表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/5

第1のユメ 船上パーティー

 船は激しく飛沫を飛ばしながら、惑うことなく前進していた。


 暴風に晒されたカーテンのように、浮かび上がる波から波。その波動は、まるで次から次へと獲物に跳びかかる、獰猛な生き物のようだった。

 船のデッキでは、ひとりの女が乳飲み子をあやしていた。その母親と思われる女の姿は、西洋絵画で見かけるような、シスター風の服装をした清楚な佇まいだった。顔を覆ったベールが表情を隠して、より神秘的な印象を深めていた。


 赤ん坊は、揺りかごを模してあやしている母親の努力に反して、元気に泣き叫んでいた。母親は、それでも諦めずに波の動きに合わせた、腕の揺りかごを止めなかった。

 伊川谷大介いかわだにだいすけは、まるで聖母を思わせるその母親と、乳飲み子を見つめていた。

 伊川谷が余りに呆然と見惚れていたので、直ぐに母親に存在を気付かれてしまい、目と目が合った。そのタイミングで、母親が伊川谷の方に少し首を傾げたような気がしたので、彼もほんの少しだけ首を動かして、挨拶にならない挨拶を返した。

 伊川谷は、母親に何か話しかけるべきか逡巡したが、お互いの立っている場所が中途半端に遠かったのと、気の利いたひとことが思いつかなかった。そんなことを考えている内に、伊川谷はデッキに居ることが気まずくなり、逃げ道を探すように辺りを見回した。


「ここは、どこなんだ?」


 伊川谷は、気が付いたらこの船に乗っていた。文字通り、気が付いたら。

 この船に乗る前に何をしていたのか、なぜこの船に乗ったのか、その辺の記憶が曖昧だった。曖昧・・・いや、曖昧というのならば、薄ぼんやりとした記憶の断片ぐらいはあるのだろうが、伊川谷には、希薄な記憶ですら辿ることができなかった。この船に乗るに至った経緯は、彼にとって重要な筈なのだが、どうしても思い出す気持ちになれなかった。なぜだか知らないが、この見知らぬ船のデッキに立っている自分を、伊川谷は何の動揺もなく受け入れていたのだ。


 視線を夜の海原からキャビンの方へと移すと、巨大な白亜の建造物が、そこに聳えていた。クリーム色の暖色が円窓から幾つもこぼれて、その室内にあるであろう暖かな雰囲気を端的に表現していた。

 伊川谷は、その明かりに誘われるように、キャビンのある建物に入った。

 

 船内は、目映いばかりの光が、広い空間に散りばめられていた。

 吊り下げられた豪華なシャンデリア、ほくそ笑みヒソヒソと笑い合う間隙を捕えたフラッシュライト、タキシード姿のお給仕が、溜息を滲ませ磨き上げたシャンパングラスおよびナイフやフォーク。

 そんな突き刺すほどの輝きのなかで、パリっとした格好の紳士淑女が、グラスに弾けた飲み物を片手に、穏やかに歓談、談笑していた。


大通清吉おおどおりせいきち先生大激励会」


 会場の向こう側に設えられた壇上に、大きな横断幕が掲げられていた。

「大通清吉・・・」

 伊川谷は、独り言を呟いた。

「そうです!」

 背後から声が聞こえてきたので、伊川谷はおわっと飛び上った。

「大通清吉大先生は、我々自任党の骨子であられるお方でしてね、その存在感と言えば山でたとえるなら富士山いや、エベレスト!いやいや、そんなもんじゃあとても表現できない・・・」

 突然、熱く語り始めた男は、口元に髭を蓄えた、肩幅の広いがっちりとした体格をした男だった。

「あ、申し遅れました。僕は『大通清吉大先生後援会』副会長をしている、荒士田義武あらしだよしたけです」

 溌剌と名乗ったその男は、伊川谷に握手を求めてきた。

「ぼ、僕は、伊川谷大介です」

 荒士田が、伊川谷の手を握った瞬間、表情が険しくなった。

「ん?君は・・・」

 握り返す手に、明らかに力が込められていた。

 伊川谷が、荒士田の対応に躊躇っていると、「あ、伊川谷君、どうですか、よければ船内を案内しますが・・・」と、荒士田は、表情を笑顔に変えて言った。


 立食パーティーだったので、食べ物が山ほど並んでいた。ジュースもデザートも見たことないようなものが沢山あった。好きなものを好きなだけ食べて構わないという荒士田の勧めを受けて、伊川谷は遠慮もせずに、好きなだけ食べた。伊川谷が食べまくっている間中、荒士田は大通清吉の偉大さを滔々と語っていた。

