果樹園と遠くの山並み 4
土曜日の朝はふわりとほこりっぽい春のやわらかな風が吹くよい日だった。
愛里寿は長年履きこなして、今日の空のように淡い青に色が落ちたボタンフライのストレートジーンズにえり先と胸元にワイルドフラワーの刺繍が入った白のカッターシャツを合わせて、いつもの黒のスナップカーディガンを羽織った。
「あ〜う〜ん。こ、これでいいか。」
気温と運転のしやすさと今日の連れとの年齢差を考えたが、愛里寿には答えが出ず、とりあえずの着まわしセットコーディネートに落ち着いてしまった。
そして寒かったら羽織るつもりで、裏地がパイルになったフェイクレザー生地のベージュのポンチョケープを後部座席に積んだ。
「う〜む。弁当はいらないと言われたし、道順は国道から天狗山に抜けて、フルーツ街道を通ってから余市のウィスキー工場と、カーナビに頼るほどでもないし、あと何を準備すりゃいいのかな?……」
愛里寿は車から少し離れて顎に手を当てて考えた。
「財布にスマートフォン……クッションとブランケット?いまさら準備出来ないなぁ。翡翠んちで聞いてみるか。」
ちょっとした気の重さを感じながら、ドライバーズシートに腰を下ろし、本物のバスのように横に寝た細身のハンドルを握った。
翡翠の家は同じ町内にある濃紺の壁にボルドーの屋根の北欧風の建築だった。
「こんなに近いのかよ。知らんかった。」
停車すると玄関先には、翡翠がミモレ丈のミント色に小花柄のワンピースにレギンスを履き、ぺったんこの靴で立っていた。彼女の足元にはトートバッグが置かれていた。
「おはよう、翡翠。久しぶりだね。」
「おはようございます。愛里寿さん、お久しぶりです。愛里寿さんも変わらないですね。」
「変わらなさすぎでちょっと飽きたよ。もう少し成長したいね。それより寒くないかい?」
「ええ、実は。早く車に乗りたいです。」
「いや、上に何か着ないとダメだよ。札幌から離れるとまた少し気温が下がるよ。」
「えっ!?マジですか?」
「マジ。」
「とってきますわー。」と翡翠は家に戻るのと入れ違いに彼女の母親がコートをまとって出てきた。
「お久しぶりです。こんなに近かったんですね。」
「元気だった?そうね。わたしもびっくり。今度遊びにきてね。」
「はい。うちにもきてください。」
「ええ。」
微笑みを浮かべる愛里寿の母の後ろからセーラージャケットを羽織った愛里寿が駆け寄ってきた。
「また変わったファッションが好きだなぁ。」
「愛里寿さんには言われたくないですね。」
「どっちも似合っていればいいわよ。早く行かないとお友達が待ってるでしょ。」
「こりゃいけない。早くゆきましょう。」
「はいはい。じゃあ、行ってきます。」
翡翠は助手席に乗り、シートベルトを締めた。アリスが車を発車させると、すぐにメッセージアプリを立ち上げて、ぽちぽちと打ちはじめた。
「今度はまたずいぶんとかわいらしい車にしたんですね。」
「う〜ん。あれに似た自動車って、あんまりないんだよね。だから、ちょっと方向性を変えてみた。」
「たくさん人が乗りそうですよ。」
「軽自動車だからね、四人が限界。あと居住空間が広い分だけ荷物が積めないみたい。」
「だから屋根に積めるようにしたんですね。」
「いや、あれは初めからついていた。」
「ほー。あっ、あそこです。女の子が立っているでしょう。」
ああとうなずいた愛里寿の目には、レンガタイル壁にスレート風の屋根の洋風建築の家の前にまよりとしろが立っていた。
リブセーターとダウンジャケット、デニムのショートパンツに濃い色のストッキングに包まれた足をロングブーツに突っ込んだ少し大人っぽい服装に、大きなマフラーとチベタンキャップで年相応の可愛らしさを演出したまよりは両手で大きなバスケットを持っていた。
そしてエナメルのハイカットスニーカーにベイカーパンツをあわせ、黒のタイトなハイネック、タラタラのパーカーとロングのモッズコートで一見、男の子っぽいが女性らしさを隠せない容姿のしろはリュックを背負っていた。
愛里寿と翡翠が車を降りるとまよりが愛里寿に一礼して挨拶をした。慌ててしろもぴょこんと頭を下げた。
「はじめまして。急なお願いに応えてくださってありがとうございました。」
「おはようございます。今日はよろしくお願いします。」
