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この地に渡る風 外伝  作者: 成田チカ
7/9

外伝2 「イサと陸」 5

 夢を、見ていた。

 あれは、いつの頃だろう。

 日々繰り返される紫影(しえい)の訓練が、予想以上に体力的にも精神的にも苦しかった。しかし、その当時のイサには、それを口にすることが許されなかった。イサが紫影になることは父であるヤマト王と兄である皇太子しか知らなかったし、仲間であるはずの紫影達は、本来彼らに守られる立場であるはずのイサをどう扱ってよいのか困惑していた。イサが何も言わなくてもすぐに察して気遣ってくれる姉も、遠い異国に嫁いでしまった。

 ある時、修行場での訓練の後、城への帰途にイサは不意に意識を失い、不覚にも倒れてしまった。修行場は城から少し離れた森の中にあり、人通りは無い。だが、イサの異変を感知した(くが)が現場に駆けつけ、イサを城の自室へこっそりと運んでくれた。

 イサが目を覚ました時、陸はイサの傍らにいた。「見られたくなかった」とイサが泣くと、陸が部屋に飾られていた山百合を見ながら言った。

「イサ。あなたは、あの山百合のように強く、誇り高い。ですが、あの山百合も水が無ければしおれて、枯れてしまうのです。私はあなたの庇護龍。あなたにとって、水のような存在です。いつでもあなたの側にあり、あなたが美しく咲き誇るのを助けるのが私の役目なのです」

 そう言って、陸は微笑みながらイサの頭をいつものように撫でた。誰かが支えてくれる、その気持ちがイサには嬉しかった。

 そんな夢から覚め、ゆっくりと目を開けると、すぐ側にいた陸と目が合った。

「あ。起こしてしまいましたか?」

「ううん」

 そう言いながら、イサは陸に寄り添った。「夢を、見てた」

「夢?」

「うん。陸が、倒れた私を訓練場の近くから運んでくれたこと、あったでしょう? あの時の夢」

「…ああ」

 陸がイサの目元に口付けると、ふわっと陸の香りが漂った。

「陸の香り、好き…」

「あなたの香りも好きですよ。山百合、ですね?」

「うん」

「私はずっと、これからも…。あなたと共にありますよ」

 陸の言葉にイサはニッコリと微笑んだが、「でも…」と不安気に呟いた。

「何です?」

 陸の問い掛けに、イサは躊躇いながら答えた。

「私は…、その…。『精霊の娘』じゃないけど、大丈夫?」

「はい?」

 聞き返した陸に、イサは少し泣きそうな顔をしながら言った。

「だって…。本当は、『精霊の娘』だけが精霊と結ばれるんでしょ?」

 イサの言葉を聞いて、少し面食らったような顔をしていた陸がクスっと笑い始めた。

「何がおかしいのよー」

 膨れっ面をするイサを宥めながら陸が言った。

「イサ。あなたは少し、誤解されているようです。『精霊の娘』は『天』の付く雄の精霊と結ばれると新たな精霊を生み出すことが出来るのです。言わば、この世界で新たな精霊を生み出すことの出来る、唯一の存在です。我々の母がそうでした」

 イサは頭の中でヤマトの歴史を遡った。

「陸の母君って…。始祖の娘? じゃあ、始祖の娘は『精霊の娘』だったの?」

「そうですよ。伝承の通り、『精霊の娘』は何度も生まれ変わり、始祖の娘として生まれた時は、天龍である上様と結ばれて我々六龍を産みました」

「そうなんだ…。私、てっきり自分は『精霊の娘』じゃないから、陸とこうなっちゃいけないんだって思ってて…」

「『こうなっちゃ』、ですか?」

「あ、あはははは」

 二人はイサの寝台の上にいるお互いを見合わせ、静かに唇を重ねた。遠くの方で、人々が動き始める音が聞こえる。

「陸、もうそろそろ行かないと…。エレンが私を起こしに来る前に、部屋を出た方がいいよ?」

 イサの髪を指先で弄んでいた陸が、徐々に大きくなっていく物音を聴きながら溜息を吐く。

「…残念ですが、そのようですね」

 陸は寝台から滑り降りて手早く身支度を整えると、上着を羽織って側に来たイサを抱き締めた。

「自分が、こんなに感情のままに行動するようなことが起こるとは、夢にも思いませんでしたよ」

「私も。でも…。嬉しいよ?」

「身体の調子は?」

 心配そうにイサの顔を覗き込む陸に、イサは幸せそうに微笑んだ。

「大丈夫」

 陸は黙って微笑むと、するりと扉を抜けて去っていった。イサは音を立てないように扉を閉めると、静かに自分の寝台に戻った。横になると、まだ微かに陸の香りが残っている。途端に、自分達のしたことが生々しく脳裏に甦ってきた。

(う、うわあ…。私、私…!)

