第四話 二人のノア
第四話 二人のノア
浅草の路地裏のひっそりと店を構えていた和風パスタの隠れ名店『嘉』の店内にて、ヒカルと早苗はゆったりした曲に耳を澄ませながら、食後の紅茶を楽しんでいた。
しばらく談笑をした後、早苗は急なバイトの呼び出しをくらい、両手を合わせてヒカルに軽く謝りつつ、小走りで去っていってしまった。
「まだ三時か……」
早苗と一緒に自宅方面の電車に乗っても良かったが、せっかく訪れた文化の街。ヒカルは昼下がりのひと時を、散策して過ごすことにした。ぶらりぶらりと風に吹かれるまま歩を進め、暑さに前髪が額に付き始めた頃、ヒカルは目と鼻の先にあった公園で休憩することにした。
木陰のベンチに腰掛け、目を閉じてそよぐ風の鳴き声に耳を澄ましているうちに、ヒカルはうとうとし始めた。
暗い地下室。床には赤い絨毯が敷かれているものと思いきや、よく目を凝らして見ると、それは生命から溢れ出た血そのものであった。隙間風に揺らぐたいまつが微弱に照らすこの部屋の奥から、何か重量のある生物が血しぶきを立てながら近づいてくる様子が感じられた。
たいまつが照らす光のテリトリーに、血管を浮かび上がらせ、先端には鋼鉄を思わせる爪を備えた手が侵入してきた。死んだ皮膚細胞のようにその肌は毒々しい紫の色を張り付かせており、その禍々しい生命を視覚的に感じさせた――
次の瞬間、ヒカルは見た。浅草寺も都庁も新宿ビル郡も、ありとあらゆる怪物がその身で埋め尽くしているのを。人々は牙の波に身体をもがれて食い殺され、押し寄せる異形の大群が住居区までをも蹂躙し尽くす。ヒカルはこの光景を、まるで神の視点に立ったように同時的に多角的に傍観していた。
続いて、ヒカルの意識は海を越えて巨大な大陸に飛ぶ。そこでも、人々は突然現れた既存外の生物になす術もないまま、殺戮されていた。子をかばった親の背を突きぬけ、紅蓮の角を生やした鬼が子の喉元を抉り取る。苔むした鱗を持つ竜が翼を羽ばたかせると、その生暖かい風を受けた人々の身体から、胞子植物と食虫植物を連想させる草木が急激な速度で芽生え育つ。黒いマントを羽織ったカボチャ頭の者が杖を振りかざすと、空間から突如現れた巨大なカボチャが、軒並みごと人々を押しつぶした。するとすぐさまにカボチャは大爆発を起こし、被害は数倍もの範囲に広がってしまう。
東京のシンボルタワーの頂上に立ち、ローブをはためかせる者がいた。その者は一際、他の怪物や魔術師たちとは違った雰囲気があった。どこがどう、とは説明できず、いわば特徴がなかった。ただ、全ての破壊を望む、その権化的な姿であるようにヒカルには感じられた。
ヒカルは星の嘆きを聴いた。世界の叫びを聴いた。自分という存在も、他人という存在も。母親も早苗も学校のみんなもその存在を否定され、つまりは目視に耐えない残虐な方法で否定され、ついに星は青い輝きを失った。
「早くくたばれ、この頑固親父!」
「てめえが嫁のひとつでも見つけたらくたばってやるよ!」
急に響いてきた野太い怒鳴り声に、ヒカルはハッと目を覚ました。もやもやと定まらない焦点を景色に馴染ませ、ヒカルは怒号の上がった方を、高なる鼓動を抑えながら窺った。
ヒカルの座っている反対側の、どうやら製作所らしい趣の建物から、大柄な男が飛び出してきた。白地のティーシャツにカーキ色の作業ズボン、頭にはタオルをバンダナ代わりに巻いているという出で立ちだ。
ヒカルは店の看板と、公園を横切ってヒカルの側にある出口へと向かってくる男を交互に見比べた。
「国守鉄工所。あんな歳にもなって親子喧嘩とか……」
それきり、ヒカルは今見た夢の内容に、関心を奪われてしまった。木陰で休んでいたにも関わらず、じっとりとした嫌な汗が体表を覆っていた。
「世界が滅びる……? そんな馬鹿なことって……」
その時だった。ベンチの横を通り抜けようとした男から、こんな呟きが漏れていたのは。
「あの夢が現実になればな……」
ヒカルはベンチから飛び起きた。その男の言った夢が、ヒカルの体験した夢であるとは限らない。それでも、ヒカルの思考の範疇を超えた、脳神経伝達組織が追えないほどの得体の知れない情報が彼女の身体を駆け巡ったのも事実だ。
「あの!」
その未知なる運命の一体感に戸惑いながら、ヒカルは見ず知らずのこの男――国守キンジに声をかけていた。キンジは緩慢な動作で横を向き、ヒカルと目を合わせる。
「その夢って、世界が滅びる夢ですか?」
