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 2−2

   2

 

 ここに来て五日目。

 この二日間悩みに悩み、インフォメーションセンター<1>をうろうろすること幾許、俺はようやく面接室<2>のパイプ椅子までたどり着いた。自分を褒めてやりたいぐらいだ。ここまでの達成感で、もはや全て終わった気さえする。テスト前に単語帳を作るだけ作って、それで満足して使わず終わる、あの感じ。面接開始の十五時まであと五分。何だか心臓が痛いので目を閉じてやり過ごす。驚くほどの静寂だ。隣の部屋の会話も聞こえてこない、ただ自分の心臓の音だけ。本当に自分の内側から鳴る音かと疑ってしまうほど無遠慮に響く。ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、カツ、カツ、カツ…

 薄っすら目を開け時計を眺めてみると、十五時をほんの少し回ったところだった。もう一度瞼を閉じる。自分の心臓の音と同じリズムで鳴る足音。あまりに自然に溶け込んでくるもんだから、自分の心臓がドクンという音に飽きて違う鳴り方を始めたのかと思った。

 たぶんあと二十五秒ほどであいつはここの扉を開ける。昔から計ったように待ち合わせ時間の二分後にくるやつだった。本人曰く待ち合わせ時間ぴったりを狙っていたらしいけど。

 ガチャ

 ゆっくり瞼を開けて、ノックもなしに面接の場に入ってきた人物を正面に捉える。もう自分の心臓の音は分からなかった。

「あんた、何死んでんの?」

「正しくは、まだ死んでない。」

 開口一番がこれか。

「相も変わらずお元気そうで。」

 あいつにはそこに立っているというよりは、立ちはだかっているという表現の方が合っている様な気がする。元々姿勢が良く何となく近づきにくい雰囲気を持っていたが、それはこの世界でも健在のようだ。結構綺麗な顔をしているのに生前男が寄ってこなかったのは、主にここに原因があったと俺は踏んでいる。その代わりあいつは女子に絶大な人気を誇った。女子高でもないのにタメからはもちろん後輩だの先輩だのに頻繁に手紙を貰っていたし、バレンタインなんて甘いものが得意ではないあいつのために、俺が処理を引き受ける始末だ。気持ちだけはありがたく頂かないとねなんて言いながら必ず一口食べてから俺に寄越すあいつをみて、男の俺の方がその男前っぷりに感心したぐらいだ。

 とにかく久しぶりに会った第一印象としては、あいつは何にも変わっていなかった。涼し気とも気が強そうとも取れる切れ長の瞳、無駄な肉のない四肢、口元のほくろ、全て俺の記憶の中にある最後に見たあいつと一致していた。強いて言うなら真っ黒だった髪が少し茶色くなり、ロングヘアになっていたことぐらいだ。それからあたり前だがもうあの頃の制服は着ていない。俺にとってはそれが一番の衝撃だった。今でも着てたらただのコスプレだ、そんなことは分かっている。あいつは制服の代わりに黒いワンピースを着ていた。制服の時は校則をしっかり守って膝丈だったのに今や膝上15センチになっていた。そして俺は再び、生前の自分の部屋着を後悔することになる。

 座っている俺は必然的にあいつに見下ろされる形となった。

「あんたは相変わらず体うっすいし、ちゃんと食べてたの?生前。」

「うるせぇよ。」

 不覚にも泣きそうになった。自分でも女々しいと思うけど、再びこいつと軽口たたくことになるなんて誰が予想できたろうか。まあ、そもそもそんな予想する必要があるのは俺しかいないが。

 とにかく俺は、緩んだ涙腺を紛らわせるためにしゃべり続ける必要があった。

「今まで何やってたんだよ。」

「え?聞いてないの?あたしの死因。」

 いつの間にか俺の前の椅子を引きながら、何でもないことのように自分の「死」を口にするあいつ。左手腕に巻かれた青いバンドが嫌でも目に入って、またもや涙腺の危機だ。

「正しくはお前もまだ死んでねえよ。昏睡状態だ。」

「え!?そうなの!?知らなかった!てっきり即死かと。」

「はあ、でも目を覚ます可能性は極めて低い、とよ。」

「ふーん。」

「ってかそうじゃなくて、高校出てから何か報告するようなことなかったのかって言ってんの。」

 高校の卒業式から約五年、こいつとは一度も会っていなかった。 

 「あ、そういうこと」と小さく呟くと一瞬考え込んだ。少し俯いたために前髪のかかった顔に、不覚にもどきっとした。

「あ!彼氏!あたし彼氏出来たのよ。びっくりでしょ。」

 そんな答え、予想も期待もしてなかった。なんでこんなにむかつくのかと思うけれど、あれだ、妹に先を越された兄の気持ちというか、姉ちゃん取られた弟の気持ちというか…それはそれで気持ち悪いか。

「何も言わずに置いていちゃたな…。」

 口元は笑っているが目は泣いているような、初めて見た、こいつのこんな顔。そういえばよくよく見ると、高校の時より女らしくなった気がする。顎のラインとか、太ったわけではないけど適度な丸みを帯びている。恋をすると女は綺麗になるってか、やっぱりむかつく。

「そういあんたは?何やってたの?ていうか何でここにいるの?しかもそっちに。」

 俺とあいつの間には机が一つ。たかが机、されど机。この机は俺がメモを取るためのもにであり、あいつが肘をついてあごを乗せるのを支えるためのものでもあり、そしてレシピエントとドナーを隔てる境界線でもある。本来あるべき使い方をしているのは俺だけである。

「いろいろあったんだよ。お前が彼氏なんぞ作って惚けている間にな。」

「何?妬いてんの?」

「あれ、ここ隙間風がすごいな、寒気がするぜ。」

 両腕を摩っておどけてみせても妙な間が流れただけだった。あいつを誤魔化せるわけもなく、あいつはその身から発する雰囲気だけで俺を捲くし立てた。

「んで、何で?本気で聞いてんですけど。」

「…言いたくない。」

「そんなのフェアじゃない。守はあたしの事故原因知ってるのに。」

「事故と自殺じゃ違う。」

「本当に自殺なんだ…。」

 「自殺」、俺の口から直接その二文字を聞くことを望んでいたとも、望んでいなかったとも取れるような素振りで俺から目を逸らす。何故か俺はそんなあいつの視線を再び俺に向けなきゃいけないような気がして、またもやしゃべり続けた。

「やっぱ止めようぜ。もういいじゃねぇか。それにしてもお前は変わんねぇな。」

 やっぱり「自殺」の話はするべきではない、とにかく話題を変えたかった。変える必要があった。俺たちに共通の話題は唯一つでいい、「高校時代」ただそれだけだ。「死」なんて共通項は必要ない。ずっと永遠に俺と理沙は高校生の時のままの関係で、その延長線上にいるんだ。俺はあいつにそんな一種の幻想を抱いているのかもしれない。今にも崩れだしそうな不安定な幻想を、それでも俺は捨てられずにいる。あいつは象徴なんだ。俺が人生で最も輝いていた時の、象徴。

 わざと過ぎるぐらいの作り笑顔で空気を変えようとした。しかしあいつはそれを許さなかった。

「変わったよ。」

「え?」

「あたしは変わった。それに守もね。」

 いつになく真剣な顔で間髪入れずに断言するあいつを見て、何故か俺は漠然と「ああ、逃げられない」と思った。一体何から逃げる?