 その後、エレンがイサを起こしに来るまでの間、イサはニヤニヤと妙な笑みを浮かべたまま眠っていた。


 エスタ王宮内は数日後に開かれる建国祭の準備に追われていた。イサ達は自分達の得た情報を示し合わせながら、この日に計画を実行するべく手筈を整えつつあった。

 遠方の視察から戻ってきたウィレムは、イサに執務室に来るよう使いを寄越してきた。念のために、エレンがイサの後を付いてくる。

「私一人でも大丈夫よ? 城の中だし。それに、エレン。あなたも建国祭の準備で忙しいでしょう?」

 忙しく人々が行きかう廊下を執務室まで歩きながらイサが言うと、エレンが「とんでもございません」と頭を振った。

「私共の務めは、皇太子妃殿下のお世話です。建国祭の準備は祭事担当の者が行なえばよろしいのです。それよりも、この間のような不祥事を殿下にされないようにも、私がしっかりとお守りいたします!」

(この間のって…。ああ、あれかぁ…)

 カヤの身代わりにされた当日に、一瞬の隙を突かれてウィレムに口付けされたのを思い出した。

「真面目なんだねぇ、エレン…」

「これが私の仕事でございますから。それに、こうすることで少しでも『カヤ様』のお役に立てるのであれば、本望でございます!」

 意気込みながらそう言うエレンを、イサは頼もしく思った。エレンはエレンなりに、自分が使えるべきカヤが幽閉されることになってしまったのを気に病んでいて、それで自分から塔にいるカヤの世話を進んで行なっていたのだと、後で他の女中達から聞いた。彼女も彼女で自責の念に苦しめられ続けてきたのだろう。

(何が歪んで、こうなっちゃったのかな、ここは…)

 そんなことを考えながら、イサは執務室へと急いだ。

 相変わらず、長い廊下のあちこちで人々が荷物を運ぶ姿が見える。だが、ほとんどの荷物は王宮に「入っていく」荷物のようだ。

「荷物が多いわね」

 ポツリとイサがそう呟くと、エレンが頷いた。

「建国祭前はいつもこうです。各地の領主や商人達から、王家への贈り物が次々と届くのですよ」

「贈り物、ねぇ…。どんなものが贈られてくるか知ってる?」

「はい。装飾品から、家具から、食べ物まで、様々ですが…」

 そんな会話をしている二人の前を、大きな金でできた鳳凰の飾りを持った女中が通った。

「あんな物を作るだけのお金を持った人たちも、この国にはいるってことよね」

 溜息混じりにイサが言うと、エレンが苦笑した。

「お金と言うものは、あるところにはあるものですわ」

「うちは代々華美を嫌うから、わからないわね。このキンキラな感覚は」

「『カヤ様』もそう仰っておられましたよ」

「…でしょうね」

 二人はウィレムの執務室に辿り着いた。遠目にイサの姿を見たた近衛兵が、すでに扉を開けて待っている。通り過ぎざまにイサが「ありがとう」と声を掛けると、近衛兵が両目を丸くした。

「あ、え、あれ…?」

 無理も無い、彼とは毎日「側女(そばめ)のイザベル」として接していたのだ。それが、数日会わなかったら、今は皇太子妃の衣装を着て目の前に立っている。事情を知らない彼が驚くのも無理は無い。

 だが、そんな困惑顔の近衛兵をエレンが睨み付けた。

「妃殿下の御前で何ですか? その態度は!」

「あ、も、申し訳ございません! どうぞ! 中で殿下がお待ちです!」

 慌てて姿勢を正す近衛兵の前を通り過ぎた後、エレンがイサに耳打ちをした。

「やはり、前の方のようなお化粧された方がよかったのでは…?」

 その言葉に、イサは自分の前に「ニセ皇太子妃」を務めていた厚化粧の派手な女性を思い出し、激しく首を横に振った。

「いやよ! あんな、ケバイ化粧!」

「そうですわよねぇ…。困りましたわねぇ…」

「遅かったな」

 イサの姿を見るなり、いつものように執務机の前に座って書類を読んだまま、ウィレムが不服そうに言った。イサはウィレムに向き直り、優雅に会釈をして見せた。

「お帰りなさいませ、殿下。視察はいかがでしたか?」

 イサがニッコリと微笑みながら言うと、ウィレムは書類から顔を上げ、少し面食らったような顔をしてイサを見た。

「…ああ。まぁ、普通だ」

 イサの後ろで、エレンが扉が閉める音がした。

「で、何の用なの?」

 普段のイサに戻ると、ウィレムがあからさまに溜息を吐いた。

「何だ。さっきのは外面か?」

 呆れ顔のウィレムを気にも留めずに、イサは飄々とした態度で言った。

「当然でしょう? ただでさえさっき、扉の前にいる警備兵に『あれ? 君、イザベルだよね?』っていう顔で見られたし」

 ウィレムはクックッと笑うと、楽しそうに言った。

「軍に兵の配置を変更するように伝えておこう」

「殿下のお心遣いに、感謝いたします」

 優雅にお辞儀をするイサを見ながら、ウィレムが「うーむ」と唸った。

「では、その姿では俺の用はできんというわけか…。困ったな」

「?」

 ウィレムの言葉の意味が判らずに首を傾げるイサに、ウィレムが単刀直入に言った。

「茶が飲みたい」

「…はい?」

 聞き返すイサに、少し顔を赤らめながらウィレムが言う。

「お前の淹れた、茶が飲みたい」

「えーっと…」

 イサがそっと後ろを振り返ると、エレンが信じられないと言った顔をしたまま、呆然とその場に立ち竦んでいる。

「お茶…、ですか?」

 戸惑うイサの様子を見て、ウィレムが勢いよく椅子から立ち上がると、イサの目の前にやって来た。

「そう何度も言わせるな! 俺はこの旅の間、ずっと我慢してたんだ! 俺は、今すぐ、お前の淹れた、茶が飲みたい!」

 思いもかけず、子供のような態度を取るウィレムに、イサは笑いを堪えられなかった。

「…何がおかしい」

「だ、だって、殿下ったら、まるで子供…」

「う、うるさい!」

 その瞬間、イサの視界が真っ白になった。

(え…?)

