第六話 アンファンタジー少女
第六話 アンファンタジー少女
ヒカルが訪れた翌日から、早苗の家に報道陣が殺到した。『ドラッグキラー』を唯一目撃した人物とされる早苗は、様々な犯罪研究専門家の元をたらいまわしにされ、また、警察署での調書の作成に何日も身柄を拘束された。早苗から薬物反応は出ず、彼女に対する世間からの信用は一応安定しつつあった。
早苗の事件当初の証言は、何から何まで鮮明だった。悪魔の外見的特徴の描写、その凶行の軌道、どのようにして若者たちは殺害されたか――現場検証でも、早苗は正確な記憶力で捜査に協力した。自己の見たものを、人々に伝えようと必死だった。
早苗の数々の証言は参考となるもので、多くの関係者がその再現力に感嘆の意を示したが、どうしても悪魔という存在を信じる気にはなれなかった。犯人のあまりの凶悪さに悪魔の影を見ただけだと、人々は解釈した。
そしてこれは善意からであろう、早苗は精神病院への入院を勧められた。警察の性急な現場検証の要請も祟ったのだろう、早苗はたびたび PTSDから悪夢の夜のフラッシュバックを起こすようになり、心理療法が必要だと誰もがその早苗の心を心配していた。
それから早苗は、一度も学校に顔を出すことなく、ヒカルにも黙ったまま引っ越してしまった。
ヒカルは国守鉄工所の前に立っていた。手には、あの日早苗と一緒に覗き込んだ木造船の設計書。夕闇に暮れかかる鉄工所は一日の作業に区切りをつけ、機械たちの小さな唸りが、休息が訪れることを予感させた。
労働者たちが、次々と鉄工所から自宅へと帰っていく。その中に、ヒカルは先日会った男の姿を見つけることはできなかった。
「どうして、こうなったんだろう……」
ヒカルは鉄工所前の公園のベンチに腰を降ろし、早苗のことを思い浮かべた。
早苗はきっと、世間の誰からも信じられなかったんだ、とヒカルは思った。悪魔の存在は、今でもヒカルも信じがたいことだったが、それでも信じていた。もしかしたら、悪魔の存在を正直に伝えなかった方が、ヒカルと早苗は今後も幸せに暮らせたかもしれない。
ヒカルは大学に進学し、一流企業のOLとして就職し、自分に嘘をつかず、物事をありのままに受け止める、素敵なお姉さんになりたいと憧れていた。そうして素敵な年上の人を会社で見つけて、恋愛して、浮気なんかも一回ぐらいは許したりして、二回目の浮気の時には別れる別れないといった喧嘩もして、仲直りして、最後は結婚する。そうした生き方、リアルの中のファンタジーをヒカルはいつも夢想していた。
一方早苗は、ずっと憧れていたダンスインストラクターの道が開けて、日本中でその名を知らないダンサーはいなくなる。情熱的な躍動感ある人生で、社会の一部となるヒカルとは対称的な道を歩む。
それでも、二人はたまの日曜日、美味しいパスタ屋さんを捜し求め、その味について語り合う。ジェノバペーストの量はその店の料理に対する想いと比例するだとか、クリームソース系のパスタを食べた後のパンナコッタこそ至上の味だとか、そういった他愛もないことを延々喋り続ける。
そういった平凡な将来に、ヒカルは憧れていた。事件や怪物なんてヒカルに取っては平凡な未来の可能性を奪う厄介なものでしかなかった。現に、早苗と共に過ごすはずだったビジョンは、永遠に失われてしまった。
「私が信じなきゃ、早苗は救われない。私が信じなきゃ、世界は破滅する。全ては、同じことなんだよね。リアルだとか、ファンタジーだとか……真実だとか嘘だとかは、たいした違いはないの。だってどちらも、壊れやすいもので、壊れた瞬間に反対のものになってしまうから」
ヒカルは立ち上がり、国守鉄工所の前まで歩み寄った。錆び付いた薄看板が、夕日の光を赤々と照り返していた。
「早苗と過ごすはずだったリアルは、壊れてしまってファンタジーになってしまった。そして、ファンタジーの中だけの怪物は、リアルに現れて人を殺した。そういうことだよね、きっと」
名も知らぬ、否、国守という姓だけ知っている、大柄な男。彼にも、やらなくてはならない義務があるとヒカルは思った。
「ごめんください!」
ヒカルはとうとう勇気を振り絞って、静寂に包まれた工房の中に足を踏み入れた。
