第十一話 墓場からの来訪者
「人は死んでも死にきれないことがあるんだ。そういう時は悪い幽霊になって人や世の中を恨んだりするのがほとんどだけど、たまに身体がないのが悲しくて、いけないことだと知っていても、元の棲家に戻ってしまうんだよ」
「パパは?」
「うん? そうだなあ、パパはヒカルがお嫁姿を見せてくれるまでは絶対生きたいなあ、もし死んじゃったら、きっとすごく後悔して、どうしてもヒカルに会いたくなっちゃうなあ、はっはっは」
――皐月下旬の夕餉。
第十一話 墓場からの来訪者
噴水が灼熱の太陽の光を受けて虹を作る。きゃっきゃと騒ぐ子供たちの駆けっこを見て、ヒカルは生命力の躍動を感じずにはいられなかった。
ベンチとは、よくこうも木陰に隠れるような位置に置いてあるものだとヒカルは感心しながら、子供たちを遠巻きに見守っている母親陣に紛れ込んで座っている。
疑心が払拭できないまま迎えた翌日、ヒカルはとんでもない事実をテレビ報道で知った。全身生傷だらけで、半身が腐敗した人間が歩いているのを港で目撃した人が何人もいたのだ。みな口を揃えて「強烈な異臭がした」と証言していた。まさしく、アイムの言っていたアンデッド。釈然としない気持ちを抱きつつも、ヒカルはきたるべき戦いに備えなければならない。
そうしてヒカルは部分的にアイムを信じることで妥協し、今こうして、炎天下の公園の木陰のベンチにて、ある者を待っている。
来るように指示した時刻から長針が一個分動いた頃だろうか、アスファルトの熱が作り出す蜃気楼の向こう側に、その影は現れた。つかつかと神経質そうな足取りで、ヒカルの座っているベンチに歩み寄ってくる。
「流石のあなたでも来てくれるって信じてた、キンジさん」
逞しい肩を怒らせ、キンジは厳しく目を細めてヒカルを見やった。
(連れてきたぜ、ヒカルねーちゃん)
「なんなんだ、この声は?」キンジの第一声。
「知らないんですか? 妖精の声ですよ」
ヒカルは薄っすらと笑みながら、見下すような目線のキンジに蔑んだ口調で言う。
「妖精だと? そんなものはいない」
「いるよ」
「いない」
(オイラはアイムってんだ)
「黙れ! 断じて、俺は妖精なんてものの存在を認めんぞ!」
キンジの荒々しい声に、公園にいた主婦たちが何事かと振り返った。
「世の中には常識や科学じゃ説明できないこともあるのよ、キンジさん。世界が滅びる夢をあなたと私が共有したこととか」
ファンタジーを否定していた同じ少女のものとは思えないセリフを吐いた後、
「ここじゃなんだし、お茶でもしながら話そうよ」
ヒカルは公園内にあるカフェテラスを兼ねた喫茶店を指差した。
それぞれ適当に飲み物を買い、テラスの焼けた椅子へと腰掛けた。冷房の効いた店内は満席だった。
「アイムは確実に存在し、私たちに話しかけている。そして、どういうわけか、ほとんどの人にはアイムの声が聞こえない」
「それはここまで来る道中にわかっている。あんなに大声で俺にわめき散らしても、周りの人間はみんな知らん振りだ」
「アイム、騒いだの?」
ヒカルはアイムを睨んだ。といってもアイムの姿があるわけではないので、風景を睨んでいるといったほうが正しい。
(だってこのおっさん、オイラのこと幻聴だとか言って、全然信じないんだぜ)
ふてくされたトーンが返ってくる。
「うん、それでね、キンジさんを呼び出したのは、お願いしたいことがあるから」
ヒカルはクリームソーダを一口飲み、キンジの表情を窺った。キンジは突っぱねた苛立ちを隠そうともせず、腕を組んでヒカルを睨み付けていた。たとえヒカルが男であっても、キンジの体格と厳しい表情に慄かずにはいられない。だがヒカルは、生ける仁王を前にしても、表情を少しも崩さなかった。
