早春のソロドライブ 1
お久しぶりです。
新作です。
よろしくお願いします。
金曜日の夜。
まだ雪の名残が残る春の宵の入りで、山向こうに沈んだ日の名残が徐々に長くなり、街の明かりも目に浅く感じる頃、伏見愛里寿が会社の同僚とともに会社の入っているビルから出てきた。
「課長のあれはないっしょ。」
「終業の時間が過ぎて、業務管理システムからログオフしたところで新しい仕事を頼むなんてね。」
「部長が伏見さんの仕事を代わるって言った時の課長の顔はウケた。」
「あれ、実際、厳密には労働基準法に抵触するらしいよ。」
「課長やっば!! クビっすかね!?」
「ゴミと一緒に投げたいよね。」
「ねぇ、伏見さん。これからみんなで飲みに行くんだけど、一緒にどう?」
にぎやかに話していた若手社員たちが一瞬口をつぐみ、目の前を一人歩いていた小柄ながらも細身でバランスのとれたシルエットの女性を見つめた。
「今日は用事があるので、すみません。」
大きなため息が漏れ、「あ〜、またこれだよ。」というつぶやきが肌寒い風にちぎれた。
同僚と別れた愛里寿は海老茶のローファーのかかとを鳴らしながら地下鉄の駅を目指した。
電子パスを改札のセンサーに当て、ホームに降りるとすでに行列ができていた。
小さなショルダーバッグをかばうように胸に抱え、ぎゅうぎゅうに詰め込まれた車内の中で、愛里寿はスマートフォンのメッセージアプリやSNSで友人たちをチェックをした。
徐々に車両が空いてゆき、目的の駅で楽に降りた愛里寿はバスに乗り換えた。ここからは部活動帰りの高校生が多く乗り合わせていた。
青と白に塗られたバスがもったりと揺れながら進む。
愛里寿が降りたバス停から、木に覆われたピラミッドのようにエッジのたった小柄な山を背に歩くと碁盤の目に区画された真新しい住宅街に入った。
元々は扇状地に果樹園が広がる開拓地が、人口増加に伴い、川に近いなだらかな土地から順に宅地化され、山際の町ものんびりとフルーツを育てているような余裕がなくなった。
周囲はま新しい積み木を重ねたような家々の中でポツリと時代に取り残された牧場の納屋のようなマンサード屋根の木造の家が愛里寿が一人で住む借家であった。
昭和の高度成長期にはよく見かけた牧歌的な家は愛里寿の祖父母と同じくらいの年齢を生きて来た。
愛里寿は鍵を開けて引き戸を開いて中に入った。家の照明をつけると、LEDの明かりが室内を満たした。そしてリビング内にある急な階段から二階の自室に上がった。
スーツを脱ぎ、部屋着に着替えた彼女は一階に降りた。日中人がいなかった冷たい家の空気を温めるために灯油ストーブに火を入れ、そのまま浴室で今日一日の仕事の汗を流した。
湯冷めしないようにブランケットを肩から羽織った彼女は冷蔵庫に入っていたウィンナーをボイルしながら、冷凍庫のフリーズドライのブロッコリーを電子レンジで温めた。
五分少々でできた夕食は小さく3つに仕切られたプレートに盛られた。
ストーブのそばの毛足の長いラグの上に置かれたテーブルにプレートを置き、クッションの上に腰を下ろした愛里寿はノートパソコンの画面いっぱいに開いたブラウザのマップでルートを確認した。
「天気、悪いかな?」
愛里寿は新しいタブを開いて気象庁のホームページをチェックし、明日の朝のことを考えてノンアルコールビールの缶を開いた。
「むぅ……雨の確率は80%。テントは無理か。車中泊ならワンチャンだな。テントとバーナーは置いて、シュラフと…インフレーターマットは大きいから毛布をおってシートをならした方がいいのか?それとLEDのランタンを持ってゆくか。食べ物は、高速道路のサービスエリアで…」
ブロッコリーにフォークを刺して口に運び、一人でつぶやきながら明日のスケジュールを練った。
「まあ、あとは成り行きってことで、明日は早いし、もう寝るか。」
パソコンのメニューバーについている時計は十九時を表示していたが、愛里寿は食べ終えた夕食の皿をリビングにつながっているキッチンの流し台に置いた。
薄い水色のタイル張りのシンクは古風なままで、愛里寿はその前に立ち、使った皿を洗った。手を拭いた愛里寿はその足で戸締りとストーブの火を落としたことを確認して、狭くて急な階段を登り寝室に向かった。
暗い部屋はカーテンが閉まっていないので、外の明かりが部屋の家具の輪郭を浮かび上がらせていた。
愛里寿はその中でフロアランプをつけると暖色の明かりが部屋に満ちた。灯油ストーブは危ないためにオイルヒーターのスイッチをつけた。
道路を挟んで家の中までは覗くことができないが、カーテンを閉めた愛里寿はルームウェアからサテン生地のパジャマに着替え、チェストに収納されていたカメラボックスを取り出した。
大学時代から使っているライティングビューローの天板を開き、ボックスをおいた。それから愛里寿は祖父の家からもらった踏み台にもなる木製の丸椅子を引き寄せと腰を下ろした。
ライティングビューローの上に置かれたランプのスウィッチをつけ、プラスチックのボックスの蓋を開いて中のレンズを一つ一つ取り出し、ブロワーで埃を飛ばして手入れをした。
「とりあえず、広角レンズは一つ持つとして、望遠はどうしよう。天気が悪いと暗いし、ノクト・クラシックスを持ってゆこうかな。」
愛里寿が重さを確かめるように手のひらに小ぶりの単焦点レンズを乗せた。愛里寿が持っているレンズの中では一番絞り値が小さいF1.4で、曇天でも絞りを開放にして撮影ができる。
むぅと下唇で富士山を作った愛里寿は立ち上がって窓のカーテンから少し外を覗いた。
「そもそも写真はそう撮れないかもなあ。」
ガラスについた水滴を見てため息を漏らした。