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この地に渡る風 外伝  作者: 成田チカ
6/9

外伝2 「イサと陸」 4

 イサは足音を立てないようにそっと寝室に忍び込むと、手早く寝巻きに着替えて、自分の寝床に潜り込んだ。だが、目が冴えてしまっていて、中々眠りに付くことができない。相変わらず心臓はうるさいほど鳴っているし、息切れもする。

 しばらく寝床で目を閉じながら我慢していたが、イサは溜息を吐くと、眠るのを諦めて寝床から這い出た。

 他の側女(そばめ)達の寝息が響く部屋の中を横切り、イサは窓辺に腰掛けた。

(私、どうしちゃったんだろう…)

 今まで、何度も今日のように(くが)に子犬のようにじゃれついてきた。抱き締めてもらった事だって、何度もある。なのに、今日は何が違ったのだろう。

 考えれば考えるほど、陸の顔が脳裏に浮かんできて、心臓がまた高鳴る。

(まさか、これが、あの、噂の…?)

 そう言えば、昨年あたりから妹がやたらと男性の話ばかりするようになった。だが、残念なことに、イサは今まで「そっち方面」に興味を持ったことが無かったのだ。それは多分、紫影(しえい)の訓練で男子に剣や体術でいつも負かされていて悔しい思いをしていたせいもあるだろうし、小さい頃から周りに天龍などの美男子が周りにいて、目が必要以上に肥えてしまったせいもあるかもしれない。意外なようだが、東風(こち)(ほむら)も黙っていれば十分に美男子だ。

(なのに今更、陸なわけ? 私って…変?)

 幼い時は「おじさんなんてイヤだ」とイサに文句を言われ続けていた陸も、よくよく考えると二十代後半くらいの風貌なわけで、十六になったイサから見れば大人ではあるが、現実社会でこのくらいの年の差結婚はいくらでもある。特に、身分の高い者にはよくある話だ。

(って、結婚って、えええ?)

 イサは自分の考えていたことを慌てて妄想の中から消し去ろうとするが、そうすればするほど、花嫁姿の自分と、隣で微笑む花婿姿の陸を想像してしまう。

(うあああ。だめだわ、私…。そんなこと、ありえないし!)

 大体、陸は人ではない。龍だ。この世界で庇護精と呼ばれる、聖なる精霊の一人だ。それに、昔聞いたことがある。精霊と結ばれるのは「精霊の娘」と呼ばれる魂を持つ娘のみだと。

 高鳴る心臓の音を意識しながら、イサは自分の胸元にある紋章を服の上から握り締めた。

(これは、私と陸を繋ぐもの…。私は、あの人と繋がっている。それだけで十分)

 東の空が、うっすらと明るい色に滲み始めた。

 イサは昨晩、キリに鳥を送っていないことを思い出し、印を結んで額に念を込めた。

(キリなら、何て言うかな…?)

 ふと、そんなことを考えながら、イサは鳥を空へと放った。


「あらら」

 キリがぽろっと漏らした言葉を聞き逃すような焔ではなかった。

「…何が『あらら』なわけ?」

 ニヤっと笑いながら焔が問うと、つい先ほど空気に掻き消えたばかりの鳥の残像を見るように、まだ薄暗い天井を眺めていたキリが焔に視線を移した。

「起きていらしたのですか?」

「ああ。鳥の羽音で目が覚めた。何か、いつもより慌しかったな、今日の鳥。イサからだろ?」

「そうなんですが…」

 そう言いながら、キリはまた寝床の中に潜り込んだ。それと同時に焔の腕がキリの背中に回る。焔の身体から伝わる体温の心地良さに、キリは少しの間、目を閉じた。

「何があったって?」

 囁くように焔が尋ねると、キリが少し眠たそうな声で言った。

「まず、どうやらウィレム殿下にイサの正体がバレている様子だと。それから、ウィレム殿下に仕えている影がカヤ様の元恋人で、彼もカヤ様をお助けしようとしていること。それから、王宮内でちゃんと陸に会えたということ。それから…」

「それから?」

 キリを促す焔に答える前に、キリは一つ小さな溜息を吐いた。

「イサが、陸のことを好きだと気付いたということ」

「ふーん」

 焔はキリの髪を指先で弄びながら相槌を打ち、そして言った。

「それは…庇護龍として? それとも、俺達みたいな関係?」

 キリはクスっと小さく笑うと、焔に口付けた。

「両方じゃないでしょうか? あの子は、意外と欲張りですから」

 キリの言葉に、焔が小さく笑った。

「陸も意外と欲張りだと思うけどね? 結局、似た者同士なんだよ、あの二人」


 ふう、と溜息を吐きながら、イサは外を眺めた。そこは、先ほどから何も変わらない風景だし、イサの眼にその風景が刻まれているわけでもない。事実、イサの眼は外を眺めているようで、実は何も見ていなかった。