「お前に頼みごとをされる義理はない。早く、このやかましいガキをどこかに連れて行け」
キンジの頑なな心にヒカルはため息をつき、ストローに口をつけた。炭酸がヒカルの口の中で泡立ち、緊張をほぐすほど良い刺激を与える。
「あのね、キンジさん。私たちは他の人よりも早く、世界の異変に気が付いているんだよ」
ヒカルは前々から言いたかったことを話し出した。
「私はもともと、ファンタジーとか、空想みたいなものが嫌いだった。くだらないし、そんなことが本当に現実であったら怖いから。人は笑っていられるけれど、私にとってはすごく怖かった」
キンジは開きかけた口を閉じ、ヒカルを黙って見つめた。
「宇宙人も怖い。彼らは私たちを宇宙から観察して、地球全部を征服しようと窺っている、そんなことを考えただけでも怖い。幽霊だって、私、今でもすごく怖い」
(おっさん、オイラは幽霊じゃないからな)
アイムが合いの手を入れた。
「変な夢を見始めたけど、これは私が現実で圧迫している空想の成れの果てなんかじゃないかと思った。そして夢は終局へ、世界は終焉へ。あの時キンジさんに会った時でも、まだ半分は疑っていた。自分のくだらない妄想なんだって」
ヒカルは外の景色に目を逸らした。鬼ごっこをして駆け回る子供が通った。彼らはパラソルの影に隠れているヒカルを見つめ、その後すぐに駆けて行ってしまった。
「私の友達は、ドラッグキラーの唯一の目撃者だった」
キンジの顔には何の変化も見当たらなかった。本当にこの人は世の中のニュースにも無関心なのだとヒカルは改めて思った。
「彼女の涙を見て、私は真実をありのままに見つめようと決めた」
キンジはウーロン茶を一気に半分飲み干し、ヒカルに疑わしげな視線を寄越した。
「いいか、娘。俺とお前は決定的に違うところがある。わかるか?」
「私の名前は歩田ヒカル。娘って名前じゃない」
悩んできたのはキンジの方だった。ヒカルはキンジにとって、まったく未知な性格を持つ人間だった。箱舟を作ると寝惚けたことを言うかと思うと、今のように真剣に自らの気持ちを告白できる。かと思ったら、今度はキンジの細かい言い方に訂正を求めてくる。千変万化自由自在のヒカルという少女は、あるひとつところに定まるとテコでも動かない無感動の『鉄の意志を持つ男』とは、まったくの正反対の性質を持っていた。
この娘について行ってみたら何か世界が変わるんじゃないか。そんな迷いが、鉄の心を融解させていた。
「私とあなたの違い? 簡単じゃない」
ヒカルは両手を腰に当て、厳しさを増した目でキンジを見据える。
「私はお母さんに愛されているってわかっている。でもあなたは、自分のお父さんに愛されているってことに気付いていない!」
この時のキンジのぽかんとした表情は、彼の今までの人生の中で最も人間的だった瞬間かもしれない。キンジはヒカルの返答に唖然とした。
「愛っていうのは対価じゃなきゃだめなんだよ? これだけの愛情をもらったから、自分はもっと愛情を与える。そうやって互いに愛を注ぎあって――」
「――はっはっはっは!」
突如キンジは豪快に笑い出した。静かなひと時を過ごしていたテラスの客たちは突如響いた笑い声の方向を何事かと窺う。
「お前は面白い人間だな」
「お前じゃない、ヒカルだよ」
ヒカルは言った後、先ほどの熱のこもった説教を思い出し、耳まで赤くなった。その様子を見てまたキンジが笑う。
「ヒカルだな、分かった、分かった!」
キンジは手を打ち鳴らし、こみ上げる笑いを締め切らせた。そうしてヒカルを真正面から見据え、静かな落ち着いた口調で言った。