「大先生のおかげで、自任党が再び息を吹き返したんですよ!ほんの昨日までは政権交代の憂き目にあっていたのがですよ!大先生あらずして、この偉業は成し得なかったでしょうよっ」

 恍惚とした表情で、荒士田は息もつかず話続けた。

 自任党の大通清吉。

 政治には無関心な、十七歳の高校生である伊川谷大介でも、その名前は耳にしたことがあり、テレビでもその姿をよく目にしていた。

「そうですかぁ、伊川谷君は、高校生なんですねぇ。では、明日の選挙権を握る、希望票ってわけですね。その時はぜひとも、自任党をお願いしますよ。へへへへっ。ではこちらへ・・・」

 荒士田は、満腹をさすって満足顔の伊川谷を、デッキの方へ誘った。

「あーほんと満腹です。ありがとうございます。え?外に何かあるんですか?」

 荒士田が開き招いた扉の向こう側へ、伊川谷が身を乗り出した時、背後から物凄い衝撃が押し寄せてきた。

 吹き飛ばされた伊川谷は、デッキの床板に身体を打ち付けて転がった。

 何が起こったのか理解できないままに、伊川谷の身体だけは苦痛を現実として受け止めていた。困惑のまま立ち上がろうとする彼の耳を、威嚇するような大きな足音が襲った。その気配を感じた伊川谷は、闇雲に飛び上った。視界の一隅に引っ掛かったのは、荒士田の蹴りが空を切った場面。ズキリと背中が痛んでいた。間違いなく、荒士田が蹴り飛ばしたものだった。


「お前は、何者だぁぁ!どうやってここに忍び込んだぁ?」


 荒士田は、外した蹴りをズドンと甲板に叩きつけて叫んだ。その形相は、怒りに満ちていた。

「ちょ、ちょっと、荒士田さんっ、何かの間違いじゃないですか?僕は何も・・・」

 苦痛に顔を歪めながら、伊川谷は声を絞り出した。

「しらばっくれんじゃねえっ!お前が民民党の回し者だってことは分かってんだよっ!分かっていながらも知らないような顔して、おれはお前を、ニコニコと接待してたわけよ!お前が油断する、その瞬間を待ってたわけよ!」

 床板を鳴らしながら、荒士田が突進してきた。本気の本気で蹴り飛ばそうとしている加速が、伊川谷の耳朶を揺さぶった。

 荒士田の迫力に気圧されて、伊川谷は彼の蹴りを腕で防御することが精一杯だった。腕に重たい激痛が走った。荒士田は、もう一度蹴りを出すためにステップを踏んだ。その行動は予測できたので、最大の反撃チャンスが訪れたのだが、伊川谷は反撃をせずに逃れた。


 反撃って言っても・・・伊川谷は息を切らせていた・・・今まで、本気の喧嘩なんかしたことないよ。


 本気・・・

 その言葉に今までどれほど苦労させられてきたか伊川谷は思い出していた。


 塾のクラス編成試験の結果を受けた講師と母親との3者面談でも、

「お宅の息子さんはもう少し本気を出してやればできると思うんです・・・」


 逆上がりがどうしてもできなかった体育の授業でも、

「もう一度本気になってやってみろ。絶対にできるから」


 本気になるっていうことは全身全霊を傾けて挑むってことなのだろうか?

 本気になってやれば結果はどうでもいいのか?

 どうせ結果が伴わないと本気でやってないと思われるのだろう?


 本気ってなんだよ?

 なにがどうなったら本気なんだよ?

 おれはなにがどうなったら本気になれるんだよ?

