新生活と新友人 1
新しい登場人物の章です。
夏虞夜翡翠は引っ越しの片付けがやっと終わり、一階に下りて作業中の洋服を脱ぎ捨てて、シャワーで埃を洗い流した。
さっぱりとした表情で新しい家のリビングのソファに腰を下ろして、ペットボトルの冷たいミルクティーを飲みながら、スマートフォンのメッセージアプリを立ち上げた。
『悲報。』
『なに?』
『愛里寿氏、自動車故障にてサービスエリアで立ち往生。』
『草』
『なお、うちのパパの電話ヘルプにて助けられる模様。』
『父、やりおる。』
『でどうなったの?』
『無事に家に帰ったけど、車はもうダメみたい。』
『かわいそう。』
『もう自動車の寿命みたいだね。』
『そんなことがあるんだ。』
『それはともかく、引っ越しの片付けは終わったの?』
『さっき終わった。こっちは寒い。』
『そりゃ北国だからね。来週から学校だから、風邪を引かないようにね。』
『りょ。』
スマートフォンのアプリを閉じた翡翠はソファに横になり、澁澤龍彦の文庫本を開いた。
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高校の入学式も終わり、クラスのグループが決まりかけている時期、翡翠は図書館の机に向かっていた。本を読むうつむいた彼女の横顔に長い黒髪がかかっていた。
暖かい室内は人気がなく、午後の光が柔らかく差し込んでいた。
小さくため息をついた翡翠は本を閉じた。
「古い学校だけあって、蔵書が多くていいですわね。」
「そうなんだ?」
「はぁっ!?」
大きな声を上げて振り向くとそこにはどこかで見かけたようなセーラー服の女子生徒が二人立っていた。
人差し指を口に当てて、静かにというジェスチャーをして、いたずらっぽく笑う一人はロングヘアをポンパドールにした大人びた背の高い少女ともう一人は翡翠と同じくらいの身長で濡羽色のショートヘアで微笑んでいる落ち着いた印象を受ける少女だった。
「えっと?」
「やっぱり、ウチらの顔を覚えてないんだ。」
「えっ?ご、ごめんなさい。」
「同じクラスですよ。」
「ふあっ!? まじでっ?じゃなくって、ほんと、ご、ごめんなさい。」
「いいですよ。夏虞夜さんは読書が趣味みたいですね。」
「えっ、あ〜、そ、そうですね。あの、お二人共、わたしの名前は覚えてくださっているようですが?」
「モチのロン。めずらしい名字だもん。」
「あ〜ですよねぇ。わたしも親戚以外でお会いしたことがありませんし。それで、何かご用事でも?」
「ん〜ん。ウチら、夏虞夜さんにフレンド申請しよっかなーってさ。」
「フレンド申請?えっと、その、もしかするとお友だちになりたいっていう意味合いのことですか?」
「そうですね。ダメですか?」
「ダメって……同じクラスですから、そんなことはありませんよ。あの、先にお二人のお名前……すいません、わたしが悪いですね。」
「ん〜ん。ウチの名前は虎城しろ。トラのお城って書いて、しろは平仮名でよろしく。」
とここまでは明るいながらも普通の挨拶だったが、次の瞬間、しろは一言ごとに翡翠への間合いを詰めて来た。
「でっ!!」
「はい!?」
「ねぇえ!!」
「えぇ!?」
「ひどいと思わない!?」
「な、なにが、でしょう……か?」
「しろって、猫の名前だよね!!おばあちゃんが大好きだった自分のおばあちゃんの名前をつけたんだって!!おばあちゃんは大好きだけど、でもね!!シワシワネームを通りこしてペットネームじゃん!!
も〜おっ!!も〜おっ!!ってかんじだよ!!