 こんな時に限って、ウィレムからの呼び出しも無く、イサは時間を持て余したまま、詰所の隅の窓辺で佇んでいた。

「はぁ…」

 イサが何気なく漏らした溜息に、イサのすぐ後ろから声がした。

「あなた、先ほどから何ですの? 溜息ばかり! いい加減にしてくださらない?」

 イサの側に座っていた側女(そばめ)の一人が、忌々しげに声を荒立てた。

「あ、ごめんなさい…」

「全く…。溜息ばかり聞かされて、こちらが憂鬱ですわ!」

 美しい顔の眉間に皺を寄せながら眼を細める女に、イサは首を傾げながら尋ねた。

「私…。そんなに溜息ばかり吐いてましたか?」

 側女は片眉を少し上げると、意外だと言う顔をしながら言った。

「あなた、御自分でおわかりではないの? 今朝、この部屋に来てからというもの、ずーっとよ。ずーっと。いい加減にしていただかなければ、私の方が参ってしまいますわ! ただでさえ殿下が御公務でお忙しく、私達のほとんどがここへ詰めている状態で、この混雑に迷惑しておりますのに」

「ご、ごめんなさい…」

 恐縮するイサの様子を見て、側女は少し慌てた。

「あ、あら。いいのよ、そんなに落ち込まなくても。私も言いすぎたわ。ところで…、あなたが例の『イザベル』、よね?」

「はい、そうですけど…」

 イサの返事を聞いた側女はスッと立ち上がってイサの側に来ると、イサの腕を掴んでイサの身体の向きを窓側へと向けた。女の隙の無い動きに、イサは一瞬、小さく身構えた。

 相手の出方を伺っていると、側女はイサにしか聞こえないような小声で囁いた。

「あなた。夕べ何が起こったのか、御存知?」

「夕べって?」

「カヤ様のことよ」

「カ、カヤ様のことって…?」

 少し動揺する気持ちを抑えながら、平然を保って聞き返すと、側女が呆れたように言った。

「あら、あなた。知らないの? ここだけの話、夕べからカヤ様が行方不明でいらっしゃるのよ」

「あー、さあ…」

 とぼけるイサに側女は顔をグイっと近づける。彼女の付けている香水の花の香りが、イサの鼻を強く刺激した。

「あなた、夕べはウィレム様にお夜食を運んだのでしょう?」

「な、何でそれを…」

「細かいことはいいから。あの時、ウィレム様の執務室にカヤ様がいたはずだわ?」

「!!」

(何でそんなことまで、知ってるのよっ)

 言葉を詰まらせるイサに向かって、側女がフフンと得意気に鼻で笑った。

「じゃ、こうしましょうか。私は私の知っている情報をあなたに話す。あなたはあなたの知っている情報を私に話す。そうすれば、お互いに利害は一致するわよね?」

「何の、利害…?」

「あなた、『砂漠の守人』って御存知?」

「砂漠の、守人…?」

 首を傾げるイサに、側女が眉間に皺を寄せながら言った。

「何よ。御存じないの?」

 女の剣幕に、イサは恐縮しながら言った。

「ご、ごめんなさい…」

 女は苛立った様子で長い髪をかき上げた。

「ま、いいわ。砂漠の守人っていうのは、エスタ王家を倒すことを目的として結成された市民団体なの。ま、主なメンバーは王家の連中に砂漠に追放された元貴族や辺境の部落民たちなんだけどね」

「は、反乱軍ってこと…?」

「ま、平たく言えばそういうこと。あなた、元々は他国を旅してたって聞いていたけれど、それならこの国の状況を見て、何か変だとは思わない?」

「えーっと、まあ…」

 女の言う通り、エスタ国の国境を越えてからと言うもの、エスタに来るまでの間にはひなびた町や村しか見ることは無かった。

 どの町や村も、その日の水さえ苦労して工面するような暮らしぶりだった。贔屓目に見ても、決して豊かな国ではない。なのに、この王宮は何だろう。国の富が全てここに凝縮されたかのように華美で、まるで外の世界が嘘のような贅沢さだ。

「私も王宮のことは噂には聞いていたけれど、実際にこの目で見るまでは、まさかここまでだとは思わなかったわ。それに加えて、この数ヶ月の水の異変よ。これは絶対に、王宮の中で何か起こってるに違いないのよ。特に、水の姫君であらせられる皇太子妃の周りで。そういうわけで、私を含めて仲間達が数人、王宮に潜入して調べているの」

