早春のソロドライブ 2
ちょっとの間は毎日で予約投稿させていただいています。
よろしくお願いします。
次の日、早朝と呼ぶにはまだ早い午前4時にスマートフォンが光と振動とチャイムと全てを使って愛里寿の覚醒を促した。
ふぁぁぁ…
あくびとともに身を起こした愛里寿はまだ開かない目で窓を開けた。
水気を含んだ冷たい冷気が顔に当たる。
雨は上がっているものの濡れた黒い路面は街灯を反射していた。
「うぅっ。起きるか。」
窓を全開に開いて、ベッドの上でずれた布団を直した愛里寿はまた窓を閉めて、階下に向った。
顔を洗った彼女は番茶をすすりながら、気象庁のホームページで時間予報や気温、雨雲の動きをチェックした。
一つため息をついた愛里寿は空になった湯呑みを片付けた。
「まだ寒いけど、車に乗っていることが多そうだから大丈夫だな。」
ワードローブの前でつぶやいた愛里寿は肌荒れのしない綿素材の保温インナーに薄手のニットと登山用具の総合ブランドのレギンスとストレッチスカートに着替えた。その上から黒のスナップカーディガンと車中ですぐに脱げるようにネイティブ柄のポンチョを羽織った。
昨日のうちにドイツブランドだが、メイド・イン・ジャパンの単焦点の超広角レンズにアダプターを噛ませて装着した国産のミラーレス機と貴重品をまとめた革の小さなカメラポーチをタスキにかけて、姿見に自分を映した。
高校生になったばかりのところで成長が止まり、その頃からあまり変わらないプロポーションにちょっとだけ大人びた瞳の女性がいた。
実際、愛里寿のいまの装いも高校時代に買い求めたものが多かった。
苦笑いで唇を歪めた自分の姿に頬を膨らませ、玄関に向かった。
ブーツに足を通し、振り向いて戸締りの確認を指差しで行い、表に出ると雨上がりの濃い土と水で流されて濃くなった緑の匂いが鼻をついた。
かまぼこ型のパイプフレームにビニールシートのガレージには、愛里寿の愛車であるシルバーの軽自動車が鎮座していた。
無骨な箱のようなフォルムに釣り目が多くなった今時ではめずらしい丸い愛嬌のあるヘッドライトは愛里寿のお気に入りだった。
運転席側の扉を開けると明るいグリーンのファブリックシートとダッシュボードが目に飛び込んできた。
大学三年の時に愛里寿が購入した時にはすでに生産終了で中古だったこの自動車はもう距離計が10万キロを大幅に超えていた。
キーを差し込み、ひねるとやや長めのクランク音ののちにエンジンがかかった。軽自動車の小ぶりなエンジン音だったが、寄る年波にエンジン自体の振動が以前よりも増えていた。
愛里寿は玄関前に車をつけると三和土に用意してあった荷物を小さなカーゴルームと後部座席に積んだ。
助手席にかけていたカメラとバックを置き、玄関の鍵をかけるころには暖気も終わり、振動も心持ち控えめになった気がした。
「さて、行くか。」
周囲に気を使い、ロービームに軽くアクセルに足を乗せた程度の速度でゆっくりと車を進めると新聞配達の原付オートバイとすれ違った。
車載ラジオから歌謡曲が流れてきた。愛里寿は大きな通りに出る前にハザードランプを点灯して、車を寄せた。そしてラジオを切りスマートフォンから雲の多い青空に白いかもめが飛ぶ写真に70年代っぽいグニャリとしたロゴのインストアルバムを再生した。
車載ステレオは古いので、愛里寿の持つスマートフォンに対応していない。そのため運転席と助手席のバイザーにクリップで留めた小さなサイコロのようなスピーカーへとブルートゥースでつながり、爽やかなフルートとパーカッションが流れた。
片側3車線の大きな通りは車の通りもなく、黒く濡れた路面は信号の色を映していた。
愛里寿は均一料金区間の西側の端である新川インターチェンジを目指した。
夜明け前のインターチェンジの入り口は大型の長距離トラックが多かった。
「おはようございます。」
「おはようございます。ちょうどですね。」
料金所のおじさんが柔らかい声で挨拶を返して、領収書を愛里寿に渡した。
ちらりととなりの黒い商用バンに目を向け、愛里寿はアクセルをベタ踏みにした。
急な上り坂を彼女の軽自動車はウンウンと登るがとなりのバンの方が早く合流線にたどり着きき、ウィンカーを1回瞬かせて、本線に合流し、そのまま小さくなっていった。
「いいもん。」
愛里寿は悔しそうにつぶやきながら、時速80キロで高速道路に合流した。
高架橋になっている高速道路上には、長距離貨物のトラックがパラパラと走っていた。
早朝では国道も流れが良いのであまり変わらないのだが、朝の高速道路は愛里寿が大好きな道の一つだった。
昨晩からの雨で冷たい大気を漂う目に見えないチリは洗い流されて透明度を増していた。遠くの山並みはまだ白い肌を晒している。
ペンの先のようなビルのシルエットが並んだ地平線と鉛色の雲の隙間から覗くオレンジの光がどんどんと白さを増した。
さぁっと白い光が左右に広がり、太陽のてっぺんが顔をのぞかせた。
「まぶしっ!」
顔を出した朝日に愛里寿は目を細めてほんの少しアクセルを踏む右足の力を緩めた。
すぐに朝日は雲の中に隠れたが夜から朝へと空気が変わった。
徐々に車も増えてきた。
旭川や道東へと向かう道路と千歳、室蘭を経由して道南へと向かう道路の分岐で愛里寿はまっすぐに道南へと愛車を走らせた。
