果樹園と遠くの山並み 1
ディーラーのサービスから懇切丁寧に説明を受けた愛里寿だったが、愛車の現状はエンジンを含めた駆動系の部品を総入れ替えするレベルでの故障であると聞き、深いため息をついて諦めることにした。
そのまま、横にいたセールスの女性からかなり甘めに査定してもらったが、雀の涙ほどの下取り金と目標金額の設定をまだ大きく下回る自動車購入貯金を足して、それを頭金にした予算の中で、いくつかの中古の軽自動車の見積もりをもらい、自宅に戻った。
バスを利用したがうまく乗り継ぎができずにバスターミナルから三十分ほど歩いた愛里寿はかかとの痛みを感じながら、ゆっくりと湯船に浸かった。
「普通自動車は税金とか維持費を考えるとやっぱり手が出しにくい。あの車を引き取って下取り金も出してくれることを考えると違う会社の車も不義理だしな。ムゥ。むずかしいぞ。」
愛里寿はコリをほぐすために肩を回して、首のストレッチをした。そして肩甲骨周辺やふくらはぎをストレッチや両手で揉みほぐして、湯船から上がった。
パジャマに着替えた愛里寿はまだ寒い夜に湯冷めしないように灯油ストーブの前に敷かれた長い毛足のラグの上に腰を下ろして、フリースのブランケットを羽織った。
そして目の前にはディーラーのセールスに提案された軽自動車の見積もりとノートパソコンをおいた。
「……喉、渇いたな。」
愛里寿はそう呟いて冷蔵庫の扉を開き、昔からある白地に赤い丸がデザインされたラベルの栄養ドリンクの茶色い瓶を取り出した。またストーブの前に戻った愛里寿は蓋を開けて、瓶をあおった。甘みと炭酸の強い冷たい刺激が喉を流れた。
愛里寿は車名をパソコンのブラウザの検索窓に打ち込んだ。
すぐに結果が並び、そこからインプレッションや写真を眺めていた。
「むう、軽乗用は居住性は良さそうだけど、やっぱり荷物は詰めなさそうだな。かといってワゴンタイプは若干値段設定が高めなような気がするし……」
カタカタと打ち込んでは検索を繰り返しているうちに愛里寿はある一つの車種に目を留めた。
「あっ。これ、かわいいかも。」
愛里寿の気を引いたのはレトロ風なツートンカラーに塗り分けられたワゴンというよりもバスのような外観の車だった。
「シートは前のよりも薄いけど、ベンチシートだから大きいのかな。内装もかわいいな。装備は……やっぱり今のだから充実しているし……うん?荷室が小さいか。その分、後席が広いのかな。ああ、スライドできるのか。まあ、どうせソロだから後席は畳んでいてもいいか。そう考えると後席を取り外して椅子にできるあの車はやっぱり優秀だったなぁ。」
多少の不安はあるもののおおむね気にいった愛里寿は見積もりの書類を手にとった。
「うぐっ。ま、まあ、年式から考えるとこんなものか。」
ため息をついた愛里寿はノートパソコンのモニターの隅についている時計に目を移した。
「ふぁぁ〜。さて、寝るか。」
パソコンを閉じた愛里寿はストーブの電源をオフにして、火を落とした。肩からかけていたブランケットは椅子の背もたれに引っ掛けた。
階段の手前の壁のスウィッチでリビングの照明を消した。急に暗くなった部屋の急な階段を登るために愛里寿は右手を壁に当てて、ゆっくりと登った。
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自動車購入の検討をしはじめてしばらく経ち、昼休みの私用電話を終えた愛里寿の隣に先輩女性社員がマグを片手に来た。
「結局、車を買ったの?」
「えっ?あっ、はい。新古車っていう中古車なんですけど。」
「新しいのか、古いのか、よくわからないわね。」
