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この地に渡る風 外伝  作者: 成田チカ
5/9

外伝2 「イサと陸」 3

「イザベル~。ウィレム殿下がお呼びよ~」

「はーい」

 イサは可愛い声音で先輩側女(そばめ)に返事をすると、それまで世間話をしていた他の側女に「ちょっと失礼」と声を掛けて立ち上がった。

 何をどう間違えたんだか、イサのここでの名は「イザベル」と言う。たまたま名を尋ねられた時に咄嗟に気の効いた偽名が思いつかず、代わりに小さな頃に読んだことのある異国を舞台にした本の主人公の名を思い出して言ってしまったからなのだが、今では後悔の渦だ。

(イザベルって、誰よ…)

 名を呼ばれる度に自嘲気味に笑いながら、とりあえず、これは芸者達が使う「源氏名」と言うものだと勝手に解釈して、無理矢理自分に納得させる。

 イサが王宮に来てから今日で三日。始めはいつ夜伽(よとぎ)に呼び出されるかとビクビクしていたが、ウィレムは遠くの街にしばらくの間視察に行っていたとかで公務が溜まっているために忙しく、寝る暇もないとかで、声が掛からなくて安心していた。

 それにも関わらず、ウィレムは日中、何かとイサを呼び出し、やれ茶を淹れろだの腹が空いただの肩を揉めだのと要求してくる。今日も、今はまだ昼前にも関わらず、ウィレムに呼び出されたのはこれで四回目だ。お陰で、詰所から出て行くイサの背中に刺さる他の側女達の視線が、背中に痛い。


 イサはウィレムの執務室の前に来ると、扉を軽くノックした。

「イザベルか?」

「はい」

「入れ」

「失礼致します」

 イサが扉を開けると、そこには机で何やら書類を読んでいるウィレムと、派手な衣装に身を包んだ若い女性がウィレムの肩や首にその白い腕を絡み付けていた。

「お取り込み中、失礼いたします。御用件は…?」

 イサの問に、ウィレムは書類から目線を外さずに答えた。

「ああ。お前の淹れた茶が飲みたい」

「かしこまいりました。そちらの方にも御用意いたしますか?」

「俺の分だけでいい。こいつはすぐに帰る」

 ぶっきらぼうに答えるウィレムに、女が不満そうに甘ったるい声で文句を言った。

「あら、酷いですわ、殿下。せっかく久しぶりにお会いすることが出来ましたのにぃ~」

「うるさい。俺は仕事中だ。さっさと部屋に戻れ」

 この数日で知ったことだが、ウィレムは家臣達が側にいる時は自分のことを「余」、相手を「そなた」と呼ぶが、側女だけしか側にいない時は自分のことを「俺」、相手を「お前」と呼ぶ。今、この女性の前でも裏ウィレムだということは、彼女は近しい存在なのだろう。

 派手な女はウィレムの冷たい態度に文句を言いながらも、一向にその場を動く気配は無かった。

「すぐにお持ちいたします」

「ああ」

 イサは一礼すると、ウィレムの執務室を出て台所へと向かった。

(一応、二人分用意するか)

 二人分の茶の入ったティーポットと二脚のカップを携えてウィレムの部屋に戻ろうとすると、ウィレムの部屋から何やら激しく口論する声が聞こえた。

 イサが扉をノックする直前に扉が勢いよく開き、イサは危くカップを床に落としそうになった。

 扉を開けた派手な女は勢いよく執務室から出て来ると、振り向きざまに「覚えてらっしゃい!」と典型的な捨て台詞を吐きながら、けたたましい足音を廊下中に響かせながら去っていった。

 イサが呆然としながら開いたままの扉の前で立っていると、部屋の中から呆れたようなウィレムの声が聞こえた。

「何を突っ立っている。さっさと茶の用意をしろ!」

「あ、はい!」

 イサはウィレムの執務室の中に入って、さらに呆然と立ち尽くした。

「な、な、何事…?」

 部屋の中はまるで竜巻が通過したかのように荒れ狂い、花瓶は倒れ、書類は散乱し、本はあちこちに飛んでいた。そんな状態の中、ウィレムは机の前で平然と書類に目を通している。

「う、うわあ…」

 感嘆の声を上げるイサに、ウィレムが書類を読みながら言った。

「ああ、それも片付けておいてくれ」

「は、はい」

「が、その前に茶だ」

「あ、はい!」

 イサはウィレムの茶をカップに注ぐと、机の上に散らばった書類を少し横に避けながらカップを置いた。

(さて、と。どこから片付けるかな…? お仕事の妨げになるから、書類からかな?)