「例えば?」

 搾り出すようにしてようやく四文字発した。

「あたしはごった返したホームで線路に落ちるような間抜けになった。」

 俺はなんて返せばいい?しかしあいつは俺の頭が回転して適切な言葉を探すのも、俺の口が選ばれた言葉を紡ぐのも、待ってはくれない。その視線と空気だけで俺を威圧する。

「そしてあんたは自分から命を捨てるようなアホになった。」

 全て言い切ったあいつと目を合わせた時、もう俺はほとんど泣き出しそうになっていた。   

 涙を引っ込めるためにも、そして心を落ち着けるためにも俺は一旦目を閉じた。目を閉じながら、あいつが俺をじっと待っている気配が感じられた。でもそれはさっきみたいに俺に考える余裕を与えないような突き刺さるものではなくて、包みこむような一種の安堵を含んだものだった。その気配をたっぷりと全身で感じるように深呼吸をした後、勢いよく瞼を開いた。一気に開いてしまわなければ、瞼を開くその一瞬の間にも決意が鈍ってしまうような気がしたのだ。

「俺、第一志望の大学落ちたろ?」

「いつの話してんの…。」

 目の前には頬杖をついた呆れ顔のあいつがいる。俺が五年間、話すべきだった相手だ。

「たぶんその時から、全部諦めてた。お前とはもう張り合えないと思ってたし、だから顔合わせんのも怖かった。だってよ、俺は落ちこぼれてんのにお前は行きたい学校行って、どうせまたすごいことやらかして謳歌してんだろ?まぁそんな事はもうどうでもいいんだ。ただ全て諦めて放り出した俺に、お前がどんな顔すんのか考えたくもなかったんだ。それにおまえ怒ってただろうし。」

 自分で口にして、改めてそのくだらなさにうんざりした。でも人間を死ぬほど悩ませることってのはだいたい、くだらないことだ。

「じゃああたしも言わせてもらうけど、あたしはずっとむかついてたよ。絶対私には負けないってライバル視してたくせに、高校卒業した途端に電話もメールも無視、同窓会にも来ない。たまに噂に聞けば、遊び惚けて大学生の王道行ってるとか?めちゃくちゃむかついたわよ。なんであたしだけ…なんでこんな頑張んなきゃいけないのよ…あほらし…」

 泣きそうになるとこいつは語尾が弱くなる癖がある。しかし泣かないことは分かっている。生前だって俺は一度もこいつが泣く姿を見たことはなかった。ちなみに俺の方は、高校二年生の体育祭での男泣きをこいつに見られている。

「張り合いなくなっちゃったじゃない。入ったばっかだったのに文学研究会も辞めちゃったわよ!」

 ああ、そういえばこいつ物書きになりたかったんだったなぁと思い出して、そしてさらに俺も同じ夢に向かって努力してた頃があったんだということも思い出して、何だかぎゅっと心臓を摑まれたような感じがした。

「はぁ、あたしたち今、傍から見たら最高にくだらない言い合いしてるわよ?ただのよくある大学生のモラトリアムと燃え尽き症候群。」

 ごもっともな意見だ。傍から見ずとも本人も自覚済みである。

「それでも何年もすれば結構気に入ってきてたんだぜ?こういう生活も。高校生活辛かったし長い人生、こんな時間があったっていいってな。そう思い始めてた矢先だよ、お前が事故に遭ったのは。」

 あいつの表情が硬くなるのが分かった。

「あ、言っておくけどお前のせいで死んだわけじゃねぇからな。」

「当たり前。」

 少しは躊躇ってくれてもいいのだが。

「それで…なんて言ったらいいんだろうな…」

 言いたいこと、言うべきことは沢山あるはすなのにどれ一つ、言葉になって出てくる気配はない。考えをまとめようにも言語化まで辿り着けていないのだから、まとめようがないのだ。俺に焦らされていると感じたのだろうか、あいつの気の長さはきっと俺の三分の一ぐらいだ。

「あんたって昔からほんとしゃべるの下手。どこにオチがあるのか分かんないし、考えまとまる前に口にだしちゃってるでしょ?」

「仕方ねぇだろ、自分でもなんで死んだのか正直わかんねぇんだよ。ただ、世界から突き放された気がしたんだ。孤立したっていうか、別に俺が居なくても何も変わらないってことに気がついたっていうか…まぁ元々そんな事知ってたけどよ、それがいきなり痛いぐらいに感じられるようになって…無理して生きる理由もないって結論に至ったわけだ。」

「全然分かんない。あんたってアーティスティックなとこあったけど、何?哲学にでも目覚めたってこと?」

「とにかく!これ以上は上手く説明できねぇよ。」

「これ以上も何もないでしょ、最初から全然分かんないんだから。」

「悪かったよ。俺にしてみりゃ、噛まずにここまでしゃべれたことだけでも評価してほしいんですけど。」

 あいつの顔にはでかでかと「腑に落ちてない!」と書いてあったが、この際無視だ。

「はいはい、まぁ、あんたにしては頑張った。次はあたしの番?」

「何かおっしゃりたいことがあるのならどうぞ。」

 あいつが椅子に座りなおす。それと反対にやっとお役御免になった俺は行儀悪く机に突っ伏す。

「そうね…ねぇ守、知ってる?人間常に死にたい死にたいって思ってると、本当に死んじゃうことがあるんだって。」

「お前、そういう根拠のないこと信じない主義だろ?」

 頭は上げずに返事だけする。

「うん。でもこれは結構信憑性あるんだよ。常に死にたいって思いながら生活してると、行動にすごく些細だけど、変化が起こるんだって。例えば信号渡るとき普段よりほんの少しだけ青信号になるのを待たずに渡ったり、横断歩道でいつもなら左右確認するところを怠ったり。本人はそんな気さらさらないのよ?自殺なんてこれっぽっちも考えていない。でも頭の隅で思うの。あわよくばここで車に撥ねられたら、うっかり死ねたらって。そんな取るに足らないような考えに体が反応しちゃうの。ねぇ、そうやって死んじゃった場合、それは事故なのかな?それとも自殺なのかな?」

