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前篇

短編『ただ僕のことを。』をお読みいただかないと分かりづらいかもしれません。



 寒波が厳しく、春の訪れが遠い四月のうっすらと雪さえ積もる校庭は、入学式特有の浮足立った、もしくは希望に満ちあふれて舞い上がった生徒たちとその保護者で埋め尽くされている。

 高橋 籐伊はその中で一人、場違いなほど凛とした少女に釘付けになった。

 別段顔がいいわけでもスタイルがいいわけでもないその少女は、何かを期待しているのか時折あたりを見回すものの見つけることが叶わず、そのたびに背筋をすっと伸ばして立ちなおす佇まいが、他の誰よりも目を引いた。

 此花 咲耶。

 後に知ることとなった名前は富士山に鎮まる女神と同じもの。そしてその名に相応しい静けさと強さを持つ人。

 欲しい。

 この手の中であの儚いまでの危うさを抱きしめたいと、籐伊は強く思った。




 幸運なことに入学式の会場で咲耶は同じクラスの列に並んでいた。

 どうやって知り合おう、どうやって言葉をかけよう。

 校長の祝辞が述べられている中、彼女とのきっかけをどうやって得られるか、籐伊はそのことばかりを考えていた。

 ところが幸運は更なる幸運を運んできた。

 入学式後に入った教室の黒板に書かれていた席割がそれだ。籐伊の席の通路を挟んだ横に、咲耶の名前が書かれていた。ただ、彼女の周りが男ばかりだということはいただけなかったが、彼女がビッチでなければむやみに男に話しかけることもないだろう。いや、咲耶に限ってそれはありえない。

 読みはあったった。

 彼女の左側(つまりは窓)を除く四方斜めすべて男に囲まれた咲耶は、不安そうにあたりを見渡すと、背筋をぴんと伸ばしてまっすぐ前に向いたのだ。周りの男なんてまるで初めからいないように振る舞って。誰からも話しかけられることすら拒むように。

 さすがに自分という存在も拒まれるとは考えなかった籐伊だったが、それはそれで男慣れしない彼女に対して好感度を上げただけだった。

 横の席に座りながらも挨拶以外に話す素振りを見せない咲耶の拒絶は綻びを見せることはない。なかなか付け入る隙を見せない咲耶に、籐伊は少し焦りを見せ始めた。

 それは杞憂に終わる。  

 授業が始まって早々の現代社会の時間に、ごそごそと動く彼女が目の端に入った。いつもかたくななまでにまっすぐ前を向く彼女にしては珍しいと横目で見てみれば、丁度ため息をつきながらシャープペンの蓋を外している最中だった。どう見ても消しゴムを忘れているとしか見えなかった。籐伊は無言で消しゴムを机の上にことんと置いた。びっくりした彼女の顔はとても新鮮だった。「使えよ」と声を出さずに口を動かしたら、破顔して「ありがとう」と口を動かした。初めて見ることのできた笑顔は息を止まるほどだった。「どういたしまして」、何とか口を動かせたのは奇跡に等しかった。

 きっかけは単純だったが、このことから籐伊は咲耶と話す権利を得られたようだった。

 有頂天になってはならない。

 籐伊は自分を戒めた。

 これは単なるきっかけにすぎない。

 ゆっくり確実に咲耶をものにするために、籐伊ははやる気持ちを抑えた。

 クラスの団結力を高めるために入学式後すぐに行われるレクリエーションでは、まだこれと言って友人のできていない咲耶のキョロキョロと所在無げに動かす瞳に心の中でガッツポーズだ。さっさと自分の名前のすぐ下に咲耶の名前を書いて「よろしく」といえば、咲耶は驚きながらも首をこくこくと縦に振る。小さな声で「ありがとう」と感謝されたが、あっさり籐伊の手中に嵌ってくれた咲耶にこそ感謝をしたいと籐伊は心の中で嗤っていた。六人の班は咲耶を除くと男ばかりでみんな咲耶をちやほやとしていたが、咲耶は一つ緩衝材でも挟んだように接していて決して深く話し込もうとはせず、安心を得るように時々籐伊を見上げては微笑んでいた。彼女の信頼という名の積み木を一つ、積み上げたように感じた。

