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涅槃屋にて

 頭がグワグワと揺れているようだ。


 伊川谷大介は、頭を抱えながらペシャリと机に崩れた。

 教室のざわめきが、無数のアメンボの動きで耳朶に響く。

「あっ、そっ、か。文字通り頭を抱えるはめに陥ってるんだ、おれは。アハハハ」


「何ひとりごと言ってんだよ」

 

 伊川谷の前の座席が今は空いていたので、そいつは躊躇なくその席に腰を下ろした。

 ほんの少し低いトーンのだみ声を所有する大柄な男、山瀬太浪やませたろうだった。

 伊川谷が顔を上げて「なんだお前か」という目線を送ったその傍らでは、時々インテリぶった発言をするが、小柄な上にいつもニコニコと愛嬌のある笑顔を絶やさないので何とも憎めない男、井森三角いもりみかどが笑顔で立っていた。


「またやっちまったのか?」

 人の不幸は、バニラアイス生クリーム乗せ練乳味だよ、という表情で山瀬が尋ねた。

「ああ、またやっちまったよ」

 伊川谷が、憔悴したようにか細い声で答えた。

「また変にリアルな夢を見たよ。あれ見た翌日は、何があろうと確実に落ちる。」

「どんな夢?」

 井森は、伊川谷が時折見る「変にリアルな夢」の話を聞くのが好きだった。

「酷い目に遭ったよ。豪華客船の中で、あの、政治家のほら、えっと誰だっけ?あーもういい。それのパーティーで飯を腹一杯食べて、なぜかは知らんがその後、蹴られるだけ蹴られて・・・それから・・・どうだったかな?」

「豪華客船に政治家・・・いつも以上に興味深い設定の夢じゃないですか」

 井森は、眼鏡の奥の眼を爛々とさせた。

「で、大介は蹴られるだけ蹴られて終ったのかよ?」

「いや!やられっ放しじゃなかった・・・」山瀬の言葉にすぐさま反論してみたものの、己の反撃の場面を思い出そうとすると、耳鳴りのような反響音が訪れた。

「あいたたたた・・・」

「ま、毎度のことながらお前の悪夢にゃ同情するがな」

 にやけ顔で山瀬は腕を組んだ。

「真の心でご同情いただきまして、感謝いたします」

 伊川谷は、山瀬を睨みながら言った。

「そういや、僕の母さんも眠りが浅くて変な夢ばっかり見て、寝不足で悩んでたって前に話したろ?それが、最近枕を変えたら良く眠れるようになって、おまけに変な夢も見なくなったって」

「井森、マジか!」

 がばっと伊川谷が起き上がった。

「安眠枕を買ってたよ。ほら、伊川谷の家の近くに最近出来た、安眠グッズ専門店だよ」

「え?おれん家の・・・知らねえ」

「今日の放課後ちょっと寄ってみようよ!試験の息抜きにさ」

 その店には、井森が案内してくれることになった。


 チャイムが鳴り、先生が教室に入ってきた。次の試験は英語だった。これで最後とばかりに伊川谷は大きな欠伸をひとつした。その時、伊川谷の斜め前に座っている女子が彼のことを見ていた。

 えっ?

 伊川谷が慌てて口を閉じると、その女子は肩まで掛かった黒髪を揺らしながら、そそくさと前を向いてしまった。

 あの子は・・・確か、若葉って呼ばれてる子だ。

 そう言えば、この休み時間中ずっとこっちを見てたような・・・。

 いやいや、そんな訳はないか。

 伊川谷は、こめかみをぐいっと押して、英語の試験に集中した。


「よしっ眠らずに済んだ。しかし、ま、結果は保証できないけどな」

 堪えていた欠伸をしながら、伊川谷は腕を伸ばした。

「またひとりごとですか?」

 井森が、目の前で眼鏡を押し上げていた。

「うわっ。いつの間に」

 

 2科目の試験が終わり、教室は束の間の自由へと羽ばたいていく小鳥たちの喧騒に包まれた。

「さあっ、行きましょう!」

「井森ぃ、おれまで付いていくことはないよな?試験は明日もあることだし、帰るぜ」

 と、帰ろうとする山瀬太浪の学ランの袖を掴んで、

「ダメダメ。如何なる場所でも3秒以内で眠ることが可能な、自称居眠り名人の君が、こんな時にアドバイスしてあげなくてどうするんですか?」

 巨漢の山瀬は、食い下がる井森を数歩引き摺っていたが、

「名人だと?仕方ねえなあ、ちょっとだけだぞ」

 と、まんざらでもないような感じで了承した。


 件の安眠グッズ専門店へ向かう道中は、3人で先程の試験の答えを言い合ったりもしたが、話題は専ら、本来ならば真っ先に帰宅し、明日に備えて真剣に勉学に取り組まなければならぬところを、伊川谷および井森の頼みであるからこうして足を運んでいるのだという、山瀬の恩着せがましい熱弁だった。