 イサは床に散らばった書類を丁寧に拾い上げるとページを揃え、それらをウィレムの机の上に種類別に仕分け始めた。

(これとこれは、予算の話で…。これとこれは軍事関連だから、こっちの山…。それから…)

「おい」

 作業中に、イサは不意にウィレムに呼びかけられた。

「はい?」

「何をしている?」

 ウィレムの問に、イサはキョトンとしながら答えた。

「何って…、床に落ちていた書類を元のように仕分けているのですが?」

「ほう…?」

「あ、もしかして、間違ってました?」

 すくみ上がりながら尋ねるイサに、ウィレムは書類の山を見渡しながら憮然とした態度で答えた。

「いや…。合っている」

「ああ、よかった…」

 安堵の息を漏らしたイサに、ウィレムが眉間に皺を寄せながら言った。

「いや。よくない」

「えっ?」

 突然立ち上がったウィレムに、イサは腕を掴まれた。

「お前、何者だ…?」

「何者って…。そ、側女のイザベルで~っす…」

「何故、これらの書類の中身がわかる?」

「何故って…。ちょっと見れば判ることじゃないですか」

「普通の女に、そんなことは判らん!」

「えっ? 嘘!」

(しまった! この国の識字率って、そんなに低いの?)

 目を見開きながら驚くイサを見て、ウィレムが声を上げて笑った。

「ここは、笑う場面ですか…?」

 怪訝そうな顔をして尋ねるイサに、ウィレムが見下したように言う。

「お前、自覚が無いのか?」

「えっ? 何の?」

「間者のクセに」

「はい?」

 自分が想定していた反応と全く違う態度を取られ、ウィレムは困惑した。

「間者、では…? 違うのか?」

 戸惑うウィレムの様子に安堵しながら、イサは冷静さを取り戻した。

「全然。私、ただの旅人です」

「その『ただの旅人』が予算案と法令案と軍事記録の区別がつくのは、どう考えたっておかしいだろう?」

 詰め寄るウィレムに、イサは飄々と真顔で答えた。

「このくらい、普通ですよ? 私の実家では家族全員、このくらい読めますもの」

(嘘は言ってないもんね~!)

 平然と答えるイサを見ながら、ウィレムは溜息を一つ吐くと椅子に腰掛け、頭を抱えた。

「エスタは、国民の教育をまずどうにかせねばならんのか…?」

「そうみたいですね」

「ふむ。考慮しよう」

 憮然とした態度で椅子に腰掛けなおしたウィレムを見ながら、イサはニッコリと微笑むと同時に、心の中で安堵の息を漏らした。

(あー、危なかった! 気をつけなくっちゃ)

 イサはその後、手際よくウィレムの部屋の片づけを終わらせた。

(よし、これでいいかな)

 ふとウィレムの机を見ると、カップが空になっている。

(あ、お茶…。まだ温かいかな?)

 ティーカップに触れると、まだ十分に温かかった。

「あの、お茶を注ぎましょうか…?」

「何だ、まだあるのか?」

「はい。お二人分淹れてしまいましたので…」

「…そうか」

 ウィレムはそう言うと、カップを手に立ち上がった。

「ちょっと休憩にする。お前もこっちに来い」

「はい?」

「いいから」

 ウィレムは執務室にある応接間に行くと、そこにある気持ちの良さそうな長椅子に気だるそうに腰掛けた。

「茶を持ってきて、こっちに座れ」

「はぁ…」

 ウィレムに言われたとおりにティーポットを持ってウィレムの側に行き、ウィレムのカップに茶を注ぐと、彼の側に控えた。それを見て、ウィレムが不服そうな顔をして言う。

「二人分用意したのだろう? お前も座って飲めばいい」

「いえ。あれはお客様の分でしたし」

「客…?」

 ウィレムは一瞬眉間に皺を寄せながら考えていたが、すぐにフッと自嘲気味に笑った。

「ああ、お前、あれが誰だか知らんのか?」

「はあ…」

「あれが俺の妃で、名をカヤと言う」

「は?」

(嘘! 身代わりって言っても、お姉様にぜんっぜん似てないじゃない!! お姉様はあんなに頭悪そうじゃないわよ!! そんなのって、あり?)

 イサが目を見開いたまま固まっているのを見て、ウィレムが呆れたように言った。

「ああ、そうだ。この部屋をメチャクチャにした張本人が、この国の皇太子妃様ってわけだ。面白いだろう?」

 上手いことイサの反応を誤解してくれたウィレムに、イサは咄嗟に何とか言葉を繋げた。

「は、はぁ…。でも、仲睦まじくしていらっしゃると、噂では…」

 イサの言葉に、ウィレムは鼻でハッと笑うと、椅子の背にもたれながら天井を仰いだ。

「まあな。可愛がってはおるぞ? だが、最近あいつは何やら自分の立場を誤解しているような気がしてならん。全く、もっと上手いことやってくれるはずだと思っていたのだが…。女は面倒だな」

「はぁ…」

 ウィレムはそのまま宙を見つめたまま、黙っていた。その能面のような凍りついた横顔から彼の感情を推し量ることは、イサには出来なかった。

(この人は…底が、知れない。危険だわ…)

 紫影としての勘が、イサの中で激しく警鐘を打ち鳴らす。

(その先に、一体何を見つめているの?)

 イサが見つめていると、ウィレムの口が僅かに動いた。

「…った」

「はい?」

「腹が減った。昼食を用意しろ」

「あ、はい。只今…」

 一礼して去ろうとしたイサの腕を、ウィレムが掴んだ。

「えっ…?」

 振り返ったイサの目の前に、ウィレムの緑色の眼が間近に見えた。イサの唇にウィレムの息が掛かる。

「お前は、俺の側にいてくれるのか…?」

「で、殿下…?」

「お前は、俺を見てくれるのか…?」

(「俺」って…?)

