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俺が「生命バンク」に来てから、することもなく二日が過ぎた。その間にわかったことがある。まず、この世界には現実世界でいう人間の三大欲がないということ。性欲はおろか、眠くもならないし腹も減らない。それからたぶんだけど、肉体的な疲れもない。まあ、元の世界から持ち越してしまった疲れは依然そのままだが。そういうわけでここに来てからの二日間、俺は起きっぱなしだった。
する事と言えば専ら「人間観察」。大抵することのないドナーたちは三階の「待合室」で、思い思いの時間を過ごしているようだった。しかし俺は三階には戻らず人の多い二階の中でも特に人口密度の高い、インフォメーションセンター正面のベンチに陣取っていた。しかし人との交流があるわけでもなく、会話といえばぶつかった時に「すいません」と言うぐらいだ。俺みたいにレシピエントの選び方で三番を選択する人は少ないみたいで、多くの人はふと現れてはすぐに消えていく。そんな流動的な光景を俺は飽きることもなくひたすらに眺めていた。
「あの、すみません。ドナー希望はどっちに並べばいいのか教えてもらえますか?」
突然の声の主を見遣ると、俺の座るベンチの横に一人の少年が立っていた。
「え?ドナー?レシピエントじゃなくて?」
「はい、ドナーの方です。」
この階は唯一レシピエントとドナーが混在する場所で、子供も多く見受けられる。もちろん皆レシピエントの列に並んでいく。
「君、ドナーとレシピエントの意味分かってるの?」
「ドナーが『あげる人』で、レシピエントが『もらう人』ですよね?」
「まあそうだけど…。」
「何か…?」
黒い短髪に男にしては大きく、くりんとした瞳。身長は…一五〇もないってとこか?なかなか賢そうな顔つきでいわゆる学級委員タイプ…って、どうみても小坊じゃねぇか。
「あ、いや…君、年は?」
その少年は怪訝そうな顔をしたがすぐに元のすまし顔に戻って、
「十歳です。あ、でも生きていたら十一歳かな。」
と答えた。
「ドナーってことはつまり…」
何が言いたいのかと言わんばかりに、少年は首を傾げてその大きな瞳で俺を見る。
「…自殺図ってこっちきたのかな?」
座っている自分と目線が同じほどの小柄な子どもにこんなこと、言いづらいことこの上ない。
「そうゆうことになりますね。」
少年は否定してほしいという俺の願望をしれっと踏み潰す。
「世も末だなぁ。」
また俺の悪い癖で、思ったことが口から出てしまう。
「そうですか?他にもいると思いますけど。」
きょろきょろと辺りを見回すが少年の予想とは裏腹に、ドナー側に並ぶローティーンは彼以外にはいないようだった。
「十歳ってことは…小五か?」
「はい。」
俺が小五の時、「世も末」なんて言葉知ってたか?それに「ドナー」と「レシピエント」も。喋る口調からしても大人びた子供だ。
「そうか…。」
ふと俯いて視線を逸らす。自分から話しかけておきながら言葉に詰まってしまったのだ。でも仕方がないだろう、自殺する小学生なんてテレビの向こう側にしかいないと思っていたのだから。
「お兄さんは?」
「へ?」
「おいくつですか。」
「ああ…俺は二十三。」
「じゃあ社会人だ。」
「いや、院生。」
いつの間にか俺の隣に座り、足をぶらぶらさせて少年は微笑む。その姿を見て初めて、子供らしいと感じた。
「やっぱり大人は大変なんですか?ストレスとか溜まりそう。」
「そりゃあな。小坊には分かるまい。」
年上ぶって多少そっくり返ってみる。
「そうでもないですよ。」
その声の低さに驚いて顔を覗いてみると、チラッと垣間見えたはずの子供らしさは跡形もなく消えていた。
「な、なんで自殺なんかしたんだ?」
間を持たせるための質問としてどうかとは思うが、同じドナー同士、今更気にすることもあるまい。
「僕…妹がいるんです。」
右手で前髪を払ったのを合図にしたように、唐突に少年はしゅんと肩を落として一度消えたあどけない表情を見せた。
「言いたくないなら別に言わなくてもいいんだぞ?」
大人として子供を泣かせるようなことがあってはばつが悪い。