 確かに、伊川谷の自宅近くにその店は在った。


「涅槃屋」


 その辺で拾ってきたような木片に、達筆な筆書きで記されてあった。


「何て読むんだ?」

 山瀬が、呆然とその看板を眺めながら言った。

「ねはんや、です。涅槃っていうのは仏教の用語ですよ・・・どんな意味だったか・・・」

 井森が首を捻っている横で、伊川谷はその店の外観を改めて見た。

 店の間口はそんなに広くなく、入り口であろう格子の引き戸が重々しい造りな上、窓はすべて反射式のものであったので、外から店内を覗くことも出来なかった。その他貼紙などの類は一切なく、店舗の外側からは何を扱っている店なのか判断することができなかった。

 外観と店名だけを切り取れば、誰もが仏壇仏具屋さんだと思ったに違いない。

 伊川谷の家の近所だったが、全然思い当たらない理由が分かった。 

 それほど存在感のない店だった。


 にも係わらず、伊川谷はこの「涅槃屋」を一目見た瞬間、背筋が凍った。

 この感覚は、恐怖ではなくて興奮?

 いや、なんなのか分からん。伊川谷は頭を振った。


「サンカクぅ、ほんとにここなのかよ?」

 鈍感力ならば全国トップクラスの山瀬ですら、何らかの違和感を抱いたようだった。

「ええ、間違いありません、ここです」

 と言ってから、井森はずいと1歩前に踏み出した。

 伊川谷は、勇ましく1歩を踏み出した井森が扉を開けるものと思い込み、彼の次の所作を固唾を飲んで見守った。

「さ、どうぞ」

 井森は掌を上に向けて、ようこそのポーズで伊川谷を導いただけだった。

「開けねえのかよっ!」

 伊川谷は、思わず突っ込んだ。

 それを見ていた山瀬が、豪快に笑った。


 思えば男子高校生3人が騒ぎ過ぎたのだろう、無邪気にはしゃぎ過ぎたのだろう。それが「安眠グッズ」を取扱う店の前だったから具合が悪かったのか・・・。


 ガラリ。と突然に涅槃屋の引き戸が開いた。


 おわっ!と男子高校生3人が同時に驚き上がった。涅槃屋の扉が突然開いたのもあったが、主な驚愕の原因は、店内から扉を開けた店員と思しき人物の首から上が無かったことだった。

 その身体は、はち切れんばかりの筋肉を所有していたがために、左胸に「ねはんや」と白字で記された黒のエプロンが滑稽に見えた。

「おいがきどもっ!」

 地を震わすような鉛を背負った声が轟き、男子学生3人は、恐怖の余り腰を抜かした。

 更に次の瞬間、大男の首から上がにゅっと現れた。扉の枠以上の身長があったために、身体しか見えなかったのだ。分かってみればつまらないことで、よく考えたらそりゃそうに決まっているのだが、今の男子学生3人にとってそのカラクリの解明は既にどうでも良いことだった。


 目下の3人にとっての問題は、大男の圧倒的な存在感だった。


 男の顔は異様にゴツゴツしており、極太の眉毛が彼の一本気な性格を象徴していた。「海苔ですか、それ?」と決して成し得ぬ突っ込みを想起させる眉毛と合わせて、刈り方に寸分の迷いも感じられない角刈り(刈るのは床屋の親父なのだろうが、そこは男の気迫が伝わっているということで)、および、半袖の先から突き出た岩石のような筋肉、それらが見る者すべてに対して有無を言わせぬ威圧感を与えていた。

「おいがきどもっ!」

 大男が、再び呼び掛けた。

「は、はいっ」

 三人は気を付けの姿勢で整列し、声を合わせていた。

「あえんとってるかぁ?」

 次に訪れた大男の発言が、予期せぬ言葉だった。

 伊川谷は、隣で同じように腰を抜かしている同朋を一瞥したが、二人とも困惑の態で曖昧な頷きを返しているだけだった。

「あ・え・んとってるか?」

 大男は、威圧するように繰り返した。

「あ、あえんって、元素記号Znの亜鉛のことかな?」

 井森が囁いた。

 そうだ、亜鉛だ。伊川谷は彼のヒットコメントに、いいね!を連打してやりたいくらい激しく同意したが・・・で、亜鉛が何なんだ?

