際実家に友達を招くなど良しと思わない――が今日の彼女にはまた別の事情があった。


「お母様がおいでですよ。まずはお部屋に行かれた方が良いかと」

「……承知しています。お茶菓子の用意を二人分お願いします」


 重々しく口を開く。抑揚のない声だ。相手も事務的に返事をしては(ひるがえ)る。倉田の後を追うように鷹野は先頭に立ち、客をリビングまで案内した。


「うわっすごいひっろーい! テレビでっかい!」

「ふふ、ゆっくりしてね」


 能天気に興奮するムゥ子に微笑みながら、鷹野は後ずさる。傍を通り過ぎて出ていこうとすれば朱美は不安になって、


「さっき二人分って言ったけど、鷹野さんのは……?」

「いいの。多分話長くなるから……ごめんね」


 追い縋る手を優しく跳ね除ける鷹野。彼女は躊躇いがちにドアノブに手を掛け、笑顔を取り(つくろ)う。


「朱美ちゃんとムゥ子ちゃんがいたから帰って来れた。本当に助かったしありがとうね。利用したみたいでごめんね。しばらく戻れないからお茶飲んですぐ帰っていいよ。私に構わず大丈夫だから」

「ちょっと、鷹野さん?」


 傷だらけの右手は空を切る。鷹野は扉の向こうに消えてしまった。朱美は広いリビングに取り残され不安になる。


「朱美先輩、折角こんなに広い部屋だしエビダ対カニラごっこしようぜ~あたいがカニラやるから先輩がエビダで」


 すると能天気なムゥ子はいきなり怪獣ごっこ遊びを提案し、カニ怪獣になりきって手をチョキにして駆け回る。


「おいムゥ子、人ん家でそんな行儀悪いことを」

「がう~がうがう」


 しかし話を聞く後輩ではない。朱美はだんだんそのマイペースさに感化されてきたか、


「この悪の怪獣カニラめ、正義の味方であるボクが成敗してくれる!」


 と馬鹿っぽい台詞を吐きながら参戦した。ムゥ子はエビダはそんなこと言わないとツッコんでいたが聞く耳を持たない。朱美のコブラツイストがムゥ子に決まる。そんな時だった。彼女達は声を聞いた。


「こんな成績で、鷹野家の一員としてやっていけると思っているのかしら!」


 怒号は鷹野が消えた扉の向こうから微かに響いていた。リビングにまで聞こえるということは実際にはかなりの大声だろう。朱美は鷹野のことが心配になって怪獣ごっこを中断し、思わず扉を開けた。すると長い廊下に続いていた。


「お父様に顔向けできると思っているの、眩良!」


 また怒号が発せられる。声がする方へ朱美はそっと物音を立てないよう慎重に近づく。その後をムゥ子がついてきていた。


「先輩?」

「しーっ、音立てるなよ」


 好奇心旺盛(おうせい)な後輩の性格を知っているからついてくるなとは言えず気配を殺せと指示する朱美。対してムゥ子は一度むぅと唸ってからはその通りにした。


「あなたの兄達は皆クラスで一番の成績だったというのにあなたときたら、なんですかこの点数は!? ふざけるのも大概にしなさい!」

「すみません、お母様……」


 鷹野の消え入りそうな声まで聞こえてきて、ようやく朱美とムゥ子は声の発せられる部屋を特定し扉に張り付く。そして会話を盗み聞きする。


「あなたにかけた養育費を返せるというのならすみませんで済む話ですけどねぇ」

「精進します……」

「口だけで、全然成績に表れていないじゃない!」


 鷹野は学校の成績のことで母親に責められているらしかった。朱美は今日渡された通知表の存在を思い出す。鷹野はアーチェリー部のエースだし運動はできるが、勉強は特別得意ではなかった。彼女の人並みの成績をさも許されないことのように母は(なじ)る。


「特に英語、クォーターの癖に英語ができないなんておかしい話じゃない。ねぇ、聞いているの眩良!」

「はい……」


 鷹野がクォーターというのは朱美には初耳だった。自分には隠していたのだろうか、と朱美は思う。そういえば鷹野の身の上話なんて聞いたことないなと。

 鷹野の母はなおも責める。


「愛人の娘であるあなたを引き取って育ててやってる恩義を忘れてこの体たらく、やっぱり買女(ばいた)の血が流れているからかしら……第一」


 それ以上は黙って聞き流せない。朱美は考えなしに扉を開けて飛び出していく。部屋の中には泣き()らした鷹野とヒステリックに顔を歪める彼女の母親がいた。その間に割って入って、朱美は鷹野を(かば)い立てる。