 あまりにもあっけらかんと自分の正体を語る女を見つめながら、イサは恐る恐る尋ねた。

「あの…。そんな大事なことを、私に言っちゃっていいの?」

 不思議に思ったイサの問に、さらに信じられない答えが返ってきた。

「先日届いた新しい指令では、『イザベル』の補佐もしてくれと、長老からの御指示があるのよ」

「…はい?」

 イサが聞き返すと、女は両腕を胸の前で組みながら首を傾げ、溜息混じりに呟いた。

「私にも、よくわからないのだけれど…。ここには『イザベル』なんて名前の人はあなたしかいないし。長老様が仰るには、鳳凰両君がそう仰ったと…」

 イサの脳裏に、小さな村で出会った天鳳(てんほう)天凰(てんおう)の兄妹の姿が甦った。

「…ああ、そういうこと」

「心当たりがあるのね?」

 ぱあっと明るい顔になった女に、イサは頷いた。

「天鳳と天凰には、エスターナ近くの村で会ったわ。ここに来てからはまだ一度も会えてないけど」

「まぁっ! 鳳凰両君にお会いになったの? 素敵!」

 瞳を潤ませながら感動している女に一瞬たじろぎながら、イサは軽く頷いて言った。

「えっと、でも、どうしてあなたの長老様が…?」

 女はニヤリと笑うと誇らしげに言った。

「私達の長老は、元は王宮で『鳳凰の声』と呼ばれる神職にあった一族の出でね。彼らは鳳凰両君の声を離れていても聞くことができるのですって」

「へえ~」

「でも、鳳凰両君が先々代の王によって王宮の何処かに幽閉されてからは、彼らは王に用済みだと言われて、砂漠に追放されてしまったのですって」

「なるほどね」

「それで」

 女はイサにさらに近付くと、興味深げな瞳をイサに向けた。

「あなたは何の目的で、ここにいるの?」

 イサは周りを見回し、他の誰も二人の会話を聞いていないことを確認すると、小声で言った。

「姉を、取り戻しに来たの」

「お姉、さん?」

「ええ」

 イサは再度周りを確認し、念入りに小さな声で言った。

「私は、カヤ王妃の妹です」

 女が息を飲むのを感じた。

「え? ってことは、まさか、ヤマトの皇女? でも、どうするの? 王妃は昨日から…」

 イサは黙って首を横に振った。

「行方不明なのはニセモノです。本物の姉は数年前から、この王宮の北東の塔に幽閉されています」

「え? そうなの?」

 イサは頷くと「ええ。本物に会いましたから」と真っ直ぐな瞳で言った。

「そう…」

 そう呟くと、女はしばらく思案にくれていた。

「彼らが、皇太子妃をここから出す。そのついでに…。あ、こういうのもあり、かしら? ならば、その時に…」

「あのー」

 イサが声を掛けると女は一瞬ハッとしたが、気を取り直してニッコリと微笑んだ。

「利害的には、同じ方向を向いているようね、私達。そういうことなら、遠慮なく協力するわ。私の名はプリシラ。よろしくお願いいたしますわ、イサ姫様」

「イサ」

 イサは自分の右手をプリシラに差し出しながら言った。

「ここはエスタだもの。私の肩書きなど、関係ないでしょう?」

 プリシラはイサの右手に自分の右手を重ねると、しっかりと握りしめた。

「わかりました。よろしく、イサ」


 翌日の早朝、イサはウィレムの寝室に呼び出された。

「このような時間に、何の御用でしょう?」

「大事な用だ。付いて来い」

「はあ?」

 ウィレムの側には、5人の皇太子妃付きの女中達がつき従っている。その中に、塔にいるカヤの世話をしているエレンの姿も見えた。

(どういうこと?)

 ウィレムは自室から出ると、すぐ側にある部屋の扉を開けて中へと入っていった。

「ここは…?」

「皇太子妃の私室だ。ここが今日からお前の部屋だ、イザベル。いや、『カヤ』」

 ウィレムの言葉に、イサは目を細めながらウィレムに尋ねた。

「…どういう、こと?」

「今日からお前が『カヤ』として、ここで暮らす。それだけのことだ。必要なものがあれば、この者達に言え。お前の召使い共だ。すぐに着替えて、朝食を採るといい。今宵は国王陛下の御生誕を祝う会が設けられ、それには夫婦同伴で出席せねばならん。その準備もあるからな」

 そう言って部屋を出ようとしたウィレムの手を、イサは咄嗟に掴んだ。

「ちょっ、ちょっと待って下さい! 私は…!」

 何かを言いかけたイサの口が塞がれた。

(な、何…? く、苦し…!)

 ウィレムの唇がイサから離れた。イサは呼吸を整えると、途端に脳が状況を把握し始めた。

(こ、これって、これって…!)

 手で口を押さえながら床にへたり込むイサを見下ろしながら、ウィレムがニヤリと微笑んだ。

「ふむ。接吻は初めてだったか? ならば、もうちょっと優しくしてやるのだったな」

 イサが涙目になりながらウィレムを睨みつけると、ウィレムはクスッと小さく笑いながら跪き、イサの頭を強引に引き寄せると、その耳元に囁いた。

「この部屋の方が、ずっと過ごしやすいのではないのか? ヤマトの姫君殿…。それに、ここはお前の姉の部屋だ。今更、何の気兼ねがいる?」

 イサはウィレムを睨みつけながら、押し殺した声で尋ねた。

「いつから知って…?」

 ウィレムはその問にすぐには答えず、ゆっくりと立ち上がると勝ち誇ったような笑みを浮かべて言った。

「さあ…。いつからかな」

 イサは、悠然と去っていくウィレムの後姿を見ながら、半ば呆然としていた。

「あの…。『カヤ』様?」

 女中の一人がイサに呼びかけたが、イサは返事をしなかった。

「イザベル…」

 今となっては呼ばれ慣れた名を聴いて、イサは顔を上げた。そこには、困ったような顔をしたエレンが立っていた。

「エレン…」

 イサと目が合うと、エレンは小さく溜息をつきながら言った。

「ちょっと変な子だとは思っていたけれど…。身代わりとは言え皇太子妃になったというのに、そんな悲しげな顔をして…。普通の子だったら、飛び上がって喜ぶわよ?」

「でも、私は…」

「いいから。今はこれもお勤めのうちだと思いなさいな。さ、立ち上がって? 湯の用意は出来ているから、とっとと準備してくれないと、私達が殿下に怒られてしまうわ?」

「あ、ごめんなさい!」

 イサは素早く立ち上がると、腹を決めた。

(そうね。今は持ち場が変わっただけだと思うことにしよう。よし!)