「え〜っと、二人ともいつもとふいんき……。ま、まあよろしいです。えっと、こちらが伏見愛里寿さんです。わたしの友達です。
で、ダウンジャケットの彼女が春辰宮まよりちゃんでリュックの彼女が虎城しろさんです。」
よろしくお願いしますと二人同時に首を深々と下げた。それを見て愛里寿も慌てて両手を横に振った。
「あ〜、その、そんなにかしこまらなくっていいから大丈夫だよ。わたしも翡翠のともだちだし。あとこの車での遠乗りは初めてだけど、運転歴は長いから安心してね。」
「はい。わたしたちは後ろですか?」
「うん。二人とも後ろでお願い。荷物は後ろに積めそう?」
「大丈夫です。」
愛里寿がカーゴルームのドアを上に開けるとしろはちょっとよそ行きの言葉でまよりのバスケットを受け取り、自分のリュックとともにカーゴルームに置いた。
背伸びをしてドアに手を伸ばす愛里寿のとなりでしろがヒョイとドアの端をつかんで締めた。
「あ、ありがとう。」
「いいえ。」
すこし耳が赤らんだ愛里寿だったが、素知らぬ顔をして後部のスライドドアを開けて二人を乗せた。
「このポンチョはどうしたらいいですか?」
「あっ、ごめん。後ろに置いていいから。」
「愛里寿さん、このポーチはどうします?」
「それはカメラが入っているから、翡翠が持っててくれないか。」
「あっ、はい。気をつけます。」
「うん、まあ、そんなに壊れやすいものではないから大丈夫だけど、気をつけてね。じゃあゆくよ。」
愛里寿は全員がシートベルトを締めたことを確認したところで、まよりによく似た彼女の母親が出てきた。愛里寿は車を降りて挨拶をしようとしたが、まよりの母はそれを押しとどめて、窓越しに挨拶をし、彼女に見送られて車を発進させた。
「今日はどこに行くの?」
「えぇっと、とりあえず国道を小樽方向に進んで、フルーツ街道を目指す。そこから余市のウィスキー工場にゆこうと思う。」
愛里寿のルート説明に翡翠が首をひねった。
「どうしてウィスキー工場?」
「職場の先輩にお土産を強要された。」
「あー。」
「社会人、お疲れ様です。」
後ろの二人が愛里寿にいたわりの言葉をかけた。
深いため息をついた愛里寿は「ありがと。」と呟いて、山沿いの広い道に出た。
体重の軽い女性ばかりとはいえ、定員いっぱいの乗車ではアップダウンのある道で周囲の速い流れについてゆくのが精一杯だった。翡翠は車内の様子を眺めているとしろが頬をついて窓の外を見ているのが横目に入った。
「しろさんは車が苦手なんですか?」
「ん〜ん。」
「しろは……」
「いいーの。」
「なんですかー?どうしたんですかー?」
「いーの。つまんないこと。」
「気にしなくっていいわよ。勝手にちょっとスネているだけで、すぐに機嫌が直るわよ。」
「そ、そう?な、なんか、ごめんなさい。」
「……ウチこそゴメンな。つまんないことで。」
メンドクセー。
心の底で叫んだ愛里寿は新しいナビのオーディオとBluetoothで繋いだミュージックアプリのアルバムの音量をあげた。
「あっ!?」
「ファッ!?」
「なに大きな声あげてんのよ。」
まよりがしろをたしなめた。しろは助手席のヘッドレストに両手をかけて、運転席と助手席の間に顔を突き出した。
「これ!ウチのおとーさんも好きなアルバムだ。アコースティックギターのジャズだなんて愛里寿さん、いい趣味してますね!!」
「へっ?ああ、ありがと。」
「愛里寿さんは昔からこんな感じのばっかり聴いていますよね。」
「そんなこともないけど、嫌いじゃないよ。」
「わたし、わたし……」
しろは何組かのアーティストの名前を出して、それに愛里寿がすこし引き気味に答えることを繰り返した。機嫌が戻った様子のしろの声を聴きながら翡翠は肩の力を抜いた。
緩やかな丘の道路から片道三車線もある大きな国道に出ると、途端に大型のダンプやトレーラーが増えた。自動車の流れもさらに速く、大型車にとなりの車線で追い越しをかけられて、愛里寿の車がふわりと風圧に負けることもあった。
後部座席からまよりが愛里寿に声をかけた。
「意外と風にあおられるものですね。」
「軽自動車って、こんなもん。」
「そうなんですね。翡翠さんは北海道に来てから初めての遠出だって話していたわよね。どう?」