 学校の規則で一年生は必ずなにかしらの部活に所属しなくてはいけない。例外は委員になることだった。籐伊は咲耶に一緒に委員をやらないかと話しかけようとした。もちろん、咲耶が籐伊の横にいつでも入れるようにするためだ。それに部活に入ったら同性の友人が増えて、まだ友人、それも咲耶にとっては不本意な男の友人という立場である籐伊の立ち位置が無くなる可能性が高い。それは是非とも避けたかった。

 委員決めのホームルームのざわつきの中、早速咲耶に声をかけようとしたら逆に咲耶から一緒に図書委員にならないかと話しかけられたことに籐伊は驚いた。運動系の部活は推薦で入学して者たちが優先でなおかつある程度たしなんでいないと部活のスピードに乗れず足手まといになるため入部テストは必須で、文科系といえばコア度が高くなかなか敷居も高い。自然とあぶれた生徒たちが委員を目指すが、咲耶も例にもれなかったようだ。籐伊はもう少しで大声で返答をしそうになった。慌てて腹に力を入れて自分の愚かな行動を阻止できたことは僥倖だ。もし叫んでしまったら何事かと周りから好機の眼で見られ、挙句に詰め寄られるに決まっている。見世物になるきはない。

 委員に立候補する者が多い中、二人はあっさりと図書委員に任命された。

 クラスの中ではすでに二人は付き合っていると認識されていたからだ。

「違う。此花さんに失礼だなあ」と牽制したのはまだ咲耶の気持ちが籐伊に傾いていないと分かっていたからだ。ここで下手に付き合ってるよなんて言えばたちまち咲耶は籐伊から遠ざかっていくだろう。感情的にも、物理的にも。だからこそ必要以上に慎重に進んでいかなければならない。クラスメイト達の囃し立ては余計なおせっかいだ。まあたしかにその余計なおせっかいのせいで同じ委員になれたことは否定はしない籐伊だったが。

 公然と隣にいる権利を得た籐伊は、それはそれは真綿でくるむように咲耶に接するようになった。

 重い荷物は必ず引き受け、一人で出来る仕事すら二人ですると早く終わるからと手を出した。そのたびに咲耶ははにかみ礼を言う。向き合う瞳の中に積み重ねた積み木とは違う何かが見えたような気がした。

 咲耶は何事にも真摯だった。

 部活逃れの委員かと思えばそうではなく、本当に図書委員になりたかったらしく、たとえ当番でなくても昼休みや放課後を図書室で過ごしている。応募券の付いたライトノベルなどはその部分が切り取られることが多く、見つけるたびに顔を曇らせているものの、補正するための棚に片付ける。角が痛んでないか、破れはないかと一つひとつ書籍を手に取ってぱらぱらと頁を捲りつつも気に入った内容であれば姿勢が固定され見入る姿がとても愛おしい。

 籐伊は後ろから抱きしめたい衝動をこらえるのに一苦労だった。

 普段は人付き合いが苦手な咲耶も図書室に来ると別人となる。書架の貸し出しの際に一言二言言葉を添えて本を手渡す。うろ覚えの小説の題名を知らないかと問われば、できるだけ期待に添えるように話を聴きだして納得するとその小説のある書庫の位置を丁寧に教えている姿も見れる。よく借りる人たちの傾向のチェックを怠らないから新しく入る書籍はすぐ予約がつくようにもなった。図書室が静かな人気スポットとなるには時間がかからなかった。それは籐伊にとっては面白くはなかったが、次第に集まり始めた生徒たちに咲耶が頬を赤らめ嬉しそうに対応しているのだから仕方がないと諦めて、目の前にいる貸し出しを希望した生徒の身分証のバーコードを読み込んだ。咲耶がちらと籐伊を見たことに籐伊は気づくことはなかった。

 

 学年も変わった春の、クラス替えと共に行われた野外レクリエーションでそれは起こった。

 籐伊が他のことに気を取られているすきに、女子たちが誰かを囲んで詰め寄っていたのだ。女子たちの甲高い声がとぎれとぎれに籐伊のいる場所まで聞こえてくる。何を言っているのか要領はつかめなかったが誰かを詰って集中攻撃しているだろうことは汲み取れた。男子たちも女子のやりように眉間に皺を寄せつつも関わらないほうが良いと判断して無視することにしたようだが、籐伊は違った。いつもは籐伊の横にいるはずの咲耶の姿が見えないからだ。一瞬の判断で籐伊は動いた。頼りない風の声を伝って女子の塊を見つけたときに、その真ん中に位置する樹に背を預けて俯いている少女を見たときの怒りは言い表すことは不可能だった。