「いいんです。誰かに言えば少し気が晴れるかもしれませんし…。」
体格差の都合上、少年は上目遣いでこちらを見上げている。十歳の子供にそんな顔で見られては、こちらとしては堪らない。
「二つ違いでそりゃ喧嘩もよくしてたけど、たった一人の大事な妹だったんです。なのに…」
少年は涙を堪える様にきゅっと口を結び、
「病気になっちゃって。」
そう言うと悲しく笑った。
「ある時僕、お医者さんとお母さんが話すのを聞いたんです。ゾーキイショクすれば妹は助かるって。でもイショクは順番待ちが多いし、運よく順番が回ってきてもテキゴウするかどうか分からない。テキゴウシャが現れるまで妹の命はもつかどうか…」
膝の上に乗せた拳に静かに力が入っていくのが見て取れた。
「でも僕、諦めきれなくて自分で調べてみたんです。そしたら分かったんです。最もテキゴウする可能性が高いのは兄弟だって…僕のお父さんお母さんなら分かってくれると思ったんです!だから手紙に思いを託して…僕は…僕はっ…」
「ばかやろう!そんなことして妹や両親が喜ぶとでも思ったのか!?」
自分でも思いがけず大きな声が出てしまったが、小坊の考えることじゃねぇ。
少年は一瞬びくっとして顔を上げたが、俺がやっちまったって顔をしていたのだろうか、俺の顔に視点を合わせたまま徐々にその表情が変わっていく。
「だって…くっ…うっ…」
あー、ついに決壊させてしまった。その大きな瞳からぽろぽろと涙が落ちる。
「わ、悪かったよ。君も辛かったよな…」
対処の方法が分からず、とりあえず俯いた頭に手を伸ばそうとしたその時、
「うっ…ふ…ふははは。」
?
顔を上げた少年の目からはまだ涙が溢れていて、少年は目尻を手で拭いながら呼吸を整えていた。
「ははっ嘘に決まってるじゃないですか。そんなドラマみたいな話。」
ぽかんとしている俺が可笑しくて仕方がないというように、少年は笑う。
「嘘?最初から全部!?」
「ええ、そうですよ。だいたい臓器提供の意思表示は十五歳以上じゃないと有効じゃないですしね。」
唖然として言葉も出ない。そんな俺を気遣うこともなく少年は爆笑中。こんな一回り以上も年の離れた子供にからかわれたのだから恥ずかしさだって尋常じゃない。
「お兄さん、生前騙され易いって言われていたでしょう?」
目元に残りる水滴はさっきまで演技で流していた涙だろうが、今や笑いすぎて出た涙にしかみえない。俺は未だ唖然と羞恥から脱せず、この子の会話についていけない。
「ごめんね、お兄さん。不覚にもこんな世界に来ちゃいましたけど、来たからには少し遊んでいこうかと。」
「ったく、それにしたってたいそうな演技力だな。」
恥ずかしさを紛らわすためにも、話をすり替えよう。騙された俺が悪いんじゃない、この少年の演技力がいけないんだ。
「そうですか?子供は皆こんなもんでしょ?普段から『子供』を演じなきゃいけないんだから。」
意味深な言葉を真顔で吐く。
「子供を『演じる』って…そんなたいそうなことじゃないだろうよ。」
この少年がしれっと吐く言葉の根底に、俺は嫌でも厭世観を感じずにはいられなかった。それを払拭したくて冗談っぽく笑ってみせたが、何かが少しずつ蝕んでいくように、俺らの周りの空気がその重みで沈んでいくような錯覚を覚える。
「子供は難しいことは分かんないふりして、笑顔振りまいて大人の考える『子供』を演じるんですよ。」
「なんで。」
「それが子供の役目だから。」
ほら、またしれっと。
近頃の子供は皆こんなのなのか?それこそ世も末だぞ。どう反応していいか分かりかねていたのがばれたのか、あ、そうそう、と少年が口を開く。
「あっちにいた頃の僕のあだ名、教えてあげます。」
そう言うと少年はまた上目遣いで、しかし今度は確実にずる賢さを含んで俺を見上げた。
「二重人格。」
にたっと笑うその顔がなんとも子供らしいのがまた皮肉で。
かわいくねぇガキ。
「それで?二重人格くんは本当になんで自殺なんかしたのかな?」
ここにきてまで少し大人ぶったのは俺の意地だ。でももう配慮なんてしてやんねぇ。
「ぼんやりした不安。」
「お前はどこの作家だ!」
俺、試されてないか!?
