プロローグ
徒然なるまゝに、日ぐらし硯に向かいて、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き付くれば、あやしいうこそ物狂ほしけれ。【徒然草 序段】
プロローグ
『頼む、来てくれよ!ほら、今なら低反発まくらつけるからさぁ』
耳から直接脳天に打撃を与えてくるようなやたらと大きな電話越しの声に、昼寝起きの溝口楓太は額を押えた。ひとことひとことが頭にガンガン響く。
「えっと、なんだっけ?演劇の大会だっけ?」
『そうそう、俺初めてキャストで出るから見に来て欲しいんだが、ってもうこの話二回目だぞ?』
楓太が持つ受話器の向こうの相手は、楓太の中学時代の友人中森篤だった。現高校一年生の楓太は彼と高校が別々になってから久しく連絡を取っていない。今日のこの電話は約7か月ぶりのことなのだ。
「う~ん、行けたら行くよ」
楓太は気を抜くとすぐさま重くのしかかってくる瞼が光を遮ってしまいそうなところを必死で耐えていた。昼寝をしていて携帯電話の着信音に起こされた楓太は今最高に機嫌が悪い。
「うん、行けたら行くと思う。だからじゃあまた。切るよ?」
『おお、じゃあな。っておい!ちょっと待て。ぐち、ぜってー来ないだろ!俺は知ってるぞ、「行けたら行くよー」って言うやつの実に97.5%は来ないんだ。ほら、実際ぐち開演の時間とか、会場すらも聞いてこないだろ!』
あまりの大きな声に楓太は受話器を耳から遠ざけた。顔一個分くらい開けるとちょうど良く聞こえる。
ノリツッコミとかするやつだったっけ?楓太は簡単な四則演算もできないような昼寝起きの回らない頭でそんなことを考えていた。よくよく考えてみたら、中森の顔すらあまり良く思いだせない。
「じゃあ、俺は残りの3.5%な」
『いや、残りは2.5%だから。大丈夫か?』
細かい所をつかれて少しムカッとした。
『ぐち、そこまで言うなら、もし来なかったらヘブンのおでん全種おごりだからな!』
「はぁ?いやいや、それおごりっていうレベルじゃないだろ」
最近新作ゲームやら漫画の新巻やらを買ったせいで楓太のお財布事情はよろしくない。そんなことは頭が回っていなくてもわかる。流石に中森の言ったことは嘘だろうけれど、何となくそれ相応の事をさせられそうな気がした。
『ってそんなことじゃなくてさ、俺はわき役でしか出ないんだけれど、内容自体はスッゲー面白いから!先輩も皆演技上手いし。そう元々うちの高校、演劇部が有名なんだって』
「へーーー」
とんでもなくわざとらしく感情のこもらない返事をしながら楓太は小指で鼻くそをほじる。ティッシュを探すと、ベッドの上で寝ころびながら通話をしていた楓太は勉強机の上にそれがある事を確認し、少し距離があったが横着をしてベッドの上から体を伸ばしてティッシュ箱を取ろうとした。
だが手があと少しの所で届かず、楓太はベッドから滑り落ちる。大きく鈍い音とともに強く膝を打ち付けた楓太は声にならない声を出しながら痛みをこらえた。着ているジャージをまくってみると、膝にはくっきりと赤い痕が残っている。少し経つと青黒くなりそうだ。
よろよろの状態で体を起こし、ティッシュをとって鼻くそのついた小指をふき取り、さっきの衝撃でベッドの上から落ちた携帯電話を拾う。
楓太は自分がなんとも惨めに見えてしまった。
『ぐちどうした!?何があった!?返事をしろ!ぐちいいいいいいいい』
大声で言わずとも自分の事を呼ぶ声は聞こえていた。少し遠ざけていた電話をもっと離して返事をする。
「勝手に殺すな。そして泣く演技をするな」
『良い奴だったのに、俺はぐちのことぜってーわすれ…って、なんだ生きてたのか。大丈夫か?』
なんだってなんだよ。
「まあな」
『で、結局きてくれるのか?』
しつこいなぁ。と楓太は思った。なんで俺が演劇なんぞ。とも思った。元々そんなものには、はなから興味はなかった。楓太の中ではもう既に『演劇』という物が『どうでもいい』というフォルダの中に入っている。
けれど、その時の楓太はただ行けない理由を考えるのが面倒なだけだった。用事があると嘘をつくのも下手だった。中森に奢る金もなかった。
それだけだった。
「まあ、暇だし行ってやるよ」
楓太はそんな風に適当に言った。あくまで上から目線で。
『お、マジで!?じゃあ時間と場所は後でLONEに送るわ』
始終テンションの変わらない中森の声を聞いて、楓太は少し思うことがあった。
「中森、お前変わったよな」
別に声に出して言うつもりはなかった。ただ、何となくそう思っていたら、口に出していたのだ。楓太は中森ではなく、誰か別の人と話している、とも思えた。
『そうか?高校入っていろんな事があったけど、まあ、やっぱり演劇部に入ったからっていうのが一番大きいのかもな。でもな、俺からするとぐちも変わったって思うぜ』
楓太はその友人中森の言葉を聞いて、耳を疑うほど意外に感じた。まさか自分がそう言われるとは思わなかったのだ。
「どんなところが?」
楓太は別に聞く事にためらいはなかった。
少し間を置いて中森はこう言った。
『そうだな、なんか中学の頃よりつまらなくなったよ、お前』
変な事言って悪かったな。じゃあ、明日。
中森はそう言うと電話を向こうから一方的に切った。
楓太は急に静かになった携帯電話を見つめる。電話の時計が午後の5時26分を示していた。結構昼寝をしていたらしい。11月ともなればこの時間帯はもうすっかり暗い。寝ていたのに身体が重く感じるのは変わらなかった。やはり遅くまでゲームをやっていたからだろうか。
楓太が何も考えずにケータイを見つめていたら、LONEの通知が来た。中森から演劇の大会のスケジュールの写真が送られてきたのだ。
「演劇…か」
楓太はその写真を見ながら考え事をしていた。
電話越しでしか話していないが、確かに中学の頃と比べると中森は人が変わった様だった。それはたぶん本人が言う通り演劇部に入ったからだろうと、なぜか楓太もそう思った。
けれど、自分が変わったと言われるとは思わなかった。驚いた。ただ、自分が中森にあんなことを言われても、別段と怒りを感じなかった。演劇も見に行くのをやめようとも思わなかった。中森は元々はっきりと物事をいう人間だ。それに、何となく自分はそれが何故かわかっているような気がした。
楓太は写真を見て会場と時間をメモし、携帯電話の電源を落とした。