序――リバーサイド砦
*流血などの微グロ表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。
剣聖
序―――リバーサイド砦
太陽の方角に十キロも行ったところにあるのは、最高峰の防衛環境を備えると言われていたリバーサイド砦だ。その砦は急流に挟まれた中州の中にそびえ立っており、両岸を橋と橋でつなぐ中継の役割も果たしていた。
隣国ガルドヒルとの事実上の国境線は、この急斜面を勢いよく流れる『 憐河』であり、リバーサイド砦こそがセントヒルとガルドヒルの両国をつなぐ事実上の関所だった。
セントヒルとガルドヒルは建国以来友好関係を結んできた。というのも、この両国はもともと一つの大国であったからだ。
急な傾斜となだらかな丘陵地帯が交差するこの広大な国を分かつ原因となったのは、王家に生まれた双子の男女の争いが元だというのは、この国の国民でなくとも誰でも知っている歴史である。国が二分されてからは、国土が広大なためか、互いに侵略を企てようという気にはなれなかったのだろう。セントヒルを女王が支配し、ガルドヒルを王が支配するという歴史が続いていた。
「まさか……」
リバーサイド砦の方角の空に立ち上る黒煙を見つけ、絶望の声を上げたのは女だった。女と言っても、ただの平民ではない。白銀の軽鎧を身につけ、颯爽と白馬の手綱を操るその凛々しき姿は、まことに一介の聖騎士そのものであった。
「あの 狼煙には、死者の怨念に満ちています……おお、守るべきものを守れなかった者たちの無念が、悲鳴を上げながら空に還っていくようだ」
女の隣に並びそう言ったのは、同じく白馬を優雅に乗りこなす騎士であった。
「リバーサイド砦はこの世界で最強の防衛力を持っている! あれは援軍をためらわせる敵の策略だ!」
女は叫び、その 碧の瞳で黒い線が伸びていく砦を凝視した。その瞳の切羽詰った悲壮感は、言葉とは裏腹に明らかな動揺を示唆していた。
「 剣聖、ここは引き返すべきかと。敵は頭の働く神の子ではない、魔王の 堕とし子ですぞ!策略など、やつらの醜い頭の中には露とも浮かんできますまい」
リバーサイド砦は守りとしては完璧な備えだが、敵の手に落ちたとなると事情は一変する。砦とは、裏返せば攻勢の拠点とも成りえるのだ。
「この目で確かめるまでは、貴様の抗弁を認めるわけにはいかぬ! ゆくぞ!」
剣聖と呼ばれた女は白銀の兜の面を下ろし、白馬の尻に鞭の一振りを与え、リバーサイド砦へと馬を駆らせた。意見を申し立てた騎士以外の聖騎士たちも、皆不安を黙して剣聖の後を追う。
「あんな小娘が指揮者だと? 一個小隊が全滅になるかもしれぬのだぞ、くそっ!」
結局、剣聖に異を唱えた騎士もしぶしぶと鞭を振り、後に続いた。
遠目から見た黒煙は、確かに砦のあちこちから立ち上ったものだった。丘の上から見下ろした砦は、黒く 蠢くもので埋め尽くされていた。
「悪魔に魂を売ったガルドヒルの下衆どもめ……! これは…ここまでとは……!」
セントヒルの最も重要な守りの要であるリバーサイド砦は、完全に陥落していた。砦を埋め尽くしていたのは、人外の異形だったのだ。はっきりと見分けはつかないが、鎧を身につけた獣もいれば、不定形に身体を歪ませる液体状の生物もいた。赤く染まった棍棒を抱える人豚もいれば、小盾と槍とを構えた 鳥人もいた。
「コボルトやオークのような知能の低い生物はともかく、我々と同程度の知能を持つ鳥人族までもが、なにゆえ……?」
騎士の一人が震える声で呟いた。
「私は、知っている」
剣聖は、騎士の言葉に答えようとした意図があったわけではないが、静かにうなされるように言った。
「 魔族や 妖精はおろか、人や 高等種族すら操る魔術師を、私は知っている」
腰に下げた白銀のレイピアに手を沿え、剣聖はなんとか震えを押さえようとした。
「あの時、やつの狂気が、私の剣先を鈍らせたのだ……! あの時、この手でやつを殺めていればこんなことには!」
「誰です、その魔術師は?」
「なんという名なのです?」
剣聖から初めて聞く告白に戸惑いながらも、騎士たちは次々と質問をぶつけた。
「やつの名はエクシス。生物魔術を極めた、洗脳の術師だ」
その名と、その邪悪さと狂気を知っているのは、剣聖唯ひとりかもしれない。これだけの所為を侵しながら、自国の戦士の誰もがその名を知らぬのだから。
「剣聖、これでお分かりになりましたでしょう? ここに長居は無用ですぞ!」
先ほど剣聖に抗弁をした騎士がまたも進言した。さすがの剣聖も、この騎士の意見を無下にするわけにはいかなかった。
