外伝3 「キリと焔」
外伝2に登場したキリと火龍「焔」の、外伝2の後日談です。
湿った土の匂いが立ち込める森の中を、長身の人影が疾風のようなスピードで北に向かって移動していた。
人影は軽い旅装を身に纏い、背には見るからに大きな剣を背負っていた。旅装の上からは男性のように見えるが、肩の上で短く切りそろえた髪に縁取られた顔は、美しい女のそれだった。
女の名はキリと言う。ヤマトという国の首都ワトで王家に仕えていたが、理由あって暇を乞い、今は郷里のある北の土地に向かっている最中だった。
時折風が吹いて真っ赤に色づいた葉を揺らす以外に周りに音は無く、キリの足音すらも辺りには聞こえない。
そんな静寂の中、女はふと立ち止まると、空を仰いだ。陽は傾き始め、紅葉をさらに紅く染めている。
(まるで、あの人の髪のようだ)
脳裏に浮かんだ男の顔を振り払うようにキリは小さく頭を振ると、一つ大きく深呼吸をした。振り向くまいと思ってはいたが、もう限界だ。
キリはピンと背筋を張ると、凛とした声で問い掛けた。
「いつまで私の後を付いてくるつもりなのです? 焔」
シン、と静まり返った森の中に、キリの声だけが真っ直ぐに響いた。
少しの静寂の後、カサ、という音が遥か後ろの方に微かに聴こえた。キリがゆっくりと後ろを振り返ると、そこから遠く離れた木の陰から、スラリとした痩身に燃えるような赤い髪を持つ男性が姿を現した。
焔と呼ばれたその男は、人ではない。「火龍」と呼ばれるヤマトの国を庇護する七龍の中の一柱である。
キリの立つ場所から焔の表情を読むことは出来ないが、彼が少し苛立ちながら溜息を吐いたのを、キリは見逃さなかった。
キリは、まるで飼い主の後を付いてきてしまった犬を諭すような口調で言った。
「焔…。私はワトを出る前にあなたに言ったはずです。あなたはあそこに留まり、王家を護るべき存在なのだと」
焔は黙ったままキリの立つ方へと歩いてきた。徐々に二人の距離が短くなるに連れ、二人はお互いの瞳を見つめ合ったまま、ただお互いの少し怒ったような顔を見つめていた。
「何故―」
焔が口を開いた。
「何故、お前は俺から離れる?」
それは、キリがワトを離れる数日前から繰り返し聞かされた言葉だった。
「何度言えばわかってくれるのです? 私は―」
焔がキリの言葉を遮った。
「俺は、お前の本心が知りたいだけだ」
これも、何度も焔の口から出された言葉だ。
「私は一族の元へと戻らねばならないのです」
この答えも、何度繰り返されただろう。
焔は腰に手を当てながらふう、と大きく溜息を吐いた。
「キリ。それは『本心』ではなく、『建前』と言うんだ。お前こそ、俺に何度同じ事を言わせる気だ?」
苛立った口調の焔に、キリは一瞬躊躇った。真っ直ぐにキリを見つめる焔の瞳に吸い込まれそうになりながらも、キリは必死に自分の想いを引き留めようとする。
「…私は、どうすればいいと、あなたは言いたいのです?」
キリの問に、焔はこれまた幾度と無く繰り返した答えを、ハッキリと口に出した。
「俺と共に、ワトで暮らせばいい」
「できません」
繰り返される拒絶が、二人の間に冷たい空気を流し込む。
「キリ…」
何とか振り絞った焔の言葉が、切なそうに零れ落ちた。お互いの視線がかつて無かったほどの執着と共に絡み合うのに、口から出る言葉は何と哀しいものだろう。
「ごめん、なさい」
キリの声が少し震えた。それに自ら気付いたキリはキュッと口元を引き締めると大きく息を吸い込み、そして今度はハッキリと言った。
「私は、これ以上、あなたと共にはいられません」
「だから、何故…」
縋るような焔の表情を見て、キリは諦めたように口を開いた。
「私は、あなたと同じ時を生きることが出来ない。あなたの側で自分が老いていくのに、これ以上は耐えられません」
「そんなこと―」
気にするな、と言おうとした焔を、キリが首を横に振りながら制止した。
「あなたと出会って十五年。その間、私は老いていく一方なのに、龍であるあなたはずっと変わらぬ姿のまま…。私は人で、あなたは龍。判っていたつもりでも、辛いのです。この先、私はどんどん老いて醜くなる。そんな私に、あなたはきっと見向きもしなくなる。だから、あなたが私の元から去る前に、私の方から去りたいのです」
「バカな」
そう言いながら、焔は力強くキリの肩を抱いた。
「俺の気持ちは、今まで一度も変わったことなど無いのに」
「気持ちだけでは、どうにもならない事だってあります」
キリはそう言うと、北の方角を見つめた。
「私はこれから、私が生まれた村に戻り、そこで一族と共に過ごします。これが、私の選んだ私の人生です」
一族の中に紛れ、同じ時間の流れに身をゆだねる。それが、キリの選んだ人生だ。だが、焔はそれに納得することが無い。
「イサと陸のようには、暮らせないのか?」
焔が自分達と同じように人と龍でありながら愛し合う二人の名を出した。
人であるイサと地龍である陸の間には、十年前に娘が生まれた。