「別に…他愛もないことですよ。」
ふっと無邪気さが消えた。また演技かと思うほどの豹変ぶりだった。それでも言葉じゃ勝てる気のしない俺は黙って構えてただ次の言葉を待つ。
「いい子ちゃんは疲れるんですよ。わかるでしょ?」
横目で顔を見遣ると涙を流す幼い子供も、大人をからかう悪ガキも、もうそこにはいなかった。初めて見た印象通りの、賢そうな大人びた少年だった。
「僕、昔から真面目だって言われて学級委員とかしてたんですけど、あの役いいことなんて一つもないですよね。真面目のレッテルはどんどん固定するし、先生から好かれるほど皆には嫌われるし。おまけに親には変な優越感と期待を与えちゃう。」
「最初はね、そんなくだらないことだったんですよ。学校に行かなくなってからかなぁ。なんか面倒臭くなりました。」
「面倒臭いね…分かるな。」
「あれ?意外だな。また、『ばかやろう!』って言われるのかと思いましたよ。」
「生憎俺も自殺した身なんでね。」
あ、そうでした、と小さく呟いて口元に笑みを浮かべる。
「そこに至るまでは人それぞれ違えども、自殺する理由ってのは結局その一言に集約されんだよ。あ、集約って言葉分かるか?」
ばかにするなといった目でこちらを睨みつつも黙りこんでいる。何か思うところでもあったのか。それともやっぱりまだ「集約」は分からなかったか。
「伊達に僕より年取ってませんね。」
「まあな。」
ここにきて初めて年上らしく振舞えた気がする。ここでちょっと勝った気分になっている時点で、この少年よりも大人げないのでは?とまで頭が回ったのはもう少し後のこと。
「じゃぁ、僕そろそろ行きますね。」
「行くあてなんかあるのか。」
すでに腰を上げていた少年は少し首を傾けて、天井を仰いだ。
「んー、そうですね…お兄さんにしたのと同じことをもう何人かにしてみます。人がどう反応するのか見てみたいので。」
憎たらしい本性はもう隠す気がないらしい。
「ほどほどにしておけよ、少年。」
そう言ってベンチにそっくり返ったまま軽く右手を上げると、少年はべぇっと舌を出して何も言わずに人ごみに消えていった。
まったく、とんだガキだったぜ…。
でも本気で怒る気も諌める気も起きなかった。あっちの世界で十分優等生やってきたんだ。たぶん冗談で人をからかったりするキャラじゃなかったんだろう。あ、キャラってのは決して自分の個性のことではなくて、周りの他人から貼られるレッテルの方。ここにいる時ぐらい素でいてもいいんじゃないか。こう甘いから俺は小坊なんかに騙されたりするのだろうか?
