涅槃屋にて2
その3日後、涅槃屋の事務所にて。
3人掛けの革張りのソファーに腰掛けて、腕を組んだまま威圧感むんむんの丘村由利と、男が向かい合っていた。
男・・・お洒落に伸ばしたというより、理髪店へ行く手間を惜しんで自由に伸びるままにさせた長髪、顔つきは、目元が少し垂れているのが影響しているのか優しそうな伊達男風で、濃いめのグレーのフォーマルスーツを着ていたが、シャツの釦を外してネクタイもだらしなく緩めているあたり、おおよそファッションとは無縁っぷりを堂々とアピールしていた。名を真湯積芯というこの男・・・は、A4用紙数枚のレポートを熱心に読みふけっていた。
男の後ろには、小さな女の子が立っていた。もう立派に成人しているので、女の子という表現は不適切ではあったが、背の低さと黒髪のおかっぱが見る者に幼さを思わせた。彼女は、真湯積芯の有能なアシスタントで霧雨灯子といった。有能な、とあえて紹介したのは、その有能ぶりが他人に超厳しい女、丘村由利のお墨付きだったからであった。
霧雨灯子は、涅槃屋の事務所に来ると必ず真湯積の後ろに立っていた。丘村がいくら着席を勧めても応じることはなかった。とにかく頑固で生真面目な人物だった。彼女はその上、口数が少なく感情をめったに表に出すことはなかったが、唯一つ、上司である真湯積に対してはなぜかいつもイライラしており、感情的な発言をするように見受けられた。
「長谷川政宗君17歳、学校にも行かず引きこもり、挙句にはリストカット等、自殺を試みること数回・・・親御さんが幾ら問い質してもその行為の理由を本人の口から聞くことはできず、精神科の病院にも連れて行き、カウンセリングを受けさせたが状況は変わらず、慌てふためいて真湯積、たまたまお主の事務所の前を通りかかった時に、『世の中のあらゆる難問・珍問解決します!』の貼紙を健気に盲信し依頼に来たというのだから、猫の手も借りてみたが駄目だったんだろうな・・・」
「ぐぬぬっ」と、丘村の言葉に一瞬反応した真湯積がレポートを読んでいるのも構わず、丘村は続けた。
「まあ、それに書いてある通り、長谷川政宗君は同性愛者だったということ。本人は薄々そのことに気付いてはいたようだけど、その現実が受け入れられないことと、クラスメートの特定の男子への思い、それが恐ろしく異常な感情であると思い込んでしまい、登校拒否および自傷行為に及んでいることが分かったわけ。長谷川君の『真実』が語った紛れもない事実だから」
真湯積は丘村の言に頷きながらレポートを捲った。
「長谷川政宗の夢はゴーストタウンに潜む怪物が絶望した人間を次々と喰らっていくって内容ですか・・・本人自身が絶望を拒絶していたのでしょうなあ」
一通り読み終えたレポートを後ろの霧雨灯子に手渡して、真湯積は目を閉じながら首をぐりぐりと動かした。
「ま、要するに、世の中のあらゆる難問・珍問解決します!が売りの『まゆまゆ探偵事務所』代表者であり名探偵であるこの真湯積芯に、解決できない事件などないということですなあ。あっはっはっは」
「解決してるのはあなたじゃないです」
暢気に呵呵大笑していた真湯積の頭頂部に、すかさず霧雨の拳が振り下ろされた。真湯積はあぎゃっと奇声を上げた。
「彼が滅したかったのは己の絶望のみならず、己の存在に対して人々が抱く絶望でもあった。この行き場のない気持ちが膨張していつか破裂したら、彼は自分を滅することを選んだのか、それとも他人を滅することを選んだのか、それを考えただけでも恐ろしいことですね」
苦痛に顔を歪める真湯積を余所に、素早く斜め読みでレポートの内容を理解したらしい霧雨はポツリと言った。
「相談に来た親御さんにとっても、彼の奇行の理由が分かったことはひとつの解決なんだろうけど、真相が分かったこれからこそが本当の闘いかも知れないわね。私は性癖を無理に治そうとするよりも、本人を含めてその事実を受け入れるべきだと思うけどね。誰に迷惑をかけるわけでもなし。でも、本人たちにとってはそんなに簡単なことじゃないでしょうけど」
丘村の意見に、霧雨が微かに頷いたように見えた。
「さっすが由利さん、おれもねえ、今そんな風に思ってたとこなんですよ!うわっ、もしかしておれ、由利さんと同調しちゃったかな?シンパシーですよ、シンパシー!こりゃタダゴトじゃないですよね!由利さん、今この時の二人の奇跡を機にデートしてください・・・」
はしゃぐ真湯積の上に、再び霧雨灯子の鉄拳が降った。
「・・・で、あっちの方はどうなったの?」
丘村が突然声を潜めて尋ねた。
「え?あっちの?」