「俺とヒカルの違いは、この国に、この世界に希望を見出せるかどうかだ。俺は怖い、この国と人々の行く先が。理由を挙げればキリがないし、ここで言う必要もない。ただ俺は、新しい時代に恐怖を抱かざるを得ないのだ。鋭い人間は気付いているはずだ。曖昧模糊とした得体の知れない粘液が、この国を、この世界全体を包み込んでいる。悪意に満ちていて、希望なんて見掛け倒しだ。ならば、あからさまな悪意が国と世界を滅ぼしても、それはそれで正直な爽やかさがある」
「だったら……」
ヒカルは閃いたように人差し指を上に向け、言葉を紡いだ。
「私が世界を変えます」
鉄工所に響き渡るプレス機の音で鼓膜が狂ったのかとキンジは一瞬惑った。目の前にいる口の端にアイスクリームをつけた少女から、およそ健常者からは聞けないであろう言葉が飛び出してきたのだ。
「……あっ、世界って言ったらスケールが大きいよね。じゃあ国……ううん、まずは私の学校から変えていく」
ヒカルは口の端のクリームを紙ナプキンでふき取りながら言った。
「私馬鹿だから、キンジさんの感じてる怖さっていうのはわからない。まあ、何か最近悪いニュース増えたなぁ、とは思うんだけど。でもそれって、一人ひとりが変わっていけば、解決できるんじゃないかな?」
自分が変わらなきゃ、周りも何一つ変えられないよ。そんなニュアンスをキンジは感じ取った。
「私、世界が壊されるのは嫌だ。だって、せっかく私とお母さん、立ち直ってきたんだよ? これから二人で頑張っていって幸せになろうって、やっと思えてきたんだよ? いまさら、壊されてたまるもんか」
最初に会った時にはなかった決意をヒカルは持っていた。キンジはそれを潔く認め、より深い理解のまなざしを持ってヒカルを見ようとしている自分に気が付いた。
「今夜、私は戦います。歩く死体が目撃された埠頭岸臨海公園に行ってみる。そいつと遭遇できるかはわからないけれど」
「俺はごめんだ。行かないぞ」
ヒカルはしばらく沈黙した後に「そうよね」と呟き、微かな笑みを浮かべて椅子から立ち上がった。
「キンジさんにお願いしたかったことは、私と一緒に世界を救うことだった。でも、突拍子もなくて、あまりに非現実的で……相手にするだけ馬鹿らしいよね」
「そんなことは言ってない」
キンジも立ち上がり、語調を強めて言い返した。
「わざわざ危険に身を晒すこともないってことだ。不吉な夢や報道など無視して、いつも通りの日常を歩む方が賢明だ。何もしなかったからといって、誰もお前を責めない。いずれ誰もいなくなってしまうのだからな。お前も見ただろう、あの尋常でない化け物の数。百鬼夜行なんて可愛いもんだ。それに、塔の上にいた男。あいつには、絶対勝てない気がする」
「まだ、私は自分が何をしたいのかわからない。でもきっと……他人事だと思ってほっといたら、最後に後悔するのは自分自身の心だと思う」
ヒカルはキンジに深く頭を下げ、噴水広場の奥へと消えていった。あれほどまでやかましかった少年の声の余韻も、もはやキンジの周りから失われていた。
港から吹き付ける夜の風は、真夏でもどこか冷え冷えとしていた。空気は湿り気と不快感を含み、太陽の余熱はいつまでも残っているようだった。
ヒカルは肩に紐がかかった黄色い薄手のブラウスを着ていたが、それでも夏の夜の暑さを緩和するには十分ではなく、しきりに額の汗を拭っては、草むらの闇に目を凝らしていた。
(強い気配は感じるんだ。だけど、光のないところまではオイラは把握できない。それになんだか風も、今日は気持ちが悪い)
公園のロードを歩く。電灯の下を通り過ぎる時のみ、アイムは話しかけてきた。
(人が全然いないね、ヒカルねーちゃん。駅の方の視覚も捉えたけど、キンジのおっちゃんは来てないみたいだった)
