第6話 絶望の中で、火は生まれる
どうやって家に帰ってきたのか、俺も母さんも覚えていない。
ただ頭の中には突然明らかになった自分のタイムリミットが渦巻き続けて、気付けばリビングで無力に座っていた。
「…………」
何も言葉にならない。ただ無性に身体へと力が入る。
どうして俺ばかりがこんな目に遭うのだろう、だなんて悲劇のヒロインみたいな言葉が脳をよぎって、他人事かのように渇いた笑いが漏れて。
「はは……母さん、俺、どうすればいいのかな」
「きょ、恭ちゃん……」
ああ、母さんには幸せになって欲しいのに。
何でだろうな上手く笑えなくて。
「死ぬって分かったらさ、何もかもが灰色に見えるようになって。怖さよりも、残った時間をどう使うかよりもさ」
こんな時だっていうのに自分のことよりも、家族やベルを傷付けてしまうのが堪らなく嫌だって思ってしまうんだ。
こんなことになるのなら出会わなければ良かったと深く後悔してしまうほどに。
「どうして、どうして恭ちゃんはいつも……」
母さんの言葉を遮るように、部屋へと明るいインターホンが響き渡る。
ああ、そうだ。ベルと約束をしていたんだ。
一緒に買い物に行って、ハンバーグを作ってあげると。
「でも、あいつにこんなこと言えるかよ……」
今日だって沢山心配を掛けてしまった。
これ以上、彼女を不安になんてさせたくない。
そう考えていた俺を見て、母さんは袖で涙を拭い去ってから立ち上がり、強く足音を立てながら廊下へと突き進んだ。
ガチャリと玄関が開く音を聞いた瞬間、ようやくその行動の真意に気付いた俺は慌てて後を追いかけて。
「やあ、約束通り買い物に——って、真菜さん?」
呆然として動くのが遅れた俺が止める暇もなく。
「——恭ちゃんの寿命のことで、話があります」
母さんは決意の籠もった瞳でベルへとそう告げたのだった。
寿命とまで言われてしまったら、察しのいい彼女に取り繕うことは出来なくて。
それからまた数分後、一人増えたリビングは暗い雰囲気へと包まれていた。
「それは本当のことなのか? 恭也の寿命が残り1年だなんて、そんなことあり得るのか……?」
「ああ。ずっと通院してきたけど、病状の進行が一気に悪化した……らしい」
幼い頃から病弱で何度も入院しては退院を繰り返してきた。
悪化する可能性はコンマよりも遥かに下、よりにもよってそんな悪運を引き当ててしまわなくてもいいだろうに。
「だからさ、もう……いいからさ」
彼女には幸せでいて欲しいから、終わりの近い自分なんかと一緒にいるよりも、もっと幸せで楽しい時間を——
「——ふざけるな、私がお前から離れるとでも思ってるのか!」
鈍ったマイナス思考を打ち砕くように、ベルはテーブルを両手で叩く。
ハッとしてその顔を見上げれば、彼女はその頬に一筋の光を零していて。
「恭也が死ぬ? そんなの知ったことか、私には関係ない」
「関係ないって、んな訳ないだろうが。俺と一緒にいる時間が増えれば増える程に、別れがもっと辛くなるのが分かるだろ。だったらもうこれ以上は」
「何と言われても嫌だ。嫌だ、嫌だ、嫌に決まっている!」
椅子を倒す程に勢いよく立ち上がった幼馴染は、これまで見たことがないような悲しい表情でこちらに詰め寄った。
そしてそのままキスをするかのように顔を近付けて、吐息が口元へと触れる。
「一緒にいるのは私がそうしたいからだ。お前の傍にいることが楽しくて、幸せで、他のどんなことよりも大切な時間だからだ」
そう告げてから、彼女は泣きながら笑みを浮かべた。
とても綺麗で、だけどぎこちなくて、怒りも悲しみも嬉しさも何もかもが混ざった感情を網膜に乗せて。
「忘れるなよ、恭也。私はいつだって自分勝手なんだ、お前が死ぬと聞いたらもう我慢なんてしていられない。これ以上の後悔などする訳にはいけない」
「そんなの俺だって……でもどうにもならないじゃないか。もう俺は死ぬんだ、今更何を頑張ったって……」
「後がないから頑張れるのさ。結局努力なんてものは叶うか分からないもの、その着地点が見えるだけで人は頑張れる生き物なんだよ」
だからと言葉を区切った彼女は俺の身体へと腕を回して、その豊かな膨らみを押し付けるように抱き締めてくる。