 

 伊川谷は息を整えて、荒士田に対峙した。

 

 荒士田は、半笑いで狂ったような目つきをしていた。

 勘違いや行き違いがあってこうなっているのだとしても、今ここで話し合って解決しよう、という雰囲気は微塵も感じられなかった。

 

 道はふたつ・・・・やるか、やられるか。

 いや

 伊川谷は思った。

 みっつだ

 逃げる。

 この船から飛び降りる。真っ暗な海のただ中に。

 伊川谷は、耳に流れ込む波の音を聞いた。

 それは、岸壁に打ち付ける荒波を思わせるものだった。

 いや、みっつめ却下。

 道は、ふたつ。


 哄笑をあげながら、突進してくる荒士田。

 伊川谷は、己の拳を強く握りしめた。

「かますっ!」

 大きく振りかぶって、伊川谷は拳を伸ばした。信じられないぐらいの、物凄いスピードと物凄いパワー! でもなかったので、するっとかわされた。


「え?」


 ズドンと荒士田のタックルが、伊川谷の鳩尾を捕えた。更なる苦痛と、さっき満腹食べたすべてがこみ上げてきた。意(胃?)に反してもどしそうになるのを、床板の上を転がりながら堪えた。伊川谷は思った。そんなもったいないことできるかっ!しかし鼻水と涙が溢れ出た。

 この苦痛を与えた荒士田に対して、ようやく怒りが込み上げてきた伊川谷だったが、時すでに遅かった。転がった伊川谷に対して、荒士田は次の攻撃に転じていた。小刻みな蹴りを繰り返し繰り返した。背中と腹部の痛みを感覚が見つけられないほど、次々と痛みが伊川谷の身体を襲った。


 今や伊川谷の道は、ひとつになった。

 やられる、だけだった。



 こんな状況になっても、本気で戦うことができなかった。

 これは、何をやっても本気になれない自分に対する罰なのだろう。

 情けなくて涙が零れたが、彼にできることはそれだけだった。


 

 伊川谷は、覚悟を決めた。


 


 ?




 ん?




 キックの応酬が、いつしか止まっていた。

 荒士田の息遣いは聞こえているのに。

 伊川谷は、抱えていた頭をそろりと起こして状況を確認した。

 確かに荒士田は、転がった伊川谷を見下ろすように立っていた。が、

 荒士田の目は、違うものを見ているようだった。


「誰だっ!」

 

 伊川谷は、肘で半身を起こして、誰何した荒士田の視線の先を追った。

 霞みゆく視界の向こう側・・・。

「デッキの柵に立つ人影。そいつの表情は窺えなかったが、ゆらゆらと揺らした身体でそいつは表現していた。柔らかな風吹く爽やかなバルコニーで優雅に朝食を、食パンに蜂蜜を塗るより容易く、お前をぶっ倒す、と」


「お前、ひとりで何言ってんの?しかも瀕死の状態で」

 伊川谷の目の前に突然、顔。


「うわっ」と伊川谷は半身のまま仰け反った。まさかと思い、向こうのデッキの柵にあったはずの人影を探したが、無かった。いつの間にこの男は、伊川谷の妄想独り言を盗み聞きできるほど傍に来たというのか?

「あれ?お前の手、爪がある。てことは、お前はただのモブキャラじゃないのか?お前みたいな子供が、どうやってここに入ってきた?何のために?誰かに頼まれたのか?」

 男は、意味不明なことを捲し立て始めた。

 伊川谷同様に、驚いてしばらく呆然としていた荒士田だったが、目の前に姿を現したカモに鎌のような蹴りを繰り出した。

 あぶなっ!

 伊川谷がそう口にする前に、すでに荒士田の蹴りは空を切っていた。

 男は、瞬時に身を引いてかわしていた。

「おいおい、不意討ちは男のすることじゃないぜ。ま、女もできればしないで欲しいけどな」

 男はファイティングポーズをとって、ボクサーのように軽やかにステップを踏んだ。

「ふざけんなぁぁ!」

 荒士田は怒りのままに殴り掛かったが、男はなんなくそれをスウェイした。 

 男は不敵な笑みを浮かべると、右手にはめていた白い手袋を外した。

「ああっ!お前にも爪があるな!お前も民民党の回し者かっ!おのれぇぇ!」

 キャビンの壁にもたれ掛ってその光景を見ていた伊川谷は、確かに男の右手に爪があるのを認めたが、爪があるからどうだっていうんだよ?と疑問を抱いた。しかし、そんな疑問を忘れさせるほどに、目を引き付けられたのは男の手の甲だった。

 

 あ、穴?

