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初恋の横顔  作者: 細井雪
初恋の横顔
2/6





 テーブルの上に財布があることに気づいたのは、部屋の掃除をしようとした時だった。

 朝にエドモンドがここで鞄を開いていたので、その時に出したまま忘れたのだろうか。


「ないと困るんじゃないかしら……」


 エドモンドが出てから大分時間がたっており、急いでももう追いつかないだろう。

 セシリアは少し考えて、外出用のコートと帽子を取り出した。


「奥様、どうなさいましたか?」

「財布を忘れているようなので届けてくるわ」

「ではご一緒いたします」


 セシリアは小間使いの少女と一緒に家を出ると、途中で辻馬車に乗ってエドモンドの仕事場へと向かった。

 エドモンドが働く場所は家からほど近い距離にあるが、来たのは初めてだった。

 入り口で取次ぎを頼み、小間使いと一緒に待つ。


 ここが夫の働く場所なのだと思いながら、少し緊張しながら周囲の様子を見ていたとき、すぐにエドモンドがやってきた。

 だが、セシリアを見たエドモンドの表情は、まるで死人に出会ったかのように目を見開いて真っ青だった。

 どうしたのだろう、そんな風に思っている内に、エドモンドは速足で近づいてきてセシリアの手をつかんだ。


「何でこんなところにいるんですかっ?」


 初めて聞いた夫の大声に、セシリアは肩を震わせて驚いた。

 つかまれた手首は痛いほど強い力ではないのに、固まって動けない。

 後ろにいた小間使いも驚いた様子をしている。


「お、お届け物を……」

「届け物?」


 眉間を寄せるエドモンドに、セシリアは慌てて鞄を探った。

 中から財布を取りだしてエドモンドに差し出す。


「お忘れのようだったので、お届けしようと思って……」

「わざわざこのために来たのですかっ?」

「も、申し訳ありません。出過ぎた真似をいたしました……」


 エドモンドの強い口調にセシリアは身を小さくした。

 自分のような年上の妻が人前に出て、恥をかかせてしまったのだろうか。

 こんな様子の夫を初めて見たセシリアは、何がいけなかったのかは分からなかったが、自分がまずいことをしてしまったということに血の気が引いた。

 頭を下げて謝罪し、急いでその場を立ち去り家路へと引き返した。







 その日、エドモンドが帰宅した時間はいつもより少しだけ遅かった。

 セシリアは毎日夫が帰ってくると出迎えるのだが、昼間のことがあって重い足取りで玄関へと向かった。

 エドモンドは現れたセシリアの顔を見ると、ばつが悪そうに視線を反らした。


「……昼間は大声を出してしまいすみません」

「いいえ……。私が勝手な真似をしたせいで申し訳ありませんでした……」


 二人の間で言葉が途切れて、沈黙が広がる。

 それを先に破ったのは、エドモンドの方だった。


「持ってきてくれたことは感謝します。けど、あなたがわざわざ手間をかけなくて良いです。今度からは人に命じてください」


 その言葉で、やはり夫は年上の妻が職場に来たことで恥ずかしい思いをしたのだと理解した。

 家でのエドモンドは言葉少なながらも親切だったので、自分は図に乗ってしまっていたのだと。

 夫の邪魔にならないよう気をつけなければいけないと、心の中で誓っていたセシリアに、エドモンドが続けて声をかけた。


「……あの、途中で誰かに声をかけられたりはしませんでしたか?」

「声ですか……? いいえ、誰とも会っておりません」


 急にそんなことを聞かれて、セシリアは昼間のことを思い返しながら首を横にふった。


「そうですか」

「はい……あ、案内をしてくださろうとした方はいましたが……」


 知り合いに会った記憶はなかったが、馬車を下りたときに道案内を買って出てくれた人がいたことを思い出してそれを口にした。

 その瞬間、エドモンドが反らしていた視線をセシリアに向けた。


「声をかけられたんじゃないですか!」


 玄関ホールに響いた声に、セシリアは震えて身を小さくした。

 それを見たエドモンドは慌てて自分の口を押さえる。


「っ……。すみません、急に大きな声を出したりして……」


 今日のエドモンドはとても感情的だった。

 初めて顔合わせをした日から、あまり喋らず落ち着いた印象だったので、こんなにも喋っていることも初めてだ。

 戸惑っているセシリアに、エドモンドは口に手を当てたまま視線を向けた。


「……その人についていったりしてませんよね?」

「いいえ。場所は分かっていましたので、お断りいたしました」

「そうですか……」


 まるで親が幼子に言うような言葉だ。

 妻がみだりに異性についていくことを心配していたのだろうか。

 もちろん、夫のある身でそんな真似をするつもりはない。


「あ、これを。街で人気の菓子だそうです」

「え? 頂いて良いのですか……?」

「はい」


 エドモンドが突然差し出した袋は、セシリアも知っている人気菓子店のものだった。

 彼が菓子を買ってきたのなんて初めてで、セシリアはどうして良いか分からなかったが、美味しそうな香りにそれを恐る恐る受け取った。







「お父様。ようこそいらしてくださいました」


 昼過ぎに訪れた来客に、セシリアは嬉しそうな表情で出迎えた。


「すまんな、急に。ようやく時間が空いたもんでな」

「いいえ。お元気そうで何よりです」

「おまえも元気そうで安心したよ。ほら、この茶葉が好きだっただろう」

「まあ、ありがとうございます。早速お茶をいれますね」


 セシリアは父がお土産として持ってきた茶葉でお茶をいれて差し出すと、父はそれを飲んで美味しいと微笑んだ。

 妻亡きあと仕事が忙しい中、セシリアを育ててきた父親は、最初の婚約が破談になったことを一番憤りながら悲しんでいた。


「婿殿とはうまくやっているかね?」


 だから今回の結婚が決まり一番喜んでいたのも父だったが、その言葉にセシリアは申し訳なく思い俯いた。

 そんな娘を父は心配そうに見つめる。


「この間、怒らせてしまって……」

「怒らせた?」

「余計なことをして職場まで行ってしまったので、きっと恥をかかせてしまったんです。こんな年上の妻なんて……」


 あれ以来、エドモンドの態度は以前と同じ落ち着いた様子に戻った。

 変わらず仕事からは真っ直ぐに帰ってきて夕食を共に食べる。

 休みの日には時々外出に誘ってくるが、セシリアはそれを断った。

 人前に出てこれ以上夫に恥をかかすのは避けたい。

 それに、自分がいなければ彼は友人達とも遊びやすいだろうと思った。

 そのことに少し悲しさを感じながらも、仕方がないと諦めた。

 俯く娘に父親は白髪の多くなった頭をさすりながら、気遣うように声をかけてきた。


「……いや、まぁ、なんだ。セシリア、お前たちはもう少し話し合いなさい」

「話し……ですか?」


 セシリアの父は穏やかな、それでいて少し複雑そうな表情で頷いた。

 その言葉をセシリアは考えてみる。

 エドモンドはあまり口数の多い方ではなく、確かに自分たちはきちんと話をしたことがなかったかもしれないと。

 セシリアの父は、帰る前にもなぜか同じことをもう一度繰り返し娘に言った。





誤字訂正しました。

報告ありがとうございます。

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