「そんな言い方は、ないよ……曲がりなりにも親子、でしょ……」

「朱美ちゃん!?」

「なんですかあなたは」

「鷹野さんの成績が問題というのなら、ボクが鷹野さんに勉強を教えるよ。それで成績が上がればお母さんも文句はないんでしょ……?」

「一体何を」

「朱美先輩はこう見えて学年でも一二を争うほど成績優秀なんですよ。えっへん」


 後から来たムゥ子が朱美の意外な一面を自慢げに補足する。確かに朱美の期末テストの点数は平均90点を超えている。


「信じられないなら後で通知表を持ってくるよ」

「……あなた達の勝手にしなさい。下がりなさい眩良。ただしお父様には全部報告しておきますからね」


 父親のことを持ち出されると鷹野の肩がビクッと震えた。朱美は心配そうに鷹野の顔を覗き込む。


「鷹野さん、大丈夫?」

「大丈夫。行こう、朱美ちゃん、ムゥ子ちゃん」


 三人の少女はその部屋を後にし、リビングに戻ってくる。すると鷹野はやっとホッと一息ついた。


「ごめんね、変なことに巻き込んで」

「いや、構わないよ」


 朱美は今になって鷹野が家に誘ってきた意味を知った。一人であの母親に立ち向かうのは怖かったのだ。そう思うと自分がいて良かったのかなという気になる。


「勉強、教えてくれるの?」

「それは勿論。ボクなんかで良ければ」

「ありがとう朱美ちゃん、すごく助かる」


 鷹野は両手を合わせて言った。そうかしこまられると朱美は自分にその役が務まるのか不安に思った。

 また鷹野はこうも言った。


「それと朱美ちゃん、今度からは下の名前で呼んでくれないかな?」

「えっいいの?」

「うん……ずっとフェアじゃないって思ってたし……」


 鷹野からそういう提案がされるとは思っていなかった朱美だった。躊躇いがちに彼女の名前を呼ぶ。


「じゃ、じゃあ……眩良ちゃん……」

「うん。ありがとう朱美ちゃん」

「それじゃああたいも眩良先輩って呼んでいい?」


 図々しくムゥ子が乗っかる。眩良は微笑んでいいよと頷いた。




「眩良ちゃん、か……」


 帰りの電車の中で朱美は呟いた。頭の中を占めているのは鷹野眩良のことばかりである。

 勉強を教えるなんて大役、咄嗟(とっさ)に言い出したけど自分に務まるのか。それが気がかりだった。けれど別れ際に眩良が言った「三年生になってもよろしくね」の一言が朱美には嬉しかった。たとえ同じクラスになれなかったとしても勉強を教えるなら会える時間は取れるだろう。


「朱美ちゃん先輩は本当に眩良ちゃん先輩のことが好きなんだね~」

「ばっ、そんなんじゃないよ!」


 ムゥ子に茶化され朱美は焦る。ただ友達なだけで、と言おうとしたが朱美には本当に眩良と友達なのか確証が持てなくて言えなかった。自分がそのつもりでも相手は違うかもしれない、と。そういう勘違いで朱美は苦労した覚えがあったので臆病になっていた。


「じゃ、あたいはこの駅で降りるから。次会う時は高校生だから一緒に部活できるね、楽しみ楽しみ」

「あぁ、じゃあねムゥ子」


 ムゥ子は朱美の家の最寄り駅の一つ手前で降りた。僅かな時間一人になってまた眩良のことを考える。

 自分は眩良のことがそんなに好きなのか。同年代の友人として、またはそれ以上に。確かに眩良は類稀(たぐいまれ)美貌(びぼう)の持ち主だし性格も優しくて好印象しか持ちえない。しかしそんな彼女に恋してるなんて、認めるのは朱美には怖かった。

 だとしたら、叶わぬ恋なのだから。

 同性だし、仮に自分が男だったとしても不釣り合いだ。眩良のように素晴らしい人に自分のような陰気で手首に傷を付けてる奴なんて。

 しかし朱美は思い直す。傷なら眩良にもある。一見完璧そうな彼女にも、家庭のことで鬱屈を抱えている。そして今頃新しい傷が増えているのだろう――経験上、容易(たやす)く推測できた。