 

 伊川谷の視点からは穴のように見えたそれは、直径2センチほどの丸いへこみだった。 

「それでは、マジックショーを始めましょうか」 

 男は、1枚のコインを手にしていた。表面に「a」と描かれた、黄金色に輝くとても綺麗なものだった。流れるように手慣れた所作で、男はそのコインを右手の丸いへこみにはめ込んだ。

 その瞬間、男の右手を金色のオーラが包んだ。

「何が手品じゃっ!お前も生かしてはおけんぞっ!」

 荒士田は、男の右手に怯むことなくデッキを踏みつけて躍りかかった。

  

空気弾エアショット


 男が親指と人差し指でL字を作り、拳銃の真似事で、人差し指を弾いたその時。


「ぶふぁー」


 という奇声を発しながら、荒士田の身体が後方に吹き飛んだ。


 ドサッと倒れ込んだ荒士田は、それからピクリとも動かなくなった。 


「え?なになに?今のなに?」

 狼狽している伊川谷を横目に、男は人差し指をふぅと吹いた。

「見て分かんねえのか、拳銃だろうが」

「け、拳銃?それが?」

「空気の塊を弾き飛ばした。この男はその勢いで吹き飛ばされはしたが、気を失ってるだけだ」

 男は、気絶している荒士田の傍にしゃがみ込み、何かを探しているようだった。

「扉が出ないな・・・てことはコイツは実体ホームじゃなかったのか・・・じゃあ、実体ホームはどこなんだ・・・」

 などとブツブツ言いながら、「それにしても暗いな」と、夜空を見上げてスッと立ち上がった。

 男はおもむろに右手の掌を表に向けた。


空気圧エアプレッシャー


 夜空に向けて、右手を押し上げ始めたその時、


 灰色の雲や、所々に星を散りばめた夜空の形が、明らかに変形し始めた。

 男がぐぐっと力を込めて、右手を真上に向けるほどに、水平線から目映い光が、夜の世界に差し込んできた。まるでこの世界に、夜空の半円の丸い蓋をしていたかのように。その蓋を今、中から押し上げて開いているかのように。


「ななななななななんだぁ!」

 

 伊川谷は、理解不能な状況を目の前にし、思考能力を停止させてただ叫んだ。

 男の右腕が完全に伸びきった時には、夜空はかなり押し上げられており、水平線を境にして青空を見ることができるほどだった。そしてボールを放り投げるように、男が右手を振ると、夜空が青空の向こうに飛んでいった。


 そして、完全なる朝が世界を包んでいた。


「はわわわはわわわわはわわわ・・・」

 

 伊川谷は、何も言うことができなかった。何も考えることができなかった。

 そして、ただただ、眩しかった。


「おいっ」

 鮮やかな光の色彩を背にした男は、スラリとした体躯をしており身長は高め、黒のスリムパンツに白の開襟シャツという、爽やかな格好をしていた。顔つきは中世的で理知的にも見えるが、どんな言葉を話す時にも、同じような表情をした。

「さっきの質問の続きだ。まだ答えをもらってなかったからな」

 そう言いながら男は、伊川谷にずいと詰め寄った。

 伊川谷は、様々な魔術を繰り出した男に対して、もはや恐怖心しか抱いていなかった。それだけに「ひいっ」と逃げ出したかったが、身体が動かなかった。

「おいガキっ。お前は何者なんだ。どうやってここに入った。早く答えろ。時間がないんだ」


 その時、男はふいに空を見上げた。

 青が流れた空を。

 無音の創造のなかを。

 男は、静かにそれらを見上げていたが、足元が微かに振動しているのを感じていた。

 その揺れは、次第に大きくなっていった。やがて、轟音とともに限りなく広がっている海および冴え渡った空、それらを形成している世界自体が、平衡を失うほどになった。

「ちっ、視者ドリーマーのお目覚めか・・・おいっガキっ・・・」

 男が、伊川谷を呼んだが気配がなかった。伊川谷の姿が消えていた。

「ガキも目覚めやがったのか・・・にしても、アイツは何者だったんだ?」


 大きな揺れが、いつしか世界から立体を失わせた。

 同一平面上に存在した空や海や船が、ひび割れて零れ始めた。

 まるでジグソーパズルの一片一片が剝れていくかのようにして、世界がバラバラと欠落していく。

 剥がれ落ちた一片の向こう側は、真っ暗な闇だった。

 男は、激しい揺れに身を任せていたが、欠落が己の身に迫ってくると、

「世界の終焉おわりだな・・・いつ見ても気持ち悪いわ」

 と、自嘲気味に笑った。



 そして世界は、完全な闇となった。



 

 



 



  




 


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