普段ならドギマギとしていたかもしれないが、今はその温かさが離れがたくなってしまうくらい安心してしまう。
離れなければいけないと分かっているのに。
「だから、私は決意するよ。もう止まらない。その証として——」
ベルの力が強まって、その吐息が近付いて。
その柔らかな唇がこちらの口へと押し付けられて、熱い感情が流れ込んできた。
「んんっ!?」
「ちゅっ、んはぁ……好きだよ、恭也。私はずっと前から君のことが、幼馴染である以上に」
その行動が、言葉が理解できない。
彼女の好意に気付いていなかった訳じゃない、だがすぐに死ぬような人間に告白なんて正気の沙汰でないじゃないか。
だが離された彼女の唇は、未だすぐ傍で言葉を紡ぐ。
「だから恭也、君も覚悟を決めろ」
そんなこと言われても簡単に覚悟などできるはずがない。
俺は言い訳をつらつらと並べることができても、彼女と過ごすことだけに満足してしまう臆病な人間なんだよ。
それでも彼女は笑う、不器用に。
「ゴールは目前。だがそこに何があるかを決められるのは、他の誰でもない君だけだ」
そしてその言葉は。
「もう何も恭也を縛るものはない。だから教えてくれ、君はどう生きたい? 私の大好きな人よ」
この薄く陰った心に、小さな火を灯した。
「俺は、俺は……」
このまま死ぬのか。
病気に苦しんで、地味に日々を過ごして。
物語の主人公みたいな人たちに憧れの気持ちを抱いては、自分では駄目だと諦めて、何も出来ないまま死ぬのか。
「そんなの、俺だって……」
病弱だからこそ、迷惑を掛けぬようにと人との関わりをなるべく少なくしてきた。
そんな自分を本当に変えられるのか、その不安がどうしても消えなくて。
でも俺には、まだ背中を押してくれる人がいた。
「お母さんも、もっと頑張るわ! 恭ちゃんが自分のことに集中できるように、家事だって絶対に覚えてみせるから。それに毎日沢山、恭ちゃんを幸せにしてみせるからっ」
赤く腫らした目を細めながら胸元でグッと拳を握って、ベルと同じように宣言をする。
自分をずっと大切にしてくれた、だからもう充分に幸せなのにまだ足りないと言うのだろうか。
「今日から家事を練習して、恭ちゃんが安心できるように上手くなってみせるわ」
「なら私もやります、真菜さん。二人で恭也をあっとお届かせましょう」
二人は心を一つにして、俺の顔を覗き込む。
ああ、全く。外堀を埋められてしまった。
ここまでされて、覚悟を決めないなんて男じゃない。
いや、男なんていう不必要なプライドなんてどうでもいいんだ。
ただ自分を愛してくれる人に、最後くらいは恩返しがしたいから。
「俺も……後悔したくない。本当はずっと、物語の主人公になりたかった。クラスの中心で友達に囲まれて、悪いやつにはビシッと注意をできるようなヒーローになりたかったんだッ」
他人が心底羨ましかった、でも自分にはないものだと諦めてた。
でも死んだら意味なんてなくて、そこで終わり。
やりたいやりたいと独り言ちていた孝行だって一つもできずに、ただ惨めに死んでしまう。
そんなのはまっぴらごめんだ。
「やってやる……もう、後悔も諦めもしない。変わってやる」
一人じゃ変わる勇気なんてないけれど、母さんやベルと一緒なら何だってできる。
「やりたいことをやって、誰よりも満足して死んでやる……!」
そんな覚悟が、目標が生まれた。
三途の川はすぐそこに。背水の陣とばかりに俺の中の全てが変わっていくのが分かる。
もう誰にも遠慮なんてしてやるものか、俺は俺がやりたいと思うことを全力でやってやるさ。
「だから、ベル——」
まず手始めに誰よりも愛おしい幼馴染への返答をしよう。
誰よりも身勝手で傲慢で馬鹿らしく、そして情けない想いを。
「——好きだ。俺が死ぬまで、傍にいてくれ」
そんな言葉だというのに、彼女は。
「ああ、無論だとも。例え振られていたとしても、恭也の傍から離れる気は毛頭ないよ。それが私の在り方だからね」
そう告げて、嬉しそうに微笑むのだった。
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