「さ、カヤ様。こちらでございます」

 イサは他の女中に先導され、浴室へと向かった。


「こ、これは…。あなた様は、一体…?」

 浴室の脱衣場で、それは起こった。

 自分で脱いで入るからと言うイサの言葉を聞き入れず、イサが着ていた服を脱がせにかかった女中達が皆、イサを取り囲むように立ったまま、呆然と立ちすくんでいる。その場にいる全員が、イサの胸元で黄金色の光をユラユラと漂わせている地龍の紋章に釘付けになっていた。

 エスタ王国は「紋章地方」と呼ばれる地域には属さず、ヤマト国のように紋章を身分証明として用いることは無いが、それでも紋章地方と隣接している国だけに、それの持つ意味は、ある程度教養のある者であれば誰もが知っているのであろう。

 紋章には色があり、王家の人間と王宮に仕える者のみが金の紋章を持つことを許される。その中でも、庇護精の姿が掘り込まれた紋章は、王族にしか許されない。さらに、イサの持つ地龍の紋章はヤマト王家特有の紋章で、龍の部分に「龍石」と呼ばれる不思議な石がはめ込まれており、この石が生後七日目に行なわれる名づけの儀の時に決まる庇護龍の色に光る。

 つまり今、皇太子妃の身代わりとして連れてこられ、浴室の脱衣場でほぼ全裸にされている少女が、紛れも無くヤマト国の皇女であるということが、一目瞭然となっているのである。

「あ、あなた様は、ヤマト国の皇女様でいらっしゃるのですか…?」

 そう尋ねるエレンの声が、小刻みに震えている。

「あー。うん。まぁ、一応…」

「では、カヤ様の…」

「妹です」

 イサの言葉を聴いたエレンが、静かにイサの足元に跪き、他の女中達もそれに習った。

「御歳から察するに、ヤマト第二皇女のイサ様でいらっしゃいますね? どうか、私共の今までの非礼をお許し下さい」

 青ざめた顔でそう言うエレンに、イサは微笑みながら言った。

「非礼も何もされてないよ? だから、ほら、顔上げて、立って立って!」

「ですが…」

「いいから。あのね、このことはここだけの秘密って事で、お願いできるかな?」

「ここだけの秘密、でございますか?」

「うん。とは言っても、ウィレムにはもう、バレちゃってるんだけどね。だから、極力その他の人たちには、わからないようにしてもらいたいの。ほら、こんなことになってるのがバレちゃったら、国際問題に発展するかもしれないし?」

 イサの一言で、エレンとその他の女中たちの脳裏に「発覚! ウィレム皇太子殿下、カヤ皇太子妃の妹に二股!」とか「嗚呼、囚われの第二皇女! イサ皇女、エスタ皇太子に拉致される!」と言ったゴシップ記事の表紙が飛び交った。

 五人は目配せをしながらお互いに頷き合うと、「わかりました。このことは一切他言いたしません」と口を揃えて言った。

「ありが…、へぷし!」

 ずっと裸でいたせいか、イサが軽くクシャミをして、周りの女中達を慌てさせた。

「ああ、イサ様、早く湯船に! お風邪を召されては大変です!」

「だーかーらー、私はここではイザ…、じゃなくって、『カヤ』でしょう?」

「カヤ様、お早く!」

 イサはその後、女中達に強引に湯船に突っ込まれた。


 エスタ王族としての生活は、ヤマト国皇女として生まれたイサにとっても、驚きの連続だった。

 質実剛健を旨とするヤマト王家と違い、エスタの王家の人間は、基本、「王族の仕事」をしていれば、残りは何もしなくてもいいらしい。風呂は女中が2人係りでイサの身体と髪を洗い、その間に他の女中達が選んだ服を着せられ、エレンがイサの髪を整える間に他の女中が顔に化粧をし、その傍らで女中が一人ずつ右手と左手の爪の手入れをしている。

(お、落ち着かない…!)

 食事の時も、数人係りで給仕をされる。クシャミをすれば、どこからかサッとちり紙が出てくる。

(痒いところに手が届き過ぎて、気持ち悪~い)

 イサとしては、自分はカヤの身代わりでしかないのだから、放っておいて欲しいところなのだが、それを言うと「何か御不満でも?」と悲しげな瞳で訴えられるので、大人しくされるがままになっている。

「でも、五人もいらないと思うんだけど」

 昼食を取りながらエレンにそう言うと、エレンはしれっとした様子で「昔から、エスタ王家では王、皇后両陛下に各十名、皇太子、皇太子妃両殿下に各五名、その他の王族方に各3名がつくことが決まっております」と言いながらイサの茶器に茶を注いだ。フワリと薔薇の芳香が漂ってくる。

「あ、これ、薔薇がはいってるのね?」

 イサが嬉しそうに微笑むと、エレンが微笑みながら答えた。

「はい。あなた様の真似をしてみたのですが、いかがでしょう?」

「ありがとう! 私、この香りが大好きなの」

 イサが茶を飲んでいると、エレンが目を細めながら穏やかな口調で言った。

「カヤ様は山百合の香りもお好きなようですね? 先ほど、他の者に詰所から荷物を運ばせたところ、山百合の香水が入っておりましたが。いつもお召しになられているものですか?」

