第七話 VSバルバリッチ
第七話 VSバルバリッチ
夕暮れに沈む展望の広場。赤紫の悪魔バルバリッチは、砂埃を舞い上げながら一息にヒカルへと迫った。揺れる赤い瞳の中、死の影が躍る。
今まで平凡な人生を送ってきたヒカルには、冷静な判断を下せるだけの機知は持ち合わせていなかった。猪突猛進するバルバリッチをとにかく避けるのだ、という単純な指令が脳から全身へと伝わる。
ヒカルは輝きを増した突剣をしっかりと握りながら、怪物の左手へと身をかわそうと動いた。そのヒカルのとっさの行動を予期したように、バルバリッチは疾走のための支えを失うのもいとわず、ヒカルに向かって突き出した。
「……!」
ヒカルの持っていた剣をバルバリッチの凶刃ともいえる爪が捉えた。夕映えの中、鋭い音を立て、剣が弾き飛ばされる。
(バカ! 剣は死んでも離すなよ、ねーちゃん!)
どこかから聞こえてくる声の無茶な要望に、ヒカルはふつふつと怒りを沸き立たせた。
「無茶言わないでよ、こんな……!」
ヒカルは言葉を失い、目前に迫ったバルバリッチを見上げた。バルバリッチの丸太のような腕が、ヒカルの頭上にあった。
「死ぬの、私?」
ヒカルは呟き、何も考えずに目を閉じた。何もかもが、もはや自分の力が届かないところで進みすぎていた。早苗を救えなかったことも、怪物が地球を滅ぼすことも、ヒカル独りの力ではどうにもできない。人一人救うこともできないならば、多くの人を救えるわけがない。
ヒカルは唐突に母の顔を思い出した。
父が死んでしまってから、二人はずっと暗いトンネルの中をさまよってきた。やっと、光が見えてきたと思った。心に負った悲しみの傷跡を乗り越えられると思った。二人でここまで来たのに、世界中の人間は意味もなく殺されてしまう運命にある。
否、ヒカルには世界中の人間を守ろうなどといった大層な偽善心は持ち合わせていなかった。心から大切だと思える人を、ただ守りたかった。そのための箱舟だった。
もう死んでしまったのかな?
痛みを感じないぐらい一瞬の間で、私は殺されてしまったのかな?
ヒカルは心の内で呟き、そろそろと瞼を開けるための命令を伝達させる。
網膜を通じて脳に送られた視覚情報に、ヒカルは思わず驚嘆の声を漏らしそうになった。
手にはレイピアを握り、ヒカルは華麗な足捌きでバルバリッチの袂を左右に素早く動いていた。
(ねーちゃん、あんた、もしかして……!)
風の中からも驚いた声が上がる。
ヒカルは身体の感覚に違和感を覚えた。支配権が誰かに譲渡されたように、身体はヒカルの命令を受け付けなかったのだ。
ヒカルは右手のレイピアを水平に構え、幾何学放射状に目にも留まらない突きを繰り出した。バルバリッチの開いた手のひらが次々と裂け、ついには骨と肉との結合を失った爪の一本が弾き飛ぶ。バルバリッチは阿鼻叫喚ともいえる絶叫を上げた。手を押さえ込み、荒れた息遣いでヒカルに警戒の視線を寄越す。
「はぁ、はぁ……どうなってるの……?」
ヒカルは震える腕を見下ろし、身体の異常に恐怖感を抱いた。右手から左手へと剣を持ち替える。
バルバリッチも、ヒカルに対して恐怖心を抱いていたようだった。人間と呼ぶには恐れ多い激動の衝動を、バルバリッチはヒカルから感じ取っていた。
「!」
突然、バルバリッチの鋭い尾がヒカルの死角から飛んできたが、ヒカルの手先のレイピアは余裕気な素振りでそれを払った。ヒカルはすぐさま上体を捻らせ、体重を上乗せしてバルバリッチの手の甲を突き刺す。不意打ちを不意打ちで返されたバルバリッチはまたも怒号を上げた。
ヒカルがふと外に目を向けると、人が集まり出していた。展望広場の外、近隣の住人が何事かと様子を見に来たのだった。
「あ……ダメ……!」
銃を構え、にじり寄る警察官の姿を見つけ、ヒカルは思わず声を出した。
バルバリッチも他の生体をその赤い瞳で認め、ヒカルを警戒しつつも、殺戮対象のシフトチェンジの機会を窺っていた。
警官は、銃を取り出し銃口をバルバリッチに合わせたまでは良かったが、その先の判断をしかねていたのだろう。パクパクと口を開け閉めするだけで、何も言葉は出てこなかった。
「逃げて! こいつは本物の怪物なの!」
ヒカルは叫び、バルバリッチの注意を引こうと動こうとしたが、まだ彼女の身体は命令を拒絶し、微動もできなかった。まるでヒカルを操縦している何者かが、この状況の様子を窺っているかのようだった。
(ねーちゃん! チャンスだ、バルバリッチは向こうの人間に注意が行ってる!)
「悪いけど、身体が言うこと聞かないのよね」
ヒカルが愚痴を零した瞬間、溜まり溜まった水を落として跳ねるししおどしのように、身体が突然動いた。まるで、ヒカルと風の会話によって、勝機を気付かされたような持ち運びだった。そのヒカルの動きを視界の隅で捉えていたバルバリッチも、また同じく動きだした。悪魔は禍々しい翼を広げ、バサリと空を打ち鳴らした。翼の内側から拡散する風の乱舞に乗じた砂が、まるで砂塵のように広場一帯に広がる。ヒカルの目に塵が入り込み、思わず手でこする。その一瞬に、バルバリッチは天高く飛翔していた。重量のある身体が、巨大な翼によって支えられているその姿は、怪奇現象を目の当たりにしているような不思議さがあった。
「逃げた、の……?」
ヒカルは呟いた。
(そうみたいだね)
風の中の声も、ほっとした様子で言った。
「あっ、身体が動く!」
ヒカルは手足を動かし、新鮮な感動を受けたように喜んだ。その時、さっきまで握っていたレイピアが跡形もなく消え去っているのにヒカルは気付いたが、彼女はもうその程度のことでは驚かないようになっていた。
「きみ!」
数人の警察官がヒカルを取り囲み、訝しそうな視線を投げかけている。
ヒカルは安堵と共に、ぎこちない笑みを警官たちに返した。