「おう、なんだい、お譲さん」
ヒカルが今までに見たこともない加工道具の数々。その中の隙間から、野太い声が上がった。ヒカルが慌ててその方に目を向けると、幾分か年老いた男が長椅子に腰掛けてヒカルのことを窺っていた。国守鉄工所の親方である、国守 久治だ。
「あの、こんにちは。私、歩田 光っていいます。こちらに、背の高い男の人、いませんか? 無愛想な感じの顔の人です」
ヒカルがそう言うと、久治は手を大仰に叩いて笑い出した。
「うちで無愛想って言ったら、キンジしかいねえわな!」
キンジ。その名前を、ヒカルは心の中で繰り返した。
「なんだ、キンジのやつ、こんな可愛い娘さんと知り合ってたのか」
「は?」
「女に好奇心ってもんがない男だったから、他のことで心配していたが、なんだそうか、杞憂だったか」
あらぬ誤解をされているとヒカルはすぐさま察した。
「ちょっと待ってよ、なんで私があんなおっさんと――!」
「違うのか、そうかそうか!」
そう言って、久治はまたも大きく口を開けて笑った。ひとしきり笑うと口元を侘しげに緩ませ、
「追い出すことは、なかったかもなぁ」
寂しそうな横顔で、彼は言った。ヒカルは頭を抱えた久治にかける言葉が見つからず、そっと国守鉄工所を後にした。
少し急な坂を上ったところに、その展望台はあった。ヒカルは展望台の手すりに肘を乗せ、明かりの灯り始めた町並みを見下ろしていた。
「私、何ができるのかな……」
ヒカルの表情から明るさが消え、深い夕闇を憂えているようだった。
どれぐらい、黙って夜の訪れを眺めていたことだろう。ふとヒカルは、小さな声が風に乗って聞こえてきたのに気が付いた。
(………………ダ…………レ………カ………)
「!」
ヒカルは身を強張らせ、自然のせせらぎを聞くように耳を済ませた。
(……聴こえ……るか…?)
今度はより鮮明にヒカルは声を聞き取った。
「誰っ?」
薄気味悪い湿気を帯びた風を頬に感じながら、ヒカルは返事をした。
(……あんたは……いや、そっちに『ヤツ』はいるか?)
声を聞いた瞬間、ヒカルは背後にただならない気配を感じ、手すりに背中を預けて振り返った。
「こいつ、が……?」
ヒカルの目の前にいたのは、三メートルにもなる翼を広げた、紫色の肌を持つ異形だった。
「こいつが早苗の言っていた、悪魔……!」
ヒカルはその姿をまじまじと眺めた。殺しに渇望した血の色の瞳、闇の息吹を感じさせる毒々しい肌、女子供など一撃で絞め殺せるような筋肉。爪に翼といった特徴も、早苗の教えてくれた通りだった。
(おいあんた、男か? それとも女か?)
ヒカルの直面している状況が分かっているのか、どこからともなく響いてくる声は、切羽詰ったように質問してきた。
「私は、女よ!」
ヒカルは後ろをちらっと見た。得体の知れない存在と悠長な会話をしている場合ではない。得体の知れない生物が、うなり声をあげながら牙と爪を向けてじりじりと迫ってくるのだから。
(ならお前は剣聖だ!)
声が叫び終わらないうちに、暖かい光に包み込まれるのをヒカルは感じた。そうして、身体中を一瞬の無限が突き抜け、収束した光は、一本の剣となってヒカルの目の前に浮かんでいた。
(その剣を取って、そこにいるデカブツと戦え!)
「無茶よ、そんなの!」
といいつつも、何がなんだかわからない状況に耐えられず、ヒカルは反射的に剣を手に取っていた。
キラキラと光る粉を振り落としていたその剣は、先端の鋭さと剣身の太さがそれほど変わらない形をしていた。ヒカルの頭に浮かんだのは、闘牛などで使われるレイピアだった。
「こんな細い剣で、ていうか、あんなでかい牛いないし!」
(大丈夫、あんたならやれる! なんたって、オイラに選ばれたんだからな!)
「さっき、『誰か』って、誰でもいいから人を探していたように聴こえたんですけど! ああ!」
紫色の悪魔が翼を羽ばたかせて生じさせた風圧に、ヒカルは身体を小さく縮ませることでなんとかしのいだ。だが、状況は遺憾千万なことに、ヒカルの手中に負える様な展開ではなかった。
ごくごく平凡なアンファンタジー少女の相手は、格闘技の世界チャンピオンよりも巨大で、この世のどんな生物よりも獰猛な性格をその紅い瞳にたたえた悪魔だった。