PLANET-B~のぞみが見た夢~
一 望
あなたの名前を火星へ。
宇宙科学研究所が全国に発したキャンペーンである。日本初の火星探査機に「あなた」の名前を載せて、ともに宇宙を旅しようというのだ。
一万人ぶんも集まればじゅうぶんだろう。
研究所の広報は当初このように考えていた。大誤算である。
「これ、昨日届いたぶんです」
職員のひとりが段ボール箱いっぱいの応募はがきを抱え、広報主任のもとへやってきた。
「そろそろ五万は超えたか?」
「残念。八万超えです」
職員の答えに広報主任は笑顔だ。歓喜と困惑が半分ずつの顔である。
「おれたちだけじゃ、もう無理ですよ」
若手職員のひとりが弱音を吐く。
全国から一日数百枚単位で寄せられる応募はがき。広報担当の職員は、それに書かれた名前を切り抜かなければならない。すべて。手作業で。
作業デスクでは若手の広報職員たちがいそいそと。カッターナイフを片手に切り抜き作業に勤しんでいる。
「よし。非常事態だ。全職員に協力要請。急げ」
「りょーかい」
切り抜かれた名前は縮小コピーされ。アルミ板に焼き付けられたのち、探査機のバランスウエイトとして搭載される。
連日連夜、職員総出で作業にあたった。切り抜かれた名前の数は、最終的に二十七万を超えた。
二 空
火星探査機「のぞみ」。
無人の探査機である。
のぞみのおもな目的は、火星の上層大気の観測である。当初は金星探査を目的に計画されたが、火星探査の機運が国際的な高まりをみせ、のぞみの目的地も火星に切り替えられた。
のぞみの体は小さい。小さい体に十数種類もの観測機器を載せている。ぴかぴかのランドセルを背負った女の子に、水泳用具と着替えに鍵盤ハーモニカを持たせ、それから水筒を首に掛けさせたようなものである。小さな体に大きな期待。それがのぞみである。
のぞみを宇宙まで運ぶロケットは、新規開発中のM-V。火星が地球に近づく時期を見計らい、のぞみを打ち上げる予定。であった、が。
「M-Vはいつできるんだ?」
「一年遅れるらしい。コントロールケースの材質に不備があって再設計中だそうだ」
M-Vの開発は難航していた。
出鼻をくじかれたプロジェクトチームのメンバーたち。
M-Vがなければ、のぞみは宇宙に飛び立てない。先代ロケットのM-3SIIはすでに退役済みである。
ほかにのぞみを載せられるロケットは。一応、ある。一応あるのだがしかし、別組織の所有物である。そしてでかい。でかいは良いが、高い。たとえ組織の壁を超えることはできたとしても。一機飛ばせば、宇宙科学研究所の年間予算の全額も一緒に飛んでゆくことになる。理論的にはのぞみを宇宙に飛ばせられる。が、現実は厳しい。
「のぞみは延期せざるを得ない」
プロジェクトチームはそう判断するしかなかった。現実はじつに厳しいのである。
「つぎの火星接近は?」
「約二年後です。ただ、現計画より条件が悪くなります」
早速。ミッション解析グループは新たな軌道を設計した。改訂された軌道計画を片手に。プロジェクトチームは万全の体制でM-Vの完成を、いまや遅しと待つこととなった。
一年後。待ちわびたM-Vが完成した。
先代のM-3SIIより、ひとまわりもふたまわりも大きなロケットである。
のぞみはM-V-3号機に載せられて、鹿児島宇宙空間観測所から飛び立った。
梅雨明けまもない空に、天の川が流れる。蒸しむした真宵のことであった。
三 星
M-Vはのぞみを宇宙へ運んだ。
のぞみは太陽電池パドルの翼を広げ。ワイヤーアンテナの尾を、長くながく伸ばした。
早速、火星へ。とはいかない。M-Vの完成が遅れた影響で、火星へ投入するための条件が変わっているのだ。いまののぞみには速度が足りていない。
必要な速度を稼ぐため、のぞみは月を目指した。
ミッション解析グループが厳密な計算により策定した軌道計画に従い、スウィングバイを行うのである。
スウィングバイは、天体の重力を借りて加速や減速、進路変更を行う技術だ。精密な計算に基づいて。正確なコースで天体のそばを通過する。すると。天体とのぞみとの間でエネルギーのやりとりがなされるのだ。
燃料をほとんど使わなくて済むスウィングバイ技術。宇宙を旅する探査機には、なくてはならないものである。
加速するイメージとしては。月は室伏広治。のぞみはハンマー。つまり室伏広治がぶん回すハンマーのようなもの。まさに、スウィングしてもらってぽーんと投げられてバイバイバイ、なのである。