無表情を数年来住まわせたようなキンジの表情が、驚きへと変化する。といっても、ヒカルにはキンジの微細な表情の変化は読み取れなかったに違いない。
「カボチャ頭」
キンジは一言そう言った。ヒカルは突然のそのキーワードに面食らったが、
「そいつは大きなカボチャを降らせてたくさんの人を殺した!」
すぐにヒカルはキンジの意図を掴み、その暗号的な言葉に正解の言葉を返した。
「降ってきたカボチャは、どうなった?」
さらにキンジは質問するような調子で言葉を続ける。
「カボチャは大爆発を起こして、潰されなかった人もみんな……!」
ヒカルはその先の言葉を紡ぐことができなかった。スクリーンに映し出された映像のようであったが、ヒカルにとってその光景は刺激が強すぎた。戦争の生々しさを越えた、無差別殺人の狂気が夢の中にはあった。
「そうか、お前も見たのか」
キンジはそう言うと、しばし考えを巡らしているようだったが、
「忘れろ。夢だ」
ヒカルの心をひどく不安に急き立てる返事が、彼の結論だった。
「忘れろって……ちょっと!」
ヒカルが反論するいとまもなく、キンジは歩き出した。急いた様子もなく、まるでヒカルとは何の言葉も交わしてなかったように、ツカツカと公園の出口へと歩いていく。
ヒカルはストラップやら小さなぬいぐるみやらをたくさん付属させたカバンをベンチの上から引ったくり、慌ててキンジの後を追った。
「ねえ、待ってよ!」
すると、キンジは立ち止まり、更に振り向くこともした。
「誰だ?」
「誰って言われても……同じ夢を見たんでしょう、私と同じ夢を」
「そこのベンチで寝ていた女か。怖い夢でも見たのか?」
まるで初めての内容を交わしているかのように、話が噛み合わなかった。ヒカルは違和感を覚えたが、キンジの淡々とした調子に食い下がった。
「怖い夢……そうよ、世界が滅びる夢よ! あなたも見たんでしょう?」
「あいにく、何の話だか解せないな」
ヒカルは、この時点でやっと気が付いた。キンジのその、卑劣とも言わざるを得ない目的に。
「あなた、私とベンチの前で話をしたじゃない」
「俺はお前と話をするのは今が初めてだ。悪いが、お前の話した相手は、夢の中の俺だな」
やっぱり、とヒカルは思った。キンジは、先ほどの話を『無かったこと』にしようとしているのだった。交わした内容は、全てヒカルの夢の中での出来事にしようとしているのだ。
キンジはわざとらしく頭をかき、そのまま歩き出した。親鳥に追いすがる雛のように、ヒカルはキンジの後を追って公園を出た。
「二人同じ夢を見たんだよ?偶然なんかじゃない」
ヒカルは言葉をキンジへと投げかけながら歩き、キンジはそんなヒカルをまるっきり無視して淡々と歩を進める。傍から見れば、それは奇妙な相互関係を思い描かせる光景だった。
「ねえ、みんな死んじゃうんだよ? どうしてそんな平気な顔をしていられるの?」
ヒカルにはキンジの態度が理解できなかったように、キンジにもヒカルの態度は理解できなかった。キンジからこのヒカルの言葉の反論を言わせればこうだろう――何故、夢にそれほどの不安を抱くのか、それに、もしも夢が現実になるとして、それで地球が滅んでしまうことがそんなに恐ろしいことなのか、と。
「お前、ノアって男を知ってるか」
ヒカルの小うるさいさえずりに、とうとうキンジは口を開いた。
「ノアって、聖書に出てくる人だよね。箱舟を作って大洪水から逃れた人で、彼の言葉を信じなかった人たちはみんな洪水に飲み込まれてしまったって、テレビか何かでそんな話を聞いたことがある」
「そうだ、お前はノアだ」
おそらく、キンジはノアの箱舟の寓話を詳しくは知らなかったのだろう、その適切な名称が出てきたのは、キンジが持っている、普段から無意識に情報を捕らえる能力の恩恵だった。
「助かりたければ、箱舟を作ればいい。食料と水を積んで、その時に備えればいい」
ヒカルは歩を止め、その頭脳の中でどういった曲解を経たのかは定かではないが、
「なるほど」
と、納得してしまった。
キンジは、自分でもヒカルの反応を予測していなかったのだろう、口の端に笑みを浮かべながら、ヒカルを信号の向こう側に残して下町の細い路地へと姿を消していく。
「あ、でも!」
最後に、ヒカルは立ち去るキンジの背中に声をかけた。
「ノアは二人だよ、あなたと私で」
キンジは何も応えず、何も背負っていない背中をヒカルに見せたまま、路地の奥へとひっそりと消えて行ってしまった。