第八話 セントヒル王宮――回廊に接した中庭
第八話 セントヒル王宮――回廊に接した中庭
セントヒルの王宮の中心には、季節・環境・天敵・競争といった条件に左右されない生態系が整っている庭園があった。絶えず王宮の魔術師が環境を調節するその中庭庭園には、北方の鋭い花弁を持つ冷帯群生花や、南方の食肉植物、東方の龍瞳大樹、西方の迷宮ヅタなどいった、ありとあらゆる植物を見ることができた。
庭園の中央に備え付けられた噴水、それを囲むようにして備え付けられたベンチに、彼女は腰掛けていた。うららかな日差しを反射する噴水の水面に、ひとひらの花弁が流れている。
「ここにおられましたか、剣聖殿」
敷石の道をゆっくりと歩いてきたのは、絢爛な刺繍の施されたローブをまとった宿老の魔術師アルギムスだった。
「どうやら夢を見ていたようだ、アル」
剣聖はあくびを堪え、待ちくたびれたといったようにアルギムスを見返した。
「ほう、どのような夢ですかな?」
アルギムスは剣聖の隣に腰を下ろし、杖をベンチの傍らに置いた。蒼い蝶がどこからか飛んできて、剣聖とアルギムスの頭上をひらひらと回った。
「私はヒカルという女の子になって、学校というところに行って毎日を過ごしているのだ」
剣聖は目を閉じ、前に見た夢の記憶のパーツをはめていった。
「ヒカルの通う学校は魔法学院とは違ってな。そこでは庶民が帝王学の基礎や、学者しかやらぬ算術、文芸や経済などを学んでいた。体育というものもあったが、身体を動かしているのは私ではないので、しっくりはこなかったな。面白い球技試合を執り行っていたが。そうそう、『化学』という授業は、なかなか不思議だった」
「ほう、それは興味深い話ですな」
「その世界、特にその国では、戦いという戦いがないのだ。何故だかわかるか、アル?」
「うむ……。庶民に帝王学基礎や文芸の教育が行き渡っているとすれば、恒常的な脅威が無い、ということですかな?」
剣聖は少し驚き、アルギムスの顔を見た。アルギムスはしわくちゃの顔をさらにしわくちゃにし、笑みを浮かべた。
「アルは賢いな、この国一番の賢者だ」
剣聖は微笑み返し、噴水に視線を戻した。水面を光の反射という妖精がワルツを踊っている。
「そうだ、その世界には魔物が存在しなかった。国民の脅威といえば、盗賊や殺人者の類ぐらいだ」
うむ、とアルが相槌を打った。
「しかし今、この庭園でアルに待たされていた時――」
「――腰の良い位置に薬草の湿布が貼れませんでの、ほっほ」
剣聖はアルギムスの言葉に軽く笑い声を上げ、話の先を続けた。
「ここで眠ってしまい、私はまたもヒカルの夢を見た。しかし、今回は勝手が違った」
剣聖は言葉を切り、アルギムスの顔を覗き込んだ。
「確かにこれは夢の中の話だが、私は不吉な影を感じずにはいられないのだ。今度の夢では、ヒカルの世界に魔物が現れたのだ」
アルギムスはうむと唸り、話の先を促した。
「しかもその魔物は、こちらの世界で猛威を奮う魔族の一種、紫炎紅の悪魔であった」
「なんと! その夢の世界と、わしらの世界がリンクしていると……?」
「ああ、確証はある。私は――といっても、その世界ではヒカルだが――バルバリッチと対立した時、精霊の類と会話を交わした。そして、この私の」
そう言って剣聖は腰に吊るしたレイピアを軽く叩いた。
「聖剣が、まさにまるっきりこれと同じ聖剣が、向こうの世界に現れたのだ。ヒカルが聖剣を手にした時、今まで傍観するだけだった私の意識に変化が現れた。ヒカルの身体を、この私が自由に動かせたのだ」
「精霊の……いや、聖剣の力か……?」
「それは分からぬが、とにかく、ヒカルは死の危機に直面していた。私がヒカルを助けたいと強く願ったのもあったのかも知れぬ」
そこで剣聖は言葉を区切り、あの時のヒカルの感情を思い出した。
悲痛なほど純粋で真っ直ぐなヒカルの感情が剣聖の中に流れ込んできた。夢の中の作り物とは思えない程、リアルなヒカルという人間の願い。