のぞみは二度の月スウィングバイを行った。このとき。のぞみは月の裏側の写真を撮り、地球に送った。こうして日本は、ソヴィエトとアメリカについで月の裏側を観た三番めの国となった。
最後のスウィングバイは地球で行う。メインエンジンを噴かしながらの、力強いパワー・スウィングバイであった。
月と地球の力を借りて、地球の重力圏から脱出したのぞみ。一路、火星を目指した。
四 路
二十七万余名の夢を載せて。のぞみは旅をする。
のぞみが地球を旅立って約半年。クリスマスが近づき、街じゅうが華やかなイルミネーションで着飾っていた。
この日、プロジェクトチームのだれしもが我が目を疑った。
「速度が足りていない」
原因は酸化剤蒸気の逆流を防止するバルブの開放不良と判明した。地球パワー・スウィングバイのとき。噴射したメインエンジンの出力が、計画を大きく下回ったことによる速度不足であった。
このままでは、のぞみは火星へたどり着けない。
「メインエンジン噴射。計画速度を確保。急げ」
この措置により、速度は確保された。
しかし。もともと計画にない噴射であった。火星にたどり着いても。火星周回軌道に乗せるための燃料が不足することが、あとになって判明した。
火星周回軌道に乗せられない。このままでは、のぞみは火星のそばを通り過ぎるだけだ。そして、二度と火星にたどり着けない。
正月返上だ。ミッション解析グループは腹を括った。のぞみのために、新たな軌道計画の策定を目指すのだ。
旅の途中での軌道計画の変更は困難を極める。猛スピードで飛ぶのぞみ。刻こくと変わりゆく惑星どうしの位置関係。残り僅かな燃料。いつ、どこで、どのようにエンジンを噴かすのか。無限に分岐する軌道パターン。その中から。あるやも分からぬ。のぞみを、火星へと導く暗闇の路。不眠不休の模索が続いた。
新しい年がやってくる。ミッション解析グループは、ひとつの路を探り当てた。
のぞみを放置する。そのまま太陽の周りを三周させる。そのうえで、さらに二度の地球スウィングバイを敢行する。これで、のぞみを火星周回軌道に乗せられる。火星への到着はさらに四年遅れとなる、長大な軌道計画。
明晰な頭脳と。信頼に耐えうるコンピュータ。なにより。のぞみを棄てなかったミッション解析グループの、不断の努力の勝利である。
新しい年がやってきた。プロジェクトチームは歓喜に沸いた。
しかし。のぞみの設計寿命を遥かに超えた、長大な旅路である。のぞみは耐えられるのか。
「『不慮の事件』がない限り問題ない」
精緻な検討の末、衛星システム・グループが「確信できる」として出した見解であった。
五 海
まっくらで透明な旅路。
宇宙空間は大海原だ。波風穏やかな瀬戸内海ではない。大波の荒れ狂う真冬のオホーツクよりも厳しい、果てしない大海原である。
衛星システム・グループの見解はまったくもって正しかった。「不慮の事件」により、のぞみは深刻な状況に陥ったのである。
それは唐突に起きた。新軌道計画によるのぞみの火星到着まで二年を切ったころ。
春一番が吹いた。
それは一億五千万キロメートルの彼方からやってきた。太陽フレア。のぞみは、太陽フレアによって放出された高エネルギー粒子群の直撃を受けたのである。
太陽フレアは電子回路に致命的なダメージを与える。地上の電子機器であれば地球の磁場に護られているため、太陽フレアの脅威は大きく軽減される。しかし。のぞみは、地球の保護を受けていない。
高エネルギー粒子群の猛射を浴びたのぞみはシステムの多くがダウンし、地球へのデータ送信が不可能は状態に陥った。
プロジェクトチームは、のぞみの状況を把握できぬまま。システムの復旧に向けて奔走した。
プロジェクトチームは電源ONコマンドを送信した。すると。電源は、ONになった。しかし。一千分の二秒後には、OFFになる。何度も繰り返す。何度でも繰り返された。何度ONにしても。何度でもOFFになった。
「サブシステムの一部がショートしているのだ。だから、システム保護用の電源ブレーカーが落ちるのだろう」
プロジェクトチームはこのように推測した。
のぞみを護るためのブレーカーが、のぞみを邪魔している。
宇宙空間は極寒の海だ。平均温度は絶対零度に限りなく近い。電力を喪ったのぞみは、ヒーターも停まった。冷える。ひえる。燃料のヒドラジンが凍結する。燃料が、使えない。姿勢制御が、できない。
