第十話 蠢き
第十話 蠢き
複数の『敵性生物』が次に投入された地点は、太平洋の真っ只中だった。どぼどぼと空中から水の中にダイブし、ある者は体力尽きて溺死し、ある者は西に一キロほど泳いだところで鮫に半身を食い千切られて事切れた。
次に投入された地点は、陸上でも極寒の地であった。ツンドラが生い茂り、一年中氷が大地を覆いつくす辺境の村である。彼らは厳しい環境へ適応することができず、大半は村に辿り着く前に凍え死んだ。村に辿り着いた一団は、自らの使命を果たすため、人間を探し、無差別に襲い掛かった。だがそれも長くは続かず、体毛の薄かった彼らは人間たちの被った毛皮を利用する知能も無く、冷気に身体を犯されるようにして死んでいった。大国の政府に彼らの死体が受け渡されたのはその三日後である。
また、先進国の一部にも『敵性生物』は出現した。だが、銃社会ということもあり、その一つの個体は文明の生み出した武器にあっけなく散っていった。剣で向かえばとても一般人がかなうはずもない『敵性生物』であったが、命を落とした人間は、わずか一区画の住民だけだった。
こうして、姿形の様々な生物が世界各国に現れ始めた。それぞれの国の政府は回収した死体や生け捕りにした『敵性生物』を隠蔽し、密かに研究に取り掛かった。市民に彼らの存在が公表されることはなかったが、それは形を変えて都市伝説というものになって世間に知られるようになった。
他国の風評に耳を傾けていた日本国は、いよいよ危機感を募らせる。それは、他国に現れた『敵性生物』と、自国に現れたドラッグキラーの異称を得た『敵性生物』は、能力的にも外見的にもまったく異なる存在であるという事実だ。
諸外国の『敵性生物』は、斧を振り回す矮人であったり、盾と小剣を備えた犬の戦士であったり、もしくは石斧を持って突進してくるだけの豚人間であった。しかし、日本国に出現した『敵性生物』の特徴は、筋肉質で小型の象ほどもある体格、それを支える巨大な翼、強靭な顎と牙と、一振りで人の首を飛ばす尻尾や爪を持つ怪物、といったものであった。
他国とは様相が異なること、自分たちの力では処理できる相手ではないということに政府は焦り始めていた。いかにも日本人らしいところから彼らは危機感を感じ始めていた。だが、依然としてドラッグキラーの姿は目撃されず、夜中に惨殺された殺人事件が日夜報道されるのみで、日々は刻々と過ぎていった。
「はい。その時私は、物陰から伏せてドラッグキラーを見ていました。ドラッグキラーは羽の生えたレスラーのような大男だったのです」
テレビの中、目を黒い線で塗りつぶされ声を高く変えた女が淡々と話す様を見てヒカルは憤慨した。
「なによ、この生番組。最悪」
早苗本人のことも、ドラッグキラーのことも知っているヒカルにとって、この番組はあまりにふざけているように見えた。だが、これでも番組としてはドラッグキラーの正体に真に迫ろうという意図があるにはあったが、ヒカルはお構いなしにインタビュアーと早苗の偽者を睨み付ける。
「しかもS・Mって……確かに松本早苗のイニシャルだけど、それ以外は言ってることみんなデタラメ!」
ヒカルは怒りながら冷房のリモコンを手に取り、二℃室温を下げた。
肩のところでカールした髪を手で梳きながら、S・Mさんは話を続ける。
「部屋を逃げようとした私に、ドラッグキラーは鬼のような形相で睨み付けました。殺される、そう思った私は必死の思いで走りました。気が付いたら、終電に乗り込んで都心に向かっていて、その後で自分のするべきことを考えて警察署に向かいました」
「警察署ではどのようなことを聞かれましたか?」
そのインタビュアーの質問にS・Mは言葉を詰まらせた。インタビュアーは辛抱強く返事を待つ。この様子では、S・M自身は興味本位で早苗本人であると名乗り出たようだが、インタビュアーその他番組制作陣は彼女こそ事件の目撃者である早苗本人と信じて疑わないようだ。S・M自身、警察署内での対応を問われることを想定していなかったのだろう。
「ごめんなさい、警察ではあまり相手にしてもらえなくて……!」
揺れる声でそう言い、S・Mは泣き崩れ、会場からどっと同情の声が溢れ起こる。
反対にヒカルはどっと笑い出した。
(楽しそうにしているところ、お邪魔しますー)
テレビでもなく、ヒカルの耳元で起こった声に、彼女は天井に頭をぶつけるのではないかというほど大きく飛び上がった。
「ちょっとアイム! あんた誰の許可を得て私の部屋に上がりこんでいるわけ?」
いやいや、とヒカルは首を振った。
「それより、どうして私の家がわかったのよ?」
(だから、オイラは風と光のあるところならどこにでも自由に動き回れるんだってば。一瞬で日本全国の部屋を感覚視覚で捉えることだってできるぜ)
アイムは無邪気な少年のような笑い声を上げた。
(それはそうと、ヒカルねーちゃん。今日は大事なことを言いにきたんだ)
ヒカルの高校は夏休みに入り、彼女はすっかりアイムのことなど忘れていた。急に訪ねて来て無理な頼みごとをするようならば、ヒカルは部屋の電灯を消すつもりだった。
「なに?」
どうどうとした態度で聞き返す。