 よく見たら、白いのはウィレムが着ている上着だった。それが今、イサの目の前に広がっている。知らない香りがする、と思った時にイサはやっと自分がウィレムに抱き締められていることに気が付いて、身体を硬直させた。

「で、殿下? あの…」

 耳元からウィレムの声が生暖かい息と混ざりながら緩やかに聴こえてくる。

「うるさい。黙れ」

「でも、あの…」

「黙ってろ」

 そう言いながら、ウィレムの腕が少し強く締まって、イサの身体がウィレムに押し付けられる。

「あ、あの…。エレンが、見てます」

「…見せとけ」

「イヤです」

「……」

 ウィレムの唇がイサの首に触れ、イサの肩が跳ねた。

「あ、あの、殿下?」

「…名で呼べ」

「はい?」

 ウィレムが身体を少し離して、二人は向き合う形になった。ウィレムの顔が少し赤い。

「ウィレム、と呼べ」

 イサは少し首を傾げながら尋ねた。

「呼びつけで、よろしいんですか?」

「ああ。許す」

「いつになく、大安売りですね」

「うるさい。黙れ」

「……」

「……」

 二人はしばらくの間、無言で向かい合ったまま、お互いを探り合うように見詰め合っていた。やがて、業を煮やしたらしいウィレムが口を開いた。

「…呼ばんのか?」

 ウィレムの言葉に、イサは小さな溜息を吐きながら答えた。

「だって、黙れって仰ったじゃありませんか」

「呼べ」

「はあ? 命令形?」

 眉間に皺を寄せたイサを見ながら、ウィレムは「やれやれ」と言いながら小さく溜息を吐いた。

「呼んでくれ」

「じゃ、その代わり、私とお姉様をヤマトに返してくださる?」

「ダメだ」

 ウィレムの即答に、イサは口をアヒルのように尖らせた。

「何でよ~」

「それなら、カヤだけ帰ればいいだろう? お前は残れ」

「何で?」

 ウィレムはニヤリと微笑んだ。

「それが条件だ」

 イサは負けじと微笑み返した。

「なら、私はあなたのこと、名前でなんて呼ばないから!」

 ウィレムがムッとしたような顔をした。

「いいだろう。好きにしろ!」

 イサもムッとしながら言い返す。

「好きにするわ。それでは『殿下』、ごきげんよう。もう、お茶も淹れてあげないんだから!」

「な…!」

 イサはウィレムの腕が緩んだ隙にするりと身体を離し、踵を返して出口に向かって歩き始めた。エレンの近くに来ると、イサはウィレムに聞こえる様にエレンに言った。

「エレン、私の代わりにウィレムにお茶を淹れてあげて!」

「かしこまりました」

 イサに向かって頭を下げるエレンの両肩が、小刻みに揺れていた。


 イサが勢い良く執務室を出て行ってしばらく経った後、ウィレムはエレンの淹れた茶を一口飲んだ。

「? おい、これ…」

 エレンはニッコリと微笑んで答えた。

「はい。妃殿下に淹れ方の秘訣を伝授していただいたのですが、殿下のお口に合いましたでしょうか?」

 ウィレムはエレンの言葉で合点がいったという顔をして頷いた。

「ああ。そうか。やはりな…」

 ウィレムはおもむろにティーカップを覗き込むように見つめたまま、大人しく黙り込んでしまった。

「では、殿下。私はそろそろ、妃殿下の元へ…」

 エレンが遠慮がちにそう言うと、ウィレムが頷いた。

「ああ。あれを…、『イサ』を頼む」

 その言葉を聞いて、エレンが一瞬両目を大きく見開いて驚いたが、すぐに穏やかな笑顔に戻り、一礼をするとウィレムの部屋を後にした。

 エレンが去った後、ウィレムはゆっくりと立ち上がると、窓から外を見た。エスターナの街が眼下に広がり、そのさらに奥には砂漠が見える。ヤマト国はそのさらに向こう、ここから陸路で一月掛かる距離の先にある。

(「私とお姉様を返して」か…。やはり、ここまでカヤを助けに来たか、あの娘…)

 ウィレムの服から、微かに山百合の香りが漂ったような気がした。

(さて。どうやって手に入れるかな、あの山百合を)


 建国祭当日は、王族も朝から大忙しだった。

 まず、朝、朝食後すぐに王宮内にある礼拝堂に向かい、建国を祝い、エスタの繁栄を祈るための儀式が行われた。礼拝堂にある祭壇に置かれた豪華な椅子の上に飾り物のように鎮座していた鳳凰両君が、見ていて痛々しかった。

 その後、王宮前の広場での街の式典に合わせ、広場に面したバルコニーに全員が出て手を振る。その後は王宮の大広間で宴が開かれ、ここでもイサはウィレムの側にいなければならない。

 イサは移動の度に要所要所に配属された仲間達を確認し、宴の時には上手く王宮に紛れ込んだ(ほむら)とキリを確認した。必要な武器や防具は既に王宮に潜入を果たした仲間の手によって王宮内の至る所に隠されている。