 イサの腕にすがりつくウィレムは、先ほどの態度とは打って変って、まるで迷子の子供のようだ。深い緑の瞳が小刻みに揺れながら、何かの不安に駆られているのがイサには見えた。

(きっと、この人に必要なのは、単なる気休めじゃない…)

 ウィレムの瞳の奥に膝を抱えたままうずくまる子供が見えたような気がして、イサは頭を横に振った。

「わかりません」

 その言葉は、イサの口からハッキリと出ていた。

「私には、まだあなたと言う人がわかりません。だから、本当のあなたを見ることができるのか、その後にあなたの側にいられるのか、わかりません」

 突き放すようなことを言ったのに、目の前のウィレムの瞳が安堵の色を見せた。そして、ウィレムはいつものウィレムの顔に戻る。

「お前は、やっぱり面白いな」

 ウィレムの言葉に首を傾げるイサを見ながら、ウィレムはゆっくりとイサを掴んだ手を離した。

「今まで、皆、俺に上辺だけで言ってきた。『いつでもお側におります』『私はいつでもあなたを見ています』とな。だが、奴らは何も見ちゃくれない。側にだって、俺が呼ぶから来るだけだ。俺は、そんな奴らはいらない」

 ウィレムの瞳に浮かぶ、深い孤独と拒絶の色…。

「俺は、あんな奴らは、全員要らない…!」

 イサはウィレムの感情に押し潰されないように深呼吸を一つすると、「お昼の用意を」と短く言って執務室を出た。

 執務室の扉を閉めてから、イサの心はひどく重く感じた。

(あの人は、誰のことも信頼していないんだ…)

 途端に、きらびやかなエスタ王宮の中が酷く色褪せた物に見える。まるで、布に描かれた架空の世界。夢物語の中の城。だが、一度剥がされれば、そこにあるのは空虚な石の建物―。それが、ウィレムの住む世界。そこに巣食う悪魔は巨大過ぎて、とてもイサ一人の力でどうなるものでもない。

 幸いにも、イサには愛すべき家族がいる。安心して背を任せられる仲間もいる。ふと、一人の顔がイサの心に強く浮かんだ。

(陸に、会いたいな…)

 陸の穏やかな顔。困ったように笑う顔。そして、いつもイサの頭を撫でる大きな手。イサを守る広い背中。そこにいるだけで安心できる、不思議な存在。

 イサは着ている側女の衣装の下に身に付けている紋章を衣装の上から握った。陸の顔を思い浮かべながらそうするだけで、何故か気持ちが落ち着いていく。

(大丈夫。私は、大丈夫…)

 イサはその場から足早に立ち去ると、厨房へと向かった。


 この数日で、イサには王宮の内部が大分把握出来てきた。とは言っても、まだ姉が幽閉されているであろう塔に足を踏み入れたことは無い。塔の入り口は軍部の管轄下で、側女が用向きも無しに立ち入ることは出来ないからだ。本来ならば後宮内から出ることも許されないような立場だが、どういうわけかちょくちょくウィレムの執務室に呼びつけられるイサは、そのついでに他の場所へと足を伸ばすことも可能だった。

(それにしても、何でこう、だだっ広いのよ、ここは!)

 ヤマトの王宮は崖の上に建てられた城で、横よりは縦に長かった。しかし、エスタ王宮は主に平屋建てで敷面積がやたらと広いので、場所の移動に歩かなければならない距離が半端ではない。正直な話、毎日後宮にある側女の詰所からウィレムの執務室に呼び付けられるのも、かなりの距離を歩く。それでも文句を言わずに毎日向かうのは、執務室の方が詰所よりも居心地がいいからだ。

 ここに来てから毎日、かなりの頻度でウィレムに呼び出されるイサに対する他の側女の嫉妬たるや、凄まじいものがある。イサはそれを「新しいから珍しいんです」とか「異国から来たから珍しいんです」とか言いながら誤魔化して、謙虚を装ってはいるが、それでもあからさまに嫌がらせをしてくる者達もいる。ウィレムではないが「女は本当に面倒だ」と言いたくなるほどだ。

 水や茶を「偶然に」服の上に溢されたことなど、何度あったろうか。髪が「偶然に」衣服に引っかかったと言って引っ張られるなど、最近ではほぼ挨拶代わりになっている。だが、こういう時こそ大人しくしておくものだとイサは心得ていた。第一、自分はここにウィレムの寵を受けに来たのではない。自分は、姉を助けるために忍び込んでいるのだ。表立った騒ぎを起こすのは極力避けたい。

 そんなイサの話し相手は詰所の外に少しずつ増えていった。ウィレムの秘書官、補佐官や護衛官とは毎日顔を合わせ、最近では彼らにも茶を淹れるようになっているし、毎日頻繁に茶を淹れるもので、厨房で働く人々とすっかり顔馴染みになってしまった。