のぞみは、果てしない大海原を。漂流する。まっくらで、透明な。旅路。
六 信
葉桜が陽光を浴びてきらめいている。
プロジェクトチームは絶望していた。
のぞみのシステムが復旧できないでいるのだ。唯一ともいえる幸運は。機体がスピンしていることで姿勢安定状態にあるのぞみには、燃料の凍結はただちに影響がないこと。しかし、その幸運も半年と続かない。そのあとは。すべてが喪われる。
のぞみが見えない。プロジェクトチームに沈黙が続く。だれしもが頭を抱え、俯いていた。
「ヒドラジンは、溶ける」
ふと、メンバーのひとりが叫んだ。
太陽は荒ぶる神であり、また慈悲の神である。
軌道計画では、のぞみには二度の地球スウィングバイが残されていた。計画通りのコースをたどれば、のぞみは地球スウィングバイのために太陽との距離が縮まる。これによって、のぞみが太陽から受ける熱量が増え。燃料のヒドラジンは自然解凍される。
ヒドラジンは、溶ける。太陽が、溶かす。詳細な熱解析により、幸運が続くことが判明したのである。
のぞみは必ず復旧できる。のぞみを喪ってはならない。地球スウィングバイを成功させるのだ。
再び。プロジェクトチームの戦いが始まった。
のぞみの状態を把握しなければ。
のぞみのシステムの多くはダウンしている。では。まだ機能している少ないシステムで、のぞみの健康診断ができないか。
「ビーコンと、自律機能が使えないだろうか」
テレメータ・グループからひとつの提案がなされた。
いまののぞみにできること。ひとつは、ビーコンのON/OFF切り替え。もうひとつは、自律機能で自分の状態を調べること。ただし。調べた結果は、こちらに送れない。
ならば。こちらから質問を投げかけよう。質問の答えが「はい」なら、ビーコンを「ON」にする。「いいえ」なら「OFF」に。
「ヒドラジンの温度は二〇〇ケルビン以上か?」
「いいえ」
ヒドラジンの融点は、二七四ケルビン。これで、燃料が確かに凍っていることが分かった。
「ヒドラジンの温度は一〇〇ケルビン以上か?」
「はい」
これで、燃料の温度が一〇〇から二〇〇ケルビンの範囲にあることが分かった。
数値を変えて質問を繰り返していけば、さらに詳しい温度が分かる。温度だけではない。燃料だけではない。のぞみについての、あらゆることが分かる。
ビーコンのON/OFF切り替えのみで行うこの通信は、のちに「1bit通信」と呼ばれるようになる。
のぞみとプロジェクトチームとの通信は光の速さで行われる。しかし、宇宙は広い。一回の通信に数十分かかることさえあった。数十分待って、返ってくるのは「はい」か「いいえ」の短い答え。のぞみの健康診断は、気の遠くなるような時間をかけて行われた。
世界最先端の設備を持つのぞみから伝えられる情報量は、いまや糸電話よりも少ない。しかし。プロジェクトチームは耳を傾けた。遥か彼方から届く。のぞみからの、か細い声。それが、プロジェクトチームが得られる情報のすべてだった。
そして。のぞみは地球スウィングバイを成功させた。ビーコンのON/OFFのみのコミュニケーションで、厳密な精度と確度が求められるスウィングバイを。二度ともやってのけた。
ついに。のぞみは火星を目指す軌道に乗った。
七 希
のぞみのシステムは復旧せぬまま。
火星への旅を続けるのぞみではあったが、太陽フレアによる傷は癒えていない。癒えないばかりか、復旧の目処はまったく立たぬままであった。このまま火星へたどり着いたとしても、観測データを地球に送ることができない。
この状況を打破するため、プロジェクトチームは新たなプログラムを構築した。このプログラムは、ブレーカーが作動してすぐにOFFになってしまう電源を、連続かつ高速でONにするものであった。
「ショート箇所を焼き切る」
成功する確率は算定すらできない。事態がさらに深刻になる可能性も否定できない。荒治療であった。しかし。もはや、のぞみとプロジェクトチームに残された選択肢は、ほかにない。
のぞみに電源ONコマンドが送られた。その数は、一億回を超えた。
そして。ビーコンを含めた、のぞみからの一切の電波が途絶えた。
プロジェクトチームは諦めない。まだ。のぞみがある。そう、信じて。
しかし。システムは、復旧せぬまま。のぞみが目醒めることはなかった。
