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エドモンド・マクファーソンという男。
裕福な家庭の次男にして末っ子として生まれた彼は、年の離れた兄と四人の姉に囲まれ、家族から可愛がられて育った。
尊敬する兄を真似て大人びたすまし顔は得意だが、実際のところは末っ子特有の甘えん坊なのだ。
そんな末っ子が可愛い兄は、恒例の名ばかりの相談を生暖かい眼差しで聞いていた。
「彼女、職場に忘れ物を持ってきたんですよ」
「それは良かったな」
「良くなんかありませんよ。もしも何かあったらどうするんですか!」
エドモンドは感情を露わにして憤る。
その様子が決して珍しいものでないことを知るのは、この生家の住人くらいだ。
「それに、馬車を下りたときに人に話しかけられたというんです」
「大したことではないだろう」
「けれど、万が一危険な人物だったら大変です。できれば出かけるときは俺が一緒の時にしてほしいです」
エドモンドの兄は一回り以上年の離れた弟のことを可愛がっている。
だからこんな毎度同じ内容の話にも付き合ってあげていた。
しかし、可愛い弟といえどもう二十歳の立派な男だ。
そろそろ男としての甲斐性も教えてやらなければと、エドモンドの兄は決意した。
わざとらしく抑揚をつけた声でため息を吐いて見せる。
「そうか、彼女はおまえを困らせているんだな。なら、この結婚は間違いだったかもしれないな」
「え?」
「そうとなれば、結婚をまとめた私の責任だ。よし、責任もって離縁させることにしよう!」
兄のその言葉に、エドモンドは分かりやすいくらいに狼狽える。
テーブルに戻したカップがガチャガチャと音を立て、中身は零れそうなほど揺れた。
「べ、別にそれほど困っているわけではありません。それに、離縁などしたら彼女の経歴に傷がついてしまいます」
その言葉を聞いて、兄は大げさなくらい肩をすくめてみせる。
「なら、このまま結婚生活を続けても問題ないな?」
「もちろんです」
即答する弟の言葉に、兄は吹き出しそうになる口元を手で隠した。
「せっかくの縁は長く続いた方が良い。おまえが妻に迎えると名乗り出てくれたんだからな」
兄がそう言うと、エドモンドはカップをもう一度持ち上げて一気に飲み干した。
再びカップをテーブルの上に戻すと、帰りますと呟いて席を立つ。
「エド」
玄関を出ようとした時、エドモンドの兄は弟を呼んだ。
家の中とは違う、外用のすました表情が振り返る。
「言葉にしないと伝わらないぞ。思っているだけでは叶わないことを、知っているだろう」
兄の言葉にエドモンドはすました顔を少しだけ苦々しそうに歪めた。
何か言いたそうにしながらも、その表情を複雑に変えるだけで、ややあって静かに頭を下げた。
「……分かっています。失礼します」
そう短く答えて、自分の家へと帰っていく弟を兄は見送った。
自宅へ着いたエドモンドは、コートを脱いでいる時にセシリアから声をかけられた。
「あの、食事の後に少しお時間を頂いてもよろしいでしょうか?」
「え?」
その言葉に、エドモンドは思わず手を止めて振り返る。
しばらく沈黙が落ち、眉間にしわを寄せながらようやく絞り出した声は強張っていた。
「何かあったのですか……?」
「いえ……ただ、私達はあまり話をしていなかったと思って……」
眉を顰めるエドモンドに、セシリアは少し不思議そうにしながらそう言う。
しかし、エドモンドの様子はますます強張った。
「何がいけませんでしたか……?」
「え……?」
「この間のことですか? 謝罪が足りなかったのであれば、何度だって謝ります……っ」
エドモンドの表情が徐々に焦った様子に変わっていく。
そんな様子にセシリアは驚きながらも、謝罪されることが思いつかなかった。
「何のことでしょうか……? 私はただ、お話をしたかっただけで……」
「あなたから話をしたいと言ったことなど、これまでなかったじゃないですか! もしかして、兄はすでにあなたに離縁のことを持ち出していたんですか!?」
「離縁……っ?」
エドモンドの口から飛び出してきた離縁という言葉に、セシリアもまた驚いた。
けれど、その後に続いたエドモンドの言葉はセシリアにとって意外なものだった。
「俺は絶対に認めません! 俺は確かにあなたより年下で、男として頼りないことは分かっています。けど、あの時からずっとあなたに会いたくて、やっと夢が叶ったのにっ……」
「あの時……? あの、あの時とは……?」
エドモンドの言ったあの時という言葉に、セシリアは思わず首を傾げる。
話がかみ合っていないことを感じながらも、エドモンドの言うあの時が指すのはいつだろうかと、セシリアは尋ねた。
すると、エドモンドは高ぶっていた感情が急に萎んだように俯き、声音を落として呟いた。
