1先輩からのお誘い
「はぁ…」
自然とため息が漏れる。18時半と時間的にはお腹がすく頃合いなのに全く食欲がわかない。
今日は散々な日だった。12月14日に行われる軽音部と演劇同好会の合同公演が決定し、急なキャスティングで、同好会に入って演劇という世界に足を踏み入れて1週間で舞台の稽古をする事になった次の日である。
「お疲れさまっ。明日もまた頑張ろうね」
今の楓太にはこの海の励ましの言葉を素直に良しと受け取ることができない。
今は稽古が終わって図書館の建物から出るところである。稽古は図書館が閉まる時間に終わってしまう。
「まあ、あんなの最初は誰でもするミスだからさ、気にしないで」
「先輩も皆そう言ってくれるのが逆に辛い」
楓太はいきなりの台本の読み合わせに緊張して噛み噛みだったのだ。昨日渡された台本はその日に家でしっかり読んできたつもりだった。しかし、楓太の演じる役は物語の終盤に登場する。楓太がセリフを言うまでに先輩方、海の読み合わせを見ていたせいで、自分もしっかりやらなきゃ、という気持ちが焦りに変わって、いざ読もうとすると全然滑らかに読めなかった。
先輩方は最初だから、と自分を責めたりいらだったりということは一切しなかったが、楓太はこれが逆にプレッシャーに感じるのだ。先程から出るため息は今日の失敗を悔やむというよりは、明日はしっかりできるのか、公演までに稽古が間に合うのか、いつか先輩方も何もできない自分に愛想をつかすのではないか、それらが心配で気分が重かったのだ。
「私も最初はそんな感じだったよ」
海は歩きながらそんなことを言う。
「ほんと?」
「うん、私以外皆先輩だったから、もうがっちがち」
「そうなんだ。でも海さん本当に演技凄いよね。本当にそうだったとしたら、尊敬するな」
楓太は海が言っていたことは自分を励ますためだとわかっていた。けれども、それがもし嘘でも本当だとしても、海は自分では想像もできない努力をこの半年間、前から演技をやっていたのならもっと長い間してきたのだと、今日稽古をしてみて改めて思った。
「本当だってー、楓太君もすぐ慣れてきて、演技することの楽しさがわかってくるよ」
「そうだといいな」
海が自分に向けて笑顔を見せてくれるので楓太も少しだけ笑って見せた。
「おーい!」
「ん?」
楓太は図書館から出ると遠くで自分を呼ぶ声がしたのでそちらを見る。もう既に暗い時間だったのでよく分からないが、離れたところで手を振っている人が見える。
そして声の主からしてそれは明らかに、
「鳥島先輩、なんだろう?」
軽音部所属の演劇同好会2年の鳥島だった。
「どっちに用事かな?」
海が少し離れた所にいる鳥島の所へ向かっていくので楓太もあとを追った。
「なんですか?」
「のんのんのん」
学ランからパーカーの赤いフードを出している鳥島は人差し指を振っておちゃらけた言い方をする。彼は通学リュックを背負ってもう帰る支度がバッチリのようだ。
「俺が用があるのは海後輩じゃない」
「えー」
「溝口楓太お前だ!」
楓太は自分が呼ばれるとは思わず、驚いた顔をして自分を指さしてた。
「そう。良い返事だ」
まだ返事してないのだが。
「今日、飯に誘おうと思ってな」
「あ、ずるいですー」
海がすぐさま反応する。
「ご飯ですか、今からですか?」
「ああそうだ。無理そうか?」
「いえ、そういう訳ではないんですけれど。実は妹の晩御飯を作らなきゃいけなくて」
溝口家には母親がいない。楓太が小さいころになくなってしまった。そういう理由で家事全般を楓太がこなしているのだ。楓太が部活をやっていなかった理由の一つでもある。
「なるほど、それなら仕方ないな。じゃあまたこん…」
「あ、待ってください。やっぱ行きます」
「いいのか?」
「はい」
楓太は頷いた。鳥島との対話中隣で海がずっと「いいなー」「ずるいー」と言っていたが、鳥島は完全に無視である。
せっかく先輩が自分を誘ってくれたのだ。ご厚意には応えておきたい。
楓太はさっそく妹の携帯に電話をかける。
『なに?』
電話に出るなり妹は開口一番にそう言った。口調からしてとても機嫌が悪そうだ。恐らく楓太の帰りが遅いせいでおなかがすいてイライラしているのだろう。
「あのさ、今日帰りが遅くなりそうだから、今日はコンビニで済ませておいてくれない?」
『えー、だったらもっと早く言ってよー。こっちは勉強したいのに、腹が減って戦はできぬ状態なんだよ』
なんだその状態。
楓太の妹の星は今年中学三年生で受験生である。暇があれば勉強しなければならないのだ。
「じゃあ、そういうことだから」
『あっ、ちょ、まっ…』
楓太は電話を切る。
「楓太君って妹いたんだね?いくつ?」
さっきまでだだをこねていた海は興味津々に楓太に尋ねる。
「中三だよ。受験生だから色々大変でさぁ」
「そうなんだ。妹ちゃんこともしっかり見てあげているなんて偉いね。そっちの方が尊敬しちゃうな」
「そんなことないよ」
そんなことない。楓太は自分に言い聞かせた。
家事をしなければならないという正当な理由を持って、自分は今まで何もしてこなかったのだから。木部に何の部活に入っているのか聞かれて素直に言えなかった時のことを思いだす。
「じゃあ溝口、お前はついて来い」
「いいなぁ」
「女子禁制だからな、しかたあるまい」
なぜ、女子禁制?ということは聞かないことにしよう。後で教えてもらえればいいことだ。なんだろう、緊張してきた。
そして楓太は実は先輩よりも海と食事に行きたいなぁ。なんて邪な事を思っていることを少しでも先輩に悟られてはいけないと思い、
「何処に行くんですか?楽しみです」
とありきたりな事を言ってみた。