御上が煎れたお茶を暢気に飲んでいた真湯積は、丘村からの問い掛けが理解出来ていないようで、目玉を左右に泳がせていた。
「愛人発覚ですね・・・」
霧雨が呟いて、助け船を出した。
「あっ、ああっ、そうなんすよ由利さん」
ようやくピントの合った目線の真湯積が勢い込んで言った。
「自任党党首大通清吉の行方は相変わらず杳として知れないんですが、奴にゃ女、つまり愛人が居たんですよ」
言いながら真湯積は、スーツの内ポケットから1枚の写真と封筒を取り出した。
写真には、カメラのレンズとは違う方向を見ている女が映っていた。
「マンションから出てきたところを隠し撮りしたものです。彼女の名前は大池さえ。年齢は不詳ですが、恐らく20代後半から30代前半ぐらいでしょう。この若さで、大通が通うラウンジのオーナーをしています。その店の開店及び運転資金は大通が出しているようで、住んでいるマンションの購入資金も援助されてます。大池さえの存在は、この私目の人脈で直ぐに嗅ぎ付けることが出来ました。しかも、この写真を撮った時に、波長も頂戴しておきました。すごいでしょ?」
真湯積は、どうだ!っといわんばかりのドヤ顔で丘村を見た。
「よくできました」
丘村は、真湯積にではなく霧雨の方を見ながら、笑顔で言った。
「ははっ、ありがたき幸せぇっ」
真湯積は無邪気に喜びながら、封筒の口を開き、中に入っていたものを取り出した。
それはUSBメモリーだった。
「大通の後援会会長である阿曾田道重の真実を逃がした時は、正直もう手詰まりかと思ったけど、この、大池さえの存在は一筋の光じゃないかしら」
「ああ、あの船上パーティーの夢でしたっけ?ようやく潜り込めたかと思ったら、外部からの侵入者があったとかで時間切れになったってやつでしたね?」
「阿曾田に関しては、どうもそれ以来波長に変化があるみたいで、夢への侵入が難しくなっているのよ。それと、その外部からの侵入者の存在が未だに不明だしね」
「阿曾田の波長を頂戴するのは随分と苦労しましたよ。なんせ、体温が分かるぐらいまで接近した状態の動画が必要ですから。奴の周りをチョロチョロしてる取り巻き連中に、気付かれないようにやらないといけませんでしたからねえ。あ、それから先のことはコイツがやってるんでおれには分かりませんけど」
と、真湯積はチラリと霧雨を見た。
霧雨灯子は、真湯積が手のひらサイズの赤外線カメラのようなもので撮影してきた映像から、特殊ソフトを使ってその人物の波長をサーモグラフィーのように表示し、それを言語に変換してプログラムを構成し、USBメモリーに落とし込むという作業をしていた。
「あ、由利さんの願いでしたら、男真湯積芯、どんな危険を冒してでも、再度、阿曾田の波長を頂戴して参りますので、いつでも頼りにしてください。あっはっはっは」
まゆまゆ探偵事務所の2人が帰り、御上謙吉が丘村にコーヒーを淹れてきた。
「然し、あの真湯積とかいう探偵さんが、昔は刑事だったなんて信じられないですよね」
「まあね。でも森友君の話じゃ、あんな風に見えて結構敏腕刑事だったって話よ」
「あの男、醒さんとはどんな関係なんですか?」
「真湯積君?なんか、高校時代からの友達みたいなこと言ってたと思うけど」
丘村は、湯気の立つコーヒーに口を付けた。
その時、ピロリンピロリンと軽快な呼び鈴が鳴った。誰かが「涅槃屋」の扉を開いた音だった。
「はいはい」と巨体を揺さぶりながら、御上が店の方に向かったのと同時に、丘村はデスクの上のモニターを見た。
テレビモニターに映し出された、防犯カメラの四分割の画像、右下の画面に涅槃屋の玄関が映っていた。
「来たわね」
丘村は思わず微笑んだ。
「ちょっ、だから押すなって!わっ、危ねっ」
山瀬太浪が大きな身体で、伊川谷大介を店内に押し込んだ。軽快な呼び鈴が響き渡るなか、井森三角は最後に足を踏み入れて、鋭い目線で涅槃屋のアラを探すように、店内をぐるりと見回していた。
数秒も待たずに、正面にあるドアが開いた。出てきたのは海苔眉毛の巨人、御上謙吉だった。
「おうガキども。お前らまた来たのか?」
相変わらず地響きを軽く伴う重低音で、丸太のような腕っぷしや、シャツの中に綿でも入れているかのような胸板は威圧感があった。
「亜鉛は摂ってないよ」
伊川谷は先手を打った。
御上はその言葉を呆然とした表情で受け止めたが、やがて合点がいったらしく、「ガハハハハっ」と快活に笑い始めた。
腹を抱えて笑う御上の後ろに、ドアを開けて店に入ってきた丘村の姿があった。
「よお、少年たち」
丘村は流麗な立ち姿で、少年たちに手を振った。
「め、女神様ぁ!」
すぐさま山瀬が祈るような姿勢で、丘村の前に跪いた。