「子供の頃、一度会ったではないですか……。兄の結婚式の時に。言葉は交わしませんでしたが、目が合って笑ってくれたじゃないですか……」
その言葉を聞いて、セシリアは遥か昔の記憶を辿った。
そういえば、と思い出す。
もう十年以上も前に、父の仕事の得意先ということで、エドモンドの兄の結婚式に出席したことを。
その時に、新郎の側に幼い男の子がいた。
緊張と好奇心でそわそわしていた様子のその子供が可愛らしくて、目が合って笑いかけたことを。
エドモンドの兄の顔は覚えていたので自身の結婚の際にも挨拶はしたが、誰もその時の男の子がエドモンドだったなんて言わなかった。
セシリアは目の前の夫を見上げてみたが、あの時の男の子の面影なんてどこにも残っていないくらい、背が高く凛々しい青年だ。
「そんな昔のことを覚えていたのですか……?」
「……忘れられるわけないじゃないですか」
セシリアもまだ子供だったが、エドモンドはもっと幼かったはずだ。
そんな幼いころのことを覚えていたことに驚くセシリアに、エドモンドの消え入りそうな声が届く。
「あの頃からずっと好きだったんです……初恋だったんです……」
ほんの一瞬。
目が合って微笑んだだけのこと。
けれど、賑やかだった姉たちとも違う、同年代の子供達には到底持ち合わせていない落ち着いた仕草。
そして少女から女性に変わる年頃の雰囲気に、エドモンドは一瞬で恋に落ちた。
「あなたの前の婚約が破棄になったと聞いて、すぐに名乗り出ました……。兄に協力して貰って、あなたのお父上に何度も頼み込んで……」
エドモンドは自分の手で顔を覆ったが、そこから覗く耳まで真っ赤だった。
夫のそんな様子を見て、セシリアも伝染するように頬を赤らめた。
「こんなはずじゃなかったのに……。……愛想を尽かしてしまいましたか……?」
弱々しいエドモンドの言葉にセシリアは動揺した。
「どうしてですか……?」
「こんな、みっともないところを見せてしまいましたから……。ただでさえ年下で頼りないだろうに……」
エドモンドは綺麗にまとめられていた金色の髪を手でかき回して項垂れた。
普段は隙がないくらいに整えられている髪が額にかかり、その合間から覗く眉が自信なさげに垂れ下がっている。
それを見て、セシリアは目を瞬かせた。
いつも真っ直ぐに背を伸ばして、落ち着いている夫だと思っていた。
あまりに表情を変えなくて、何を考えているのか分からないくらいに。
けれど、こんなにも感情の溢れる人だったのか。
乱れた髪に覆われた頬が赤みを帯びているのを見て、セシリアの胸の内がくすぐったくなった。
「愛想をつかしたりなんてしません」
セシリアの言葉に、エドモンドがぱっと顔を上げる。
その表情は年相応で、セシリアの胸の内がますます温かくなった。
セシリアが自分の方が年上であることに悩んでいたように、夫もまた年下であることを気にしていたとは思わなかった。
「本当ですか……?」
「はい。あなたは私のことを大切にしてくださり、感謝しています」
「……子供っぽいとか思っていませんか?」
エドモンドの声はとても自信なさげに沈んでいた。
けれど、普段の彼は年よりもしっかりしていて、子供っぽいという印象はなかった。
エドモンドの兄が聞けば笑いそうなことだが。
だがセシリアはエドモンドの兄とあまり話をしたことはない。
セシリアの前でのエドモンドは、堂々としてしっかりした夫だった。
「思っていません。けれど、言いたいことは仰ってください。話をしないと分かりませんから」
もっと早く、エドモンドが好意を告げていればセシリアが悩む必要などなかっただろうに。
けれど、それはきっとセシリアも同じで、推測などしないでもっと思っていることを言えば良かったのだ。
セシリアの父が言った通り、二人には話をすることが必要だった。
まっすぐに微笑みを向けるセシリアに、エドモンドはゆっくりと近づくと静かに抱き寄せた。
細い肩に顔を埋めて抱きしめる。
「エドと、呼んでください……」
「エド……?」
「もっと……。もっと呼んでください」
身内だけの親しい呼び方に、エドモンドが嬉しそうにする。
その様子ににセシリアはくすりと笑みを零した。
決してエドモンドがおかしいのではなく、何てくすぐったくも幸せな瞬間なのだろうと思ったのだ。
だから、エドと何度も繰り返した。
「セシリア。愛しています」
すると耳元で、エドモンドがセシリアの名を口にした。
夫からのその言葉に、セシリアは嬉しくて微笑んだ。
その後ろで使用人の二人が主人の意外な姿に唖然としながら、幸せそうな様子に喜んでいることに気づくのは、少し後のことだった――。
精一杯大人ぶった年下の男性の箍が外れる姿が書きたかったです。
その内エドモンド視点の話も載せたいです。
誤字の報告も本当にありがとうございました。