「あの人のことは、もういいの。今日、私はあの人を少しでも理解できたと思うし、それはあの人も同じで、私を少しでも理解してくれたと思う。だから、今日ここに来てくれないことも、身勝手だと責められない。むしろ身勝手なのは、私だったから」
ヒカルは心細さを悟られまいと、電灯を見上げてにっこりと笑って見せた。
(でもよ、あのおっさん、戦えばかなり強いと思うぜ。身体はでかいし、毎日鉄を打ってるから腕の筋力もかなりあると思う。それなのに、ヒカルねーちゃんひとりに任せて自分は知らん振りだなんて、なんかずるい)
一つ先の電灯に辿り着いた時、アイムが不満げに言った。
「こら、アイム。私を見くびってるな? バルバリッチを見事撃退したこのヒカル様を」
これが精一杯強がったヒカルの言葉であることは、アイムは見抜いていた。ぐにゃぐにゃとまとわり付く湿り風は、人間の不安を煽り立てずにはいられない。嫌な感じ。その表現が適切であることを、ヒカルの額を湿らす汗が物語っている。
プラスチック容器の空の弁当箱が転がっているベンチを通りがかった時、ツンとした臭いが風に混じっているのをヒカルの鼻腔が感知した。腐った食べ物に群がる蟲をさらに腐敗させたような、本能的に不快感をあふれ出してしまうような臭い。
「クサッ、何この臭い」
ヒカルはたまらず手で鼻と口元を覆った。風上は道から外れた林の方だった。
(ヒカルねーちゃん、いるよ、その茂みの方に)
アイムが弱弱しい声で言った。ヒカルは電灯の光からだいぶ離れた位置にいた。光は林の中まで届いていない。
「ねえアイム。いまさらだけど聞いてみる。アンデッドって、どんなやつなの?」
動く腐乱死体。こう言われて思い浮かべることができるのは、チープなホラー映画のゾンビ役ぐらいだ。腐った人間が実際に存在するとすれば、イメージ以上のインパクトを兼ね備えているだろう。
(アンデッドに共通することはただひとつ。奴らは殺せない)
光と闇の境目にレイピアが出現した。アイムが作り出したのだろう。ヒカルは左手で鼻をつまみ、右手でレイピアを取った。そろりそろりと動き、茂みへ近付いていく。林の中は虫の鳴き声が交錯していた。
突如、ヒカルは両の足の踝を掴まれた。それはあまりにも唐突すぎて、ヒカルは悲鳴を上げるのも忘れて足元を見下ろした。
地中から、黒ずんだ鉄材のようなものが突き出し、それの枝分かれした先端がヒカルの足に絡まっていた。ヒカルは身じろぎし、足を引いた。僅かな光がヒカルの足元と黒く節くれだったそれの正体を照らした。
暗がりでは五つの細長い突起を持った鉄材のように見えたそれは、紛れもなく人間の手と指だった。ただし、皮膚の色はどす黒く、ところどころで爛れていて、ところどころで骨がむき出しになっていた。手は大人の男のもののようだった。肉が腐って窪んでいる部分もあるため、正確な大きさは不明だった。
「アイムッ!」
ヒカルが助けを求める声を上げたと同時に、眼前の土が膨れ上がった。勢い良く土中から出てきたのは、土に塗れた人の果てだった。
(ヒカルねーちゃん! くそっ!)
ヒカルは両足を掴まれていたために、宙ぶらりんの格好でアンデッドに捕らえられてしまった。ヒカルにとって幸いなことは、逆さになった世界でアンデッドの姿を直視しなくて済むことだったかもしれない。もしくはその逆に、彼女にとって最も不幸だったのは、全てが逆立ちになった世界で輝く電灯の光が、幸福に包まれたものに思えてしまったことかもしれない。
「いや、いやぁ!」
ヒカルは頭を地面に擦り付けつつ、その者によって林の茂みへと引きずられて行った。輝きを忘れたレイピアはヒカルの手から離れ、虚しい埋葬のように土塊がかかっていた。彼女の悲鳴も、奥へ奥へと引きずられることで小さくなり、か細くなり、そして雲がかかった月のように消えていった。