 知らない間に俺の頭は持ち上がっていた。

「どういう意味だ?」

 今度は俺の顔が強張る番だった。

「お前はわざと電車に接触したとでも?」

「違う!そんなことが言いたいんじゃないの。」

 苛立ちを隠すことなく人差し指で机をとんとんと叩く。滅多に取り乱すことのないあいつにしては妙な行動だった。

「でもね、自分で考えてみてもおかしいの。いつも通っている駅のホームで、いつもの帰宅ラッシュで、いつものように仕事帰りで疲れてた。全ていつも通りだったのに、何故その日に限ってあたしは事故になんて遭っちゃったんだろうって。守だってそう思わない?このあたしがよ?そんな不注意すると思う?」

 俺は素直に首を横に振った。

「思うの、ただあたしはいつもよりほんの少し線路側を歩いていたんじゃないかって。もちろん無意識のうちにね。」

「哲学に目覚めたのはお前の方なんじゃねぇか?」

 俺が小さくため息を漏らすと、あいつはまるで小さな子供みたいに唇を尖らせて顔を歪めた。不機嫌になる前兆だ。

「今までのお前の話を信じるのなら、つまりお前はその頃常に、死にたい死にたいと思って生きていたってことか?」

「それを断言するのはとても難しい。だって死なんてその頃どころか、物心ついた頃から常に考えていたことだもん。」

「は?」

 俺の思考が一旦停止する。

「これは人に説明するのはすごく難しいことなの。このあたしをもってしてもね。」

 高校三年間委員会を掛け持ちし、壇上、放送、何だろうと怯むことなく人前で話すあいつはすこぶる喋りが上手かった。そんなあいつをもってしても上手く言い表せないこと。きっと話す技術とか、そういうのが問題ではないことは分かっている。

「精神的に参ってる人だと思われちゃう。まぁ、あんたには今更何思われてもいいから話しちゃうけど…あたし割りと死を肯定的に捉えてる。将来死ぬのが楽しみだったぐらい。だってそうでしょ?人間行き着く先はそこなんだから、どういう風に終わらせようかなとか、そんなことを考えるのが昔から好きだった。」

 今の情報を元に、思考が運転を再開する。

「行き着く先は皆そこだけどな、世間一般の人は、そこに行き着くまでの過程を考えることを楽しみにして生きるものだと思うぜ。」

 普通に発言しているが、俺の内部は実は結構、混乱している。当たり前だ。

「じゃああたしは人と違ったってだけ。とにかくずっと考えてたことだから、それがあたしにとっての普通なの。だから何であのタイミングで死んじゃったのか分からないのよね。特別強く死にたいって思ったわけでもないのに。」

「そんなに昔から考えてたなら、『積もり積もって』ってやつじゃねぇの?キャパオーバーだ。」

「うん、そうかも知れない。だからあたしはすごく不服。」

「何に対して?」

「全て。死ぬタイミングも、死に場所も、死に方も!」

 「死」がゲシュタルト崩壊しそうだ。

「ずっと理想の死に方を考えて生きてきたのに!何の準備もなしに!あんな大勢の人の前で!あぁむかつく!」

「まぁ落ち着けって。」

「無理!」

 あいつは珍しく興奮しているようで、俺の言葉は耳には届かなかった。それならば諦めて、しゃべりたいようにしゃべらせようと思う。

「いい?死ぬことは人生最大にして最高のビッグイベントなのよ!どんな死に方をするかによって、その人の人生がどんなものだったのか決まる。逆に言えばどんな人生であれ、最期が最高ならそれは最高の人生よ。」

「お前武士みたいだな。」

「ありがとう。」

「いや、褒めてないから。」

 鋭く睨むあいつの眼光を避けるためコホン、とひとつ咳払いをした。

「それにしても俺ら二人とも意味分かんねぇな。何で死んだのかも、ここに居んのかもはっきりしない。」

「でもなんかそんな事どうでもいいかも…。」

 背もたれに体を預けながらあいつがぽつりと呟いた。言いたかったことは全て言い切ったのだろう、憑き物が落ちたように柔和な雰囲気を纏っていた。そんな空気に当てられたかのように、俺も普段より素直に話してみようと思った。

「なぁ俺ら、卒業して離れて何年も経ってんのに、くだらないことで意識し合ってたってことだよな?」

「そうかもね…。」

 いつの間にか、春のまどろみの中に居るような眠気に似た空気が流れていた。お互いしゃべりすぎた気がする。もっと時間をかけて話すべきことを何倍速にもして話してしまったがために疲労が追いつかす、全てを終えた今、どっと来たって感じだ。

「笑えるな。結局俺ら二人してお互い羨んで、ないものねだりしてたのか…。」

 あいつが事故に遭ったとか、俺が風呂場で手首を切ったとか、生命バンクに来ちまったとか、あいつと再会してるとか、浮遊し、彷徨っていたごちゃごちゃとした出来事とか思考とかが頭の中で一つの軌道に乗った気がした。自分の中でそれらが一つのところに終着したような感じだ。

 どれくらいの沈黙だったのか分からない。ただあいつも同じように何かに至ったみたいだ。いきなりふっと笑みを漏らし実にすっきりとした顔で、俺の言おうとしていたことと全く同じことを口にした。

「『同盟』再結成ってことでいい?」

「ああ。」

 二十三にもなって「仲直り」なんて小っ恥ずかしい言葉は使えないんでね。これが俺らの和解の形だ。握手するつもりで差し出した俺の手であいつは無理やりハイ・タッチをした。まぁ実際手は上がってないわけだから、言ってロー・タッチか。パンと嫌にいい音がした。その音を皮切りにしたかのように、再び周りの空気がまどろみから普通の速度に戻った。

「いって…それにしても…お互い生きてんのか死んでんのか分かんない様な状態で同盟組んでもねぇ…何のための同盟だよ。」

これが高校時代ならば、中間テスト対策同盟だとか鬼教師反対同盟だとか、幼稚なりにも名のつく同盟になるはずなのだが、当然ながら今の俺たちには共通の敵と言うべき戦う相手など、いるわけがない。

「逃げよう。」

「はい?」 

「逃げよう守、一緒にここから。そのための同盟。」

 あいつが椅子から身を乗り出して俺にぐっと近づき、にやりと笑った。

「は…?」

 突拍子もないことを言っているという自覚もないあいつの足を地に付けてやるのは、いつだって俺の役目だ。

「あのなあ、そもそも脱出方法も分からない。むしろ脱出方法があるのかすら分からない。計画を練ろうにも面接室の使用は一回最長三十分までで、しかも同一人物との面接は三回が上限だ。今回でもう一回分使っちまったから、残り30×2=60分で全ての計画を完璧に立てなければいけないわけだ。無謀だろ。」