 真夜中近くまで続く宴の最中、イサは疲れたからと言って中座し、エレン達が付き添って寝室へと戻った。

「じゃ、お願いだから、皆、この部屋から動かないでね? 外は危険になるし、私達の仲間は絶対にここを襲わないから」

 イサは晴れ着を脱いで女中の装束に着替えながら、皇太子妃付きの女中達にそう言った。皆、状況を理解しているので、黙って頷きながらイサの着替えを手伝っている。

 やがて、扉に合図の音がして、エレンが開くと、そこには女中姿のキリが立っていた。

「イサ。例の物は?」

「こっち」

 二人はイサの寝台の下に隠していた箱を引き出した。中には、イサとキリの武器と、光玉などの小道具が揃っている。二人はそれらを黙々と点検し、装備した。

「陸と焔は?」

 服の中に暗器を装着しながらイサが尋ねると、キリが剣を鞘から抜いて刃を確かめながら「手筈通りです」と答えた。

「プリシラたちは?」

「あちらも、手筈通りに」

「わかった」

 二人は立ち上がると窓の外を見た。そこには、カヤがいる塔が見える。

「では、イサ。行きましょう」

「うん!」

 二人が扉へと向かうと、エレンと他の女中達が一列に並び、イサとキリに会釈をした。

「御武運を」

 イサは皆に向かって微笑むと、頷いた。

「お世話になりました。行ってきます!」

 イサとキリの二人は皇太子妃の寝室の扉をスルリと通り抜け、カヤの待つ塔へと向かった。


 イサ達は軍部の建物の入口付近で潜伏していた紫影達数名と合流した。ジーク、陸、焔の三名は残りの紫影達と共に「砂漠の守人」を援護する手筈になっている。

 紫影達は足音一つ立てずに軍部の建物に近付き、お互いに頷き合うと、建物の中へと侵入を開始した。

数名の紫影が正面口から少し離れた場所にある窓から内部へと潜入し、僅かな間に見張りの兵達が背後から襲われて気絶した。

 建物の中を熟知しているイサが先頭を切って走り出す。途中で何名かの兵に遭遇したが、全てあっと言う間にイサとキリによって倒された。

 さすがに顔見知りの警備兵を倒すのは気が引けたが、少しの間、眠っていてもらうだけだと自分を納得させながら先に進む。

 詰所のカギ置き場から塔の入口へのカギを持ち出し、一向は素早くカヤのいる塔へと向かった。だが、いつもは閉じられているはずの塔への扉が開いていた。 

『鍵が開いてる』

『誰かが侵入していると言うことか?』

『恐らく…』

 紫影達は手を使った独特の会話法で状況を確認すると、慎重に塔の階段を昇り始めた。


「!」

 カヤの部屋へと続く階段の途中で、キリが止まった。と、同時にその場の全員が神経を張り巡らせる気配がした。

(カヤお姉様の気配がしない…。姉様以外に、誰かがいる…)

 紫影達はお互いの顔を見合わせ、頷くと、気配を押し殺した状態で前へと進んだ。

 カヤの部屋の前には、いつもいるはずの衛兵がおらず、扉が少しだけ開いていた。その隙間から漏れる光は無い。

 イサは部屋の奥に自分の良く知る気配を感じ取った。

『私に行かせて…?』

 イサはキリにそう伝え、後ろに控えた紫影に手で指令を伝えた。

『中にいる敵は1名。キリはここで待機。他の者は2名は下で出入り口の確保。他は王宮に戻って砂漠の守人の補佐に当たれ』

 紫影達は頷くと、音も立てずに階下へと消えていった。

 イサは小さく深呼吸をすると、扉を開けた。

「お姉様…?」

 不安気な声を掛ける。人影が少し動くのを感じた。人2人分の体重を感じるのに、意識を感じるのは一人分だけだ。

(お姉さまが、捕らえられてる…?)

 イサは何も気付いていない振りをしながら呼びかけた。

「お姉様? いらっしゃらないの?」

「やはり来たか。お前を待っていた」

 反対側の壁の近くで黒い人影が動き、窓から僅かに入る月明かりの下に出た。

(やっぱり…)

「殿下…」

 ウィレムはカヤの首筋にナイフを突きつけている。ウィレムの腕の中にいるカヤは、意識を失っている様子で、グッタリとしている。

「カヤ姉様を、返して…!」

 武器を構えてはいないものの、凄まじい殺気を放つイサに動じることなく、ウィレムは真面目な顔でイサを真っ直ぐに見つめている。その瞳は、静かな湖の水面のように穏やかだった。