明らかにイラつきが表情に表れ始めた男は、今にも跳びかからんばかりに足を踏み出した。

「亜鉛摂ってるかぁ」

 獣の咆哮みたく、犬歯剥き出しで唸る男。

 男子学生3人は、亜鉛など意図的に摂取してはいなかったが、安易にその事実を告げることさえ憚られるような重圧が唇にのしかかってきた。

 このまま黙っていても埒があかない、と判断した伊川谷は、

「と、摂って・・・」

 と、口を開いた。

 同朋の突然の発言に、井森および山瀬は驚きの視線を送った。

 その時、

「のわっ」

 と、大男が揺れた。

 そのまま店の外へつんのめり、膝を地につけた。


「ちょっと、謙さんっ、何遊んでんのよっ」

 崩折れた大男の後ろから徐々に姿を現した者が、すっと脚を地に降ろしていった。


 え?け、蹴ったぁ!


 男子学生3人は、同時に声にならない叫びを上げた。


「あの機械が重いから、運んでもらおうと思ってさっきっからずうっと呼んでるのにぃ・・・」

 その人物はその時初めて、びっしりと並んでいる少年3人の存在に気付いた。


 え?しかも女ぁ!


 男子学生3人は、またしても同時に無音の叫びを上げた。


「あら、えっと、君たちは?」

 その女は、大男と同じ「ねはんや」の黒いエプロンをしていた。

 のちに丘村由利おかむらゆりと名乗ったこの女性こそが、涅槃屋の店長その人であった。パンツスタイルのスラリとした体躯、黒髪を一括りに束ね上げて、小さな顔がより強調されていた。表情は冷たいほど透き通っていたが、温かみのある声が人間らしさを伝えた。


「え?しかも綺麗だぁ!」


 これは山瀬が、単独で声に出して叫んでいた。


「謙さんは熱心な健康オタクでね、昨今の若者の亜鉛不足を懸念していたと思うの。だからあんな大声で君たちに質問したんだと思う。悪気はないので許してやってね」

 ようやく店内にはいることができた三人は、先程の大男から謝罪の言葉と自己紹介を受けた。

 大男の名は、御上謙吉みかみけんきちといった。

「で、睡眠旺盛そうな少年君たちが、ここにどういった用件でいらしたのかしら?」

 丘村の姿をでれっと見つめていた山瀬が素早く、

「そ、そうなんです。実は悪夢を頻繁に見ることがありまして、睡眠不足なもので何とか安眠できないかと思いまして、失礼ながら門戸を叩かせていただきましたぁ」

 と答えた。

「君が?」

 言外に、どう見ても何の悩みもなさそうな感じがするけれど、と臭わせた風に丘村は問うた。その目は確かだった。

「あ、いえ、僕、山瀬太浪っていいます。僕、山瀬太浪ではなくて、こいつです。僕、山瀬太浪の友人です」

 顔を紅潮させながら、山瀬は胸に手を押当てていた。彼の瞳はキラキラと丘村だけを見つめていた。

「へえっ、若いのに大変だなあ」

 御上が、はははっと豪快に笑った。

「君が、悪夢を?」

 丘村由利は、伊川谷の顔をまじまじと覗き込んだ。

「は、はあ・・・」

 余りにも彼女が顔を近付けてきたので、伊川谷は目を背けて赤面した。

「で、どんな悪夢を見たの?話してくれない?」


 そんな遣り取りを聞いていた井森は、ふと店内を見回してみた。

 「涅槃屋」の店内は閑散としていた。壁際に3段に造られた棚が、入り口のある壁面以外の三方をぐるりと囲み、真正面には奥の事務所?に通じる扉があった。棚には安眠枕や入浴剤やお香やマッサージ器具などがあったが、売っているというより並べられているだけという印象を与えた。