 もし眩良に傷がなかったら、ただの高嶺(たかね)の花としか思わなかった。傷が自分達の(きずな)になっているんだ、そう朱美には思えた。


「後一年、かぁ……」


 モラトリアムが終わる時間を頭の中で数えながら、朱美は思う。この一年でもっと眩良と親密になれたらいいのになと。

 しかし別れの時は突然やってくることを、この時の朱美は知らなかった。




 月日が流れ、学年が繰り上がった。クラス替えでめでたく朱美は再び眩良と同じクラスになれた喜びも束の間、朱美の母親が亡くなり、また同時期に父親の転勤が決まった。

 妻を亡くしたばかりの朱美の父は気持ちを新しくしたくて転属の話を望んで受け入れたのだとは娘にはあずかり知らぬことである。朱美は独り暮らしをしてでも今の家に残ろうとしたがまだ高校生だという理由で父親に反対され、渋々従って転校することになった。

 卒業したら眩良とも離れ離れだ、と覚悟していた朱美だったが、あまりにも早すぎる別れには動揺した。全然心の準備が出来ていない。しかしあっという間に引っ越し当日を迎えてしまう。

 荷物を全部引っ越し業者のトラックに詰め込んでがらんと空いた自分の部屋で、もうすぐ自分の部屋でなくなる事実に反抗したくてうずくまっていた時だった。インターホンが鳴った。玄関から父親が自分を呼ぶ声が聞こえる。なんだろう……行きたくない。

 じっとしていると父が部屋に乗り込んできてぐずる朱美に言った。


「おい朱美、友達が来てるぞ。待たせるなよ」

「友達?」


 もしかしたらと慌てて朱美は駆け出す。玄関まで来て、二人の見覚えある少女に出迎えられた。


「眩良ちゃん……とムゥ子!? よくボクん家がわかったな」

「あたいこう見えても新聞部ですよ。情報収集はお茶の子さいさいっと」

「えへへ、ムゥ子ちゃんに調べてもらって来ちゃった。どうしても最後に会いたかったから。朱美ちゃん、学校では変に話題避けてたでしょ」

「……ごめん、眩良ちゃん。そういうつもりは……」


 しかし実際眩良の言う通りだった。朱美は学校では転校することをギリギリまで隠していたし、眩良との別れがしんみりしたものになるのを嫌って避けていた節があった。だがここまで来てしまっては仕方がない。


「朱美ちゃん、どこに引っ越すんだっけ」

「滋賀だよ」

「滋賀かぁ、遠いね」

「知ってるよ、琵琶湖があるところだろ? いいなぁ、あたいも湖で泳ぎたい」


 相変わらずムゥ子は能天気でマイペースだ。その馬鹿っぽさに朱美は笑い、つられて眩良も笑う。ムゥ子は自分が笑われていることに気付いて、むぅと唸って不機嫌になった。


「ねぇ、朱美ちゃん。お願いがあるんだけど」


 唐突に眩良は朱美に頼み込んできた。朱美はよく考えずにいいよ、何? と答える。


「傷、見せて」

「えっ、でも人前じゃあ……」

「ムゥ子ちゃんに見せつけてあげましょう」


 そんな大胆なことを眩良が言うなんて。朱美は恐れをなした。中々手首の傷を見せようとしない。だが最終的には全くの他人じゃなくムゥ子相手ならと観念し、袖を(まく)って見せた。


