第一章 アンファンタジー少女 第一話 歩田 光
第一話 歩田 光
歩田 光。
日本国籍、東京在住の女子高生。
活発的な性格で社交的。凛々しい顔立ちの、いわゆる学校でも人気のある女の子。
幼い頃に父を失った以外は特に波乱万丈の人生を送ってきたわけでもなく、不良の道に走るわけでもなく、成績も中の上、ごくごく普通の女の子であった。
しかし、ただひとつ、他の人と比べると、際立って目立つ特徴があるにはあった。
それは、夢想を全力で否定する、という性格だった。
またあの夢だ――ヒカルは額の汗を布団の裾で拭いながら、鮮明な闘いの夢にうなり声を上げた。
「今度は、鳥人間だ……ありえない、もう最悪」
寝癖のついた髪を手櫛で直しながら、ヒカルは起き上がった。リアルなドリームよりも、ドリームとして始末できないカリキュラムこそが彼女にとっては厄介な問題だった。
「もう、お母さん聞いてるの?」
ヒカルはパンの耳をかじりながら、洗い場にてヒカルに背を向けている母に話しかけた。
「聞いてるわ、今晩は焼き鳥が食べたいんでしょ?」
ヒカルの母は笑いながら娘の食い気をからかったつもりだった。
「違うよ! 焼き鳥なんて、今日は食べる気分じゃないわ」
「ヒカルちゃん、昨日の朝は豚人間をやっつける夢を見たんでしょ? 夕飯に豚肉の生姜焼き出したら、『おいしいおいしい』て食べてたじゃない」
「うっ……そうだけどぉ」
ヒカルは昨日、打製武器を抱えた豚人間の大群を華麗な足捌きで斬り倒していく夢を見たのだった。だが、その日の夕飯に豚料理が出たのを見て、朝見た夢を思い出すほどヒカルは夢の連続性に固執しない。
「それにしても、関連性のある夢を見るなんて、不思議ね」
「そうそう、毎回毎回、ケルドっていうイヤミったらしい騎士が私に文句言ってくるの。私が何したってのよ」
ヒカルは眉をしかめ、コップに注がれた麦茶をくいっと喉に通した。
「ケルドなんて後ろから刺されて死んでしまえばいいわ」
言ってから、ヒカルは少し気分が悪くなった。そしてすぐに、こう付け加えた。
「どうせ夢の中の話だし」
ヒカルの母は水道を止め、手を拭きながら振り返った。
「もしかしたら、本当にその人たちは存在していて、夢っていう形で何かヒカルにメッセージを伝えようとしているのかも」
「ファンタジーなんて馬鹿みたい、ありえないって」
ヒカルは深く母の言葉を受け止めず、椅子から立ち上がった。
「幽霊とか超能力とか、みんな暇だから騒ぎ立てるのよ。私には、みんなが当たり前に認めているあやふやな幻想にかまってる時間なんかないし」
「あら、幽霊はいると思うわ、お母さんは」
「いないし」
ヒカルは足元の鞄を手に取り、テーブルの上に置いてあった携帯電話を制服の胸ポケットに突っ込んだ。
「いるわよ。お父さんは、ヒカルの守護霊になって、ヒカルを守ってくれるわ」
「それ、厳密には幽霊じゃないんじゃない?」
ヒカルはにっこり笑い、母も娘に同じように笑いかけた。傍から見れば、二人の笑顔は親子であることを実に明確に彷彿とさせるだろう。この母と娘は、同じ苦難を味わい、同じ悲しみを乗り越えたからこそできる、真に憂うつを排斥した光のような笑顔ができるのだった。もちろんこの笑顔は一人の時や、他の人の前では表出させることができない。母と娘、二人の間でしか表せない、いわば、最も親しいからこそ自然と浮かぶ笑みなのだった。
「いってきまーす」
パタパタとスリッパの足音を鳴らしながら、ヒカルは急いで玄関へと向かった。その背に向けて、母のゆったりした声がかかる。
「今夜のご飯は親子丼でいいー?」
ヒカルの頭の中に一瞬、バードマンの姿が映写機からスクリーンに映し出される映像のように鮮明によみがえったが、
「いいけど、今日部活だから帰るの遅くなるー!」
キッチンに向けて声を張り上げ、ヒカルは靴箱近くのフックにかかっていたラケットの紐を引ったくり、玄関の扉を開けた。
眩しいほどの朝日に照らされたヒカルの顔からは、朝の夢のことなど、すでに意中から消えていた。