 面接室使用のルールは、こいつと会うか会わないかでうだうだしていた時に知ったことだ。冷静に話しつつも、先ほどのロー・タッチの威力が徐徐にしかし着実に俺の手のひらを赤く染め上げていたので、俺は手を摩りながらそれに伴う疼きをやり過ごさなければならなかった。故意ではないとは言え、元凶であることには違いないあいつは実にのほほんとした調子で無理難題を口にする。死んでも尚、不条理だ。

「茜がいる。きっと彼女なら協力してくれるよ。そうすればもう六十分増えるじゃん。」

「六十分かそこら増えたぐらいで何が変わるよ…。」

 こいつは昔から強引なところがあったけど、死んだぐらいじゃ人の性格変わんないみたいだ。ふう、と頭をもたげ、上目であいつを見遣ると物凄く見覚えのある嫌な目と合ってしまった。俺をけしかけたくてうずうずしてやがる。目の奥に赤黒い炎が見えてんだよ。

「本気か…?」

 一応形だけの言葉を投げかけてみるが、答えなんて最初から分かっている。そして俺に拒否権は、ない。

「あたしの性格、知ってるでしょ?」

 ため息にも似た小さな笑いを漏らして、俺は覚悟を決めた。

 あっけなくもこうしてここに、逃亡同盟(仮)とでも言うべき、世間的にも歴史的にも何の価値も持たない同盟が誕生したのだった。どちらともなく、本日二度目の誓いが交わされた。今度は普通の握手だ。熱くなっていたのはあいつの手だろうか、それとも俺の手だろうか。

「ていうかちょっと待て、俺は兎も角、お前は別に逃げる必要ないんじゃね?提供してくれるドナー待ってればいいんだから。」

「こっちにも期限があるとは全く思わないわけ?」

 そんな呆れ顔をすることはないじゃないか。

「生きてるときだってそうだったでしょ。世界ってのはドナー待ちで溢れてんのよ。あたしたちがここに居られるのは二週間まで。その後は…知らない。だいたいそっちと一緒でしょ。あたしがはここに来て今日で一週間だから、あと二週間残ってる。三月十九日まで。そっちの期限は?」

「俺も三月十九日だ。すげえな、同じタイミングでここに来たなんて…待て、お前が事故に遭ってから俺が自殺するまでの間、三ヶ月はあったぞ?」

「知らないよ。レシピエントは後ろが詰まってて、生命バンクに辿り着くまでの待ち時間がドナーより長いんでしょ。それか時間の流れるスピードでも違うんじゃない?一応異空間だし、ここ。」

 ここでの生活に慣れすぎてすっかり忘れていたが、そもそも自殺後に得体の知れない空間で、何日も生活しているというのは忌々しき事態なんだった。意外と快適で忘れていた。

「ていうかあんた本気であたしの後追い自殺?迷惑なんだけど。」

「違ぇよ、ばか!何度も言わせんな、俺は…」

 コンコン

「はい。」

 俺の言葉を遮るようにノック音が、そしてもはや俺の言葉の続きなど興味もない理沙の声が、部屋に響いた。

「面接中失礼致しますが、終了の時刻です。」

「あ、すみません、今出ますから。」

「よろしくお願い致します。」

「ねえ守、今更だけどこの部屋、監視とかされてないのかな?」

 扉の向こうの足音が遠ざかるのを待って、小声で本当に今更なことを俺に聞く。

「あーカメラはついてないみたいだけど。」

 天井を仰ぎながら首を一周させてみたがそれらしきものは何もない。

「なら良かった。じゃ、同盟破棄したらハーゲンダッツ奢ってもらうから。」

 支離滅裂なことを言うだけ言うとやつはさっさと出て行った。あいつのことだ、どうせ手段は全部俺任せなんだろう。

 あいつが出て行った後、再び静寂の戻った部屋の中で俺は、自分の体が物凄い疲労感に襲われていることに気がついた。神経が磨り減った感じと言うか、体中の関節が痛いような。それと同時に変な高揚感にも包まれている。体はどっと疲れているのに頭はぎんぎんに冴えているような感じだ。まさに徹夜明けの朝の感覚。ここの世界では疲れを感じることはないと思っていたが、精神的な疲れは例外らしい。

 

 面接室をあとにして俺はいつもの定位置へと戻った。インフォメーションセンター正面のベンチ。

 さてと…限られた時間の中でやることは多い。壁の電子時計の日付けとプリントに書かれた提出期限を見比べてみるとタイムリミットは残り十日。これはやばいぞ。

 さて、とりあえず脱出法について頭の中でぐるぐると思考を巡らせてみる。そんなに巡らせずともすぐにひとつ思い浮かんだ。ずばり、俺の残高をあいつにやると正式に推定寿命残高譲渡確定届を出すのである。そして俺もちゃっかりあいつに付いて脱出してしまうのだ。その「ちゃっかり」を実行するためにまずすべきことは…この施設の構造を知ること。詳細な地図なんかがあれば一番いい。ここに来て初日に行ける所は全て行ったわけだから、施設内を歩き回る手間は省ける。そして俺は、インフォメーションセンターがここの唯一ともいえる中枢機関だということに気付いていた。一週間特にすることもなくインフォメーションセンター前に陣取っていれば、誰だって嫌でも気がつく。

 ここに俺は一つの仮定を立てる。初めて俺がインフォメーションセンターに入り、残高の振り分け方法を決めたとき、一番を選んだ隣のサラリーマンは更に奥の部屋へと続く前の列に通された。それはきっと「あの世への扉(仮)」までの順番待ちだったと予想する。生命バンクの入り口が何もない空間にどんと開け放たれた奇妙な扉だったからか、俺のイメージではこの扉も、広い空間の中の中心にただ聳え立っているような扉だ。そして、ということはもう一つあるはずなのだ。「元の世界への扉(仮)」がー。そしてそれも「あの世への扉(仮)」と同様、インフォメーションセンターの中にある、と考えるのが自然だ。そして「あの世への扉(仮)」がドナー用のインフォメーションセンター<1>にあるのならば、「元の世界への扉(仮)」はレシピエント用のインフォメーションセンター<2>にあるはず―。     


 翌日俺は再び「面接室使用届」に理沙の名前を書き、面接室で会う機会をつくった。

「それではこれより第一回作戦会議を始めます!あれ、二回目か?」

 さすがのあいつも、本当に時間がないことを自覚しているようで、俺たちの第一回会議(この前は第0回とでもしておけば良い)は予定の十分前に始まった。面接室が空いてさえいれば、面接開始予定時刻の十分前から入室可なのだ。今の俺たちにとって十分は大きい。