「しっかし、ウィレム殿下がそんなに茶好きだとは知らなかったなぁ~」

 ある日、厨房で年配の料理人がそう言った。

「えっ? 違うの? 私、てっきり前からこんなに飲んでたのかと思ってたのに」

 驚くイサに、側で訊いていた中年の女中が言った。

「いや~? 朝、食後にお召し上がりになる程度だったと思うけどねぇ~」

 彼女の言葉に、料理人が頷いた。

「そうだな。何か、特別な淹れ方でもあるのかい? 茶葉はここにあるやつだろう?」

「別に、特別でも何でもないんだけど…。茶葉もここにあるやつだし。あ、でも、時々配合を変えるの」

「配合?」

 目を丸くする料理人と女中に、イサは笑顔で頷いて見せた。

「うん。今日は少し暑いから、この香草を一緒に入れて煎じようかなって。天気とか、体調とか、気分によって、飲みたい味って変わるでしょ?」

 イサの言葉に、料理人はようやく合点がいったと言う様に頷いた。

「なるほどねぇ…。いや、料理に合わせて飲み物を変えるのと同じか。そうだな。気分や天気によって、飲みたい茶の味も変わるわな。いやいや、恐れ入ったよ」

 その隣で女中が何かを思い出したように言った。

「そう言えば、前のカヤ様もそんな風に…」

「おい」

 女中の話を料理人が咄嗟に遮った。

「あ? えっと、ああ。ごめんなさい。そうだったね」

 二人がイサのことを気にしている様子がありありと見受けられた。その二人を見ながら、カヤは無邪気な笑顔を作って見せた。

「『カヤ様』って、ウィレム様のお妃様でしょ? この間、殿下の執務室でお会いしたわ」

「あ、ああ…。そうかい」

「じゃ、私はこれで…」

 言葉を濁しながら、女中は慌てた様子で厨房から出て行ってしまった。

(ふぅ~ん)

 彼女が足早に去る後姿を目の端で追いながら、イサは彼女と料理人は皇太子妃がすり替わっていることを知っているのだと直感した。

「おじさん、ここに勤めて長いのよね?」

 イサは沸いた湯をティーポットに注ぎながら料理人に尋ねた。

「ああ。そうさな。もう、かれこれ十五年はここにいるかな」

「それじゃ、今のカヤ様と、ここに来たばかりの頃のカヤ様―。どっちが好き?」

「……そうさな」

 料理人は、ポツリと言葉を紡ぎ始めた。

「ここにおいでになったばかりの頃のカヤ様は、お幸せそうに微笑む、お優しい方だったよ。でも…。お一人目のお子を身籠られた辺りから、ずっと泣き暮らすようになられてな。原因はわからんが…。いつも哀し気で、籠の鳥のようになってしまわれたな」

「ふぅーん。でも、私がこの間お会いしたカヤ様はそんな風には見えなかったけど? 派手で元気で。ウィレム様のお部屋を嵐のように滅茶苦茶にして、竜巻みたいに去って行かれたし」

「あれは―」

 そう言いかけて、料理人はハッと口をつぐんだ。

(「あれ」…?)

 イサはすっと料理人に近付くと、彼に向かって小声で囁いた。

「おじさん。私ね、旅の途中で、お嫁に行く前に描かれたカヤ様の肖像画を、ヤマトで見たことがあるの。でも、その肖像画のカヤ様と、昨日お会いしたカヤ様…。お顔が全然違ったわ。いくら何年も経っているからと言って、面影すら無くなるなんて、変じゃない?」

 料理人のこめかみから、脂汗が滲み出し、彼の喉ぼとけが大きく動くのが見えた。

(焦ってる…? よーし、もう一押し…!)

「それにね、肖像画のカヤ様の瞳の色と、昨日のカヤ様の瞳の色、全然違ったわ。いくらなんでも、ヤマトの絵描きが自分の国のお姫様の瞳の色を間違えて塗るはずないし…。変よね?」

 そう言いながら、イサは少し首を傾げながら料理人の瞳を覗いた。彼の目には、明らかに焦りの色が見える。

「あ、あ、あれは…。ち、違うんだ」

 料理人の口から言葉が漏れ始めた。あとはイサが引き出すだけだ。

「何が、どう違うの?」

「あれは、元々は殿下に拾われた側女だったんだ。それが…。それが、いつのまにか…」

「…カヤ様と、入れ替わってた。そういうこと?」

「そ、そうだ」

「これって、公然の秘密なわけ?」

 イサが呆れ顔で言うと、料理人が腹を決めたように開き直った態度で答えた。

「いや。わしら、古株のもんしかしらないさ。何てったって、それが起こったのは何年も前のことだ。それに、元々カヤ様は外に大っぴらに出て行かれるような方じゃなかったしな」