「朱美先輩、その傷……」


 ムゥ子は興味津々に朱美の傷痕を眺めている。眩良は顔を近づけるとそっと舌を出して――傷口を()めた。


「眩良ちゃん!?」


 仰天する朱美。途端に頬を紅潮させた。だがそれと同じかそれ以上に眩良を顔を赤くして言う。


「ずっと舐めてみたかったの、朱美ちゃんの傷痕。ごめんね、悔いを残したくなくって」

「不純同性交友だ!」


 ムゥ子が素っ頓狂(とんきょう)な声を上げたもんだから朱美も眩良も恥ずかしくなる。


「どうしたのかね」


 騒ぎを聞きつけて朱美の父親が向かって来る。慌てて朱美は傷を隠し眩良は話題を切り替えた。


「じゃあメール一杯送るから、離れ離れになっても友達でいようね朱美ちゃん」

「うん……」

「朱美、名残(なごり)惜しいだろうがそろそろ私達も行くぞ」

「待ってよ父さん」

「別れの挨拶、早く済ませなさい」

「はい……」


 朱美の父は玄関を通って先に家から出て行く。朱美はもじもじしながら眩良達に別れを告げる。


「それじゃあボクも行かないと……でも本当は滋賀になんて行きたくない」


 別れの挨拶を言うつもりで、本音が出た。ここにきてなお朱美はぐずり出してしまう。


「眩良ちゃんやムゥ子とお別れなんて嫌だよ」


 大粒の涙を朱美は溢す。止めどない涙が溢れてくる。


「一生のお別れじゃないよ。また会えるよ。お互い生きてる限り」


 眩良は優しく(さと)し、ハンカチを差し出す。それを受け取って朱美は涙を(ぬぐ)った。


「そう、だよね……」

「おーい朱美―」


 玄関の先で車を停めている父親の呼び声が聞こえてくる。朱美達も玄関を出て、そこで本当に別れとなった。


「ばいばい朱美ちゃん、また会う日まで」

「さよなら眩良ちゃん、絶対ぜーったい、大人になったら会いに行くから!」

「あたいのことも忘れないでね先輩」

「わかってるよムゥ子。それじゃあね」


 朱美が乗り込むと、車は走り出した。はるばる遠く、滋賀県に向かって。その車が砂粒ほどの小ささになって見えなくなるまで眩良とムゥ子は見送った。春の日差しが取り残された二人の上に注がれていた。


「朱美ちゃん先輩がいなくなると寂しくなるね」

「うぅ……ううぅ……」

「って眩良先輩大丈夫!?」


 眩良が思いっきり泣きだしたものだから傍のムゥ子は慌てふためく。

 朱美がいなくなる喪失感に耐えられない――勉強などは朱美頼りだったし、何よりも針のむしろの鷹野家で暮らしていく勇気を朱美という存在にもらっていた眩良だったから、その朱美を失えば不安は増大するのだった。

 眩良は左手で右手首の自分の傷に包帯越しに触れる。昨日作ったばかりの新しい傷痕からじん、と鈍い痛みがした。

 果たして朱美のいない世界で生きていけるのだろうか、自分は――

 悲しみ以上に恐怖で、眩良の涙は止まらなかった。

 そんな彼女の背中を優しくさすることしかムゥ子には出来なかった。




 滋賀の高校を卒業して地元の大学に進学した朱美だったが、新歓などのイベントを全てスルーして孤独を深めていた。

 それでも眩良との文通があれば良かったのだが、高校卒業くらいのタイミングでぱったりと途絶えてしまった。メールが来ない。こちらからメールを送っても返信が来ない。ショートメッセージは既読すらつかない。完全に無視されていた。

 朱美はそれまでは普通にメールを送り合っていたのに急に音信不通になって不審に思っていた。自分に自信がなさ過ぎて突然嫌われてしまった可能性も考えたが、眩良の方にメールを返せない何か事情ができたのだというのが(おおむ)ねの推測だった。

 眩良のことが気にかかるが金がないと会いにも行けないので朱美はバイトを探し始めた。しかしあの引っ込み思案な性格では中々面接に受からず、六件目にしてようやく古書屋のバイトが決まった。それからしばらく働いて金を溜めた頃、ちょうど夏休みに入って時間的制約もなくなったので、朱美は遠方の鷹野家に行くことにした。

 バイトのためにメイクなども覚えた朱美は以前より垢抜けた風貌だったが内面は相変わらずで、人目を避けながら電車を乗り継ぎ、西栗栖で降りると記憶を頼りに鷹野家に向かう。()だるような夏の暑さにもかかわらず長袖のシャツを着て。汗で背中がべっとりとする、早くクーラーの効いた家の中に入りたいと朱美は速足になる。