学校、友達、部活。授業やテストは厄介だが、ヒカルは現実に対しては積極的に向かっていくのが好きだった故、夢想など必要ない、と本人も自覚していた。
ヒカルの元気な登校姿を見送ると、ヒカルの母は和室に入り、エプロンの裾をただして 臙脂色の座布団に正座した。彼女の正面の仏壇には、線香立てに供え物の果物と造花、小さいお椀に盛られたご飯、そして、最初で最後の、最愛の人の遺影があった。
「昔は、よくあなたに物語をせがんでいたのよね、あの子」
ヒカルの母は、娘の前では決して見せない寂しげな笑みを浮かべ、独り遺影に向かって喋りかけた。
「桃太郎とか、一寸法師とか。悪者を退治するお話が、あの子のお気に入りだったっけ。あなたの作ったお話も、ヒカルは楽しそうに聞いていた――」
彼女の閉じた瞼の裏には、過ぎ去った十二年前の光景が今でも何の虚飾も美化もなく思い出せた。
毎晩残業をこなして夜遅くに帰ってくる父に、ヒカルは玄関で待ち伏せをして抱きついた。父の酒のつまみは、ヒカルが目を輝かせて話してくれる幼稚園での出来事。オチもヤマもない話だが、父は本当に楽しそうにヒカルの話を聞いていた。
「今度はパパの番!」
そう言ってヒカルは、お気に入りの絵本を持って父にせがんだ。朝は早く仕事に向かい、夜は遅く家に帰ってくる父とヒカルの交差点は、父の夜飯の時と、ヒカルが眠らなければならない時の二つしかなかった。
疲れてはいたけれども、持ち帰った仕事で休日もろくに遊んでやれないふがいなさ故か、父はいやな顔一つせずに、毎夜毎夜ヒカルのリクエスト本を、もしくはヒカルのためのオリジナルの物語を紡いでいったのだ。
ヒカルの一番の楽しみは、父の話して聞かせるオリジナルの物語だったのだが、子供ながらに父の疲労というものを理解していたのだろう、読んで欲しい本を持っていかないのは金曜日の夜だけだった。
父のオリジナルの物語には、とても怖い魔法使いや怪物がたくさん出てきた。
見つめただけで人間を石にしてしまう、髪の先にたくさんの金色のリンゴを実らせている悪い魔女。
少し血を流しただけで湖ができてしまうほどの巨大なドラゴンと鬼のコンビ。
三つの首と顔、三本の尻尾を持ち、二つの足で立ったり走ったりできる 人狼。急に父が付け加えた、六本の腕と二十四本の爪で人間をバラバラにして食べてしまうという怖い設定にヒカルが大泣きしてしまった、恐怖の怪物だ。
そして、生き物の心を自由自在に操ってしまう邪悪な魔術師。
「そいつにかかれば、パパもママも、ヒカルも操られてしまうかもな」
と言ってから、父は怖がったヒカルの髪をなだめるように撫でて、
「ヒカルだけは操られないように、パパがおまじないをかけてやろう」
そう言い、ヒカルのおでこに軽く父の唇が触れたのだった。
ヒカルはわくわくと同時に怖い気持ちにもなったけれど、父の話してくれる主人公の女の子は、いつも智慧と勇気を働かせて悪者たちを倒していった。剣を持って、時には魔法の道具や罠を使って、悪者を懲らしめていく。
父の物語を聞いた後は眠りの時間だ。ヒカルは目をつむって眠りに落ちる間、魔法使いや怪物と戦う女の子の物語を夢想したのだった。
「あなたがいなくなってから、ヒカルは夢物語を信じなくなってしまった。そうしないと、生きていけない時代でもあったから。でも、あの子はいまだにあなたの物語を追い求めているわ。……だってあの子が最近話してくれる夢のお話は――」
彼女は、らしくないと思ったのか、潤んだ瞳を軽く手の甲で拭い、仏壇の置かれた和室を後にした。
愛するといった程度の表現では足りないほど大切な家族を残し、写真の中の男はただ、優しく微笑んでいた。その瞳にいつまでも消えない夢への輝きを残して。
ヒカルの通う都立高校は、学力は都内でもちょうど中間、際立った事件も起きたことはないし、大会優勝を本格的に狙う部活動も特にあるわけではない、いわば目立った特徴のない普通科の共学校であった。
「あ、ヒカル、おはよ!」
携帯をいじりながら校門への緩やかな坂道を登っていたヒカルに声がかかった。ヒカルは元気な調子で後ろを振り返る。