「あ、荷物、持って来てくれたの? ありがとう。ええ。あの香り、好きなの」

「そうですか。鏡台の上に香水の瓶は置いておきましたから、お好きなように」

「ありがとう」

「あ、それと…」

 エレンが思い出したようにふと、口籠もった。

「何?」

「荷物を取りに行った者が、側女のプリシラに散々問い詰められたようですが。御友人ですか?」

「うん。そう言えば、今朝呼び出された時に、プリシラはまだ寝てたから何も話せなかったのよね。心配してるのかな…。私から会いに行くことって、できる?」

 エレンは少し考えてから口を開いた。

「本日はこれから陛下の御生誕会に関する準備がございますから、難しいとは思いますが。他の者に言伝を頼みましょうか?」

「手紙を届けてもらえるかな?」

「そのように取り計らいます」

「ありがとう」

「……」

 微笑んだイサを見ながら、エレンが表情を少し曇らせて黙り込んでしまった。目尻に微かに入っている皺が、少しだけ深くなった。

「どうしたの、エレン?」

「いえ…。こちらにいらしたばかりの頃のカヤ様も、いつもそのように『ありがとう』と仰ってくださっておりました。それを、少し思い出してしまって…」

 丁度、他の女中達は部屋から出払ってしまっていて、部屋にはイサとエレンしかいなかった。イサはエレンの手を取ると言った。

「エレン。私ね、カヤお姉様を助けるためにここに来たの」

「カヤ様を…? ですが、カヤ様は…」

 イサは頷くと窓の外を見た。皇太子妃の寝室からは、少し先にカヤが幽閉されている塔の中層部分が見える。

「私ね、ここに来てから、ずっとこの王宮の中を調べてたわ。あなたが替わってくれたお陰で、塔にいるお姉さまにも会えた。近々、ちょっとした騒動が起こるけど、その時は、あなたは他の人たちと一緒にこの部屋で大人しくしていてね?」

「近々、ですか?」

「うん。まだはっきりとした日時は決まってないけど、その時が来たら、きっとわかるから」

 二人がニッコリと微笑みあっていると、イサが「あ!」と思い出したように叫んだ。

「お姉さまの夕食! どうしよう?」

「ああ、それなら、本日からまた私が」

「なら、一つお願いしてもいいかな?」

「はい?」


 その日の晩、大広間でエスタ王の生誕日を祝う会が盛大に執り行われ、イサは皇太子妃カヤとしてウィレムの傍らに寄り添った。

「ふむ。なかなか上手く化けることが出来たものだな」

 周りに聞こえないようにイサの耳元でそう囁くと、ウィレムはイサの頬に軽く口付けた。あまりにも自然で優しいウィレムの仕草に、イサは一瞬、顔を赤らめた。

「あ、ありがとうございます。アンナの化粧の腕には驚きました。お腹の詰め物が少し窮屈なので何も食べられないのが残念ですけれど」

 世間に既に流れているカヤの妊娠情報に合わせる為、イサのお腹と着物の間には布で詰め物がされている。

「ははは。やはり、お前は面白いな」

 その時、流れる音楽の曲調が変わると同時にウィレムが少しイサから離れ、そこからイサに向かって手を差し伸べた。

「来い。ここらで一曲踊って、我らの夫婦円満を見せつけてやらねばならん」

 イサはニッコリと微笑むと、ウィレムの手を取った。ウィレムの手は意外に大きく、暖かかった。

「お勤め、御苦労様でございます」

「まったくだ」

 二人は広間の中央まで進むと、曲に合わせて踊り始めた。

「いい香りだな。山百合か?」

「ええ。さすがによく御存知で」

 イサの嫌味にクスッと笑うと、ウィレムは満足気に言った。

「さては、男に『気丈で誇り高い山百合のようだ』とでも、言われたか?」

 ウィレムの言葉に図星を取られ、イサは一瞬眉間に皺を寄せたが、すぐに朗らかな創り笑顔に戻った。

「それは、あなたがよくお使いになる常套句、とか? さすがは女ったらしの皇太子様ですこと」

「女は、数いりゃいいってものでもない」

「それがおわかりなのに、あの側女軍団ですか? 私には理解いたしかねます」

「本当に欲しいものは手に入らない。そういった性分でね」

 ウィレムの言葉に意外だと言うように目を見開いたイサが、ふっと真面目な顔になって言った。

「真に欲しいものが手に入る人なんて、この世でほんの一握りだと思うけど?」

「ほお…?」

 ウィレムは感心したと言う顔をしてイサを見た。二人の視線がしばらくの間、蔦のように絡み合う。

「何?」

 イサが首を傾げながら尋ねると、ウィレムはイサから少し視線を反らしてから呟いた。

「いや…。何でもない」


 その頃、エレンは塔にいるカヤに食事を運んでいた。

「カヤ様、お食事でございます」

「あら…。今日は、あなたなの? イザベルは?」

 イサでないことに少し落胆した様子を見せながら、カヤが溜息混じりにそう言うと、エレンは深々と頭を下げた。

「あの者は配置換えになりました」

「そう…。それは、残念ね」

 そう言いながらカヤが食事に視線を移すと、匙の近くに小さく折りたたんだ紙があるのを見つけた。顔を上げると、エレンが黙って頷いた。

 カヤは紙を衛兵に見つからぬように服の折り返しに隠すと、いつものように食事を始めた。

 食事の後にエレンと衛兵が去ると、カヤは隠していた紙片を取り出し、それをゆっくりと開いた。中にはイサの字で書かれた簡潔な文で、自分が次のカヤの身代わりに選ばれたために食事を運ぶことが出来なくなったことと、着々とカヤ救出のための準備が進んでいることが書かれていた。