「どうかした?」

 ことさら何気なく声をかけたときの、リーダーらしき女子の怯えた顔が滑稽だった。

「……っち、違うの、籐伊くん」

「何が、違うの」

「わ、私たちは別に、此花さんに何も」

 語るに落ちるとはこのことだ、と籐伊は口端を上げた。

 ざ、と咲耶を取り囲んでいた女子たちが後ずさりをして道を開く。

「咲耶、そろそろ準備しないと間に合わないけど」

 班で作る昼ごはんの下準備は咲耶と籐伊の当番だった。焼肉だからと言って何も準備しないわけにはいかない。籐伊は樹に縛りつけられているように身動きしない咲耶に近づいて腕を取ると、周りの俯く女子の姿に一瞥もくれることなくその場を後にした。

 二年生になって、一年生の時の持ち上がりの女子がいなかったこともあってか一年の時以上にクラスに馴染めない咲耶は、このことが基点となってクラスの女子に話しかけることができなくなった。

 クラスで咲耶は浮いた存在となった。

 咲耶は籐伊が視界からいなくなると不安そうに瞳を揺らす。そして籐伊を見つけると安堵で体を弛緩させて頬に生気が戻り、籐伊に微笑みかけるのだ。

 なるほど、これは良い手かもしれない。

 籐伊は横に立つ咲耶の、黒髪に潜むつむじを見下ろしながらほくそ笑んだ。 


 籐伊は体育館裏の雑木林に呼び出された。

 最近、こういった呼び出しをよく受けるようになった。

 以前の籐伊なら面倒くさいと呼び出しメールに適当な返事をして返信するだけだったが、この頃は違う。一人一人のメールにきちんと対応して、女子たちの好感度をあげることにしたからだ。その結果として更に呼び出しが増えたのだが、それはそれで籐伊にとれば好都合というほかなかった。 

 今日も呼び出した女子が照れくさそうに籐伊の前に現れて、籐伊をいかに好きか、籐伊が素晴らしいか、彼女にどれだけ自分が相応しいか御託を並べて籐伊の横に立つ権利を得ようと躍起になっていたが、籐伊は反吐が出そうな彼女の言葉ひとつひとつを拾い集めて大切そうに包み込み、自分の黒い意識の中に沈めこんだ。俺の何を知っているんだと言いそうになる言葉も苦々しく飲み込んだ。そして全てを隠して蕩けそうに甘い笑みを浮かべると残念そうにつぶやくのだ。

「僕には面倒を見ないといけない子がいるから」

 面倒という言葉に彼女たちは食らいつく。それが誰を指しているのか一目瞭然だ。籐伊の憂いを無くせばその隣に入れるのは自分だと、籐伊を呼び出した彼女たちが勘違いをしてしまうのに時間はかからなかった。

 咲耶への攻撃が始まる。

 初めのうちはすれ違いざまの言葉の投げ捨て程度の軽さだったが、咲耶が無反応なのをいいことにどんどんとエスカレートしていった。「学校にくんな」「尻軽」「ビッチ」「死ねばいいのに」。言われるたびに咲耶の心に影を落とした。

 ますます籐伊への依存が強くなる。

 籐伊の傍にいるときだけ、咲耶は笑うようになった。けれどもその笑みは一年生の時に見せた心からのものではなく、儚く消え入りそうな、そんな笑みだった。

 時折ぎゅっと籐伊の袖口を咲耶は掴む。見上げる顔は怯えしかない。

「どうした?」

 何か言いたげに口を開くがすぐさま思い直したように俯く咲耶が愛おしくて、籐伊は優しく腕をさする。近頃は身体に触れても嫌がらないどころか触れることが自然に思えるまでになった。乾いた土に水がじんわりと染み込むように、籐伊という人間が咲耶に染み込んでいけばいい。咲耶が籐伊なしでいられなくなるまで、あと少しの水が必要だ。あと少し彼女たちには働いてもらおうと、落ち着きを見せた咲耶に籐伊は微笑んだ。