ヒカルに追いすがるように息を切らしながら走って来たのは、彼女の親友である松本 早苗だ。ダンス部に籍を置く、小麦色の肌の少女だ。
「おはよう、早苗!」
ヒカルは学校で一番の友達に笑顔で挨拶する。入学してからこの初めての夏休み前までに到る間、ヒカルと早苗は街に出かけて買い物を楽しんだり、おいしいイタリアンのレストランを巡ってみたりと、学校以外での交友も深く、不和もなく友情を深めていた。
学校への道のりには、何人か他の生徒の姿も見られた。地面に視線を落としながら黙々と歩く者、仲の良い友達に偶然会い、グループ同士固まってドラマやバラエティ番組の話に華を咲かせる者たちもいた。ヒカルと早苗も例外ではなく、二人の共通の趣味、イタリアンについて語りだした。そのうちにふと早苗は思い出したように、学生鞄の中から雑誌を一冊取り出した。
「そうそう、ここの浅草にある和風パスタのお店なんだけど、この『わさび納豆イカ墨パスタ』っていうのが、あたし的にはすごく気になるわけよ。今度の日曜、一緒に行かない?」
ミートソースやナポリタン、カルボナーラにぺペロンチーノといった王道派のヒカルに対し、早苗は新嗜好派の先駆者であった。これまで早苗の挑戦したゲテモノメニューの中には、『サソリの切り身入り激辛パスタ』なる暗黒メニューもあった。火に踊ったのはサソリではなく、辛さに踊ったのは早苗だった。
「日曜ね、行こう行こう! でも、このパスタ、どんな味がするのかしら。イカ墨がメインよね、でも、わさびと納豆という異色のコンビがメインを上回って――」
教室に入るまでの間ずっと、二人はハイレベルな食の評定をし続けていたのだった。
窓際の席で、ヒカルはぼんやりと雲の流れを眺めていた。
流れていく雲。流れていく日常。
あと二年と半年もしたら高校も卒業して、自分も早苗も別々の道を歩んで行ってしまう。
早苗の理想の人は、年上でしっかりとしていて、真面目で優しい人だと本人から聞いた。
早苗らしいな、なんてヒカルはその時はそれぐらいにしか思わなかったけれども、自分の理想の人を想像しようとしてみて、ヒカルはその難しさに初めて気がついた。
早苗は自分のことをよくわかっている。だからこそ、他人に自分の抱く理想が持てるし、そのために外見や内面を磨く努力もできる。
でも、私は?と、ヒカルは自問自答する。
自分自身に嘘をつき続けている限り、他人と付き合うことにも嘘をついてしまうのかもしれない。自分自身を騙しの衣で無理やり抑え込んで生きていくことは、見せ掛けだけの自分で人を騙して生きていくこと。それを認めて正さなきゃ、早苗みたいに立派に自分に自信を持って生きていくことなんてできやしない。
それでも、ヒカルには非現実ほど認めることに苦しむ分野は他にないのだ。夢想を別の系列の現実であると認めてしまうのは、異様にヒカルの恐怖をかき立てた。その原因が何であるのか、本人にもまるでわからない。
ヒカルにとっては、幻想に憧れ、怪奇を信じる人々はみな、狂人か何かに見えてしまうのだった。もしも、恐ろしい怪物が現実に存在してしまったら。人を取り込み殺す悪霊が存在してしまったら。大半の人々は無意識に、ファンタジーとリアルの間に、そんなことは絶対ありえないというフィルターをかけて保身してしまっている。信じていると言葉では言い、そういった類の著書や映画に娯楽の時間を費やすのも、ファンタジーとリアルの認識の境界線に理性的な判断力を維持するためのものだった。つまるところ、それは恐怖を想像することの抑止にもなるのだ。ヒカルにとっては、そのところの感覚はまったくと言っていいほど分からなかったのだ。故に、ヒカルはファンタジーを全力否定することでしか、恐怖を抑える術を知らないのだ。その態度が、変わり者であるという印象を与えることは多々あった。
余計な想像を発散させるための手段として、運動は最適の方法だった。
放課後の体育館にて、部活のメンバーとバドミントンの練習に打ち込んでいる時は、ヒカルは完璧に無意識の葛藤から解き放たれた。お腹もすいて、今朝の夢も忘れて。そうして帰宅した後の親子丼を、ヒカルはおいしくたいらげることができるのだった。