「条件が、ある」

 この期に及んで紳士然としているウィレムの真意がわからないイサは、態度を崩さずに言った。

「条件?」

「ああ。それを飲むならば、カヤはヤマトへ返すことを約束しよう」

「どんな、条件?」

「簡単なことだ。お前とカヤを交換する。お前がここに残り、皇太子妃カヤとして俺の側で生きる。それがカヤをヤマトへ返す条件だ」

「……」

 イサは黙ったまま、ウィレムを見た。ウィレムの瞳を、奥の奥まで何かを探すように見つめた。だが、ウィレムは怯むばかりか、それを甘んじて受けているような気がした。

 イサは小さく溜息を吐いて警戒を少し緩めた。

「あなたの目的が、さ~っぱりわからないわ」

 少し苛立った様子のイサに、ウィレムは一歩近付きながら言った。

「俺の目的? 俺は、お前が欲しい。それだけだ」

「…はい?」

「俺は、お前が、欲しい。お前以外の女はいらん。カヤとお前を取り替えればお前は俺の妃だ」

 ウィレムの言葉にムッとしながら、イサは言う。

「取り替える…? 人を、その辺の物みたいに言うのね」

「お前は俺の物だぞ?」

「気に入らないわ」

 イサの返答に、ウィレムはクッと笑うと、満足そうに微笑んだ。

「初めから…。お前を娶れば良かったのだな、俺は」

 ウィレムの言葉に、イサは呆れたように言い返した。

「水の姫を指定してきたのはそっちでしょ? 何を勝手なことを…」

「ああ、勝手さ」

 ウィレムの瞳がギラリと光ったような気がした。怒気を帯びた声が狭い部屋に響いた。

「皆、勝手さ。勝手に俺の妃を選び、勝手に俺の役割を決めつけ、勝手に俺の予定を組み、勝手に俺の未来を定める。俺の人生だろ? なのに、俺の意思はどこだ?」

「女中に我侭言ったり、側女に無茶言ったりしてた人の台詞とは思えないわね…」

「そんなことは、些細なことだ。あの程度…」

 ウィレムはそう言いながら、彼の腕の中でグッタリしたままのカヤを引き摺りながらイサに近付いた。

「姉様は、大丈夫なの?」

「薬で眠ってるだけだ。案ずるな。だが、本当にこの女を連れ帰るのか? 俺の子ではないとは言え、腹の子はエスタ王家の血を引くのだぞ?」

 イサはキュッと唇を噛み締め、堪えようとしたが、溢れてくる感情に耐えられなかった。

「誰のせいで、姉様がこんなことになったと思ってるのよっ!」

「俺のせいだけではあるまい?」

「……」

 イサは言葉に詰まった。

「俺は、お前の姉を愛せなかっただけだ。他の女たちも、皆…。抱けば愛情が沸くかと思ったが、全く違ったな。そんなことをしても、気持ちが沸くどころか逆に冷める一方だった。だが、お前は違う」

 ウィレムがイサににじり寄って来る。その瞳があまりにも真剣で、イサには目を反らすことが出来なかった。

「お前のことは、触れてもいないのに気持ちが高ぶった。俺の視界に入るだけで気になるし、手を伸ばせば触れられるところにいると、触れたくなる。触れたら―」

「やめて。聴きたくない」

「触れたら、もっと欲しくなった。だが、俺の手で滅茶苦茶にしてやりたいのに、同時にそれをするのが怖いんだ」

「もう、やめて。姉さまを返して」

「お前が欲しいんだ、イサ…!」

 イサの背中が部屋の壁に当たった。

(どうする…?)

 近付いてくるウィレムの顔を見ながらイサが次に出すべき行動を考えていたその時―。

 ズン!

(え?)

 地の底から響くような音と共に、塔全体が大きく揺れた。バランスを崩したウィレムの腕からカヤが離れ、間一髪でイサがカヤを受け止め、そのまま床に倒れた。塔の壁と床の一部が崩れ落ち、乾いた空気がイサの上を通った。

「な…!」

「地震?!」

 扉の外で待機していたキリが飛び込んで来た。

「イサ! 早く! 崩れるかもしれない!」

「キリ! 姉様を連れて先に逃げて!」

「わかった」

 キリはまだ眠ったままのカヤを手早く背負うと、あっと言う間に階段を駆け下り始めた。

 ズン!

 再び大きな音がして塔が揺れる。

(何が…。一体、何が起こっているの…?)

「くっ」

 苦しそうな声がして、声の方を見ると、ウィレムの姿が無い。

「殿下!」

「ここ、だ…」

 ウィレムの声を辿ると、ウィレムは崩れた塔の床から落ち、運良く塔の外壁についている装飾部分に手を掛けてぶら下がっている状態だった。

「ちょっと待って!」

 イサは自分の服の袂から手早く縄を取り出すと、その先端についている鉄製のカギを窓の格子に引っ掛けた。力いっぱい縄を引き、カギがぶれないことを確認する。

「殿下! これに掴まって!」

 ウィレムが縄に捕まり、何とか体制を立て直した。

「何故…。俺を、助けようとする…?」

「屁理屈は後! 今はここから脱出する方が先よ!」

 イサが何とか縄を引き上げようとするが、足場が不安定なために、なかなか上手く引き上げることが出来ない。

(次に揺れたら、終わりだ…! どうする…?)

 だが、嫌な予感ほど的中するものだ。

 ズン!

 眼下で、王宮から大きな火柱が上がると同時に、塔が今度は縦に揺れた。

「うわっ」

 バランスを崩したイサの身体が空中に投げ出された。

「イサ!」

 差し出される手が咄嗟に見えて、イサは迷わずそれを掴んだ。

「だい、じょうぶ、か…?」

 片手で縄を掴み、もう片方でイサを掴みながらウィレムが言った。

「はぁ、はぁ、はぁ…。うん…。でも、これは、かなりまずい、よね…」

「そう、だな…。くっ」

 縄が塔の石壁とこすれながらキリキリという音が聞こえる。

(このままじゃ、縄が切れる…。どうしよう?)