 そういえば・・・

 井森は閃いた。

 ここには店としてあるべきものがない、と。


「ふーん、大物政治家の船上パーティーに、紛れ込んで蹴り回される夢か・・・」

 伊川谷から昨日の悪夢の内容を聞いた丘村が、視線を上に向けて考え込むように繰り返した。

「そうです、そうですよ!すごい金と事件の臭いがする夢ですよね」

 山瀬の言葉は完全に無視しながら、彼女は視線を宙に泳がせ続けた。

「ど、どうですか。何か分かりますか?」

 伊川谷は、生唾を飲んだ。

「プッ」

 突然、丘村が吹き出した。

「あんた、まさか私が夢判断でもしてくれると思ってるんじゃないでしょうね?私が、ジークムント・フロイトだとでも思ってんの?」

 丘村は、快活に笑った。御上もそれに倣った。

「そうだよ大介。そんな訳ないだろう・・・由利さんが」

 山瀬もその笑いに便乗して、会話の輪に入ることを目論んでいた。しかも誰にも聞こえないほどの小声で、丘村の名前を呼んでいた。

「だって、夢の話をしろって言うからさー」

 伊川谷は、憮然たる面持ちだった。

「ごめんごめん。期待させちゃったかしら・・・とにかく、良い睡眠を得るためには身体をリラックスさせないといけないから、まずは眠る前に温めのお湯で心身ともに落ち着かせてみたらどうかしら?」

 と、丘村は、棚から透明な袋に入った白い粉を手にした。

「この入浴剤はウチのオリジナルなのよ。無色透明でほんのりとヒノキの香りがするわ。水に粘りが出るから、身体を芯から温めてくれる。そう、ちょうど・・・」

 丘村がふいに唇を、伊川谷の耳元に近付けた。

「女性に抱かれてるみたいな感じかな」

 !

 伊川谷は、赤面して慌てて彼女から離れた。

「な、何を言ってるんですかっ」

「ひゃっひゃっ、あねさんも人が悪いなあ」

 御上が笑った。

「はははっ伊川谷、顔が真っ赤だぞ」

 井森もいつの間にか、会話に参加していた。

 その横で、山瀬だけが笑顔ひとつなく「いいなあ大介・・・」とポツリと呟いたことは誰も知らない。知らなくていい。

「これでもまだ悪い夢を見るようだったらまた来なさい」

 丘村は、束ねた髪を揺らしながらウインクをした。


 こうして少年3人は「涅槃屋」を後にした。


 それを見届けながら、御上が口を開いた。

「あねさん、あの少年が・・・」

 丘村は、真剣な表情で頷いた。

「そうだと思う。さっき、ウチに来るかもって連絡があったから。ようやく来てくれたわけね。ウワサの、

 伊川谷大介くん・・・か」



「怪しい感じの入浴剤ですねえ」

 涅槃屋で受け取った袋を、色々な角度から眺めながら、井森が言った。

「なんか、結局何も買わずに、そんなものまで貰って悪かったよなあ」

 伊川谷が、苦笑いをした。

「怪しいですけど、もしかしたら効果覿面で伊川谷の悪夢がなくなるかも知れないし。でも、残念でもあるなあ。君の夢物語を聴くのは楽しいからね。ねえ、山瀬だって好きだったよね?」

 それから二拍ほど間を置いて、何の返答もないことを確かめて、伊川谷と井森は彼の方を見た。

 山瀬太浪は、湯上りの宿泊客みたいにぼんやりと幸せそうに歩いていた。その目は遥か遠くをさまよい、眼前のクラスメートの存在は消し去っていた。

「どうしちまったんだ、アイツ?」

「さあね」

 伊川谷の問いかけに対し、おおよその察しはついていた井森だったが、今は面倒くさいので敢えて触れずにしておいた。「それより・・・」と、先程『涅槃屋』で抱いた疑念を、伊川谷に語った。