「ディーラーに展示していた車両がマイナーチェンジで型落ちになるので、中古車として売るんだそうです。一応登録してあるから中古車なんだけど、ほぼ走っていませんし、フルオプションですから、お買い得らしいです。」
「へぇ。それでまたソロツーリングに行くの?」
「そうですよ。」
「いいわね。結婚するとなかなか一人で出かけることが難しくって。」
「ああ美玲さんはバイクでしたものね。」
「うん。またシーズンじゃないんだけど、この時期ぐらいからいつもそわそわして、ツーリングマップを開いてはルートを妄想してるわ。」
マグの緑茶を飲んだ美玲は肩をすくめて、「まあ、バイクは手放しちゃったんだけどね。」と苦笑いした。
「もったい無いことしましたね。」
「旦那の自動車もあるから駐車場の問題もあるし、結婚って、思ったよりお金が掛かるのよ。」
「わたしはしばらくする気がありませんし、そもそも相手もいませんから、問題はないですね。」
「うらやまし。」
微笑んで美玲は自席に戻った。
その週の土曜日、愛里寿は購入した自動車の受け取りにディーラーに向かった。
すでに購入車両は店舗横の駐車場に用意されており、セールスから一通りのレクチャーを受けて、鍵を渡された。
ルーフからウインドウの下までがホワイト、そこから下は薄いパステルブラウンの車体は大きなエンブレムの周囲に飾られたヒゲや丸いヘッドライトのカバー、ウィンドウサッシなどにメッキが多用されている。
ルーフにはモンテカルロラリーに参戦していた頃の1962年のBMCミニ・クーパーが積載していたようなパイプフレームのキャリアがオプションで装着していた。
大きめのドアを開き、運転席に腰を下ろすと、意外なほど窓がせまく感じた。
プッシュボタンを押し、エンジンをかけると軽快で乾燥したエンジン音が聞こえてきた。いまどき珍しい手動で開閉できるフロントドアの三角窓の下についているコントローラーを動かし、ミラーを調整した。
横に立っているセールスとサービスの人に会釈をして、愛里寿はアクセルを踏んだ。
「んん〜座席が高いから見やすい。でも、なんとなくバスを運転している気分になるな。」
バスと歩きの時とは違い、あっという間に自宅に着いた愛里寿は玄関先に車を止めようとしてギアをバックに入れた。すぐにモニターが車の後方を映し出した。
「ふぉぉぉぉ……」
玄関先の柱に近づくと警告音がなり、愛里寿は切り返しを繰り返して、家の前に写真写りの良い角度で停車した。
愛里寿は車を降りてスマートフォンで写真を取り、友人の夏虞夜兎月に送った。
ピロリン。
すぐに夏虞夜兎月から返事が届いた。
『いいね。』
『思ってたよりもいいよ。オプションも多いから楽しいよ。』
『そりゃそりゃ。試し乗りはすんだ?』
『まだこれから。どこ行くか思案中。』
『ねぇ。頼みがあるんだけどいい?』
『むぅ。内容次第だな。』
『うちの家族がそっちに引っ越したじゃん。』
『Uターンだっけ?』
『そう、パパが早期退職で札幌で仕事してんだ。』
『ふーん。それで?』
『いやー。翡翠をね、ドライブに誘ってやってほしーなー。』
『翡翠ちゃん?こっちの学校に入学したんだ。』
『そうなの。』
『確かわたしらの後輩だった気が。』
『そう、中高一貫だったからもったいないよね。でも、わたしが忙しいから翡翠の面倒見れそうもないからって決めたんだよ。』
『あー』
『なんじゃおら。』
『自覚はあるだろ?』
『まーねー。思っていた以上に忙しすぎて。海外出張も多いしさー。三者面談だとかPTAとかは出ることができないだろーねー。』
『翡翠ちゃんは納得してた?』
『んー?はじめは嫌がってたよー。当たり前だけど。』
『だろうね。』
『どーだろー。』
『いいよ。』
『ありがとー。翡翠に伝えるねー』
アプリを閉じてスマートフォンをジーンズの後ろのポケットにしまった愛里寿はため息を漏らした。