(ヒカルねーちゃんの命に関する話だから、よく聞いてね。どうやら最近、あちこちに向こうの魔物がこの世界に現れ始めたんだ。最初は海の上とかジャングルの奥地とかに現れていたんだけど、最近では都市や集落みたいな人口の密集しているところに現れだした)
ヒカルは息を呑み、手を上げてアイムの言葉を遮った。
「それって、バルバリッチみたいなのが大量に出てきたってわけ?」
(そうでもないみたい。今回断続的に現れたほとんどが、バルバリッチなんかには天地と両世界がひっくり返っても力及ばない連中さ)
ヒカルはふと気が付いて立ち上がった。テレビでは、インタビューの場面から、検証の場面へと変わった。その事件の状況を知ってどうなるわけでもないのに、視聴者は詳しく知りたがる。
「それ聞いたら安心ね、弱い連中が相手だったら、国が何とかやってくれているんでしょう? あっ、飲み物持ってくる? 一応お客さんだからね」
ヒカルは気楽になって言った。バルバリッチのことは怖いし、次戦うようなことがあったら、勝ち目はないかもしれない。しかし、二度も遭遇することがあるだろうか?アイムが余計な舞台を用意しない限り、遭遇する確率は宝くじの一等に当たるよりも低い。
(なに呑気なこと言ってんのさ。オイラが伝えにきたのは、その雑魚どもが、どうやらヒカルという女の子を狙っているらしい、ってこと! 口々に『ヒカル、ヒカル』って呟きながら、物陰や地下に隠れるようになったやつらがいるのさ。半分以下ぐらいの魔物が、無差別に人を襲うことをやめて、誰かを探している)
脅しともとれるアイムの宣告に、しかしヒカルは気丈になって言い返す。
「ヒカルなんて日本全国に数え切れないほどいるわ。それに、そいつらは日本に上陸しているの?」
(昨日、一匹のアンデッドが海から日本に上陸した)
アンデッド。その忌々しい響きにヒカルは身を震わせた。
(転送のポイントも日に日に正確になってきている。魔物を送り込んでいるやつがどういう目的でヒカルっていう名前の女の子を探しているのかはわからないけれど、オイラ、嫌な予感がするんだ)
「へ、へえ、それはどんな予感?」
ヒカルはまだ表面上は気丈に振舞っていたが、内心は怖くてたまらない思いだった。
(ヒカルねーちゃんが死んじゃって……この世界も向こうの世界も滅んでしまう予感)
もしくはいずれ、そうなってしまうのが真実だろう。
「私は、やつらにとってそんなに恐れ多い存在なわけ?」
(普通の女の子がバルバリッチを退けた……これは、きっとやつらにとっては想定外のことなんだ)
ここでヒカルの頭は急回転し、アイムの言葉のほころびに気が付いた。
「ちょっと待ってよ。どうして私がバルバリッチを退けたことを、魔物たちや魔物を送ってきているやつは知っているのよ?」
バルバリッチが外国に渡り、現地の魔物と接触して流暢な獣語でヒカルの存在を喋っていたとは考えにくい。撃退されたバルバリッチの他、あの場にいたのはただの野次馬と警察官、それにアイムだけであった。
「アイム、あなたが私の存在をやつらに教えたんじゃないの?」
(まさか! 魔物を偵察しに行った時も、オイラは一言もやつらに話しかけたりしないよ)
「そういう意味じゃない。あなたがやつらの仲間じゃないかってことを訊いているのよ」
一瞬、テレビの音と冷房の音だけが部屋を支配した。刺々しい猜疑が部屋をふわふわと漂う。
(……オイラを疑ってるわけ?)
返ってきたアイムの声は暗く沈んでいた。
「そうよ。でなきゃ、どうして魔物たちが私を狙っているのか説明できないわ。アイムがやつらの親玉に言いつけたならば、それですべて説明できるもの」
命が危険に晒される。生活が脅かされる。そんな時、人は普段疑いもしないものすらも、疑いの範疇に入れてしまう。
(わからないよ、オイラには……)
「さっきは、一瞬で全国の部屋を見れるとかなんとか言ってたけど、本当は今日偶然私の家を見つけただけなんでしょ? それで、これからあんたはバルバリッチを呼びつける気なんだ」
そうだそうだとヒカルは頷き、泉から水が溢れるように推測と疑念が次から次へとヒカルの頭の中に去来し、欠片が合わさるように組み立てられていった。
「アイム、あなたの目的は? あなたの目的は『世界の干渉を打ち消す』こと。そのためにあなたは生み出された。完璧に、誰にも知られることなく歴史を正すために。外国に魔物が現れて私を狙っているって話だって眉唾物だわ。あなたは私を怖がらせて焦らして、バルバリッチと戦わせたいだけよ。そして、バルバリッチの他に私が死ぬことによって、それで完全に世界の干渉を打ち消したことになる…………。そうなんでしょ?」
(そんなことない!)
アイムは即座に反論した。
(信じてくれないなら、信じてくれるまでオイラはずっとヒカルねーちゃんのそばから離れない! やつらが近付いてきたら、すぐにヒカルねーちゃんに知らせて逃げてもらう! だから……)
感情的だったが、しかし信頼できる暖かい安心感をヒカルは感じ取った。
(だから、信じてくれよ、ヒカルねーちゃん……!)
これほどはっきりと哀願されてしまえば、これ以上攻撃するのも気が引ける。ヒカルは渾然とした気持ちだったが、頷くほかはなかった。