第五話 悪魔
「そいつはヒカルよりもパパよりも身体が大きくて、とんでもない乱暴者なんだ。今日の晩御飯に出た茄子の煮付けよりも濃い紫色の肌を持ったそいつは、悪魔と呼ばれているんだよ」
――神無月初めの金曜日のお話。
第五話 悪魔
十代後半から二十代前半の若者数人の惨殺死体が東京湾沿いの倉庫にて見つかった。彼らは『幅広の刃物のようなもの』で身体中を切られ、または刺されるなどした、残虐な軌跡をその身に刻ませて発見された。
死体と共に幾つものドラッグが発見されており、警察はドラッグパーティー中による、中毒者の凶行ということで世間に表明していたが、公表と本音は建前。警視庁はいまだかつて例のない厄介な事件として認識していた。
それもそのはず、彼らを惨殺したのはこの星の生物ではなかったからだ。
夜にうごめくその者の存在を、まだ誰も知らなかった。
そう、悪夢の夜の光景が瞼に張り付き、自室のベッドの中恐怖で震えている女子高生、松本早苗以外には、まだ誰もその異形の存在を知らなかった。
そこで何が行われるかなど、彼女には知る由もなかった。ダンス部のOGである先輩にパーティーがあるからと誘われ、断ればこの先の関係が心配になるし、しかし行けば帰りは遅くなる、判断の定まらないまま消極的に従って連れて行かれたのが、ドラッグパーティー会場となっていた湾岸沿いの貨物倉庫だった。
室内に大音量の曲を流し、数人ずつグループとなって薬のやりとりをする。本来なら都心地下のクラブなどでひっそりと行われるこの行為が、大々的に成されていた。
即席の会場に足を踏み入れた早苗は、パイプ椅子に男が白目を剥いて倒れているのを見て軽い悲鳴を上げた。
「あそこまでイッちゃうと、楽しむも何もないよね」
煙草をふかしていた女が、笑いながらそう言って早苗の背中を軽く押した。もう後戻りはさせないという意思を、早苗はこの場の雰囲気から悟った。
奥に目を向けると、制服を着た女子高生の姿もちらほら見られた。初めてなのだろう、心なしか浮かれたような表情で、背の高い茶髪の男性からドラッグを受け取っていた。
早苗は最初、錆び付いたコンテナに身を寄せてその光景を傍観していた。そうしながら、様々な知識を総動員して、これから自分の身に降りかかるだろう災難の予測を立てていた。
早苗は、見た目は軽そうでも、芯はしっかりしていた。だが結局は、その見た目が災いして、こんな近代的阿片窟のような場所に誘われてしまった。
日本人というのは実に雰囲気を尊重する民族で、最初は乗り気でない者も『一度だけなら』と、相手の好意とその場の雰囲気が失われるのを恐れて許諾してしまう。そうしてしまったら、後は裏の世界に堕ちていくのみだ。更生という機会がなければ、借金や盗みをして、もしくは身体を売ることも、薬を得るための当たり前なステータスとなってしまう。
「ほら、お姉さんも吸いなよ」
ふらふらと近づいてきた男から包装紙を受け取り、ああ、これで道は消え失せたと、早苗は観念した。早苗もいわゆる、断れない性質の日本人的性格であった。薬を投げつけ、奇声を発し、腕を振り回しながら逃げ去ることの方が、この状況を受容するよりも何倍もまともな行為であることは、よく考えれば早苗にも分かったであろうが、最早彼女には考えるための時間もなかった。
浮かない顔で早苗は包みを見回した。続いて、粗悪な音圧を吐き出すステレオや、その周りで踊る若者たち、その奥に先ほどの女子高生がトリップしているのを、早苗はぼんやりと眺めた。
「さあ!」
男が苛立った調子で迫り、早苗は恐怖から、粉末を鼻に近づけた時だった。悪夢のパーティーが悪夢の夜に変わったのは。
突然、女の悲鳴があがった。狂喜するようなそれではなく、絶望を体現した声だった。
誰もがその動きを止め、開いた倉庫の扉を通って押し寄せる冷気を火照った肌で感じ取っていた。薄汚れたフロアが振動し、天井からパラパラと埃や粉状の建築材が降ってくる。