 元々大人しい姉が、知り合いの誰もいない異国の地で引き籠りがちになってしまっている様子は、イサにはよく理解できた。

「で、カヤ様本人は、今はどちらに?」

「北東の塔に幽閉されとるさ」

 鳳凰の言ってたことが正しいことが証明された。後は、そこまで何とか行き着くだけだ。 

「食事とか、普段のお世話は?」

「エレンがやっとる」

 エレンというのは、先ほどカヤの話題が出た途端に慌てて逃げていった女中のことだ。

 イサは腕を組んで少し考えると、料理人に向かって言った。

「あのね、おじさん。私、お願いがあるの」


 コンコン。

 部屋の大きな扉の向こうから、いつもよりも軽やかなノックの音が聞こえた。

「…どうぞ」

 抑揚の無い声で窓の外を見たままそう言うと、カヤは一つ深い溜息を吐いた。

 ここに来て、何年経っただろう。そして自分は、いつまでここにいるのだろう。

 扉が開く音が聞こえ、食べ物の匂いが漂ってきた。三人目の子供を身籠ってから、食事は以前よりも少し良くなったが、食欲は反対に落ちていく一方だ。

 テーブルに食器が置かれる音がするが、カヤはそんなことを気にも留めずに外をぼーっと眺めている。と、その時、ふと懐かしい香りを嗅いだような気がした。

(これは…? あの子の好きだった、山百合の香り…)

 香りに誘われて視線を窓から部屋の中へと移すと、カヤは一瞬、夢を見ているのかと思った。

「!!」

「しっ!」

 驚いて両目を見開いたカヤの目の前で、昔と変わらずにいたずらっぽい瞳を輝かせた妹が後ろに控えた衛兵に見えないように人差し指を立てた。

「お食事はこちらに」

「あ、え、ええ…。エレンは…?」

「今日は急用で。わたくし、代理のイザベルと申します」

「そ、そう…」

 カヤがテーブルについてゆっくりと食事を始めると、衛兵が二人の様子を見飽きたかのように後ろを向いた。イサはその瞬間を逃さなかった。

 イサはカヤの服の袖にさっと小さく折りたたんだ紙の包みを忍ばせた。カヤは平然を装ったまま、小さく頷いた。

 食事が終わり、イサは食器をまとめて去る間際にカヤの耳元で囁いた。

「必ず、助けるから」

 カヤは黙って頷き、イサはそのまま部屋を出た。カヤの部屋の扉に鍵をかけた衛兵がイサの後を付いて階段を降りる音が響き、それが遠ざかると、カヤは袖からイサに渡された紙包みを取り出した。

 器用に小さく折りたたまれたそれは、イサからの手紙だった。

「カヤお姉様。

 今はまだ準備段階ですが、必ずお助けいたします。

 それまでの間は休養をしっかりとり、(きた)る日に備えて下さい。

 今回の件は父上公認につき、心配は御無用です。イサ。

 追伸:読後、この紙を小さくちぎって飲み込むこと。人体に無害ですので御安心を」

 カヤは何度も書かれた文を読み返し、そして書かれていた通りに紙を小さくちぎり、飲み込んだ。飲み込みながら、ふと、小さな頃に兄から聞いた話を思い出した。

『カヤ、知ってる? 紫影はね、連絡に使った文を小さくちぎって飲み込んで、証拠が残らないようにするんだって』

(紫影…? まさか、あの子が…?)

 全てを飲み込み終わったカヤの瞳には、はっきりとした精気が宿っていた。いつものように窓辺に立ち、外を眺めながら、カヤは小さく呟いた。

「まだ、やり直せるのかしら…?」

 その答えは、まだ誰にもわからない。


 その日から、夕食を運ぶ役目を古株女中のエレンから代わってもらったイサは、毎日厨房からカヤのいる塔までの間の道程を注意深く観察していた。

 通路が沢山張り巡らされた王宮と異なり、軍部の建物は一本の中央通路を挟んで部屋がある形で、塔の入口へ続く道も一本しかない。そして、食事を運ぶまでの間、軍が管理する建物の入口から塔の部屋までは必ず衛兵が後を付いて来る。

(これが邪魔なのよねぇ…)

 天鳳から見せてもらった城の見取り図は実に正確なものだということも確認した。あとは、この衛兵や、その途中にある兵士の詰所をどう突破するかだ。王宮内に入ってしまえば、逃げ道はいくらでもある。だが、そこまで至るのが大変だ。

 イサは毎晩、自分が得た新しい情報と自分の近況やカヤの様子を吹き込んだ鳥を放っていた。鳥は真っ直ぐ城下に飛ぶと、宿に滞在するキリに届く。

 キリは届いた情報を元に、天鳳から譲り受けた王宮の見取り図に何やら書き込んでいく。

「大分細かいことが判ってきたな」

 キリの隣で見取り図を覗き込んでいた(ほむら)が呟いた。見取り図には所々の空間に「詰所:兵士二十から三十」「監視:兵士十二」などの文字が書き込まれていた。

「陸は、どうしています?」

 キリが見取り図から顔を上げずに尋ねると、焔が側においてあった皿から何やら菓子を摘まみながら言った。

「あれ? 言わなかったっけ? 今日からやつもお仕事だよ?」

 焔の言葉に、キリは一瞬顔を上げて焔の顔を見て、「ああ」と何かを思い出したように微笑んだ。

「今日からでしたか。忘れておりました」

 キリは立ち上がると、窓辺へと足を運んだ。月夜だと言うのに、何故か辺りは静まり返っていて不気味だ。

 ふと、眼下の通りに、こちらを見上げているような人影があるのにキリは気付いた。

(あの男は…?)