「伊川谷大介君だっけ?どうだったあの入浴剤、よくリラックスできたでしょ?」
「は、はいっ、そうなんですよ由利さん!僕、山瀬太浪の友人は、由利さんから頂戴しましたあの入浴剤を使用した結果、本当にぐっすりと眠ることができたと、僕、山瀬太浪に言うもんですから、それならば君、御礼の言葉を伝えに行くのが常識人のやることではないのかねと、僕、山瀬太浪が提案いたしました結果、本日こちらへお伺いさせていただく運びとなった次第でございます」
山瀬は丘村の目の前で立ち上がり、一気に捲し立てた。その目は、興奮のためか血走っていた。
「そうなんだ」
丘村は、興奮した山瀬を一瞥しただけで、すぐに伊川谷に視点を移した。
「そうですね・・・概ねコイツの言う通りです」
伊川谷は顎を掻いた。
「ふーん」
丘村は、値踏みをするように伊川谷の脚から頭を眺めていた。その隣で御上も同じように伊川谷を眺めていた。
「な、何ですか?」
伊川谷は余りに見つめられているので、照れたように顔を赤らめて言った。
「ねえ、ところで、この枕を使ってみない?」
丘村が手にしていたのは、御上が商品棚から持ってきた枕だった。
丘村からそれを渡された時、伊川谷は躊躇なく受取っていた。
伊川谷は、枕は使っているものがあったので、それほど必要ではなかった筈なのに、反射的に受け取っている自分に驚いた。なぜか、断ることが許されないような気がしたのだ。
その枕は、首の部分から頭の部分にかけて流線型をしており、質量自体は軽かったが、枕の中心に柔らかい球体のものが入っているのが分かった。
「その中にはα波の発生を促す微振動を起こす機械が入っているの。微振動といっても、人間の感覚ではとうてい認識できないほどのものだけど。その機械が起こす微振動によって、安定した睡眠周期で眠ることができるようになるわ」
伊川谷の手から枕をひったくり、山瀬がへええと関心していた。
「あ、それ、新商品のサンプルだから無料であげるわ。ただし、明日またここに来て感想を聞かせて欲しいの。それと、その枕も持ってきて欲しい」
「明日?たった一晩寝ただけで、効果が出るものなんですか?」
井森の眼鏡が、キラリと光った。
「効果というよりも、この枕を初めて使った夜こそ、最もα波の発生が期待できるから、その睡眠の質がどんなものだったかは、この枕の性能を知る上で重要なことなの」
「そうですか・・・」
井森は頷いたが、まだ何をか警戒しているようで、表情は堅かった。
「いいですよ、おれ使います」
伊川谷は、満面の笑みを浮かべて言った。
「え?伊川谷・・・」
井森は、躊躇いなく前向きな返答をした伊川谷大介に、驚きを隠せなかった。
「あ、由利さん、僕、山瀬太浪も喜んで実験台になります。そして、毎日ご報告に参りますので・・・」
山瀬が手を挙げて、丘村に猛アピールした。
「あら、ごめんね。サンプルはこの1点だけなのよ。もし欲しかったら、商品化した時に買ってちょうだいね。でも、結構高いと思うから、ちゃんとお小遣い貯めときなさいよ」
えっー!そんなあ!と、膝から崩れ落ちた山瀬を余所に、丘村が伊川谷に耳打ちした。
「いい?必ず君が使うのよ」
丘村が伊川谷にウインクをした。
「は、はい」
伊川谷は密かに赤面した。
「なんだよいいなあ、大介ばっかりよー」
山瀬の声が、やがて遠退いていき、男子高校生三人は去って行った。
その姿を陰から見ていた人物が、三人を見送っていた丘村の前に現れた。
「由利さん、こんにちは」
「あら、若葉ちゃん。こんにちは」
学生服に身を包んだ若葉と呼ばれたその少女は、綺麗な黒髪をなびかせて、キラキラとした笑顔をしていた。
「おすっ、若葉」
「あ、謙さん。お疲れさまッす」
若葉は額に手を当てて、おどけた挨拶を返した。
「若葉ちゃん、今ちょうどクラスメートが来てたわよ」
「あ、はい、知ってます。私、見てました」
「なんだ、見てたの?だったら入ってくれば良かったのに?」
丘村にそう言われて、若葉は一瞬目を伏せた。
「あの、由利さん、伊川谷君に渡してた枕って・・・」
「そうよ、彼に使うように言ったの。伊川谷大介・・・若葉ちゃんが話してくれた子でしょ?船上パーティーの夢は本人の口からも確認できたけど、彼が例の外部からの侵入者だったのかどうか、未だ今は確信が持てない。偶然、同じような夢を見ただけなのかも知れないし。だから、ちょっと実験させてもらおうと思ってね」
「それであの枕を・・・」
「そう、でも、森友君にはまだ内緒にしといてね」
丘村は唇の前に人差し指を立てた。
若葉はゆっくりと頷いた後、
「伊川谷君、あなたは夢渡なの?」
と、小さな声で呟いた。