風を切る音がし、それと共に、何かが外から倉庫の中に投げ入れられた。鈍い音を立て、座り込んでいたグループの上にのしかかってきたのは、派手な金髪を血で染めた女の亡骸だった。倉庫の外で見回りをしている女だった。
これは幻覚ではない。まともにそう考えられたのは、この場では早苗ただ一人だっただろう。
「おーい、ヨシちゃん」
そう言って、その転がってきた女の友人らしき男が、女の血の気のない頬をピシピシと叩いた。そうして男はふと顔を上げ、驚愕がその顔に張り付く。
暗がりからのしりのしりと、見たこともないような禍々しい生物が部屋の明かりの元にその姿を現していた。その生物は、まるでボディービルダーを何人も取り込んだかのように豊富な筋肉を持っており、四足でその重量のある身体を支えていた。肌は禍々しさの頂点である。溶かし込んだ色素入りの鉄でコーティングしたような、堅固さを彷彿とさせる紫色の皮膚が怪物に張り付いていた。その太い腕と肘は、振るっただけで人の頭蓋を砕くだろう頑強さを見るものすべてに想像させた。その先の手には、鋼鉄とも思える鈍い輝きを放つ爪が付いていた。片方の爪は、真新しい鮮血でべったりと染まっていた。
「何、あいつ……!」
早苗は、手元にある薬と怪物とを交互に見比べた。あれは幻覚ではない、実物だ。だが、動物図鑑にも載っていなければ、恐竜博物館にも飾られていない未知の生物を、どうしても早苗には実物だとは思えなかった。
その怪物の下顎にある太い二本の牙は、どこか像にも似ている。体躯の巨大さとあの牙から、像の仲間かしら、と早苗は思い込もうとしたが、それもうまくいかなかった。何故なら、その怪物にはもう一つ、大きな特徴があったからだ。
巨大な怪物は、その身を支えるに相応しい大きさの翼を持っていた。倉庫の入り口にたたずんでいるゆえに折りたたんであったそれは、広げると相当な大きさになるだろう。その巨体を宙に浮かせるに相応しい大きさと、構造と、性質とをその翼は有していた。
凶行は一瞬だった。その怪物が身を翻した直後に、何事かと怪物の側に集まりだした若者たちの胸が真一文字に裂け、並んだ噴水のように、僅かな時差を持って血を噴出し、一斉に倒れ伏した。怪物の尻尾が、意思を持ったかのように床を打ち鳴らした。その先端は鋭利で、硬質化もしているのだろう、人を薙ぎ殺す刃そのものだった。
胸を裂かれた若者たちは、倒れる瞬間天井に向かって血霧を噴出させた。そして、海から吹きつける風に血が混ざり一瞬にして部屋全体が血の臭いで覆われた。その一瞬で、傍観していた全員がパニックに襲われた。
紫色の怪物も、人々の叫び声に自らの咆哮を重ね合わせ、背を向けた男女へと突進していった。
ふらふらとおぼつかない足取りで逃げ惑う若者たちに、しかし怪物は一切の手加減なしに爪と牙を突き立てていった。運よく、暴走した狂獣の視界の外に身を置いていた早苗は、倉庫の出入り口目指して全力で走り抜けた。
運が良かった、ただそれだけの要因だったのだろう。早苗は無事に残虐なる舞台より逃れ、気付いた時は臨海駅のホームでただ震えていた。紫色の恐怖は、彼女の中でずっと渦巻いたまま。
「今朝のニュース見た?」
「うちの学校のOGも死んだらしいよ」
「そういえば、一年生がその先輩に誘われて――」
通学路を歩けばひそひそと囁かれ、廊下を歩けばどこの教室からも漏れ聞こえる『松本早苗』についての憶測。ヒカルは仏頂面で、それらの加工された風説を聞いていた。
「早苗に限って、そんなこと……」
昼休み。ヒカルは造船設計に関する本を図書室で読みながら、いらついた様子で呟いた。
「きっと、早苗は途中で抜け出したんだよ」
早苗が誘われているのを、同じダンス部の女子が見かけていたとして、それで早苗が事件に関わっていたと決め付けるのは早計だとヒカルは考えていた。
「だって、その場にいた人はみんな殺されたんだよ」
ヒカルは今朝見たニュースの被害者名を見たが、知っている名前はなかった。
ドラッグパーティー。倉庫。惨殺。早苗。二人の生還者のうちの一人。もう一人の生還者は、椅子に座って意識を飛ばしていたらしく、事件のことは何一つ覚えていないと報道された。