八 のぞみ
「『特別な処置』が施されていない火星周回衛星は、打ち上げ後二十年以内に火星へ衝突する確率を一パーセント以下に抑える」
国際宇宙空間研究委員会によって示されている方針である。
火星には独自の生命が存在している可能性がある。その可能性を否定するだけの明確な根拠はない。根拠がなければ、研究する価値がある。地球由来の生命を火星に持ち込んではならない。
研究者の道義的責任において。生物汚染を避けなければならない。のぞみは、特別な処置が施されていない。
システム復旧のタイムリミットは、火星最接近の五日まえと定められた。のぞみからの一切の電波が途絶えている状況である。のぞみの位置は推定するしかない。推定と実際とのあいだには、ある程度の誤差がある。誤差を考慮すると、のぞみが火星に衝突する確率は。一パーセントを、わずかに上回った。
タイムリミットの日までに復旧しなければ、衝突確率を下げる軌道に変更しなければならない。その場合、のぞみは火星周回軌道には乗らない。のぞみを、乗せられない。二度と。
タイムリミットの日が近づく。プロジェクトチームは、だれも諦めてはいない。だれも、のぞみを喪ってはいない。だれも、のぞみを棄ててはいない。
タイムリミットの日。プロジェクトチームは、のぞみがいるであろう宇宙空間に向けて。ひとつのコマンドを発した。エンジンを微噴射させるコマンド。生物汚染の確率を下げるため、のぞみを火星から遠ざけるコマンドであった。
のぞみは、火星周回軌道には乗らなかった。
冷たい空。いつになく静かな日であった。この日、のぞみは火星から約一千キロメートルの距離に到達したと推測されている。観測機器が生きていれば、のぞみは自らの判断で火星を撮ったはずである。しかし。月の裏側を撮ったときとは違い、のぞみが地球に写真を送ることはなかった。
のぞみは、きっと。火星を観たに違いない。火星を撮ったに違いない。火星の写真を、その胸に抱いているに違いない。
最接近から二日後。のぞみは火星の重力圏を抜けた。
大晦日。プロジェクトチームは、のぞみがいるであろう宇宙空間に向けて。ひとつのコマンドを発した。最後のコマンド。のぞみの全機能を停止させるコマンドであった。
九 夢
のぞみの夢は叶わなかった。
しかし。のぞみが遺した宇宙旅行の足跡は、日本の宇宙開発技術の向上に大きく貢献した。のぞみの経験から得られた技術。たとえば、軌道計画の途中変更。たとえば、極限状況における1bit通信。これらの技術は、のちの小惑星探査機「はやぶさ」に受け継がれた。はやぶさは壮絶な旅路をたどり、その末に世界初の偉業を成し遂げることになる。
かつて、のぞみは火星を目指した。しかし。のぞみの夢は叶わなかった。
夢やぶれたのぞみは、深いふかい眠りに就いた。
火星の重力圏を抜けたあと、のぞみは太陽の周りをまわる軌道に入った。そして。のぞみは今もなお、火星とほぼ同じ軌道を廻り続けている。二十万余名の夢を載せたまま。これからも、ずっと。醒めることのない夢を見続ける。
完
【作者より】
本作は、宇宙航空研究開発機構のホームページなどに記載の情報をもとに執筆しました。
ただし、解りやすさや物語性を優先するため、脚色を含んでいる部分があります。おおかたは事実ではありますが、本作のすべてがまったくの事実とは限りません。以上のことをご理解いただけますと幸いです。
最後に。お読みくださりありがとうございました。のぞみを知ってくださり、ありがとうございました。
【のぞみの足跡】
1998.07.04 Μ-Ⅴ-3号機により打ち上げ
1998.12.20 地球パワー・スウィングバイ/推進系不具合発生
1999.01 軌道計画見直し
2002.04.22 太陽フレア
2002.04.25 電気系不具合発生(通信系/熱制御系に障害)
2002.07 「1bit通信」の確立
2002.08 燃料解凍により姿勢制御機能が回復
2002.12.20 地球スウィングバイ
2003.06.19 地球スウィングバイ/火星投入軌道に乗る
2003.07 電波発信が完全に断絶
2003.12.09 火星周回軌道への投入を断念
2003.12.14 火星へ最接近
2003.12.16 火星重力圏を離脱
2003.12.31 電波発信機能停止処置/ミッション終了