どんどん進むと道路の周辺の風景が住宅街から牧場や白樺の林といった北海道らしい自然へとと変化していった。
「走りやすいな。」
3月の中頃とはいえ、北海道はまだ残雪が丘の上に残り、日陰の水溜りのような黒い部分はブラックアイスバーンだったりする。
実際に、愛里寿もまだスタッドレスタイヤを使用したままである。しかし、高速道路の路面は真新しい日差しを浴びて乾燥していた。ときおり追い抜いて行く外国車や大型車を横目にマイペースに愛車を進めていた。
エンジン音は安定しているがそのほかの駆動音が大きく、ヒーターも音の割にドア側の太ももが冷たく感じた。
「んん〜一年点検は終わったばかりなんだけどな。もう17万も走ってるし。だからと言って次に乗りたいものもないし、どうすっかなぁ〜」
愛里寿はアウトドアやキャンパーに人気の四輪駆動のSUVを頭の中で思い浮かべたが、大きすぎて取り回しや維持費で心と財布が折れそうな予感しかしなかった。
かと言って、軽自動車のSUVは小さいわりに本格的すぎてちょっと敷居が高いような印象があり、心の中で両腕を組んだ。
「と言っても、新車は無理なんだなぁ。」
スマートフォンから流れてきていた音楽が終わり、車内には愛里寿の愛車の駆動音だけが低く響いていた。輪厚のサービスエリアも近づいていた。
「そろそろ腹も空いたし、サービスエリアによるかな。」
愛里寿は緑色の看板の指示に合わせてサービスエリアに向かうレーンに移った。
広い駐車場は4、5台の自動車が散在しているだけだった。
愛里寿は大きな建物に近いエリアに駐車をして財布とスマートフォンを入れたカメラポーチをタスキにかけてフードコートも入っている建物に向かった。
自動ドアを抜けた愛里寿の前には、照明の落ちたフードコートと準備中の看板が立っていた。
慌てて、左の手首につけられたアウトドア用のピンクステンレスに白い文字盤のアナログ時計は開店時間よりも一時間ほど前の時間を指していた。
「うん、まぁ、知ってたよ。だってさ、まだ早いしなぁ。わたしだってそんな時間から働きたくないよ。でもさぁ、わたしの朝ごはん……」
肩を落とした愛里寿は自動販売機の並んだコーナーに向かった。
「たまにはいいんだけどね。」
愛里寿は食品自販機の前に立ち、小銭を入れてボタンを押した。取り出し口から熱々のハンバーガーが出てきた。このままでは熱くて食べる事が出来ないので、冷めるまでにとなりの自販機からコーヒーを買った。
自動車に戻った愛里寿は運転席の扉を目一杯開けて、座席に腰を下ろした。
スチロールのパックを開くと湯気を立てたハンバーガーが出てきた。愛里寿は取り出して、口を大きく開けて頬張った。
「あっつぅ!」
機械で温められたパテは時間をおいたにも関わらず、舌が火傷しそうなほどの熱を持っていて、味がわからないほどだった。
早春の冷たい朝の空気で自分の舌を冷やした愛里寿は砂糖とミルクを多めにしたコーヒーをすすった。
はむりとバーガーにかじりついた愛里寿は明るい灰色の空を見上げた。
「降りそうもないんだけど。」
そう呟いて、残りをコーヒーで流し込んだ。
食べ終わったゴミを袋に入れた愛里寿はまた建物にゆき、自動販売機で水を買い、トイレに向かった。そこでミネラルウォーターで口をすすぎ、歯を磨いた。
自動車に戻り、まだタスキにかけたカメラポーチから角がこすれた跡のあるミラーレス一眼カメラを取り出した愛里寿はレンズキャップを外してポーチに入れた。
カメラにアダプター経由で装着している超広角レンズのリングを操作して、距離無限大、絞りを11に合わせた。そしてモニターの数値を確認しながら、マニュアルでシャッタースピードを決めた。
自動車のサイドシルに引っ掛けていた両足を地面に下ろすと空に向かってカメラを構えた。
パシャリ。
静かな空気にシャッター音が響いた。
愛里寿は特に背面モニターで画像を見ることもなく、レンズキャップをはめた。
タスキにかけていたカメラポーチから体を抜き、助手席ヘッドレストにかけて、カメラはシートにそっとおいた。
大きな白いものがやってくるのが目の端に入った。
国産車を改造したキャンピングカーは愛里寿の車から少し離れたところに停車した。すぐにドアが開き、中からは白いもふもふした秋田犬と中学生くらいの男の子と女の子が出てきた。女の子は小さなポーチを手にして、二人と一匹は脇の小さな公園のような遊歩道へと走っていった。
「春休みか。」
少年たちと犬が楽しそうにさった後を眺め、愛里寿はエンジンをかけた。
同じ北海道内でも、札幌圏をはなれるとAMもFMも周波数帯が変わるため、愛里寿はスマートフォンのミュージックアプリを再度立ち上げて、いくつかのアルバムをまとめたプレイリストをランダム再生することにした。
古き良きアメリカのディーバ、エラ・フィッツジェラルドと唯一無二のルイ・アームストロングのデュエットアルバムの曲が流れてきた。
夜のおしゃれなバーなどが似合いそうな曲だが、ソロ・ドライブで山の中を切り開いて延々と続くアスファルトの幅広い道路の上を小さな自動車で走る際にも意外とよくあっていた。
「まっ、この二人なら最強だけどな。」
サッチモのトランペットが車内に響く中、高速道路を走らせた。