「それにしてもよかった、レシピエント側からドナーを指定して面接室を使うことは出来ないって、あんたに言うの忘れてたの。面接室出てから気が付いて冷や冷やした。こっちからは連絡取れないなんてすごい不便。今日こそは次会うのはいつにするか決めないとね。」

「確かにそうだな。でも今日はまず、考えた脱出方法について話し合いたい。俺からな。」

 喋りだす前に壁の時計を見遣る。俺の持ち時間はとりあえず十分ってとこか。

「ずばり、俺の残高をお前にやるって書いて届を出す。」

「反対!」

「なんでだよ!まだ話の途中だろうが!」

「セーフティネットなんて欲しくない。」

 あいつはひとつため息を吐いてぼそりと呟いた。笑わない目。ああ、知っている。全てを見透かしたときの目だ。

「セーフティネットって何だ。あんまり難しい言葉使うなよ。」

「私はふたり一緒に戻るって言って同盟を組んだんだよ。ひとりで戻ってもそんなの何の意味もない。それでもひとりで戻れって言うんなら、その場合は同盟破棄と見なす。ハーゲンダッツ奢ってもらうって言ったじゃん。」

 ゲームではないのだ。そんな「ルール」よりももっと大切なことがあるだろう、例えば「結果」とか。

「何言ってんだよ…どういう意味だよ。届を出した後、俺はお前から集合場所とか集合時間を聞いて、そこに忍び込むっていう作戦なんだよ。別にお前一人元の世界に戻るんじゃねえぞ。」

 本当は分かっている。自分がしたいことも、あいつが言わんとしていることも。

「それでもしあんたが失敗しても、私だけは元の世界に戻れるって?保険なんていらない。」

 こんなにあっけなくタネ明かしをされては俺も笑えない。

「あんたの性格分かんなかったと思う?昔からそう、自分のことは無頓着なくせに人にはお節介。生に対しても自分は何の執着もないくせに人には生きろって言う。ほんと…勝手な奴。」

 お前にだけは言われたくないと思いつつも、今回ばかりは言い訳できないので黙っておく。けれど我ながら良い作戦だと思ったのだ。というか至極当然な作戦だと思う。俺が届を出してしまえば最低、理沙だけは元の世界に戻ることが出来るのだから。俺が犠牲になってとかそんな格好つけたいわけではなく、最も効率的だと思ったのだ。そりゃもちろん、多少の私情はある。俺は死にたいと思って自殺を図ってここにいるのだから、まあ仕方ないと言ってしまえばそれまでだ。しかし理沙は違う。それならばやっぱり、たとえ俺はだめでもあいつは元の世界に戻してやりたいと思うのは、人として当然の感情だろう。

「ということで、あんたの作戦はボツです!次あたしの作戦ね。やっぱり、強行突破しかないと思うんだ。」

「どこを?」

「インフォメーションセンター。」

「まあ、それは俺も賛成だ。」

 時間の都合と、それからこいつの性格を考慮して、俺は大人しく作戦1を諦め、作戦2に移る。先に立てた仮説、「インフォメーションセンター中枢機関説」をあいつに説いた。あるのか分からない元いた世界に通じる「扉」の存在―。

「いいか、俺らがまずしなければならないのは、この施設の詳細な仕組みを知ることだ。脱出するにも出口がどこにあるのか、はたまたないのか、そこが分からなければ動きようがない。それを知るためにも、」

「インフォメーションセンターに忍び込む、と。」

「そして手始めに、施設内の詳細な地図を奪う。」

「悪くない。」

 「悪くない」はあいつの言うところの「excellent」だ。死んでも俺のアイディアは褒めたくないらしい。

「ところでどうやって忍び込むのよ?あんたも分かってると思うけど、インフォメーションセンターは三六五日二十四時間営業のコンビニにみたいなところよ?」

「その通り。インフォメーションセンターはまさにコンビニだ。ところがコンビニにも穴はある。一番店員、そして客の少ない時間帯は?」

「真夜中?」

 ああ、こいつは滅多にコンビニなんて行かないんだった。

「ちげえよ、夜中は小腹の空いた若者だの、これから仕事の兄ちゃんだので意外と込んでるだろ。朝方だよ。四~五時ってところか。おかしいよな、ここでは睡眠欲なんてないはずなのに長年の生活習慣は抜けないのか、夜中から朝方にかけてはスタッフもレシピエントもドナーも何故か大人しくなる。そして最もインフォメーションセンターの人手が少なくなるのもこの時間帯だ。」

「人手が少なくなるとして、こっちの世界にもセキュリティのひとつやふたつ、あるんじゃないの?」

「俺が知っている限りでは防犯カメラだな。インフォメーションセンター<1>内にとりあえず三台ある。そしてここからはお前の仕事だ。インフォメーションセンター<2>のセキュリティをチェックしてきてくれ。防犯カメラは何台か、スタッフの数は?」

「言われなくてもあたしだって昨日、インフォメーションセンター<2>に行って観察してたわよ。防犯カメラの数は見える限りで三台、窓口は五つあって、その後ろで仕事してたバックスタッフはその時数えた限りでは四十人ぐらい。」

「よし。」

「それで?地図が保管されてそうな場所は見当ついてるの?」

「微妙だ。なんせ生命バンク側のスタンスがイマイチ掴みきれねえんだよ。」 

 そう、これこそインフォメーションセンター突破の最大のキーポイント。

「前に俺、この階から下の階に下ろうとしたことがあるんだ。ドナーは下には降りれないって知らずにな。通路脇にいたスタッフに止められて結局行けなかったんだけど、それも今思えばおかしいよなあ。別に警備員がいるわけでも、厳重な扉があるわけでもなく、普通のスタッフがパイプ椅子に座って控えてるだけなんだぜ?まるで交通量数えてるバイトだ。セキュリティ面で生命バンクがどう考えてんのか分からない。もしこの緩さが本物ならカウンターの足元だとか、こっちから見えるような、たとえばスタッフの机の書類に紛れてる可能性だってある。でもフェイクなら、厳重に鍵かけて金庫の中にでも保管してんじゃないか?」

「んー、んで予想は?」

「前者…であってほしい。」

「あんたの希望なんて聞いてないんですけど。」

「前者であると仮定する!その場合、先に言った人の少ない時間を狙うのは逆効果だ。多くの人に紛れてさっと盗んで何事もなかったかの様にすみやかに退散する。」

「あんた、現世で万引きでもしてたんじゃないわよね?」

「ばか言うな。」

「んで、具体的にはどうするの?」

「お昼過ぎが狙い目か。俺の予想がビンゴなら、地図のひとつやふたつ盗まれたところで、誰も騒ぎはしない。むしろ盗られたことにも気づかないでいてくれるかもな。地図を盗んでから脱出決行まではスピード勝負だ。」