 その時、王宮から一筋の黄金色の光が見えた。

(あれは、陸…?)

 黄金色の光を帯びた龍の姿の陸は、一直線にイサの元へと飛んできた。

「イサ! 乗れ!」

 イサはウィレムの手を離し、陸の背に飛び乗った。

「殿下も、早く!」

 陸の姿を驚愕の眼で見つめていたウィレムが、ハッと我に返って頷き、イサの後ろに飛び乗った。

「陸、何が起こってるの?」

「砂漠の守人の襲撃を、王は知っていたようだ。王は王権放棄を拒否して、王宮に火を付けた。あらかじめ、爆薬が仕込んであったようだな。あれでも、焔が咄嗟に火の勢いを抑えたんだが…」

「ヤツめ…」

 眼下の様子を見ながら、ウィレムが忌々しげに呟いた。

「鳳凰は?」

 イサの問に、陸が落ち着いた声で答えた。

「まだ、王宮の何処かに」

「エスタ王も?」

「ええ。ジークが後を追っています」

 王宮から遠ざかろうとした陸を、ウィレムが止めた。

「悪いが、俺を王宮の中央部付近で降ろしてくれ」

「えっ?」

「ヤツが逃げるとすれば、きっと『王冠の間』だ。あそこは、王家の者でなければ入ることの出来ない場所がある。俺が行く」

「わかった」

 陸は軽く頷くと、立ち上る煙の合間を縫って下降し始めた。物が焦げる匂いが鼻を突き、人々の叫び声と足音が徐々に大きくなる。

 ふと、眼下に見覚えのある一団を見つけ、イサは声を上げた。

「プリシラ!」

 イサの声にキョロキョロとしていたプリシラは側にいたジークに上を指差され、やっと顔を上げてイサの姿をその目に捉えた。

「イサ! 無事ですのね?」

「そっちは?」

 イサは陸の背から飛び降り、プリシラ達に駆け寄った。

「何人かが怪我を負ってしまいましたけれど、何とか…。でも、王と鳳凰の姿がどこにも見えないんですの!」

 陸から降りたウィレムが口を開いた。

「王は俺が追う。鳳凰も恐らく一緒だ。ここは俺に任せ、お前達はここから早急に去れ」

 冷たく言い放つウィレムの声を聴き、プリシラ達は両目を見開くと、途端に身を構えた。今にも襲い掛かってきそうな一団を見ながら、ウィレムが忌々しげに言った。

「よせ。この事態を引き起こした彼奴は、この俺が討たねばならん」

「とか何とか言って、あなたも逃げるつもりではありませんの?」

 プリシラがウィレムに食ってかかろうとしたその時、再びズン!と大きく地に響く音がして、床が大きく揺れた。

「くそ! 彼奴め…。本気でこの王宮ごと冥土に行きたいらしいな…!」

 ウィレムは忌々しげにそう吐き捨てると王宮の中央部に向かって歩き始めた。

「あ、ウィレム、待って!」

 イサが慌てて追いかけてウィレムの袖を掴むと、ウィレムの足が止まった。

「止めるな」

「止めてるわけじゃないわ。私も行く」

 ウィレムは一瞬、躊躇しながら言った。

「…危険だぞ?」

 イサは自信満々に答える。

「自分の身は、自分で守れるわ」

 ウィレムはイサの答えに片眉を吊り上げながら怪訝そうな顔をしたが、小さく溜息を吐くと諦めたように言った。

「なら、勝手にしろ。だが、手を出すなよ?」

「わかった。勝手にする! あ、でも、ちょっと待って?」

 イサはプリシラ達に向き直ると、皆に向かって言った。

「プリシラ達はとにかく王宮から人を全員安全なところに避難させて! ジーク! 姉様はキリが連れて王宮を離れました! 陸と焔がいれば、場所がわかると思うから二人はジークと一緒に行って! 陸! 気を繋げておいてね!」

「だが、イサ!」

 陸がイサに向かって歩み寄ったが、イサは首を横に振り、服の上から胸元の紋章を握り締め、その感触を確かめると微笑みながら陸に言った。

「大丈夫。必ず、戻るから」

 陸はイサの瞳を見つめ返し、戸惑いながらも頷いた。

「わかりました。気を繋げておきます。私は常に、あなたの側に…!」

「ありがとう! じゃ、行ってきます!」

 イサとウィレムは陸達に背を向けて走り出し、すぐに煙の中へと見えなくなった。


 「王冠の間」は謁見室にある王の玉座にある隠し扉から地下へと降りた先にあった。そこまでの道すがら、王は御丁寧にも何人もの刺客を配置していたようだが、彼らはウィレムの予想を反して全てイサに手際よく、あっさりと倒された。