 キリが気付くと同時に向こうもキリに気付いたらしい。男はそのまま身をひるがえして去り、すぐに街の中へと溶け込んでいった。


 その晩、イサはウィレムの執務室に夜食を届けろというウィレムの命令を遂行すべく、盆に夜食や飲み物を乗せながら長い廊下を歩いていた。

(イヤ~な予感がするのよね…)

 今まで、この時間にイサが呼び出されたことは一度も無かった。他の側女達の手前、それで何とか彼女達との均衡を保っていられたのだ。なのに。どうして。

 執務室の扉をノックすると、すぐにウィレムの疲れた声が返ってきた。

「…入れ」

「失礼致します」

 扉を開け、一礼して中に入ると、机の後ろでいつものように書類から目を話さないウィレムと、彼に後ろから抱きついている「カヤ皇太子妃」がいた。

(出た…! ニセモノ派手ケバ皇太子妃!!)

 王宮の中でも、彼女が「カヤ様」とか「皇太子妃殿下」と呼ばれる度に「違ーう!」と叫びそうになってしまっていて、イサはストレスが溜まっていた。この時間に呼び出された挙句、偽カヤの顔を見ることになろうとは、嫌がらせとしか思えない。イサは苛立ちを押さえながら、事務的な口調で尋ねた。

「お夜食は、そちらでお召し上がりになりますか?」

「いや。あっちで休憩しながらがいい」

「かしこまいりました」

 平然と、まるで何も見なかったような振りをしながら、イサは応接間のテーブルに夜食を整えた。

「お茶は今、注いでしまってもよろしいのでしょうか?」

「そうだな。だが、それはこっちに持って来てくれ」

「はい」

 イサがティーカップをウィレムの机の上に置こうとすると、これ見よがしに偽カヤがウィレムにキスをしようとした。だが、イサがカップに視線を移した瞬間に、押し殺したような女の悲鳴が聞こえた。

「ウ、ウィレ、ム…?」

「お前ごときに、呼びつけで呼ぶことを許可した覚えは無いが…?」

 ウィレムの冷ややかな声に顔を上げたイサは呆然とした。そこではウィレムが冷ややかな目で偽カヤを見上げながら、彼女の顎を強い力で掴んでいた。

「で、んか…。ごめ…な…さ…」

「お前はもっと、頭のいい女かと思っていたのだがな。残念だ。最近のお前はやり過ぎだ」

「もう…し、わけ…」

 女の目から涙が流れているが、その瞳は恐怖に怯える色で一杯だ。だが、ウィレムの指の力が収まる気配は一向に無い。それどころか、彼の長い指が彼女の頬に食い込んで、見ているのも痛々しい。

「殿下…。どうか、お気を鎮めて下さいませ」

 イサが静かにそう言うと、ウィレムは女を掴んでいた手を乱暴に振りほどいた。その反動で、女の身体が後ろに倒れ、偽カヤは床に倒れ込んだ。

 イサは平然と茶を飲み始めたウィレムの後ろを足早に通り、偽カヤへと駆け寄った。

「大丈夫ですか?」

 落ち着いたイサの声に、偽カヤは髪を振り乱しながら物凄い形相でイサを睨み付けた。

「…見てわかんない? 大丈夫なわけ、無いでしょ?!」

 偽カヤは涙目になりながらキーキーと叫び始めた。ヒステリックになりながら全ての怒りや悲しみをイサにぶつけてくる偽カヤを聞き流しながら、イサは手際よく偽カヤが倒れた時に打ったらしい箇所を診てみるが、幸い、これといった怪我はしていないようだ。ただ、ウィレムに掴まれた頬や顎の辺りに、うっすらとウィレムの指の痕が付いているのが痛々しいが。

「何ともないようで、安心致しました」

 イサがそう言って立ち上がると、偽カヤは「何とも無いですって? これが?」とさらに追い立ててくる。

 イサが溜息を吐こうとした瞬間、彼女の後ろで低い声がした。

「黙れ、アルミラ」

 その声を聴いて、偽カヤが愕然とした表情をしながら、一瞬で静かになった。

「アルミラ…?」

 イサが聞き返すと、ウィレムがティーカップを机の上に置きながら頷いた。

「ああ。そいつの本当の名だ。アルミラ。下の名は知らん」

 ウィレムはそう言いながら立ち上がると、アルミラと呼ばれた偽カヤに向かって歩き始め、彼女を冷ややかに見下ろしながら言った。

「お前はもう、用済みだ、アルミラ。ジーク!」

「…お呼びでしょうか?」

 扉をノックもせずに、静かに、そして気配も立てずに部屋に入ってきた無表情な男を見て、イサは息を飲んだ。

(この人…?)