「あ〜そうですね〜。東京に比べて自動車の流れっていうんですか?巡航速度が早いですね。あと風景は正直、本州とあまり変わらないような気が。道はすごく大きいですけど。」
翡翠はフロントウィンドウ越しに見える風景に目を向けながら答えた。
「ここらは開拓時代から小樽の港やその向こうの余市やらニセコなんかを経由して函館までを繋げて、農産物や船便の貨物を輸送する主要な国道だから道幅も広いし、大きな倉庫や工場のような建物が並んでいるんだ。今でこそ、石狩寄りにもう一本開通して流れがよくなったけど、昔は大型車で渋滞していたらしいよ。」
愛里寿は左手をハンドルの上にずらして、人差し指で左右を指し示した。
「へぇ。じゃあ、ずっとこんな感じなんですか?」
「いや、もう少しゆくと海も見えてくるし、小樽に入ってからが本番だから。」
「楽しみにしますね。」
「後ろのは、春辰宮さん?と虎城さんは地元だよね。退屈じゃない?」
「大丈夫ですよ。」
「ウチも問題ないです。それより、なにか食べますか?ウチ、朝ごはん抜いてきたから、お腹がペコペコ。ホントにださーって思うわ。我ながら。」
「そういえば、わたしも食べてこなかったですね。まよりさんは?」
「わたしはゼリー飲料を飲んできたから大丈夫よ。愛里寿さんはどうです……すみません。運転中は食べられませんよね。」
「そんなこともないけど、お腹には物を入れてきたから気にしなくっていいよ。それよりなにかもってきた?」
「あっ!わたし、いいもの持ってきたんですよ。こちらで初めて食べたんですけど、はまっちゃいました。」
翡翠が足元のトートバッグから取り出したのは、真四角で平たいパンのような茶色いお菓子だった。一つ一つがスマートフォンよりも大きなそのお菓子を見て、リアシートの二人は顔を強張らせた。
「えっ?」
「ウチ、久しぶりに見たかも……おじいちゃん家にあったよ。」
「えっ!?えっ!?なんですかその反応は!?おいしいじゃないですか!!」
三人の会話に現物を目の端で確認した愛里寿は苦笑いを浮かべた。
「いや、まあ……おいしいけどさ。でも食べるとすっごくのど乾かないか?わたしなら牛乳と一緒なら食べたい。」
「あー、牛乳!!なんか子どもの頃思い出すー。味噌味がしょっぱいけど、牛乳と一緒に食べるといけたよーな気するわー。」
「そうなんですか?わたしはまだそれを試したことがないですけど、興味がありますね。」
「わたしも懐かしいな。でも、飲み物が欲しくなるから違うのがいいかな。」
「そ、そう言うならまたあとで食べましょうか。」
肩を落とした翡翠はさみしそうにバッグに味噌パンを戻した。
しろは気にせずに振り向いてカーゴルームから自分のリュックを引っ張り出した。そして中からマシュマロの入ったおしゃれなカップを取り出した。
「これなら汚れないし、食べやすいよ。」
「マシュマロかぁ。しろ、わたしもつまんでいい?」
「モチのロン。翡翠ちゃんも愛里寿さんにあげて。」
「あっ、はい。色によって味とかが違うのかしら。まあいいや。」
まよりと翡翠はしろの持つカップに手を伸ばした。翡翠は手のひらに乗った黄色と水色のマシュマロを愛里寿の視界に入るところまで差し出した。
ちらりと見た愛里寿は水色をつまみ上げて口に入れた。
「普通のマシュマロだ。」
「色だけでしたね。可愛いですけど。」
「ふわふわなのが癒されるよ。」
「少し食べただけでもすぐにお腹がいっぱいになるよねー。ココアに浮かべてもおいしいし。」
「ああ、聞くね。わたしは炙って、固くなった皮みたいなやつを抜いてそれだけを食べるのが好きだ。」
「マシュマロを炙るって聞くけど、あれってむずかしいですよね。家のガスレンジでやって見たけど、マシュマロが焼ける前に手が火傷してしまいましたよ。」
「翡翠ちゃんは何に刺したの?」
「フォークですよ。」
「それは……熱が伝わるでしょう。当たり前よ。」
呆れたようにまよりが後ろから声をかけた。
「木の枝でやるよりいいかなって思いまして。」
「そんなのどこにあるの?」
「えっと、公園で拾おうかなって。」
「汚ねぇ。」
「えっ?アウトドアで拾うのと一緒じゃないですか?」
「あれは気になるようだったら、ナイフで皮を削って火で炙るといいだろ。」
「マシュマロを炙る前に枝を炙るって炙ってばっかりじゃん。」
何がツボにはまって面白いのか、しろは笑い出した。