第九話 真夜中の外出
いつも通りの夕食、柔らかな会話と穏やかなユリアスの笑顔に胸が高鳴る。掛け替えのない幸せな日、それなのに胸のモヤモヤが一向に晴れず、その夜ココルは一睡も出来なかった。
カーテンごしに月明かりを感じながら、ココルはゆっくりと寝台から降りて部屋を出る。同居人を起こさぬよう、暗い廊下をゆっくりと歩き、洗面所で冷たい水で顔を洗うとぼんやりした頭と気持ちが大分スッキリした。
――やっぱり、このままじゃダメだ。
ユリアスの事が好きだ。彼と結婚できるのは嬉しい。でも、こんなモヤモヤを抱えたまま結婚しても上手く行くとは到底思えない。
さて、このモヤモヤを晴らすには一体どうすれば良いのか――咄嗟に思い浮かんだのはユリアスの微笑みだったが、ココルは思い切り首を振って打ち消した。仮にも婚約している相手に『貴方と結婚する事を考えるとモヤモヤする』となんて相談、非常識にも程がある。それに、それを言ってユリアスに悲しい顔なんてさせたくない。
途方に暮れながらふと、窓から差し込む月明かりが目に止まった。夜も深く、街の明かりは道に付けられた魔灯のみ。そのおかげか、濃紺の夜空に細くなった月と、数え切れないほどの星々がいつもより強く輝いている。
その美しい星空を見て……ココルの脳裏に夜と星色の紗で出来た小さなテントが浮かび上がってきた。思えばあの『霧影の夢』に行かなければ、こんな事にはならなかったかも――。
「…………それだ!」
『霧影の夢』、あの星の瞳をした占い師に、もう一度占ってもらうのはどうだろうか?彼女ならココルの事情を知っているし、行きずりの占い師相手だから誰が悲しむ事も無い。占って相談して、この心のモヤモヤを払う方法を一緒に考えて貰おう。迫り来るヤンデレの撃退方法も思いつくかもしれない。
しかし、『霧影の夢』はまだ街にいるだろうか?あれから数日たっているし、もしかしたら、もう別の街へ移動していっているかもしれない。
――こうしちゃいられない! 急いで探さなくちゃ!!
あわてたココルは髪に寝癖をつけたまま、足音を忍ばせながら玄関へ向かう。彼女の仕事着は、家を出る時すぐ羽織れるように靴箱の側にかけてあるのだ。ポケットの中に財布が入っている事をしっかりと確認してから、寝間着の上にさっとローブを羽織る。魔術研究所の証である漆黒のローブは、きっとこの深い夜の闇にココルを隠してくれるに違いない。
玄関扉に手をかけ、押し開こうとして……そっと後ろを振り返った。
『いってらっしゃい、ココ。残業してもあまり遅くはならないようにね』
いつもにこやかに送り出してくれる、エプロン姿のユリアスは今いない。きっと自室で穏やかな寝息を立てているのだろう。でも、それで良い。優しい彼の事だ、こんな夜中にココルが一人外出したなんて知ったら、心配で死んでしまうかもしれない。
――大丈夫、ユリアスが起き出す前に帰ってしまえば良いんだし。バレなければきっと、大丈夫。
玄関扉を開いて、細めの隙間から外へと身を滑り込ませる。自分の体が小さくて良かったと実感する数少ない機会だ。
音を立てないよう閉じてから、玄関扉に耳を当てる。しばし待って、あれから大きな物音が全くしない事を確認し……ココルはふっと安堵の息を吐いた。
「――標の蝶よ、迷える者に光の道を示したまえ」
両手の平で魔力を練り上げ、一匹の蝶が舞い上がる。キラキラと光る鱗粉は、只でさえ暗い夜の闇の中で大層美しく光り輝いて見えた。
ココルは足音を立てないよう気をつけながら、鱗粉の道を辿り始める。目指すのは、あの夜色の占い師。全ての元凶となった、『霧影の夢』だ。
「いってきます。すぐ帰ってくるから、ユリアス……!」
漆黒のフードを目深に被り、ココルは小さく呟くと、標の蝶を追ってあっという間に夜の闇に紛れ見えなくなってしまった。
彼女が闇に見えなくなって程なく、もう一匹、光る蝶が舞い上がる。消えかけていたココルの痕跡を上書きするように飛ぶその後ろを、一人の男がゆったりと歩き始めた。
「……全くココったら。今何時だと思っているんだい」
背の高い影が、標の光に照らされて浮かび上がる。茶色い短髪は柔らかくうねり、その口元には穏やかな微笑みが浮かんでいた。しかしながら、緑の瞳は不穏な程ギラギラと光り、全く笑っていない。
「真夜中に外出なんて、何処でそんな悪い事を覚えてきたのかな?」
ちょこまかしたココルの歩幅を嘲笑うように、大きな歩幅で悠々と歩きながら……彼もまた、夜の闇へと溶けていったのだった。