 読み終わり、いつものように紙を小さくちぎって飲み込むと、カヤは少し目立ってきた腹に手を当てながら窓の外を眺めた。大広間のある辺りからこちらまで、音楽や人々のざわめきが伝わってくる。

「私に、あの子のような強さがあったのなら、何かが違っていたのかしら…?」

 誰に聞かせるとも無く呟くカヤの頬を、風がかすめて通っていった。


「やっぱり、皇太子妃の寝室も豪華ですわねぇ…」

 部屋に入るなり、プリシラが感嘆の溜息を漏らした。

「でしょう? 無駄に豪華なのよね…」

「そうですわね。この部屋の装飾品を全部売ったら、一体、何百人の民が食べていけるのかしら…」

 頭の中で激しく計算をしているプリシラを眺めながら、プリシラの仲間の一人が呆れた声で呟いた。

「相変わらず、現実的な物の言い方だな、プリシラ…」

 ある晩の深夜、イサの部屋にイサ、陸、プリシラ、プリシラの仲間達が数名、そしてこの集まりに参加するために王宮に忍び込んできた焔とキリが集まっていた。

 お互いの簡単な挨拶と自己紹介が済むと、キリが周りを見回しながら言った。

「とりあえず、こうして皆が集まることの出来る場所が確保できただけでも、進歩ですね」

 満足そうなキリに、イサが不満気に言う。

「あんまり、立場的にはありがたくないけどね」

「ウィレム王子とは…?」

 キリの思わせぶりな問に慌てたイサと陸の目が合い、イサを余計に慌てさせた。

「な、何にも無いよ? 何にも無いってば!」

「何をそんなに慌てているんですの? イサ」

 プリシラの素朴な質問に、イサは顔を赤らめながら「べ、別に?」と言ったまま俯いた。

「王子が今夜ここに夜這いに来て、俺達と鉢合わせ…なんてことにはならないだろうな?」

 焔の問に、口をパクパクさせながら慌てているイサに代わり、プリシラがニッコリと微笑みながら答えた。

「それは大丈夫ですわ。ウィレム殿下は今朝からエスタの国境近くの街に視察に行ってらして、今夜はそちらに滞在されるはずですわ」

「ジークがウィレムに同行しています。万が一戻ってくることがあれば、何らかの手を使ってこちらに知らせてくれるはずです」

 陸の補足に、プリシラが首を傾げた。

「ジーク、というのは…? どなたですの?」

「あ、ジークって言うのは、ウィレムの側近なんだけど、元々はヤマトの人でね、協力してくれてるの」

 イサは、あえてジークとカヤの関係には触れなかった。

「それでは、本題に入りましょうか」

 キリの声に、その場の空気が一瞬にして緊張したものに変わった。

 プリシラと彼女の「砂漠の守人」の仲間達のお陰で、王宮に潜入している同士の数が少しずつ加速をしながら増えていった。キリによると、街に潜んでいるキリと焔の元にも、エスターナ近辺に潜入している仲間(紫影)達が集結しつつあるとのことだった。

 プリシラの仲間達は武器の扱いに長けた軍人上がりの者もいるが、大半の者達は戦いに参加した経験が皆無な農民や商人上がりの者達だということなので、陸の配慮により、彼らには後方支援にまわってもらうことにした。万が一に備え、カヤ救出実行部隊は「ヤマトの仲間」だけで固めた方が都合がいいと言うキリの考えに、イサも賛成だった。

「その実行部隊には、イサも含まれるのですか?」

 プリシラの問に、キリとイサが頷いた。

「危険ではないのですか?」

「大丈夫よ。キリと陸、焔も一緒だし。その他にも、精鋭部隊で構成するから」

「でも…。あなたは一応、姫君なのですし」

 プリシラの言葉に、焔がプっと噴出して笑った。

「イサより、あんたの方がよっぽどお姫様みたいだぜ?」

 その言葉にプリシラは困ったように微笑んだが、プリシラの仲間の一人が声を少し荒立てた。

「おい、あんた。プリシラは世が世なら、ここの王子の一人に嫁いだっていいくらいの姫君なんだぜ?」

「え? そうなの?」

 イサの問に、プリシラは「昔のことですわ」とだけ答えて微笑んだ。

(確かにプリシラって、すごくお上品だし…。でも、時々ハッとするような身のこなしをするのよね)

 その時、開いていた窓から光の矢が飛び込んできたかと思うと、それは宙で止まり、それが金色に光り輝く美しい鳥の姿をしていることがわかった。鳥は一瞬、身体から光を強く放つと、髪の長い華奢な少女の姿に変化した。少女はイサたちに向き直ると、凛とした声で言った。

「その娘は、御家取り潰しになった公爵家の子孫でしょう」

天凰(てんおう)! お久しぶりです!」

「お久しぶりです、ヤマトの姫。地龍と火龍が集っている気配を感じたので、その気配を辿ってみました」

天鳳(てんほう)は?」

「先日、あなた方に会うために私達が両方同時に外へ出た際に、私達の不在に気付いた者がおりまして…。今回は大事を取って、お兄様は部屋に残りました。さすがに、鳳凰の気配が全く無くなると、あの王族の人間でも気付いてしまうようで…」

「そう…。で、あの。プリシラの家が御家取り潰しって…?」

 イサの問に、天凰は悲しげな顔をしながら答えた。

「私達が先々代の王に幽閉されることになった時、それに意義を唱えた者達がある者は処刑され、ある者は追放されました。その娘の家は、御家取り潰しの処分を受けて追放された公爵家なのだと思います。彼女の顔が、当時の当主の奥方に良く似ておりますから。あの者達には、本当に申し訳ないことをしたと…。お兄様も私も、彼らの行く末を案じておりました」