 ジークと呼ばれた男はイサを見て少し片眉を動かしたが、すぐに元の表情の無い顔に戻るとウィレムの前に跪いた。

「命令だ。アルミラは役目を終えた。送り出せ」

 ウィレムの言葉を聞いて、アルミラが狂ったようにウィレムの足にすがり付いた。

「殿下! そんな…! いやです。ごめんなさい! ちゃんとやりますから!」

「黙れ。用済みだと言っただろう?」

「いやです! あそこに戻るのはイヤぁ!」

「連れて行け」

 ジークと呼ばれた男はウィレムに向かって小さく一礼すると、ヒステリックに泣き叫ぶアルミラの腕を掴んで引っ張り上げ、すぐさまもう一方の手でどこからか取り出した布を彼女の口に押し当てた。ガクリと崩れ落ちたアルミラの身体を抱きかかえると、ジークは来た時と同じように静かに、気配を残さずに執務室から出て行った。

 執務室の扉を閉めると、そこはまるで最初からアルミラがいなかったかのような雰囲気だった。ウィレムは平然と机に戻り、いつものように書類に目を通している。イサは微かに漂う眠り薬の残り香を感じたが、それもすぐに掻き消えた。

「さて、腹が減ったな」

 ウィレムはいつもと変わらない様子で椅子から立ち上がると、軽く伸びをしながら応接間へと向かった。イサはウィレムの机の上に残されたティーカップを持って彼の後に続いた。

 

 ウィレムは夜食をあっと言う間に平らげると、イサの淹れた茶を飲みながらくつろいでいた。外を見ると、月が大分高い位置に来ている。もう真夜中を過ぎたのかも知れない。

「座れ」

 不意にウィレムがイサに向かって言った。

「は? あ、はい…」

 当惑しながらイサがウィレムの向かい側に腰を落ち着かせると、ウィレムが眉間に皺を寄せながら言った。

「違う。そっちじゃない」

「はい?」

「こっちだ」

 バンバンとウィレムが自分の右隣を叩いている。

(そ、それはいくらなんでも、至近距離過ぎるのでは…?)

「う…」

「何だ。イヤなのか? ほ~お」

 ウィレムが意地の悪い眼つきでイサを見つめている。

(嫌な予感…。どっちに転んでも、嫌な展開だってことはわかってるのよ!)

「す、座ってもいいですけど…」

「けど?」

 目を細めながらそう言うウィレムに、イサは真顔で答えた。

「もし、変なことしようとしたら…。刺しますよ?」

「ほお?」

 思いっきり物騒なことを言った割に、ウィレムの反応は楽しそうだ。だが、ここで負けるわけにはいかない。

「私だって、ダテに旅をしていたわけじゃないんです」

 だが、ウィレムはニヤっと笑いながら茶を一口飲むと言った。

「そうだろうな」

「『だろうな』って?」

「お前を見つけた時にお前と一緒にいた者達。あやつらは、結構な手練だろう? 特にあの背が高い女…。かなりの場数を踏んでいるように見えた」

(ふ~ん。意外と眼は確かなんだ、この人…。さすがは皇太子、ってとこかな)

 黙ったままのイサに、ウィレムがさらに自信有り気に語る。

「あの男共も術を使えそうな感じだったな。で、そんな連中とつるんでいたお前の立場は、二つに一つだ」

「二つに、一つ…?」

「ああ」

 そう言いながら、ウィレムは茶を一口飲み、カップをテーブルの上に置くとイサの瞳を真っ直ぐに見つめて言った。

「…知りたいか?」

 得意気な顔をしながらそう言うウィレムに、イサは小さな溜息を吐きながら言った。

「どうせ、ご自分が講義なさりたいだけなのではありませんか?」

「くっ。ははははっ」

 イサの返答に、ウィレムが声を上げて笑い出した。

「お前は、本当に面白いな。まあいい。教えてやろう。一つは、お前も奴らと同じような戦い慣れた者だということ。二つ目は、そうでなければ、お前は奴らに守られるべき尊い身分の者だと言う事だ」

「なるほど。それで、殿下は私がどちらだとお考えなのです?」

 やんわりと微笑みながらそう尋ねるイサに、ウィレムは満足そうに微笑みながら言った。

「…さあ、な」

 二人はしばらくの間、お互いの瞳を見つめあいながらお互いの腹の中を探っていた。だが、イサには一つの確信があった。

(バレてる)

 ウィレムが自分がヤマト国のイサ姫であるということに気付きながら、自分をこのように泳がせている理由。それがわからない。だが、相手が何も言ってこないうちは、こちらは泳げるだけ泳がせてもらおうか―。

「そろそろ、戻ってもよろしいでしょうか?」

 イサがウィレムの瞳から目を反らさずにそう言うと、ウィレムもイサを見つめたまま言った。

「ああ。好きにするといい。イザベル…」

「では、失礼致します」

 イサはウィレムに一礼すると、食器を片付けながら執務室を出た。だが、そこで息を吐く暇は無かった。イサは二、三歩歩いた所で足を止めると、人一人いない静かな廊下で小さく呟いた。