 涅槃屋の店内には、物を売る店として本来あるべき、値札やレジスターが見当たらなかったこと。

「そうだっけ?」

 伊川谷は、記憶をたどったがピンと来なかった。記憶をたどる内に、涅槃屋の前に立った時の意味不明な胸の高鳴りを思い出した。  

「うーん、やっぱり何か怪しいなあ。自分で紹介しておいて言うのも本末転倒のような気がするけど。とにかくあの店だったかどうか、家の母さんに確認するよ」

 言いながら、伊川谷の手元に白い粉の入った小袋を置いて、井森はそれじゃと手を振った。いつの間にか、伊川谷の家の前だった。

「ほらほら、帰るよ山瀬っ」

 井森は、相変わらず魂の抜けたような山瀬の背中を押して去って行った。

 伊川谷は、二人の姿が見えなくなるまで白い粉の袋を手に載せたまま、「そんなに怪しいかなあ」と呟いた。


 その時、


「それを寄越したまえ」


 背後から声がしたかと思うと、伊川谷は強い力で腕を掴まれた。

「うわっ」

 慌てて声の主の方を振り向くと、その人物はニヤリと笑った。


「なんだ、姉ちゃんか・・・」

「なんだとは何よ!それが御姉様に対して言う台詞・・・?ん?なにそれ」

 と、伊川谷が手に載せていた透明な袋を素早く取り上げて、くんくん嗅いだり摘まんだりしているのは、伊川谷の実の姉である伊川谷稲美いなみだった。

 稲美は、大介より2つ年上の19歳で、隣町にある大学の法学部で主に民法を学んでいる女子大生だった。

「あんたまさか、この白い粉・・・」

 顔に掛かった栗色の髪を掻き上げながら、伊川谷とよく似た目つきで睨みつけてきた。ちなみに彼女は自分の顔の中で、小振りな鼻が気に入っていなかった。


「片栗粉?」


 ずこっと傾いた伊川谷は、「違うっ、入浴剤だよ。貰ったんだよ」と口角泡を飛ばしながら言った。

「ったく、くだらないこと言うために変な間を作るなよなあ、いねちゃん・・・」

 あっ、と伊川谷が口を押えるが時すでに遅し。稲美は小振りな鼻以上に自分の名前が気に入っておらず、特に稲ちゃんなどと呼ばれることが大嫌いだった。伊川谷家では、本人不在時には親しみを込めて稲美のことを稲ちゃんと呼んでいたので、その習慣がつい口から出てしまったのだ。

「誰が稲ちゃんじゃぁっ」

 ガツーンと拳が、伊川谷の顔面を捉えた。 


 その夜、夕食後のリビングでテレビを観ていると、伊川谷の携帯が振動した。

 画面には、井森三角の名前があった。

「伊川谷っ」「ああ、どうした?」と応えながら、井森が涅槃屋のことを母親に確認すると言っていたことを思いだした。

「今、母さんに確認したけど、枕を買ったのはあの店じゃなかったんだよ。全然別の店だった。あの店で枕を買っていないどころか、店に入ったこともないって」

 その声はどこか逼迫したものがあったので、伊川谷は「ええっ?」と大袈裟に反応してしまった。

「今日貰ったあの白い粉、やっぱり怪しいよ」

 白い粉・・・あれは・・・

「分かった、気を付けるわ。サンキュー井森」

 まだ何か言いたそうな雰囲気の井森を強引に制し、伊川谷は少し慌てた。

 ・・・稲ちゃんが持ってる!


 食卓で新聞を読みながら焼酎を飲んでいる父親が目に入ったので、「稲ちゃんはどこ?」と訊ねた。

「ああ、部屋じゃないか?」父親は、赤い顔をしていた。

「お風呂よ」訂正したのは、台所に立っていた母親だった。

「な、何だと~っ」

 伊川谷は、脱兎のごとく駆け出した。背後から、「苺食べないの~?」という母親の声を振り切り。

 浴室は1階にある。

 伊川谷は、リビングを抜けて階段を降りた。

 稲ちゃんが危ない!

 今まで当たり前に存在していた平穏無事な暮らしが音を立てて壊れていきそうな、言いようのない危機感が彼の胸を抉った。

 洗面室への引き戸を開けると、そこに姉の姿はなかった。浴室への扉は曇っていた。中からは物音がすると言えばするが、何の気配もしないと言えばしなかった。

 あの白い粉が、人間を溶かしてしまうような薬品だったら・・・。

 恐怖で震える手を宥めながら、祈るような気持ちで浴室の折戸を開いた。

「稲ちゃん!」

 そこには湯船に浸かる、姉稲美の姿があった。

「無事か?稲ちゃん、無事なのか?」

「え?」

 突然興奮気味に浴室へと押し入ってきた弟の姿に、一瞬いかなる思いも存在しない真空のような間が空いたが、その空隙に、稲美の恥辱と怒りが充填されて爆発した。

「大介っ!あんた一体なんのつもりよっ!ふざけるのもいい加減にしなさいっ!意味分かんないこと言いながら、レディーの入浴中に押し入ってきて!頭がおかしくなったとしか思えないわ!それにあんたまた稲ちゃんって言ったわね!もう許さないから、覚悟しなさいよ!」

 伊川谷の顔面および身体に、次々とお湯の塊が浴びせられた。

「いや、ほんと、ご無事で良かった・・・」

 さっさと出て行けっ!とさらにお湯のマシンガン。


 姉稲美にこっぴどく説教をされた伊川谷は、ようやく解放されて風呂に入ることができた。

「あー、散々な目に遭った」

 稲美は例の入浴剤を使用していたが、彼女自身に何事も起こらずお湯にも何の変化も見られなかった。

 お湯に浸かってみたが、丘村が言っていたようなヒノキの香りもお湯のとろみも、そんな気がする程度のものだった。

「井森の考え過ぎだろ・・・」

 伊川谷は、お湯に顔を沈めた。







 

 

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