第十二話 虫の巣
第十二話 虫の巣
一際濃い闇の中には、何かが潜んでいた。蠢いている。強い悪臭がヒカルの鼻をえぐる。鬱蒼とした林の中、目が闇に慣れ、ヒカルは蠢く物体がなんであるかわかった。虫だ。もぞもぞと動く芋虫のような生き物がアンデッドの眼窩の中に潜んでいた。その芋虫は腹がはち切れんばかりに膨らんでいた。身体中にイボ状の突起があり、その窪んだ中から千切れた銅線のような触手が出たり入ったりしている。
「きゃああ!」
ヒカルは再度悲鳴を上げたが、声は虚しく黒の空間へと吸い込まれていく。
「ヒカル……! ヒカル……!」
アンデッドは呪いの呻きを上げ、放られて地面に横たわっているヒカルの首に手を伸ばす。その動作に感情はなく、ただ生者の鼓動を止めるためだけに動く。
「私は……」
尻餅をつきながら後ずさったヒカルの右手に、固い物体が触れた。どこにでも落ちている、大地の欠片そのものだった。
「私は死なない、こんなところで!」
眼前に迫っていたアンデッドの眼窩の中に、ヒカルは石を突っ込んだ。芋虫が驚いたように、眼窩の奥へと姿を引っ込める。アンデッドの伸ばした手が反動でヒカルの首筋を撫でる。ぬめっとした感触がヒカルの皮膚に残った。
ヒカルは両手で身体を支えて立ち上がり、素早く距離をあける――が、街灯の光も生い茂った木々の葉に遮られ、ヒカルは周りの障害物を把握することができなかった。剥き出した木の根に足を取られ、背中をその木の幹にぶつける。
ヒカルは真っ暗闇の中、パニックに陥るのを必死で抑えていた。遠くから届いた光の残骸で、辛うじて敵の姿は見える。そして死人らしく、動きは非常に緩慢だ。首を掴まれそうになった時もヒカルが素早い反撃で体勢を立て直せるぐらいに、敵は遅い。
「アイムを呼ばなきゃ……! どこか、光のあるところへ……」
ヒカルはじっとりと全身を濡らす汗に顔をしかめながら周囲を軽く見回した。木々と丈の低い茂みは切り取った影絵のようで、全体が曖昧模糊としていて周辺情報を掴みにくい。ヒカルは背後の樹木を回り、よりアンデッドから離れた別の樹木に移動した。やはり足元は伸びた雑草に絡まり、思ったように素早く移動できない。葉の先端で休んでいた小虫は突然の振動に驚き、飛び立ってヒカルの顔にぶつかってきた。
と、ヒカルのつま先が何かを蹴飛ばした。ヒカルはそれを拾い上げ、手触りで木の棒であることを確信した。
「アンデッドは死なない、殺せない……」
ヒカルは呟き、後ろを振り返る。落ち武者のように動く影が数メートル先に見えた。
「落ち着いて、この雑木林から抜ける。落ち着け、落ち着け」
ヒカルは形式ばった深呼吸を二回して、木の棒を握る手に力を込める。爪に樹皮が食い込むほど、強く。
「何がしたいか、私はやっぱり今でもわからないよ、キンジさん」
ヒカルは呼吸を整えながら、独り言を呟く。
「でもこれだけはわかる。『あいつら』はここに存在しちゃいけない」
エゴだ。それはヒカルも承知していた。存在してしまった者の存在を否定することは、完全に自己としての自分の存在の主張、エゴに他ならない。出てきてしまったのなら、しょうがない。消し去ることは、殺す以外に方法がないのだ。そうしなければ、あの夢のように、自分たちの居場所が『あいつら』の居場所に取って代わってしまう。
「私は、この世界の一生物の義務として、『あいつら』を否定しなくちゃいけない。……そう思うよ」
駆け出す。手には三十センチ程の尖った枝。生暖かい風が腐臭を運んでくる。
ヒカルが直感で思った通り、その枝の先端はあっけなくアンデッドの胸に突き刺さった。プツっと柔らかい肉を突き破る音が聞こえ、あとは発泡スチロールに刺した針のように、ぐいぐいと奥まで枝が貫いた。
アンデッドは手を大きく手を振り回しながら草地のクッションへ倒れた。
「よし!」
ヒカルは短く叫ぶとすぐさま身体を翻した。そのまま適当な方向をひたすら直進し、反対側の遊歩道に勢い良く飛び出した。
(ああ、ヒカルねーちゃん! 良かった、無事だったんだ!)