 最後の刺客の気配がイサの暗器に倒れると、ウィレムが両目を大きく見開きながら言った。

「お前…。ヤマト皇女ではないのか?」

 イサは暗器を装備し直しながら余裕の笑みで答えた。

「あら。戦える皇女が珍しいの? あなただって戦えてるじゃない?」

「『戦える』以前の問題だろう! 術式はともかくとして、忍びの技を持つ姫君など、聞いたこともないぞ…!」

「安心してよ。ヤマトでも、私だけよ。王族で影の訓練を受けたのは」

「何故に、そのような…?」

「さあ? 素質があったからじゃない? お陰様で、私はこの先誰とも結婚できずに、王家のために生きて死んでいくの。素敵でしょ?」

 フッと自嘲的に微笑むイサを見ながら、ウィレムは微笑んだ。

「なるほどな。生き方を他人に定められたのは、何も俺だけじゃないというわけか」

 イサはウィレムの前に仁王立ちになった。

「あのねぇ。強いて言えば、私達だけじゃないわ。カヤお姉様も、私の2人のお兄様達も、妹も。全員、ヤマト王家のために生きて死んでいくの。それが王家に生まれたものの宿命だわ。ま、私は結構好きにさせてもらってる方だけど」

「…そうだな。俺も、本当は割りと好きにさせてもらっていた方かも知れん」

「そうよね。じゃなけりゃ、あの側女軍団とか、あり得ないわ」

「クッ。違いない」

 二人はお互いの顔を見合わせて少し笑うと、すぐに気を引き締めながら王座へと向かった。王座は既に動かされた跡があり、その下に開いた穴が見えた。

「これ?」

「ああ」

 イサが穴の前に屈み込み、下の様子を伺った。穴には鉄で出来た梯子が掛けられ、それが底へと続いている。魔物の気配は無く、逆に聖なる気が漂って来た。

「なるほどね」

「何かわかるのか?」

「鳳凰がいるってことくらいかな」

「…やはりな。行くぞ」

「うん」

 二人は薄暗い穴の中を下へと降りて行った。


 王冠の間には、その名の通り王冠が収められていた。それも、普段王が身に付けている宝石の付けられた豪華なものとは違う、いたって質素な造りの王冠が部屋の最奥に鎮座されていた。だが、イサはその王冠から第三の鳳凰とも言えるべき聖なる力が発せられているのを感じた。

「あの王冠は…? 鳳凰と同じ力を感じるわ」

「言い伝えでは、鳳凰が初代エスタ王と契約を結んだ折に、契約の証として生み出した王冠だそうだ」

「ふーん。で、王の姿が見えないんだけど…?」

「奥だろう」

「へ?」

 イサは無人の部屋を見回した。注意深く良く見ると、壁に人口的な窪みがある場所を見つけた。

「あれ?」

「さすがだな。そうだ」

 ウィレムは壁に近付くと、自分の指輪を窪みに合わせた。ウィレムが指輪の角度を変えると、音も無く壁がずれ、通路が現れた。

「変な所で、随分と凝ってるのね」

「まあな」

 二人は隠し部屋へと足を踏み入れた。

「何、これ…」

 隠し部屋の中は財宝の山だった。装飾品、宝石、貴金属、金貨など、ありとあらゆるものが所狭しと積まれている。

 その財宝の山の間に立つ人影がいた。そして、その足元に横たわる2つの人影…。

「やっぱり、ここにいたか。父上」

 ウィレムの声に振り向いたエスタ王は、全身血に塗れた姿で立っていた。

「何だ。お前か、ウィレム。何をしに来た?」

「貴様…! まさか、鳳凰を?」

 いきり立つウィレムに向かって、エスタ王は愉快そうに笑ってみせた。

「ワシを止めようとしたのでな。あんまり煩いから、先程黙らせてやったところよ」

「な…!」

 血溜まりの中で横たわる天鳳と天凰はぴくりとも動かない。

 エスタ王は血の付いた剣をウィレムに向かって振り上げた。

「お前もワシを止めようというのか…? それとも、ワシのものを奪いに来たか…? どちらにせよ、誰もワシの物を奪うこと、叶わぬ。お前にも、ワシを止めることは許さぬ」

 エスタ王の瞳は空ろで、まるで何かに捕り憑かれているかのようだった。

「狂ったか…?」

 剣を構えるウィレムを鼻で笑いながら、エスタ王がヒステリックに笑った。

「狂う…? それも良かろう。我がエスタの終焉に相応しいではないか!」

「貴様は地獄へ堕ちろ!」

 二人の剣がぶつかり合う。その瞬間、イサは暗器を放った。

 イサの投げた暗器は物陰に隠れていた刺客を倒し、彼らの声が洞窟のような室内に響き渡った。

(あと…、何人?)

 エスタ王と打ち合っているウィレムに、周りの刺客に気を配る余裕は無いだろう。イサは暗器を構えたまま、鳳凰達の元へと近付いた。ウィレムが上手い具合に、エスタ王を鳳凰の横たわる場所から遠ざけてくれている。

「天鳳、天凰!」

 膝に二人の手を取り、脈を診るが、二人の手は既に冷たく、心臓もまるで空洞のように静かだった。

「こ、こんな…」

 イサの瞳から涙が零れ落ちた。だが、悠長に泣いている暇は今は無い。

 イサは涙を袖で拭うと二人の身体に印を結び、術式を唱えた。二人の身体からポウっと明るい光が浮かび上がり、それらは二人で仲良く踊るように宙へと舞い上がり、そして空気に溶けるように消え去った。

「間に合わなくて、ごめんなさい…」

 二人の魂送りを済ませると、イサは両手で自分の頬を軽く叩いた。

(しっかり! しなくちゃいけないことは、まだあるんだから!)