だから、わたし、友達にはこじょーって呼ばせてんだよ。」
「お、おう……。よろしく、虎城さん。」
「よろっ!!」
左手を肩まで上げて笑顔のしろの肩を掴み、引き戻したもう一人の少女が苦笑を浮かべながら前に出た。
「しろは名前に関してはとてもセンシティブだから、気をつけてくれると嬉しいです。わたしは春辰宮まよりと言います。しろに負けず劣らずであれな名前なんですけど、仕方がないですね。お好きに呼んでくれていいですよ。」
「あっ、はい。春辰宮さん、よろしくお願いします。って、春辰宮さんは虎城さんのことをしろって呼んでも大丈夫なんですか?」
「まよりは赤ん坊の頃からの友達だし。も、いっかなって感じ。それより夏虞夜さんは呼んでほしいリクはある?」
「わ、わたしは別に、特にありませんけど。」
「そう。ところで、場所を移しませんか?図書館でお話はダメですし。特にしろは声が大きいですし。」
「なんだってー!?って、ウソ。知っているから。ごめーんね。さっ、いこ。」
「あっ、ああ、はい。」
「ちょっと待って。」
しろについて行こうとする翡翠に声をかけたまよりは彼女が持ってきた本の片付けを手伝い、三人は学校を出た。
芝生が多く開放的な広い高校の敷地を出るとすぐに大きなスーパーマーケットがあり、そこの前のバス停には行列ができていた。
翡翠たち三人も下校の生徒たちの行列の最後尾についてバスを待った。
静かに並んでいた三人だったが、急にしろが大きな声を上げて二人に話しかけた。
「ちょ!?マッテマッテ、ウチらって春夏秋だよねー。」
「春夏秋?」
「しろは虎じゃない。」
「……虎城さんは東洋の神話の四神に対応すると天文概念の五時のことを言っているんですか?白虎は秋を表す神様ですから。」
「ああ、しろとらで白虎、白秋ね。しろもよくそんなこと知っていたわね。」
「イェア。」
しろは両腕を折りたたんで上下させて楽しそうに踊った。
「そうなると、冬が欲しいところですわね。」
「亀か黒がいないかな?北でもいいけど。」
「そこは素直に冬を探した方がよくない?」
たわいのない名前の話をしていると白と青で塗り分けられたバスがやってきた。
バスの車体の電光掲示板で路線番号を確認した生徒たちのうち、数人が自分の乗るバスではないことを知ると後ろに下がった。
翡翠はバスに乗るために歩きはじめるとまよりとしろも付いてきた。
「同じバスだったんですね。」
「きのうもそばにいたのにねぇ。」
「そだねー。」
「エェッ!?それはごめんなさい。」
「気にしなくっていいわよ。」
「わたし、人の顔を覚えるのが苦手でして。」
「一番前の席だし、後ろ見てなかったし、しゃーないってば。」
「それはそうと、夏虞夜さんは東京から来たんでしたっけ?」
「そうです。父が早期退職で地元に戻ることになったので、付いて来たんですの。」
「えぇ〜?ウチだったら、そのまま東京に残るのに。」
「わたしも友人とも別れがたかったですし、姉があちらで仕事しているので残りたかったのですが、なにぶん姉の仕事が忙しすぎて、保護者たり得ないと父が決めまして。」
「お姉さんはそんなに忙しいんですか?」
「ええ、ちょっと、官僚などをしていまして、勤めはじめてから姉の姿を見た覚えがありません。」
「えっ、夏虞夜さんのおねーさん、めっちゃ頭いいーんだ。」
「そんなことはないですよ。ちょっと要領がいいだけです。あと、勉強にスキルが傾斜配分されすぎて、家のことはかなりダメと言いますか……」
「そういう人おるわー。どっかにおるわー。」
「しろはなぜ、わたしの方を見ていうのかしら?料理はわたしの方が上でしょ。」
「んぐ、それは否定しがたい。でもさ、まよりのママはもっとすごいじゃん。」
レベルたかそうだなぁ。
翡翠は二人の新しい友人を横目に心の中でつぶやいた。
古城しろはその口調と発言が軽そうに見えるが、明るい髪の色とキリリとした切れ長の瞳がよく似合った人好きのする美少女で、春辰宮まよりは小柄ながら抑揚の効いたプロポーションに和風の淑やかな美しい顔の少女でしっとりとした声色は側で聴くと耳をくすぐられるような癒しを感じた。
絶対クラスカーストでも中心のハイランクに属していそうなんだけどなぁ。
そんな二人が知的と言えば聞こえがいいが地味な顔立ちで、新学期がはじまって一週間以上経つのにクラスメートの顔と名前も覚えていないようなアウトサイダーの自分に声をかけてくるのが不思議だった。
かといって、その理由を問うような度胸もなく、とりあえず微笑みながら二人の話に頷いていた。
二人は翡翠の一つ手前のバス停で下車してゆき、ホッとため息をついた彼女はスマートフォンを手にした。
「あっ、連絡先、登録するの忘れた。まっ、いっか。」
翡翠のささやかな胸の奥が少しだけ暖かくなるのを感じながら、彼女はまだ下校途中の学生が多いバスの中を泳ぐように下車口に向かった。