「なるほど。」

 珍しく俺の意見に素直に頷いているこいつを見て少し照れくさくなった。

「それで、インフォメーションセンターは二つあるわけだが、俺の予想では、この施設の地図が厳重に管理されていないのならば、きっと<1><2>両方に存在しているとは思うんだ。」

ふいにあいつはワンピースについているポケットに手を入れて、十円硬貨を取り出した。そしてそれははじかれ宙に舞い、綺麗な弧を描いてあいつの手の甲に落ちた。

「どっち?」

「表。」

 意味もわからず反射的に答える。

 左手の甲に乗った十円玉をあいつが確認する。

「じゃあインフォメーションセンター<1>ね。」

「は?そんな適当な!もっと、細かい人の入りとか…」

「時間、ないんでしょ?」

 時計に目をやると、面会室使用終了予定まで残り1分弱を指していた。

「時間あってもどうせ同じだったくせに。」

 機械のように、ここのスタッフは怖いほど秒単位で時間ぴったりに来る。1秒の融通も利かないが、裏を返せば予定時刻1秒前までは誰にも邪魔される心配がないわけだから、まあメリットの方が大きいと考える。

「ねえ、明日茜と話してくれる?時間とか場所とか、地図奪取決行日の細かいことをきめなきゃ。」

「分かった、明日小田さんを名指しで面接室に呼んでもらう。」

「じゃ、茜に伝えておくから。」

「頼んだ。」

 あいつは軽く頷くと立ち上がりドアノブに手を掛けた。俺は理沙の後姿越しに、今まさに部屋をノックせんとするスタッフと扉のガラス越しに目が合った。面接終了予定時刻二秒前。


 地図奪取の計画と同時並行で、俺達はその先の「ここからの脱出方法」についても考えなくてはいけない。というか本来の目的はこっちで地図奪取はそのための布石なのだから、そこを履き違えると本末転倒になってしまう。俺は理沙とは違って石橋を叩いても渡らないタイプだから、考えなくてはいけないことがあいつの何倍もあるのだ。だから俺は今から地図奪取に成功したと仮定して、その先の行動についてシュミレーションをしてみる。まあシュミレーションなどしなくてもひとつ明白なことがある。それは今回の脱走のキーポイントはただ一つで、「どうインフォメーションセンター<2>を掻い潜るか」ということだ。全うに生きてきた俺にそんなこと分かるわけもない。蛇の道は蛇だ。

         

 現在時刻午後五時、インフォメーションセンター<1>内にて。

「あの、すみません。」

 たっぷりと時間をかけ、一番融通の利きそうな若いスタッフを品定めし下手に出ながら話かける。戦いの火蓋は切って落された。

「はい。」

「面接したいんですけど、レシピエント側の犯罪歴って開示してもらえるんでしたよね?」

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・プライバシーについて

当店では徹底した管理の下、お客様の個人情報は十年間保存いたします。但しドナーがレシピエントを選ぶ際に限り、必要最低限の情報(生年月日、性別等)は開示いたしますので予めご了承下さい。

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 初日にもらったビラにはこう書いてあった。この「ドナーがレシピエントを選ぶために必要最低限の情報」には「犯罪歴」も含まれるということが前回、面接室使用届を出した時に分かったのだ。

「はい、こちらで犯罪歴のない方をお選びいたしますが。」

「あ、いえ、そうではなくて…犯罪歴のある方のリストとかってないですかね?」

「はい?」

 明らかに怪訝な顔をしている。だがここで疑われるわけにはいかないのだ。

「そのっ、軽犯罪ぐらいならいいかなって…ほら、きっとそういう人たちって犯罪歴があるってだけで嫌煙されちゃって残高もらう機会ないんじゃないかと思って!少し可愛そうでしょ?例えば軽犯罪くらいなら更正する余地はまだまだあるでしょうし。」

 胡散臭いほどの笑顔を添えれば完璧だ。

「なるほど!お若いのに殊勝な心がけですね!少々お待ちください。」

 純真そうな彼女を騙すのは少し良心が痛んだが、持ち前の外面の良さ、ここで発揮せずにどこで発揮する!思った通り人の良さそうなスタッフは後ろのデスクに小走りに駆け寄ると、ずらりと並んだ本やらファイルやらを物色し、すぐに「持ち出し厳禁」と赤で書かれた分厚いファイルを持って戻ってきた。

「どうぞ、ここでのみの閲覧となりますが。」

「ありがとうございます。」

 その場でファイルを開くと、そこには名前、性別、年齢、そして最後に犯罪の名称が並んでいた。俺はその最後の欄だけを食い入るように見つめ、ただ無心で探す。

過失致死…名誉毀損…器物損壊…捕まる理由も人それぞれだな…いた。

「この人、面接お願いします。出来れば今日、今すぐにでも。」

 咄嗟のことに驚いた顔をされたが、こっちは一刻の猶予もないのだ。この人に会えば突破口が見つかるかも知れない。



「失礼します。」

「どうぞ。」

 なぜか気持ちが高ぶるのは犯罪者を目の前にするからだろうか、それとも脱走を計画しているからだろうか。さっきから腕の震えが止まらない。

鈴木俊夫(すずきとしお)、五十六歳。いやあ、まさか面接して頂けるとはねぇ。ありがとうございます!」

 こっちが拍子抜けするような高い声のトーンと頭を掻きながらふにゃっとした顔で笑う姿は、俺が予想した犯罪者の姿とはかけ離れていた。

「どうぞ、お座り下さい。」

「どうも、いやあ、生前あまりい生き方をしていなかったものですから、半ば諦めていたんですよ。」

よれよれの病院着の皺を伸ばすように座り直して姿勢を正す。

「あの、刑務所にはどれぐらい…?」

「あ、いいえ。刑務所には入らずに執行猶予で済みました。素直に罪を認めたのがよかったみたいです。」

 へへっと笑った瞬間、元の猫背に戻った。

「そうですか…あの、差し支えなければ、動機なんか聞かせてもらえませんか?」

「単純な理由です。金がなかったんですよ。会社でリストラにあってからなかなか定職につけなくて、生活保護を頼ろうかとも思ったんですけど、一応まだ健康で働ける体でしたから…。」