あ、そうだ、思い出した。あいつ、俺だ。
小さい頃、俺も確かに大人のために子供を演じていると考えていた。正当な理由があって泣いても飴を与えられて終わり。両親の話に首を突っ込めば早く寝なさいで終わり。そして自分は絶対に、子供にそんなことを強要する大人にはならないと思っていた。しかし社会は本当に上手く出来ている。あんなに反逆を誓った子供を、徐々に社会の和にすんなりあてはまる大人にしてしまうのだから。そして気づけばビール片手にあのころは俺も子供だったよなーと遠い目をする、一番軽蔑していた大人に自分がなっているのだ。
おとぎ話もサンタクロースも、どうせ後になって作り物でしたと自分たちが種あかしをするのに、どうしてわざわざ子供に信じさせようとするのか?信じない子供を「子供らしくない」「夢がない」と批判するのだろうか。答えが分かった。
一度夢を砕き、絶望を味わわせるためだ。
この世には無償でプレゼントをくれる親切な太ったおじさんも、空飛ぶ魔法の粉をくれるかわいい妖精も、子供にしか見えない巨大な狸も存在しない。よって、大きくなったらそれらになることも不可能。そう知った時人は人生で最初の、最大の挫折を味わうことになる。その挫折が大きければ大きいほど、人は現実に幻滅する。そうすることで現実社会に対する理想の地平は低くなる。すると彼らは地に足着けて、規範に忠実に生きる人間になるわけだ。なるべく大きい挫折と絶望を味わわせるためには夢は強く、より強く信じてもらったほうが良い。だからあんなに必死に大人は毎晩毎晩子供に童話を読み聞かせ、戦隊もののヒーローの被り物の下で汗だくになるのか、ようやく理解した。これをテーマに論文がひとつ書けそうだ。
長年の疑問を解いてくれた少年が去っていった方に目を遣ったが、当然のことながら彼の姿は影すらも、跡形もなく消えていた。
何となしに過ごしてきた二日間だったが、三日目になってようやく、俺はあと十一日間で、自分の「スイテイジュミョウザンダカ」である五十八年をあげる相手を決めなくてはならない、ということを思い出した。
「面接室とやらを使ってみますかね…。」
そう思い立ち、近くにいたスタッフを呼び止めた。レシピエント一人につきスタッフ一人なんじゃないかと思うぐらい、本当にいたるところにいるのだ。
眼鏡で細身の彼の言う通り、インフォメーションセンター<1>に行き「面接室使用届」を書いた。名前と残高を書いてっと…「希望する人数」は、最初だしとりあえず三人ぐらいか?まあいいや、お任せしますっと…「希望する性別」?…特になし…「希望する年齢」?…特になし…備考欄…特になし…っと、出来た。
用紙を受付に提出してソファで待っていると五分も経たないうちに俺の番号が呼ばれた。
「檜山様、面接室<12>をお取りしましたので、そちらご利用ください。あ、面接室へはそちらからどうぞ。」
「あ、ありがとうございます。」
言われるがままインフォメーションセンター<1>を出て直進すると、頭上に「面接室」と書かれたプレートがぶら下がっていた。それをまじまじと見る暇もなく、その真下の長机と椅子に常時待機しているらしいスタッフに声を掛けられた。
「お客様、お部屋番号は何番でしょうか?」
「十二番です…。」
そのスタッフは持っていたバインダーの紙をぺらぺら捲り出した。
「檜山様ですね。本日面接予定のレシピエント候補は三名です。それではこのまま真っ直ぐお進みください。左手にございます。」
さきほどのプレートが下がっていたところが「面接室スペース」の入り口で、中はいくつもの小部屋が集合したスペースになっているようだ。一直線の廊下の左右に等間隔に同じ部屋が並んでいる。高校の音楽室にあった練習室みたいだ。まあ、アップライトピアノはないけど。十二番に着くまでに何人かとすれ違った。それにしても盛況だな生命バンク…。
部屋の中はいたって普通だった。扉に小さい窓が付いていて中を窺うことが出来、そこを開けると白い壁にシンプルなというか、必要最低限な机と一つと椅子二つが並べられていた。室内の清潔で明るい感じを除けば、刑事ドラマでよく見る取調室のようにも見えた。
とりあえず二十秒もかからず部屋の中をぐるりと一周しパイプ椅子に座る。ドナー候補者が来るのを待っているとなぜだかこっちが緊張してくる。質問でも考えとくか…と思った矢先にノック音。
「は、はい、どうぞ。」
少し声が震えた。