3扉
佐良津東高校には校舎の離れに図書館がある。
レンガ造りのその建物は、まるで高等学校という教育機関の物とは思えないほど豪奢で綺麗な建物である。
楓太は死んだような目でその建物を見た。木部奈琴という佐良津東高校の演劇同好会の部員にほぼ強制、いや脅しでここに連れてこられた。
楓太が入り口をくぐると、目の前に図書室が見えた。大きな窓ガラスで囲まれたその室内はなんとも開放感のある空間だ。ここで落ち着いて本を読むのもいいだろう。ただ、今日は本を借りに来たわけでも、静かに本を読みに来たわけでもない。
弱みを握られて、連行されているのだ。
木部奈琴は挙動不審な楓太の手を引き、建物に入って右手へ進む。右手には下へと続く階段があり、その先は少し薄暗かった。
「こっちよ」
「は、はい」
楓太は彼女に手を引かれた。思っていたほど彼女の手が小さいので楓太は少し驚いたが、なされるがまま引っ張られた。力はあるようだ。
「昨日母親役をやっていた人ですよね」
楓太は口調を強くして言った。
「んー、そうだけど」
それ以外の返事は帰ってこなかった。
「あの、言っておきますけど、俺は入るつもりなんてありませんから!」
強引に引っ張られながら、木部という先輩の背中を見ながら楓太はそう言った。
「じゃあ昨日はなんであんなこと言ったの?」
「あ、あれは、偶々魔がさしたというか、なんというか…」
「やりたいって思ったんでしょ?演劇」
「そ、そんなことは…」
楓太の語尾は弱くなる。
すると彼女の引っ張る力がなくなった。前を見ると木部奈琴が振り返って自分を見ていたのだ。廊下は電気が付いていないため薄暗かったが彼女の顔は見る事ができる。
「私は君に演劇をやらせてみたいって思ったよ」
「え?」
「たぶん、昨日君のあの言葉を聞いて、おそらく同好会の皆がそう思った。何故かわかる?」
楓太には彼女が何を言っているのかが全然理解できなかった。ただ話している彼女の顔は先程のボイスレコーダーを再生し悶えている自分を見ている時とは違うと感じた。
楓太は素直に首を横に振った。
「二つある。まず一つは自分達が一生懸命つくってきたものを褒めてもらって、それを自分もやってみたいと言われた。私たちにとってこれほど嬉しいことはないんだよ」
楓太は昨日の事を思いだした。けれども冷静な自分がいた。確かに昨日、佐良津東高校の劇を見て初めて自分は演劇という物をやりたいと思った。その感情は戸嶋南高校の劇を見た時には感じなかったものだ。
「そしてもう一つ。君はあの場で自分の思っている事を堂々と言ってのけた。それはそんなに簡単にできることじゃない」
「だったらなんだっていうんです」
反抗的に応えた。彼女の顔を見れば真剣だと伝わるが、上面なことを言っているだけのように思えなくもないのだ。
「君意外と冷静なんだね」
その言葉を聞いて楓太は目つきを悪くする。
「だったら話が早いね。君の人権侵害に関わってきちゃうから言っておくけれど、昨日の君の告白は『海の演技が好き』だって事わかっているからさ」
楓太は驚く顔を見せなかった。
昨日、楓太は最後弁解はした。けれど、泣き叫ぶように言いながら飛び出したので、誰がそれを信じるのか。それをしっかりと聞いて、わかってくれている事を知った楓太は驚きと供に気が楽になった。けれど、その気持ちを見せてしまうのは癪だった。
「ほう。君演技もできそうだね」
楓太は睨み返す。自分の心の中を一瞬で彼女に見抜かれた。
「まあまあ落ち着いてよ」
木部奈琴はそう言いながら楓太から見て左側を見た。
楓太は薄暗いのと、口論に気を取られ気付かなかったが、その向いている彼女の視線の先には大きく重そうな扉があった。
「この先なんだ。うちの活動場所」
彼女が落ち着いた様子でそう言うので、楓太はその空気にのまれ生唾を飲み込んだ。楓太は目の前の扉が重そうだと感じた。実際に手を伸ばしてみなければ重さはわからないのに、自分がその扉を開こうと思っても開けないような。
「君がもし本当にやりたいと思ったなら、その扉を開けてごらんよ」
彼女は優しい声をかける。一瞬でくらっと気がどっかへ飛んでいってしまいそうなそんな綺麗な声だった。
楓太はなかなか動けずにいた。扉を開けるか、その場から立ち去るのか。その場から立ち去ったとしても楓太には今までと何も変わらない生活が戻ってくる。帰宅部で、ゲーム好きで、休日は家でごろごろしているあの徒然なるままの生活に。
「最後に言っておくよ。私は君が入ってほしいからといってお世辞を言ったつもりはない。君を強制的に入れたいとも思わない。だからその扉を開けるのは君が演劇をやりたいのか、やりたくないのか、それだけだよ」
扉を開けたらどうなるのだろうか。楓太は想像しようとしてもそれはできなかった。楓太にとってそれは未知の世界。今までの生活がきっと壊される。良い意味でも悪い意味でも。辛いこともきっとたくさんある。それくらいはわかっている。
でも。
それでも。
楓太はここ数日の事を思いだす。
『つまらなくなったよ、お前』
中森に言われた事。
『プレゼントは大切な人と繋がりたいという気持ちを伝えるためにあるんだって、私気づいたの。だから君もまたそんな人と出会えるように、私からはこれを君にあげる』
舞台の彼女の姿。
俺は彼女の演技が好きだ。ずっと近くで見ていたい。そしていつか遠くに見えるその壇上へ、彼女と同じ所に供に立ってみたい。
自分の声が聞こえた。
楓太は右手を上げる。力がうまく入らなかった。ドアの取手を握った。引いてみる。重かった。ゆっくりと力を込め引く。
その時、楓太の手が何かに包まれた。楓太はそのまま取手を引くと、ふわりと軽く感じた。そのまま思いっ切り引く。中から光が漏れてきた。
楓太がその先で見る光景は、一瞬で楓太の世界を壊していくような圧倒的な光景が広がっているだろう。
「ようこそ、佐良津東高校演劇同好会へ」
木部奈琴の高らかな声が聞こえた。そしてやはり綺麗な声だった。
「ほら、自己紹介」
木部奈琴が楓太の背中をたたく。力強いのに痛くはなかった。
「あ、はい!き、昨日はお騒がせいたしました。一年の溝口楓太といいます。これからよろしくお願いいたします!」
楓太の新しい世界が動き出した。