 そう言って首を横に振る。

 俺のまだ知らない世界、「社会」。

 このおじさんにしてみれば俺なんて純粋培養されたきのこみたいなものだろう。俺には乞食のコミュニティーも分からなければ、ロイヤルファミリーのコミュニティーも分からない。ただ中流家庭に生まれて公立の学校を卒業して、四年制大学の大学院で論文を書いているような、そんなやつらのコミュニティーしか理解できないんだ。歌舞伎俳優になる道も、中卒でトラック運転手になる道も、用意なんかされてなかった。何もそれが間違いだったとか、嫌だとかそういうんじゃない。ただ俺は、他の道があることすら知らないで盲目的に道を走って、他にもルートがあると知った頃にはもうレースは終わってて、ふとどうしようもない侘しさというか、虚しさがふつふつと湧いてきただけだ。「無知」こそ最大の悲劇なのか、「知らぬが仏」か俺には分からない。いや、「知らない」ということを自覚していることが大事なんだっけ、どこかの哲学者がそんなこと言っていた。

「その…聞かせて頂けませんか?詳しく、その時のこと。」

「その時って…空き巣に入ったときのことですかい…?」

 「空き巣」の部分で無意識に声が小さくなるあたり、意外と小心者なのかもしれない。

 そう、俺が素人頭ながらに考えた打開策それは「空き巣の犯人に話を聞く」という有益なのか無益なのか何とも判断しがたい方法だった。もう少し頭を使った方法もあったのかもしれない。小学生の総合学習ではないのだ。

「私はあまり大胆なこと出来るたまじゃないのでね。人がいないと確実に確認できた家に忍び込みました。才能があったのか、簡単にするするっと。あ、自慢できることじゃないですね。」

 目尻を下げて笑う。まるでお気に入りの酒の銘柄の話でもしているかのような良い笑顔である。話している内容と表情が全く一致しない、面白い人だ。

「下調べとかは…?」

「そりゃあ入念に。」

 息を潜める、とはまさにこういうことだと思った。

「私の場合はすごく単純でオーソドックスなやり方だったので。」

「オーソドックス、というと?」

 なるべく自然に聞こえる様に。

「ちょちょっと鍵を開けて、そこからはひたすら人目につかないように音を立てないようにって、慎重にいったんですよ。だから事前にその家の様子はよく伺ってましたね。」

「ちょちょって言っても、そんな簡単に扉の鍵は開かないでしょう?」

「まあ、でも物事、辿っていけば基本や性質は同じなのでね。器具を使えば一発ですよ。」

 そんじゃそこらの物理学者よりいいこと言う。

「それに今のご時勢、ネットでだいたいの道具は揃ってしまいますしね。怖い時代になりましたよ、本当に。」

 どの口が言うか!それに、ネットなんて現代の利器を使いこなせるようには到底見得ない。

「あ、今はこんななりしてますけど昔はコンピューター関係の仕事だったのでね、一応扱いは出来るんですよ。」

 こんなに人の機微を読むのに長けているのならば空き巣ではなく詐欺にでもしておけばよかったのに。いや、どちらかというと騙される側の人間か、そんな顔立ちだ。

「じゃあつまり、そういう道具さえあれば素人でも簡単に空き巣に入れるってわけですか。」

 一瞬、目が合った。決して大きいとは言えない一重の目が俺の目を捉えた。いや、俺の目が相手の目を捉えたのかもしれない。

「…ご興味がおありで?」

 さっきの「空き巣」と同じく、無意識に落とした声のトーンだった。

 鈴木さんが病院服の上から羽織っていた上着のポケットから取り出したのは、一本のドライバー。二人しかいないこの部屋をぐるっと一周見渡したかと思うと、彼はそれをことり、と机の上に置いた。

「さすがに都合良くピッキングの道具なんて持っていません。でもこれだけでも、こっちの世界に持ってきてよかった。」

「え!?何でこんなところに!?」

「ドライバーってのは1本持っていると何かと便利なんです。ずーっと肌身離さず持っていたもんだから、一種のお守りみたいになっちゃいましてねえ…ほら、サイズも小さくて持ち運びに便利でしょう?」

「いや、ほらって言われても…」

 確かに一見子どものおもちゃかと思うほどに小さいが、一般人が持ち歩く必要があるかと問われれば否だ。

「これ、差し上げます。」

「え!?」

 さっきから俺、「えっ」しか言っていないような気がする。でも仕方が無い。どう反応すべきかうろたえることしか出来ない俺に、彼はぺこりと一礼した。そして無意識のうちに「はい」と一言返事をしていたらしい俺に、彼は「それでは失礼いたします」と席を立った。部屋を出る間際にもう一度振り返る。

「あ、でも大切なことは道具ではありませんよ。態度です。私はこそこそしていたから捕まったんです。堂々と振る舞う方が得策だ。まるで「私はここにいて当然だが、何か?」と言った風に。いいですね。人は勢いに押されると弱いんです。私の失敗を活かしてくださいね。」

 そう言うと今度こそ部屋を出て行った。なんだか一人で盛り上がって自己完結されたような感じが否めないが、人の好意はありがたく受け取っておこうと思う。机の上にちょこんと残されたそれをに向かって、彼には言えなかった「ありがとうございます」を今更ながら呟く。

 それにしてもあの人には俺の腹のうちなんて全てお見通しだったのか、それともただの「棚からぼた餅」か。机の上に転がる小さなドライバーは実用的な道具というより、なんだか神聖な神器のように見えた。



 昨日理沙に言った通り、今日はあいつの代わりに小田さんに面接室に来てもらう。正直俺はどんな顔をすればいいのか分からなくて落ち着かなかったが、そんな俺にうだうだ悩む隙を与えず、彼女は時間ぴったりに面接室<6>のドアを開いた。

「失礼します。」

「どうぞ。あの…えっと何て言ったらいいか…」

「大丈夫です。理沙に全部聞きました。」

 その一言で大分俺の気は楽になった。こういう説明はあいつに任せるに限る。

「巻き込んですみません、小田さん。」

 そして相手に謝るのは俺の担当。

「いえ理沙の頼みですから。でも驚きましたよ、ここから脱走するだなんて。」

 この前見た時と印象は変わらなかったが、正直なところ彼女はどう思っているのだろう。彼女とてレシピエントとしてここにいるのだ、元の世界に帰りたくないはずがない。

「とりあえずこれ、理沙に頼まれたメモです。」

 そう言って小さな紙切れを差し出す。それを受け取り開いてみると、小さな地図が書いてある。いや、地図というにはあまりに緻密さに欠ける、子どもの落書きみたいな図だ。

「なんだこれ…。」

「ああ、理沙から伝言です。『死角みーっけ』だそうです。」

「はあ?なんですか、それ?」

 彼女は小さく笑うと「『秘密基地』だそうです」と言った。

 その地図が示していたのはどうやら、面接室スペースの入り口前らしい。確かに面接室は午前九時から午後九時までの利用なので、それ以前もしくは以降にはその周辺はめっきり人が減る。インフォメーションセンターと割かし離れていることも、人通りが少なくなる一因だろう。「秘密基地」と呼べるほどかと言われれば即答出来かねるが、それでも残り一度しか面接室を利用できない俺たちには、二人きりで話しさえ出来ればどんな場所でも有難い。