 天凰の言葉に、プリシラが感極まったという顔をして涙を流し始めた。

「天凰様からその様なお言葉をいただけるなんて…! 勿体のうございます!」

「辛い思いをさせてしまっていると思います。我らにもっと力があれば良かったのですが…」

「いいえ、いいえ…! そのお言葉で、一族の者がどれだけ救われるか…!」

 プリシラの背中をそっと撫でながら、天凰はしっかりとした口調で言った。

「もはや、エスタ王家に我らの声は届きません。お兄様も、私も、このままではこの国に何の恩恵ももたらすことは出来ません。我等はこの国の庇護精。ですが、その庇護を受け止め、国に広げる役目を担う王家の人間がその役目をなさぬのであれば、いかに我らが力を注いでも、それは行き場を失ったまま彷徨うのみ」

 天凰はここで少し躊躇い、深呼吸をした。再び顔を上げた彼女の瞳には、強い意志が見えた。

「我等は、新たなる契約者を待ち望んでおります」

「天凰! それは…!」

 陸と焔が同時に声を上げた。意外にも緊迫した様子の二人の様子に、イサは天凰の言葉の裏に何か大きなものが隠されているような気がしてならなかった。

「ヤマトの言い伝えでは、天龍様が始祖と契約を結び、ヤマトの庇護龍となった、と…。この、契約とは、一体…?」

 キリの問に、天凰がゆっくりと語り始めた。

「我等は、元々は神より与えられた土地を庇護する者。ただ、我らだけでは力が足りぬゆえ、その地の施政者としてふさわしいものがいれば契約を結び、その一族と共に国を守ります」

「じゃあ、その契約を切るって事?」

 イサの問に、天凰は静かに首を横に振ると、哀し気な目をした。

「契約を真に切ることのできるのは、我らを治める神のみ。契約は我らの側からも、契約者の側からも、勝手に切ることは許されません。それが許されるのは、いずれかの死をもってのみ…」

「えっ…?」

 天凰の目は、本気だ。彼女は、そしてきっと天鳳も、死を覚悟してまで契約を切ると言っているのだ。

「だ、だめでしょ? 庇護精が死んじゃったら、この国はどうなるの?」

「イサ」

 困惑するイサを陸が宥めた。

「あなたも、ここに来るまでに見たでしょう? 広がる砂漠や、死んだ土地を。この国は、昔はもっと草地の広がる美しい国だった。崩壊は既に始まっているのです。恐らくは、先々代のエスタ王が鳳凰を幽閉し、彼らの声を拒絶し始めた時から」

 天凰は陸に静かに頷き、ゆっくりと口を開いた。

「庇護精はそれぞれに違った力の生み出し方をしますが、我ら鳳凰は、声を繋いで生きていきます。民の声を聴き、民に声を届け、その声を繋げる事で力を生みます。しかし、我らの声はもう、どこにも届きません」

 届かない声は、すなわち彼らの力の源を断たれていることを指すのだろう。

「そんな…!」

「それでは…。エスタ王が死ねば、契約は切れるというのですか?」

 冷たい口調で言い放ったプリシラの問に、天凰が首を横に振った。

「現王が死んでも、王権が皇太子に移るだけ。契約は生きたまま、次の王に引き継がれるのみ…」

「では…」

「鳳凰両君の死か、エスタ王族の死…?」

 部屋に重苦しい空気が張り詰め、しばらくの間、その場にいた者は全員ただ押し黙ったまま俯いていた。

「神が…」

 イサが震えを押し殺しながら口を開いた。

「神が契約を切るには、どうすれば…?」

 イサの問には、陸が静かな声で答えた。

「一番平和的な手段としては、王に王権を放棄させた後、王族全てを残らずこの地から追放することで彼らの契約破棄を完全な形で知らしめることですね」

「王族を、全員?」

 陸はゆっくりと頷いた。

「ええ。王に連なる者全てを、です」

「それも、非現実的な作戦ですわねぇ…」

 プリシラが溜息を吐きながら言った。

「このエスターナから全ての王族が出たら、それこそ人口のほとんどが出てしまいますわ。今の貴族連中は、王族と血縁関係にある者達がほとんどですの。彼らが出るとなると、大きな商人達は残らず彼らに着いていくでしょうし…。そうなってしまった後は、この街には貧民街しか残りませんわ」

 プリシラの意見に、彼女の仲間達が頷いた。

「主な官庁を動かしているのはそういった王族の親戚筋達だ。彼らが全員いなくなるとなると、政治自体が成り立たんな」

「王の縁者達で仕切っちまってるからな、この国は」

「結局、エスターナが、ひいてはエスタが無くなってしまうってことなのね」

 イサが溜息混じりに呟くと、周りに沈黙が広がった。

「でも…」

 戸惑いながら声を上げたプリシラの瞳が、少しずつ強い光を帯びてくる。

「民は…。民は残りますわ。たとえ貧しい者しか残らなくても、それでも、この地にエスタの民は残ります」

 プリシラの仲間達が同時に頷いた。

「そうだな。民は残る」

「この土地も、消えてなくなるわけじゃない。何とかなるだろう」

「なーに。我ら『砂漠の守人』。もとより、砂漠での生活には慣れてるしな」

「ああ」

 プリシラの仲間達の気丈な姿を見て、イサは安心した。

(この人たちがいれば、この国は、きっと大丈夫だ)