「私は剣を取り、バルバリッチと闘った。突剣技・咲斬華を繰り出した時のヒカルの腕の疲弊には、本当に肝を冷やした」
「並の人間の筋力では剣聖殿の扱う技は繰り出せないでしょうな」
「意外にも、ヒカルのフットワークが軽いのが幸いした。バドミントンという、羽を打ち合う球技の練習の賜物だな。ヒカルは良い脚をしている。腕も、宮廷の侍女と比べれば発達した方だろう。剣を使う筋力とは微妙に部位が違ったが、しかしなんとか私は悪魔を追い払うことができた。正直、あのヒカルの身体では、私の剣の動きも限界だった。そこで夢が覚め、私はこの庭園の日差しの中に戻ってきたのだ」
剣聖は頭上を舞う蝶を見上げた。太陽の光にかかる、月下の如き蒼の鱗粉が目に見えるようだった。
「あながち、その夢の話を無下にはできぬかもしれませんぞ」
剣聖の不思議な夢の話を聞き終えたアルギムスは真顔になって言葉を返した。アルギムスは立ち上がり、杖を突いて噴水前を歩き出した。
「古来より伝わる禁断の魔術に関する文献に、異世界という存在を認める文脈は多く存在しております」
アルギムスは魔法学院の教授のように、剣聖へと話を聞かせた。
「そして、その記述がある度に決まって登場するのが、暗黒球の名称」
「暗黒、球……?」
「暗黒球とは、それを埋め込んだ対象を異世界へと送る魔道具として記載されているが、製法や起源、そして存在も謎に包まれた物です。ある時代の悪しき魔術師はその暗黒飛球を使い、ドラゴンを送り込んだ。また他の時代の魔術師は、ヴァンパイアを、他の術師はオーガを……欲望に己を失った歴代の有能な魔術師たちは、異世界を手中に収めようとしてきました」
剣聖はそこではっとなった。
「もしや、背神の術師エクシスも……?」
「左様。禁断の魔道具を完成させ、異世界にバルバリッチを送り込んだ可能性もあるでしょうな。あ奴が魔術師連合を抜ける時、天才魔道具職人ウィグルが彼に付いて行った。あの娘には禁断の魔道具を作るだけの能力と感性が備わっているやもしれぬ」
アルギムスは立ち止まり、辺りを窺った。そして声を潜めて、こう続ける。
「剣聖殿、この庭園に貴殿を呼び出したのは、まさにその用件で御座います」
「他に聞かれてはまずいのか?」
剣聖も声の調子を落として尋ねた。
「無用な混乱を避け、策がエクシスの耳に届かぬようにするためです」
蒼い蝶がひらひらとアルギムスの横を通り、噴水の縁に降り立った。
「この話は、国王にも内密にお願い致しますぞ」
そう前置きをして、アルギムスは知勇兼備の打開策を話し始めた。
どこかから迷い込んだのか、何匹もの蒼い翅を持った蝶が暗い部屋の中を飛んでいた。
部屋の床には蝶をほうふつとさせる四枚の翅のようにも見える線と文字が描かれ、その翅の楕円の中心にフードを目深にかぶった者が座り込んでいた。
「アルギムスのじじいめ、年のわりに大胆なことを抜かす奴だ」
若々しい声がフードの隙間から発せられた。
「ヒカル……か。異世界の人間であるそいつをこの世界に召喚する、ってか。エクシス様に太刀打ちできる切り札ってわけじゃねーだろ、何を企んでやがる……?」
ひらひらと男の周りを蒼い蝶が飛び回った。幻想の狭間を作り出す神秘の多重スパイラル。
男が今この部屋で見聞きしているのは、隣国の遥か遠く離れた王宮内の会話だった。男は今、感覚器官を一匹の蝶に委ねていた。男の目は複眼となり、噴水の縁から若い女と雰囲気のある老魔術師を見ることができる。そして、二人の会話を傍受することもできるのだ。蝶は音を聞き取る能力を翅に備えているというのは、この男ぐらいの蝶好きでなければあまり知られていない知識だろう。
「まあ、いいさ。情報はこっちに筒抜けだ。それに、奴らが何を企もうと、エクシス様はもう止められない、止まらない。世界が消えるのも、また新たな世界が生まれるのも……全ては結局、蝶の見た夢だったってこった」
男はそう言って、虚しく笑った。