人と精霊の間に子供が生まれることは稀だという。そしてその奇跡ともいうべき子供は、まるで時に見放されてしまったかのように成長が遅い。身籠り、産まれるのにも1年という月日がかかったが、産まれてから十年経っても、子供は外見だけは稚児のままだ。
人でありながら人として生きることの出来ない娘をイサと陸は静かに受け止め、そして変わらない愛情を注ぎ続けている。その二人が羨ましくないと言ったら嘘になる。しかし―
「私は、イサのように強くはないですから」
自分はイサの様に全てを丸ごと受け止めることは出来ないと、キリにはよくわかっている。所詮、自分は現世の中に身を置く、ただの一人の女に過ぎないのだ。
「俺は…」
焔が唇を噛み締めた。「俺は、何で龍なんだろうな」
苦しそうに呟かれた焔の言葉が、落ち葉と共に風に舞い、二人の間を通り抜けた。
どうして、と。何故、と。幾度繰り返したか、もう覚えてはいない。
何度繰り返しても答えの出ないその問を、二人は延々繰り返してきた。それは今も変わらない。それでも、意を決してワトから旅立つキリの心の奥底で、少しずつ形を成してきたものがあった。
「私は…」
長い静寂の後、キリが口を開いた。乾いた唇が少しだけ震えた。
「あなたを、愛しています」
そう言って微笑んだキリの顔は、今まで焔が見たこともないような穏やかな顔をしていた。その穏やかさが、徐々に焔の心を和らげていく。
キリは穏やかに微笑んだまま焔に近づき、そっとその胸を右手で触れた。焔の心臓の鼓動を感じ取るように瞳を閉じると、キリはそのまま焔の胸に顔を埋める。
「…!」
キリの耳元で、焔の鼓動が跳ねた。躊躇いがちにキリの背に回された腕が、少しずつその重みを増していく。
(暖かい…)
そう思いながら、キリはゆっくりと深呼吸をした。まるで、彼の匂いを自分の体内に留めようとするかのように。
それは焔も同じだった。キリの髪から微かに香る太陽の匂いを感じ取りながら、ただひたすらにその匂いを記憶に留めようとする。
「…せです」
焔の胸から、キリの微かな声が伝わる。
「ん…?」
聞き返す焔に、キリは今度は顔を上げ、焔の少し潤んだ瞳を覗き込みながら言った。
「私は、幸せです。今も、これからも。たとえ、貴方と遠く離れて暮らすことになっても、貴方がそこにいると、知っているから」
焔はしばらくキリの瞳を見つめていたが、やがてフッと諦めたように微笑んだ。
「お前の決心は、固いのだな。本当に、頑固な女だ」
「それがいいと、あなたは昔、言ってくれましたよ?」
クスッと笑うキリに、焔は負けじとニヤリと笑った。
「ああ、そうだな。それは今でも変わらない」
二人は少し笑うと、お互いの身体を惜しむように離した。間を通り抜ける風がそれを嫌というほど実感させたが、不思議と寂しさは感じなかった。それは多分、肌がまだ、お互いの温もりを覚えているからだろう。
二人は微笑みあうと、固い握手を交わした。
「さようなら」
「ああ。気をつけて」
「ありがとう」
キリはもう一度焔に向かって微笑むと、北へと顔を向け、歩みだそうとした。
「キリ」
焔の声が背中から聴こえ、キリは振り向かずに立ち止まる。
「そのうち―」
少し戸惑いながら何かを言いかける焔を、キリは背中越しに感じていた。身体が少し緊張して強張った。
「そのうち、さ」
なかなか言い出さない焔に少し不安になりながらも、キリは振り向かずにその場に立ち尽くしていた。
背中の向こうで一つ、大きな深呼吸が聴こえた。
「そのうち、里に遊びに行ってやる。土産は酒がいいか?」
思いがけなくもたらされた「いつもの焔」らしいその言葉に、キリは笑いながら振り返った。
「ええ。里の者は皆、酒好きですから。沢山持って来てくださいね?」
「わかった」
「それなら、お客様としておもてなしさせていただきます」
「ああ」
二人は笑顔で手を振ると、別々の方向に向かい、歩き始めた。
そして、今度は二人とも、振り向くことなく歩き続けた。
キリが里に戻ってから、もう幾度季節が巡っただろうか。
焔は一年に数度、約束通り酒を手土産にキリの一族が住む里を訪れ、キリや他の一族の者達と酒を飲み交わしては帰って行く。
二人の間の感情には昔のような激しい熱さは無いが、それは今や暖かく、穏やかなものへと変わっている。
その後、キリは周囲に押されて族長となり、一族の者達をよく守り、導いた。
始めの頃は何度か周囲の他部族とのいさかいに巻き込まれもしたが、火龍の加護のある部族に手を出すほど、愚かな敵ばかりではなかった。
里では、穏やかで優しい時間が緩やかに流れていった―
キリは一生独身を通したが、彼女の心には常に焔がいた。
キリの臨終の間際、虫の知らせを聞きつけたのか、いつのまにか現れた焔がキリの傍らでその老いて皺がれ、細くなった手を取り、穏やかな顔でキリを見つめていた。
焔の手に気付いたキリが目を少し開けると、そこには出会った頃と何一つ変わらない焔の姿があった。
焔はキリと目が合うと微笑みながら頷き、そして彼女の額に最後の口付けを落とした。
キリは満足そうにうっすらと微笑むと、そのまま息を引き取った。
その日、焔は生まれて初めて、誰かのために涙を流した。