幸いにも、二人目の生還者である早苗のことは、まだこの学校内でその名前と存在があがっているだけだったが、警察が早苗の捜査に乗り出すのは時間の問題だった。
「『ドラッグキラー』だってさ、例の事件の殺人鬼」
「えー、だって重度の中毒者なんでしょー?」
廊下ですれ違った女学生の言葉を背後に聞きながら、ヒカルは校門へと向かっていた。手には『木造船はこうして作られた』という書籍。
「私が、早苗を信じてやるの。早苗に、何があったか聞く。それで、早苗のこと信じる」
ヒカルは呟きながら電車に乗り込み、早苗の無罪をただひたすらに願った。それと同時に、早苗の無事も。
松本という木彫りの表札の前に、ヒカルはとうとう辿り着いた。何度か遊びに来ていたこともあり、道に迷うことはなかった。
「早苗……」
ヒカルは意を決して、ドアチャイムを鳴らした。出てきたのは、早苗の母親。早苗に似た、しっかりとした躍動感を持っている人だった。
「こんにちは! 早苗ちゃんいますか?」
ヒカルは平然とした様子を装い、元気よく言った。
「ええ、ヒカルちゃん。上がってちょうだい」
早苗の母親は、少し疲れた顔色をしているようにヒカルには感じられた。
「早苗、今日ずっと様子がおかしいの。ヒカルちゃん、もしあの子に悩み事があれば、聞いて欲しいの。一番の友達はヒカルちゃんだから」
ヒカルは 莞爾とした笑みを浮かべて、その返事の代わりにあてがった。
「早苗、入るよ?」
そう断ってから、ヒカルは早苗の部屋のドアを引いた。部屋にはカーテンがかかっており、その手前に敷かれたベッドの上に早苗が座っていた。暗い部屋の中、早苗は焦燥しきった顔でヒカルを見つめていた。
「早苗……」
早苗の変容ぶりに、ヒカルは一瞬言葉を失った。目の前にいる早苗からは生気をまるで感じられず、普段の早苗と比べれば、花と土ほど色彩が違う存在に思えた。
「ヒカルは、ファンタジーが大嫌いだったよね……」
早苗は、開口一番こう言った。
「でも、私が見たものを信じて欲しいの……私は、汚れた生命を見たわ」
早苗はベッドから降りて起き上がり、震える手でベッドサイドに支えの重心を取った。
「悪魔、そう悪魔を見たのよ!」
「落ち着いて、早苗。悪魔なんていやしないわ」
「悪魔はいたのよ! みんなを殺したあいつは、確かに悪魔だった!」
ヒカルは最初、殺人を犯した通称『ドラッグキラー』が悪魔のように早苗の目に映ったのだと解釈していたが、どうやら違うらしいと気付いた。早苗は、比喩も何もなしに、直接に悪魔との遭遇を訴えていた。
「爪があって、牙があって、羽が生えていた。すごい筋肉だった!」
「早苗、あなた薬は――」
「――信じてよ! 薬なんかやっていない、私はこの目で確かに見た! 信じてよ、ヒカル、お願い……信じて……!」
早苗はそう言うと、その場に泣き崩れてしまった。ヒカルはそっと早苗の身体を抱いてやり、ただ彼女の混乱を沈めようとした。早苗はヒカルの肩に額をあてがい、本格的に泣き出してしまった。
ヒカルが散々否定してきたもの。
それらが、日常の中にちらほらと現れ始めた非日常の出来事に壊されていくのを、ヒカルはまっすぐに受け止めていた。
早苗をしっかりと抱きながら、木造船設計に関する書籍がすぐ手元に落ちてしまったのをヒカルは呆けた眼差しで眺めた。
ノアの箱舟。自分と同じ夢を見たであろう男との出会いで、ヒカルの幻想に対する否定の態度は崩れてしまった。現にこうして、真剣に箱舟を作ろうと考えている行動そのものが、観念の崩壊を示唆していた。
そして、早苗の訴える悪魔の存在。
「早苗のこと信じるから。だから、私のことも信じて。これ、箱船の作り方!」
「それ何、ヒカル……?」
「うん、ノアっていう人が大昔にいてね――」
ヒカルの運命は 紆余曲折を経て、確実に変わり始めていた。
そして、早苗の運命も、ヒカルに呼応するように、まるで対になる歯車のように動き出していた。