 だが、同時にウィレムの顔が頭の中を横切る。

(王家の、追放…)

 それをあのウィレムが許すはずはない。それが側にいるイサにはよくわかる。しかし、イサにはここまで離れてしまったエスタ王家と鳳凰の距離を縮める力は無い。

 いつの間にか、姉を助けに来ただけのつもりでいたのに、この国の大きなうねりの中に自分が置かれていることに気付き、イサは身震いした。


 話し合いはその後、具体的な実行計画と実行部隊の編成が伝えられ、お開きとなった。それぞれが目立たぬように少しずつ部屋を去って行くと、最後にはイサの他にキリ、焔、そして陸が残った。

「イサ。あなた、大丈夫?」

「えっ?」

 キリの声にイサが顔を上げると、すぐ目の前に心配そうな顔をしたキリがいた。

「あなた、話し合いの途中から、何だか気分が悪そうだったから。具合でも悪い?」

「ううん」

 イサは首を横に振ったが、キリはまだ納得がいかないという顔をしている。

「ちょっと、疲れただけだから。休めば大丈夫」

「そう?」

「うん」

「おい、俺たちもそろそろ行くぞ」

 焔がキリに近付き、キリを後ろから抱き締めた。その親密な様子に、イサは両目を見開いた。

「へ? ふ、二人とも…。ええっ?」

 目を丸くしながらキリと焔を見るイサの様子が面白いらしく、焔はイサの目の前でわざとキリの首筋に口付けて見せた。

「う、うわあ…」

 真っ赤になりながら俯くイサを見て、キリはクスクスと笑うと言った。

「その様子では、まだウィレム王子に何もされていないと言うのは、本当のようですね」

「嘘なんか吐かないわよ。言ったでしょ? 何もされてないって…」

「街で聞いた噂だと、皇太子は正妃の他に何十人と言う女共を側にはべらせてて、手当たり次第だって話だったがな」

 焔の言葉に、イサは噴出しながら笑った。

「それはある意味、本当よ。側女軍団がいるもの。でも、私はそういうことになったこと…」

 無い、と言おうとして、ふと、イサは先日ウィレムに不意に口付けられたことを思い出して言葉に詰まってしまった。

「…イサ?」

 イサの様子を心配した陸がそっとイサの肩を抱くと、イサが堪えきれずに静かに泣き始めた。

「あっと…。どうするよ、キリ?」

「陸にお任せした方がいいんじゃないかしら?」

「そうだな。じゃ、陸、後は頼んだ」

「お先に」

 それだけ言うと、キリと焔は素早く窓の外へと消えていった。

「あやつら…」

 陸は深い溜息を吐くと、イサの頭の上にいつものように手を置いた。

「イサ。何があったのです?」

 優しい陸の声に顔を上げたイサは、涙で目が真っ赤に染まっている。

「ねぇ、陸。何とかならないのかな? 私一人じゃ、どうにもできないのはわかってる。もう、この大きな流れを止めることは出来ないってわかってる。でも、もっと他に、何か方法は無いのかな?」

 陸はいつものように、黙ってイサの話を聞いている。

「お姉様を助けて、プリシラたちが幸せになって、鳳凰も幸せになるのに、エスタ王家を傷つけずに済む方法は、無いの?」

 陸はイサの髪を撫でながら言った。

「イサ。あなたも聞いていたでしょう? 彼らは、出来れば穏便に王に王権を放棄する決断を迫ると」

「でも、抵抗したら―」

「わかるでしょう? プリシラ達は本気です。彼らは自分達の命と引き換えにでも、王を廃してこの国を変えようとしています。それは、我々にはどうすることもできません。それにその頃、我々はカヤ様救出のために塔に向かっています」

「でも…」

 ふと、陸の瞳が強く光ったような気がした。

「イサ。『本当』は、何が不安なのです?」

 イサはしばらくの間、無言で陸を見つめていたが、やがて僅かに口を動かした。

「怖い、の…」

「怖い?」

「ウィレムが、怖いの」

 イサの不安気な瞳を見つめながら、陸が尋ねた。

「何か、あったのですか?」

 イサは一瞬顔を強張らせ、陸から視線を反らした。その瞬間、陸は自分の中に何か赤黒いもやのようなものが湧き出してくるような嫌な感覚を感じた。

「イサ?」

 陸の低い声が自分の内面を探っているような気がして怖くなり、イサは陸から咄嗟に離れた。

「な、何でもない。ごめんね? 陸も、もう部屋に戻った方がいいんじゃない?」

 そう言いながら陸から少し遠ざかるイサの後姿を見て、陸は自分では無い何かに突き動かされるような妙な焦りに苛まれた。

「駄目だ。行かせぬ」

「え、な…?」

 イサには何が起こったのか、咄嗟には判断できなかった。ただ、強い力で引き寄せられた後、自分の身体が身動き取れないことと、唇が塞がれている事は何となくわかった。

 それが陸だと、香りでわかった。小さな頃から好きだった陸の香りが、イサを包み込んでいた。自分がその香りと混ざり合い、溶け合うような不思議な感覚が渦巻いて、まるで夏の嵐の只中にいるようだ、と頭の片隅で思った。

 翌朝、夜明け前にイサは陸の腕の中で目を覚ました。

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