「ジーク、と言いましたか」

 イサの声に、廊下の影の片隅が微かに揺れた。

「ここではなんだから…。着いて来て」

 イサはそう言って、足早に廊下を歩くと、厨房の手前にある食料庫に忍び込んだ。この時間、ここには誰もいないし、誰も通らないはずだ。

 暗がりの中でイサが待っていると、やがて男が一人、目の前に現れた。やはり、この顔には見覚えがある。男は相変わらず無表情だったが、敵意や殺意は感じ取れない。

 イサは真っ直ぐにジークを見据えながら、静かな口調で言った。

「ジーク。あなた、ヤマトの人間ですね? あなたの目的は、何です?」

 ジークは音も無くイサの方へ数歩近付くと、イサの足元で跪いた。

「恐らく…。あなた様と同じと思われます。イサ様」

 イサは小さく頷くと、ジークに顔を上げるように言った。

「ここには、どのくらい…?」

「三年ほどでしょうか」

「それでは、お姉さまと会えた事は…?」

「残念ながら。既に塔へと移された後でしたし、塔への警戒が厳しいので…」

「そう…」

 二人の間に沈黙が流れたその時、誰かが近付いてくる気配がした。イサとジークが同時に身を隠すと、廊下の角から大きな人影が見えた。

「ああ、やっと見つけた」

 聞き覚えのある暖かな声がそう言うと、イサは隠れていた物陰から飛び出して人影に飛びついた。

「陸!」

「イサ。無事ですね?」

「うん」

 久しぶりに嗅ぐ陸の香りが、イサには嬉しかった。

「陸は、どうしてここに…?」

「今日から、ここで兵士として働いているんですよ」

「そうなんだ…」

「ええ。それで、そちらは…?」

 陸がジークが潜んでいた場所に視線を移すと、ジークが姿を現した。その顔は驚きを隠せていない。

「まさか、地龍殿、御自らがこちらにいらしているとは、思いもよりませんでした…」

「あら。ジークと陸、面識があるの?」

 イサが首を傾げながら尋ねると、ジークが苦笑した。

「いいえ。俺が地龍様を式典で何度かお見かけしただけです。俺は、あそこでは一兵士に過ぎませんでしたから」

 ジークの話を注意深く聞きながら、陸が言った。

「で、その、ヤマトの一兵士殿が何故、エスタの王宮に?」

「そうよ! 私、あなたはてっきり死んじゃったものだと思ってたのに」

「それは、どういうことですか? イサ」

「そ、それは…。えーっと…」

 話が見えていない陸の問に、イサが言葉を詰まらせた。その様子を見ながら、ジークはフッと軽く微笑んで口を開いた。

「それは、俺がカヤ様と恋仲だったからです。こちらに嫁がれる前に敵前逃亡を試みたのですが、見事に玉砕しました」

 ジークが静かにそう言うと、陸は一瞬目を見開いたが、すぐに穏やかな表情に戻った。

「ああ、そうか。君だったんですね…」

 今度は陸の言葉に、ジークが目を見開いた。

「御存知…だったのですか?」

 その様子を見て、イサがクスクスと小さく笑った。

「だめよ、ジーク。王家の者と庇護龍の繋がりを(あなど)っては…」

 イサの言葉に、陸が苦笑した。

「実際には、カヤ様の庇護龍である(みお)が状況を感知し、それを澪から聞いた東風(こち)と焔がカヤ様の後を付けてお二人の逢引を確認し、それを私が叱りに行った、というのが正しいのですが」

 陸の話を聞いていたジークの無表情な顔が、どんどん真っ赤に染まっていった。

「ごめんね、ジーク。うちの龍達、実はこんなんで…」

 イサが苦笑しながら言うと、陸が不満そうな顔をした。

「『こんなん』とはどういう意味です? イサ」

 イサはニッコリと嬉しそうに微笑んだ。

「側にいて欲しい時に、いてくれるってこと!」

 そう言いながら、イサは陸に抱きついた。

「えっ? イ、イサ…?」

「会いたかった、陸…」

「え? あ、えー」

 イサは自分の身体が少しずつ陸の腕に包まれていくのを感じた。その暖かさがどこまでも身体に広がっていく。

 この暖かさが欲しかったんだな、とぼんやり考えていたイサの耳元で、陸の声が穏やかに響いた。

「私も、会いたかったですよ、イサ」

 途端に、イサは自分の身体が火が付いた様に熱くなるのを感じた。

(な、な、何、これ…? あ、あれ…?)

 心臓が剣の修行をした後のように早く打っている。

「イサ…?」

 黙ってしまったイサの様子に気付いた陸がイサの顔を覗き込むと、イサが真っ赤になりながら硬直していた。

「大丈夫ですか?」

「へ?」

 イサが間の抜けた声を出しながら陸を見上げると、陸の瞳と至近距離で目が合った。

(うわあ! 反則!!)

 イサは咄嗟に陸から顔を背け、彼から離れると慌てながら置きっ放しになっていた食器を取り上げた。

「もう遅いから、部屋に戻るね。おやすみ!」

 脱兎の如く食料庫から去って行くイサの後姿を見ながら、ジークが苦笑した。

「地龍殿も大変ですね」

「そうですか?」

「…余裕ですね」

 ジークの言葉に、陸が苦笑しながら言った。

「余裕なんてありませんよ。私は、特定の誰かにこういう気持ちになったのは、この世に生を受けてから初めてのことなんです。だから、どうしたらいいのか、全くわかりません」

 ジークはフッと軽く微笑むと右手を陸に差し出した。二人は固い握手を交わすと、無言で食料庫を後にした。

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