 やがて記憶と一寸違わぬ豪邸が目の前に出現する。表札は「鷹野」で間違いなかった。

 ここまで来て、朱美は躊躇う。連絡を絶った相手が突然家にやってきて、相手はいい顔するだろうか、と。迷惑かもしれない。拒絶――最悪の想像を朱美はする。

 けれど、それでも、眩良に会いたい――自分の気持ちを優先して、インターホンを鳴らした。


「どちら様でしょうか」

「庵朱美……その、眩良ちゃんの、とも、友達の」

「眩良さんの!? ああ」


 すると見覚えのある年配の女性が出てきた。ハウスキーパーの倉田だ。


「一度来られたことがありましたよね。お久しぶりです」

「こちらこそ……あの、眩良ちゃんに会いに来たんですけど」

「眩良さんに、ですか……それは……」


 倉田は言い(よど)んだ。眩良は家にいないのだろうか。朱美は予測したが、事態はずっと悪い方に転がっていた。


「実は……眩良さんは入院しているんです」

「眩良ちゃんが!?」

「ええ、ちょうど高校も終わりという頃に交通事故に遭いまして、全身不随(ふずい)になってしまったんです」

「全身、不随……?」

「ようするに植物人間なんです、今の眩良さんは」

「そん、な……」


 それがメールの途絶えた理由だなんて、朱美には想像だにしなかった。倉田は重い口を開く。


「これはここだけの話にしてほしいのですが、事故ではなく自殺未遂の可能性もあるかもしれません。眩良さんは随分思い詰めているようでしたから」


 そんな話は聞きたくない朱美だった。もし自傷行為がエスカレートしてそうなったのだとしたら、あまりにも救いがない。

 朱美には血の気が引いていく感覚があった。そのまま倒れそうになる。けれど冷静さを何とか取り戻して倉田に眩良の入院している病院の場所を尋ねた。快く教えてくれたので朱美は急ぎその足で病院に向かった。

 鷹野家から西栗栖駅を挟んで反対側に位置する大病院。そこに眩良はいた。朱美は息を切らし、面会を申し込むと眩良の入院している部屋に入った。

 一年と三か月ぶりくらいの対面である。ベッドの上で仰向けに、眠っているかと思えば目を見開いている眩良はやや()せたが美しかった。そんな彼女に向かって涙がポツポツと落ちる。朱美は思わず泣きだした。


「眩良ちゃん……こんな、こんなことってないよ……せっかくまた会えたのに、もうお話しすることもできないなんて……」


 眩良は身動き一つ取れないので、代わりに朱美が彼女にかかった涙を拭う。しばし物言わぬ眩良と見つめ合う朱美。やがて朱美は心を落ち着かせて言った。


「じゃあまた、会いに来るから。必ず会いに来るから。だから眩良ちゃんも元気になってね……」


 そうして窓から茜色の光が差す頃になってやっと、朱美は退室した。




 朱美は大学卒業後関西圏で就職するのではなく西栗栖周辺で仕事を探し、眩良の入院する病院の近くに引っ越してきた。いつでも眩良のお見舞いに行けるようにするためである。朱美にとって眩良は人生の軸にするほど大きな存在になっていた。


「……ということがあってさ」


 いつものように会社からの帰りで眩良の病室に寄る朱美。今日あったことを話すのが日課になっていた。

 しかし眩良は答えない。何の反応もない。せめて相槌(あいづち)一つ打ってくれたらどんなに気が楽だろうと朱美は思う。


「眩良ちゃん……ボクは駄目だ……」


 こんな生活を続けることに耐えきれず、つい弱音を吐いてしまう朱美。


「社会が怖いんだよ……君が笑ってくれない世界で生きていくのは辛い」


 朱美はこの内向的な性格だから会社でも上手くいっていなかった。だからかつい彼女は袖を捲って自分の傷痕を寝たきりの眩良にまで見せた。

 右手首どころか右腕全体(おびただ)しい傷痕が眩良の目に映る。それは朱美の抱える苦悩の証だった。

 するとある変化が起こった。朱美にではなく眩良にである。見れば、動けないはずの眩良が目から涙を流しているではないか! これには朱美も驚き、目を丸くした。


「眩良ちゃん、うそ……泣いてるの? まさか、ボクのことがわかるの!?」


 朱美は諦めかけていた眩良との会話を試みる。やはり眩良は答えないが、涙は止めどなく流れていた。

 実は身体を動かせないだけで眩良には意識があった。闇の中で誰とも会話できないことに絶望していた眩良だったが、この時朱美と通じ合えて本当に嬉しく思っていた。

 もし身体が動かせるようになったら、朱美の身体の傷痕を舐めて、心の傷を癒してやりたい――そう思う眩良だった。朱美が背負う悲しみを思えば涙は流れゆく。

 朱美は眩良と意思疎通が図れるという希望を抱いた。今まで話しかけてきたことは無駄じゃなかったんだと思えば、彼女の目からも涙が流れる。

 あの放課後から変わらない。傷が二人を繋ぐ絆だった。


「眩良ちゃん、ボクは君のことが好きだ。ずっと好きだった。これからも好きでいさせてほしい」


 スルスルと、今の今までつっかえていた言葉が出た。朱美は頬を赤らめる。つい勢いに任せて告白してしまった……すぐに後悔が押し寄せる。

 だが眩良は心の中で私もよと答えた。涙は止まり、心なしか柔和な表情になったような気がした。それが答えだと朱美は思った。


「ありがとう、眩良ちゃん」


 何年振りかに朱美はにこやかに笑った。かつて眩良がよく朱美にそうしてくれていたのと同じように。

 止まっていた二人の時間は今、動き出した。

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