 イサは顔を上げると、暗器をしっかりと握り締めて立ち上がった。

 ウィレムとエスタ王の戦いは、圧倒的にウィレムが押していたが、意外にもエスタ王が粘っているようだった。

 手出しをするな、というウィレムの言葉に従い、イサは辺りに潜んでいる王の護衛を討つことだけに専念した。

 イサが最後の敵を倒した頃、キーンという大きな金属音が響き、エスタ王の手から剣がはじき飛ばされた。ウィレムの剣の切っ先が、壁に追い詰められたエスタ王の首筋に当たる。

「…終わりだ。父上」

 ウィレムの腕に力が込められると同時に、エスタ王は満足気に笑い始めた。

「何がおかしい…!」

「ああ、終わりだ。何もかも。鳳凰もいないこの国は、ワシの代で消え去る。全て、ワシと共に消えるがいい!!」

 エスタ王が壁を叩いた。と、同時に地面の奥深い所から何かが動くような感覚がし始めた。周りの全ての物が小刻みに揺れ始めた。

(これは…。まずい!)

「貴様…!」

 渾身の叫び声と共にウィレムの剣がエスタ王を貫いた。だが、エスタ王の顔は不気味に微笑んだままだ。

「お前、も…、来い。ウィ、レム…。クッ。クックッ…」

 地面の揺れがさらに大きくなり、周りの壁や天上がパラパラと崩れ始めた。

「殿下! 逃げましょう!」

 イサはウィレムに向かって叫んだが、ウィレムは事切れたエスタ王の身体を見つめたまま、その場を動こうとしない。

「殿下!」

 イサはウィレムに近付こうとしたが、地面の揺れのせいで思うように前へと進めない。

「殿下!」

 イサの声が聞こえないのか、ウィレムはじっとしたまま動かない。ただ、王の亡骸を見つめる瞳が赤い。

(殿下、泣いて…?)

 その時、ドン!という破裂音と共に、床から水が物凄い勢いで噴出し始めた。次第に、部屋のあちらこちらから水が噴出し始め、床があっと言う間に水浸しになったが、水の勢いは止まるどころかますます勢いを増している。床に散らばった財宝が水に漂い始め、ますます足場が悪くなった。

「くっ…!」

 イサは身体のバランスを保つのに精一杯だった。

(このままじゃ、逃げられなくなる…! どうすれば? 戻るって約束したのに…。陸…。陸!)

 イサが陸の姿を念じた瞬間に、水が噴出している穴の一つから陸が現れた。

「イサ!」

「陸!」

 陸はイサをしっかりと抱き締めると、辺りを見回した。

「これは…?」

「エスタ王が壁の何かを押したら、水が噴き出してきたの」

「お陰で私はその水脈を利用して素早く出られましたが…。これは急いでここを出た方が良さそうだ。王子は?」

 イサはウィレムが立っている場所を指差した。陸はウィレムとウィレムの側に浮かぶエスタ王の亡骸を見つけた。

「王を…?」

「うん」

 陸はそれ以上は何も尋ねることなく、自分の身体を龍の姿へと変化させた。

「お乗りなさい。上を突っ切って外へと脱出しましょう」

「うん!」

 水はすでに、イサの腰の辺りまで来ていた。イサは何とか陸の背にまたがると、ウィレムに向かって叫んだ。

「殿下、早く!」

 ウィレムはまだ半ば放心状態のまま、水に徐々に沈んでいくエスタ王の亡骸を、ただ呆然と眺めていた。イサを乗せた陸がウィレムに近付き、イサがウィレムに手を差し伸べた。

「殿下! 殿下!」

「ん…。ああ…」

 空返事をしたウィレムが、ようやくイサの方を向いた。

「私の手に捕まって、殿下。もう、何やっ…」

 ウィレムは首を横に振ると、しっかりとした口調で言った。

「行け」

「えっ?」

 ウィレムの表情は穏やかだが、先ほどまでのウィレムとは違い、そこには彼の意思が漂っていた。

「俺のことはいい。お前達は行け」

「な、何言ってんの? ここは、すぐに水が…」

「わかっている。だから、お前達は行け」

「殿下…?」

 イサはウィレムの瞳を覗き込んだ。そこには何の迷いもなく、ただ澄んだ水のような色をたたえた穏やかな瞳があるだけだった。

 水がウィレムの胸元まで上がってきていた。ウィレムが少しだけイサに近付き、尋ねた。

「最後に、一つだけいいか…?」

「え…?」

 ウィレムが差し伸ばされていたイサの腕を掴み、自分の方へと引き寄せた。二人の唇が重なり合っている間、自分の顔にかかる水が涙なのか、ただの水なのか、イサにはわからなかった。

 ゆっくりと唇が離れると、イサが呟いた。

「ウィレム…」

 その言葉を聞くと、ウィレムはフッと微笑んだ。

「やっと、俺の名を呼んだな」

 ウィレムはイサから手を離した。水がウィレムの首まで届いていた。

「さらばだ。行け、龍よ。イサを守ってくれ」

「ウィレム、どうしてっ?」

「生きろ。イサ」

 そのまま、ウィレムは水の中に自ら沈んでいった。

「ウィレム!!」

 イサの声が響き渡る中、陸の身体が宙に浮かび、天井を突き抜けて外へと出た。

 夜明けの太陽に照らされた地上には、エスタ王宮の残骸がエスターナの中心にぽっかりと穴が開いたように広がっていた。

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