電灯の光の元に躍り出たヒカルに、すぐさま声がかかった。ヒカルは肩で呼吸をしながらも、にっこりとした笑顔を浮かべ、こう言った。
「ダメだ、勝てない」
アンデッドを行動不能にするには、十トントラックで木っ端微塵に吹き飛ばすか、キンジの鉄工所にあるような高熱炉に放り込むしかないだろう。腐った風が吹く限り、いつでも奴らは生き返る。
(やっぱり、難しいか……でも、本当に良かった、ヒカルねーちゃん)
泣きそうな声でアイムはヒカルの無事を喜んだ。
なんだろう、とヒカルも不思議な気持ちになった。アイムと再び合流できたことが、冷静な安堵をもたらした。
「ありがとう、アイム。待っててくれたんだね。心配かけてごめんね」
(うん。今日のところは引き上げよう、これじゃ相手にならないよ。ちゃんと作戦を立てるべきだったかな)
それにしても、とヒカルは思った。切っても突いても脳天かち割っても死なないなんて為す術がないじゃないか、と。そして、気になったことも一つだけあった。
「見たことのない芋虫。なんだか私の様子を窺っているようだった。――それに」
ヒカルは暗闇での出来事を仔細に思い出す。恐怖の攻防は鮮明に覚えていた。
「芋虫が引っ込んだ瞬間、あいつ動きが雑になった。私のこと見えてないみたいに……」
ヒカルは首筋のぬめりをハンカチで拭いた。アンデッドは首を確実に狙えていたし、いくら石で小突かれたとしても、そのままヒカルに倒れ掛かってくるだけの余力はあったはずだ。
(ヒカルねーちゃん、ダメだ、話が変わった……)
ヒカルの呟きを聴いたアイムが、沈んだ声で言ってきた。
(さっきのアンデッド、今日ここで仕留めなきゃ)
「でも、どうやって? っていうか、さっき帰ろうって言ったじゃん、自分で」
ヒカルはすぐにでも公園を抜け出して、明るい駅前に移動したい気持ちだった。生温い風がアンデッドの吐息のように感じられて、途方もなく落ち着かなかった。
(ヒカルねーちゃんの見た芋虫って、多分、奇死虫っていう魔物だよ)
「奇死虫?」
(うん。生き物の死体に住み着いて、乗り物のように死体を動かして生活するんだ)
アイムは恐る恐る、といった様子で説明しだした。
(向こうの世界では、アンデッドになってしまう原因は二種類あるんだ。一つは、死んでも死に切れない魂が死体に戻ってしまったり、その未練につけ込んだ魔術師が魂を肉体に閉じ込めたり。こいつらを倒す方法は、神聖な道具を使ったり灼熱で焼いたりするしかない。もう一つのアンデッドの種類が、奇死虫に乗っ取られたパターン。奇死虫が宿った死体は、ともかく無差別に人間を襲うようになる。貪り喰った血肉が奇死虫の栄養になるんだ)
ヒカルは相槌代わりに、えずくような声をあげた。
(奇死虫には雌雄があって、ある時期になると荒野や沼地といった場所に集まるんだ。アンデッドの集会、繁殖期。そうして、雌の奇死虫はふっくらとした大きな身体になる。奴らは他の死体に卵を産み付けて回るから、奇死虫が大繁殖した地方はアンデッドの大移動であっけなく滅びたりする)
「ちょっとまってよ」
ヒカルは叫んだ。
「私の見た芋虫は、丸々とした腹をしてたわ」
(奇死虫の雌で、産卵期だね。じっとりと暑い時期だと、幼虫の孵化も早いんだ。だから、今ここで仕留めなくちゃ、まずいことが起きるかもしれない)
アイムの言っている『まずいこと』の意味はヒカルにも察しがついた。すなわち、アンデッドが街中に溢れかえるかもしれない可能性だ。
「でも、どうやって仕留めるのよ。ここには神聖な道具も灼熱の炎もないんだよ?」
(奇死虫を潰せば、アンデッドも動かなくなる。その後は……ええっと、その時に教えるよ)
アイムは不自然に言葉尻を濁したが、ヒカルは気にも留めなかった。またあの腐臭の中に入らなければならないのかと想像したら、実物の反吐が出る思いだ。
「あー、でも繁殖されたら困るしね。困るっていうか、都市部全滅! みたいな? アイム、レイピア出して」
ヒカルはぶつくさと不平を言いながらも、早く厄介事を片付けようと躍起になっていた。眼窩にいた芋虫をもう少しで潰せたのだ、急所がわかっている以上、リーチのあるレイピアがあればなんとかなる気さえしていた。
(ほいさ、ねーさん)
アイムが調子のいい掛け声と共にレイピアを出現させる。パラパラと土塊がレイピアから零れ落ちた。
「あいつの戦闘能力はわかったわ。第一に、動きがノロい。第二に、奇死虫がひっこむともっとノロくなる。でも力の強さだけは気をつけなくちゃ。アイム、奇死虫は体内のどの辺りに逃げ込むの?」
(基本的には、おでこの中)
「うわ、眉間に剣を突き刺さなきゃいけないわけね……」
相手は生きた人間ではない。そう思い込んでも、やはり躊躇わせる何かがあった。
「ああ、アイム。レイピア構えたアンデッドハンターの女子高生ってどうかな? 結構絵になると思わない? 早苗に話したら、きっと大笑いが取れるわね……」
ヒカルは足元の地面から触手が飛び出ていないかを入念にチェックしながら、ゆっくりと歩を進めていった。