「地図奪取の決行日は明日。十三時にインフォメーションセンター正面のベンチ集合でいいかって言ってました。」

「十三時か…分かりました。」

「じゃあ理沙に伝えておきますね。」

 彼女は小さなメモに軽くペンを走らせた。そして視線はそのままにページを捲った。

「理沙が考えた当日の計画を話します。まず当日十三時、インフォメーションセンター正面ベンチ集合。そして二人でインフォメーションセンター<1>内に入る。理沙は左腕のレシピエント用リストバンドさえ隠せれば、人に紛れて簡単に入ることが出来ると思います。そして混雑していると予想されるインフォメーションセンター<1>内で、これまた人に紛れて関係者以外立ち入り禁止の事務所内に侵入。厳重な鍵つきの扉があるわけではありませんから、ここも人目にさえつかなければ容易に入れるでしょう。そして速やかに地図を探し出し、速やかにその場を去る。万が一、二人はぐれた場合はさっき言った秘密基地で落ち合う。以上。あ、今お話した計画は、インフォメーションセンター<1>が、インフォメーションセンター<2>と同じ作りであると仮定して立てられています。」

 なにが「計画」だ。こんなのただ「周囲の人に乗じて忍び込む」だけではないか。しかしこうなってくると鈴木さんの「とにかく堂々と振る舞え」というアドバイスの信憑性が増してくる。

「その点はご心配なく。俺も全く同じ作りだと考えています。それより、はぐれた場合に秘密基地集合って、昼は面接室前にスタッフが待機しているわけだから意味ないと思うんですけど。集合と同じくインフォメーションセンター正面のベンチにしようって伝えてもらえますか。」

 時間外ならば確かにあそこは人の目の死角になり得るが、午後真っ只中に面接室を利用するわけでもない男女がうろうろしていては逆に目立つ。それならばやはりインフォメーションセンター<1>正面で人の波に紛れたほうが良い。きっと理沙は秘密基地を見つけたことに喜んで、無理やり作戦内に組み込みたかっただけだ。あいつはたまにこういう小学生のような発想をすることがある。

「確かにそうですね。分かりました。」

 そう言って彼女は手元のメモ帳に書き込む。

「あ、一応これ写しますか?」

 そう言って書き込み終えたばかりのメモ帳を俺に差し出す。おそらく昨日小田さんも理沙と二人で作戦を練ってくれたのだろう。至極読みやすい字で、さきほどの計画と変更点が書き込まれている。

「あ、はい。すみません、お借りします。」

 彼女のものと一語一句同じように、俺は自分のメモに写した。静寂の中で俺のペンの音だけが響く。メモを写していて改めて感じたが、本当に何と大雑把な計画だろうか。我ながらため息が漏れそうになるのをぐっと堪えた。

「どうも、ありがとうございました。」

「いえ。」

 数分でその作業も終えると面接時間を半分以上残して、聞くべきことと言うべきことの全てが終わってしまった。何となく気まずい空気が流れる。

「あの小田さん今更ですけど…協力して下さってありがとうございます。でももし嫌だったらいいんですよ?本当にこんなこと…」

 目が合ってしまったため、特に話すこともなかったが世間話ぐらいはせねばという妙な責任感があった。

「いいえ、私が好きでやってるんです。あ、偽善じゃなくて、私には到底出来ないことだから応援したいんです。」

 髪をかき上げながら彼女は偽物みたいな微笑みを見せた。

「でもあなただってレシピエントだ。」

 「世間話」のはずが、地雷を踏んだ。例え上っ面だけになっても、穏便に済ませるべきことだってある。それが自分が何とかしてやれないことなら尚更だ。

「じゃあ私も一緒に連れて行ってくれます?」

 ほらな、俺は言葉に詰まることしか出来ないんだから。微笑を顔に貼り付けたまま彼女は、わざと可愛い子ぶるように首を傾げる。

「なんて、嘘ですよ。」

 俺の反応を見て満足するように、彼女は今度は本当に笑った。

「ただ私羨ましいんです、檜山さんと理沙が。私には離れていてもお互いどこかで繋がってるような、そんな存在いませんから。」

「そんな綺麗なもんじゃないですよ。」

 彼女は静かに首を振る。

「私ここに来てしまってそれはもとの生活に戻りたいとは思いますけど、じゃあ誰に真っ先に会いたいのか、まず何をしたいのかって言われたら正直何も出てこないんです。そう思ったら何かこのまま死んでも同じなんじゃないかとも思えてきて。あ、でも面接で言った『家族に会いたい』って言うのは事実ですよ?人並みの感情は持ってますから。二年つき合った彼氏もいたんですけどね、彼がいないと生きていけないかって言われるとそうでもない。きっと元々薄情なんです、私。」

「彼はもともと運命の人じゃなかったのかもしれない。」

 また俺は思ってもないことを。ふっと噴き出すように彼女はまた笑う。

「本当に可愛いくないって自分でも思いますけど、私運命の人なんて存在しないと思ってるんです。」

「何か意外ですね。」

 現代風美人の彼女のことだからきっと、毎朝占いをチェックしたり、おしゃれな雑誌の恋愛特集を愛読しているのではないかと勝手に推測していたのだ。

「友達が『この人は絶対私の運命の人!』とか言ってるの聞いちゃうと、白けちゃうんですよ。あなたこの地球の全人類と会って話したことあるの?って思っちゃうんです。だってそうでしょう?彼女の言う『運命の人』って、自分の生活範囲の中から自分に合う相手を見つけたってだけなんですもん。そんなものすごい狭い範囲に居るってことは、この広い世界見渡せばきっと何百人、何千人もいることになります。」

 まあ、ただの確立の話ですけど、と彼女は咄嗟に付け加えた。

「この世にそれじゃなきゃだめ、その人じゃなきゃだめなんてこと、一つだってないんですよ。」

 笑顔のままこんな言葉を吐く。全く、惚れそうだ。

「あ、檜山さんと理沙の関係を否定するわけじゃないですよ!本当に羨ましいんですから!」

「わ、分かってます、大丈夫です!」

 初対面で俺が思ったよりずっと、この人は面白くて魅力的な人だった。

「生前友達が少なかった理由ばれちゃいましたね。」

「あなたと理沙が仲良くなった理由が分かりました。」

 小田さんとの距離がずっと近くなったようだった。まあもちろん真ん中には理沙がいるけれど

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