「すまぬ。皆、下がるぞ。最後の生き残りが崩落の仕掛けを押したのか、化物共が勢い余って壊したのか、こちら側への橋は崩れている。あの大群がこの急流を渡る術を見つける前に、一度王宮に帰還する」
剣聖が言い切った刹那、下方の崖よりいきなり数匹の鳥人が目の前に上昇してきた。
「!!!」
不意打ちを食らった一人の騎士に鳥人たちは一斉に槍を突きたて、狂喜の雄たけびを上げた。
兜と上鎧の隙間を突かれた騎士は絶叫を上げるいとまもなく、鈍い金属音を鳴らして馬の背から大地に倒れこむ。
「退け、退けっ!」
剣聖は男にも勝るとも劣らない大声を上げ、急な襲撃に身体を固まらせていた騎士たちの呪縛を解いた。異常事態を察知していたのだろう、馬は鞭が触れるより早く退路を駆け出していた。
「ほれ見たことか! 貴方の軽率な判断が仲間の一人を屍に変えたのだ!」
「今はそんな事を言ってる場合じゃないぞ、ケルド!」
隣の騎士がケルドと呼んだのは、剣聖に何かと突っかかる騎士だった。
「くっ! やつらの翼は馬より速く、やつらの槍は剣より長い。これは厄介だぞ!」
ケルドの言う通り、丘を走り出した馬の後を、五匹のバードマンが隊列を組みながら追いかけてきた。
「お前の腰に付けてるものは騎士ごっこの道具か、ばか者!」
剣聖は苛立ちながらケルドを叱りつけた。
ケルドの腰には、大きさこそ頼りないとはいえ、矢を射出できるリトルボウガンが携えられていたのだ。
「撃てと仰るのですか? この、全速力で駆ける馬の手綱を離し、身を振り返って片手で矢をつがえ、あのすばしっこい鳥人間に気休め程度の矢を撃てと? 冗談じゃない、ほれ、馬の 蹄が岩を蹴り砕いた。今手を離したら馬から転げ落ち、腐肉をつつく疫病カラス共のくちばしよろしく、バードマンの槍があたしに突き刺さることでしょうよ!」
ケルドはしつこく反抗した。剣聖はしばし逡巡したが、ついに決断した。
「みな、馬を飛び降りろ! ここで迎え討つ!」
林などがあれば大層有利であるが、ここは無限に続くと錯覚するほど広い丘の国。馬が起伏を乗り越える度に、地形に速度を左右されない鳥人共は着々と騎士団に近づいて来る。
このままでは脊柱から腹にかけて槍を突かれるか、手元のミスで馬から転げ落ちた騎士が抵抗の余地もなく串刺しにされるかの二択しかない。
ならば、戦うという第三の選択肢を選ぶのも最悪の展開ではない。
「剣聖、貴方にはつくづく……今飛び降りれば、起き上がるいとまもなく―――あっ!」
ケルドは言いかけ、悲鳴に近い驚きの声を上げた。なんと、剣聖自らが先陣を切って馬から飛び降りたのだ。
丁度登り斜面に差し掛かったところで剣聖は馬から飛び降り、斜面と重力のバランスを上手く扱いながら傾斜を登るように転がり、ほとんど隙も残さないまま細剣を腰にかけた鞘から抜き取った。そしてそのレイピアひとつを片手に、流動的な動きでバードマンの群れに突撃していった。
騎士たちが振り向いた時には、剣聖は槍の嵐をかいくぐり、バードマンたちの反対側へと回りこんでいた。一体のバードマンが胸の一点から血を噴出させ、力なく地に伏せた。
これ見よがしと騎士たちは馬から飛び降り、転がりながらも体勢を整え、剣を構えて起き上がった。
バードマンたちの間に一瞬動揺の稲妻が走ったが、彼らはすぐに道理をわきまえた―――すなわち、槍が届く範囲、剣が届かない範囲まで上昇し、滞空体制を取ったのだ。
「来い、エクシスの 傀儡ども!」
ぎゃあぎゃあと騒ぎ立てるバードマンに、剣聖は大気を振動させるような由々しい声で一喝した。
バードマンの注意を一身に引き付けた剣聖は、にやりと面の下で笑みを浮かべた。
「射れ、ケルド!」
分かってますよ、といわんばかりに、ケルドは鳥人たちの翼めがけて矢を打ち出した。素早く矢をつがえ、ケルドは確実に翼の生えた 傀儡を狙い落とす。翼を射抜かれ、致死のダメージは与えられないが、バードマンたちは体勢を崩して降下してきた。
そこに、聖騎士たちは幅広の剣を構え、一斉に切り込んで行った。
闘いは騎士たちの一本攻めという形で進み、とうとう地を走るという方法を取った最後の一匹が、折れた槍の先端だけを持って剣聖に突撃した。
空を支配する翼も、剣先を制する槍も、高い知能と理性をも失った鳥人など、もはや剣聖の敵ではなかった。
「屍になって、エクシスに伝えるんだな。今度こそ、剣聖は貴様の野望を打ち砕く、と」
振るったレイピアに紅い華が咲き、剣聖はその紅き花吹雪の中、堕ちた鳥人から優雅に立ち退くのだった。