 籐伊への呼び出しが増えれば増えるほど咲耶は教室で一人きりの時間が増えた。

 すると女子たちはこれを好機に咲耶の周りをぐるりと取り囲み、口々に咲耶を貶める言葉を吐き出していく。

 それは教室で、調理室で、理科実験室で、更衣室で。

 はじめのうちは人目を気にしていた彼女たちも、周りの無反応に気を緩めたのかだんだんと大胆になってくる。かわいらしい唇からは口汚くののしる声をあげ、男子の前ではおしとやかにふるまう姿からは想像もつかない強烈で辛辣で傲慢な態度で嘲る。

「ねえ、自分って人間、わかってる?」

「籐伊くんと並んで恥ずかしいとは思わないの?家に鏡がないから自分が醜いって理解できないの?」

「きっと迷惑してるよ。ぐず子の相手なんてさせられて」

「必死なんだ?籐伊くんのやさしさに付け込まないと、きっと彼氏なんて一生できないもんね」

 女というものはとてつもなく卑怯だ。

 一人きりでは何もできないくせに徒党を組むと途端に馬鹿みたいに強気になる。誰かの同意を得て自分一人の意見ではないのだと、皆の意見を代表して言っているだけで言っている言葉に対する責任は自分以外の誰かだと、無責任のやりたい放題となる。

 手は出されないものの、集団での卑劣で下劣で攻撃的な言葉と態度を取られ続ければ、誰だって心弱くなる。咲耶だとて例外ではない。毎日毎日どこかで必ず誰かから蔑まれ続ければ、心を殺さなければ生きていけない。

 咲耶は目に見えて弱っていた。

 顔はげっそりとやつれ、色を無くし、程よい肉付きであった四肢は日に日に痩せ衰えていく。覇気を無くし、食に興味を無くし、唯一、籐伊が横にいるときだけは頬に少しだけ赤味が戻る、それだけだった。

「なあ、無理してないか?」

 三か月。二年生に上がってたった三カ月しか経っていないというのに、咲耶はまるで別人のように変貌した。

 それでも咲耶は籐伊の前では愚痴ひとつ零すことはない。

「……え?何か言った?」

 いや、それどころか何を言っているのか聞こえない。

 このころの咲耶は注意散漫で、籐伊が話しかけてもすぐには答えることができないことが多く、それを誤魔化すために微笑むことを覚えた。

 籐伊は深いため息をつく。

「……もうちょっと、僕を頼ってくれてもいいんじゃない?」

「感謝、してるよ?」

「そうじゃなくて」

 籐伊は咲耶を揺さぶりたくなった。籐伊が願ったのは、咲耶が自分自身を追い込んでしまうことではない。苦しいことや辛いことがあれば籐伊を頼るということを覚えてほしかったのだ。決して幽霊のようになるまで誰にも頼らず自分の内側で耐え忍んでほしいわけではなかった。

「咲耶、」

 大丈夫だよ、俺がいるよと咲耶にわかってもらうために、籐伊は咲耶の肩にぽんと手を載せようとしたはずだった。上げられた手が空を切る。まさか、咲耶が籐伊の手を拒否して後ろに下がるとは考えもしなかった。

「日誌を職員室に届けなきゃ」

 バツが悪かったのだろう、咲耶は黒板の上の時計を確かめるふりをして、逃げるように足早にその場を去った。

 あとに残された籐伊は、咲耶の机の上に彼女の鞄がないことに気が付いた。一年生の時のお気に入りの鞄を使うことのなくなった咲耶の鞄は、週代わりに新しくなる。理由は明白だ。彼女たちに悪戯をされるからだ。洗っても消えないようにと丁寧にも黒のマジックで書かれた罵詈雑言の数々は、翌日には真っ新な鞄となって隠滅される。昨日変えたばかりの真新しい鞄は見慣れることはないが、それでも咲耶の私物を籐伊が見間違えるわけがない。咲耶はきっとこのまま教室に戻らず家路につくのだろう。籐伊は咲耶の机の妙に光る表面を指でなぞった。ぼこぼこと不愉快な凹凸は、何が書かれていたのか推測することなど簡単だ。

 女のすることはえげつない。

 籐伊は眉をひそめたが、その口元には薄い頬笑みを浮かべていた。 

「……やりすぎたか」

 つぶやきは誰もいない教室に吸い込まれていった。


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