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この地に渡る風 外伝  作者: 成田チカ
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外伝2 「イサと陸」 2

 兄のライタから推薦されてイサの旅に同行することになったのは、イサよりも三歳年上の女性の紫影(しえい)で、名をキリと言った。

 キリは女性にしては長身で、髪を短く切りそろえているので一見、男性のように見える。剣や弓の扱いでは紫影でも五本の指に入る腕前と言われ、イサも何度かキリと紫影の訓練所で一緒になったことがあるが、男顔負けのキリの剣術にいつも見惚れてしまうほどだ。

 イサはどちらかと言うと術式の方が得意で、武器も投刀を得意としているから、兄のこの人選は戦いになった場合の戦力バランスを考えてのものだということは、十分に納得できる。この旅には地龍の(くが)と火龍の(ほむら)という男性二人も同行するが、龍達は戦いにおいて援護と護衛は出来ても、自ら人間を相手に戦うことは出来ないのだという。陸達曰く、それは太古の昔に神が精霊達に命じたことなのだそうだ。確かに、不思議な力を持つ不老不死の彼らが人を相手に戦ったらと思うと、ゾッとする。

 キリを含めた四人は第二王子シラギからのエスタとその周辺の情報を地図と照らし合わせながら旅の道程を定め、それに合わせて旅支度を整えると、三日後の早朝にヤマト王都を出発した。



 出発の前夜、イサ達は王に非公式に呼ばれ、王の部屋で王の直筆による書状と四人の通行手形や旅費を受け取った。

「ワシの名の下、エスタ及びその周辺に散らばる紫影には鳥が飛んでおる。万が一、助けが必要になった場合は彼らを頼るといい」

 鳥というのは紫影独特の術式の一種で、いわゆる伝書鳩のようなものだ。

「お心遣い、感謝いたします。お父様」

「うむ。必ず、生きて戻れよ?」

「はい…!」

 イサはその後、兄の皇太子ライタから以前ライタに差し出したカヤからの手紙の入った木箱と「真実の鏡」の付いた首飾りを返された。

 イサがライタの前から去ろうとした時、ライタがイサを呼び止めた。

「イサ…。その…」

 口籠もるライタなど見るのは、イサには初めてのことだった。ライタはいつも自信に満ち溢れていて、嫌味を言うことはあっても、このように言葉に窮することなど、未だかつて見たことが無かった。

 イサが珍しいものを見るような目でライタを見ていると、それに気付いたライタの顔が真っ赤になった。

「な、何だよ。何を見てるんだよ」

「何って…。私を呼び止められたのは、お兄様ですよ?」

「あ、ああ、その…」

 ライタは「ああ、もう!」と言うと、物凄い勢いでイサに近付き、イサをイサの持っていた木箱ごと力強く抱き締めた。

「お、お兄、様…?」

 ライタの腕の中で硬直しているイサの耳元で、ライタが呟いた。

「イサ。どうか、無事で…。カヤのこと、よろしく頼む」

 イサは自分の中で大きな氷が溶けるような感覚を味わった。その顔は自然に微笑んでいた。

「大丈夫です。私はこれでも…紫影ですよ?」

「ああ。それでも…。それ以前に、お前は僕の大事な妹だ」

 自分のことを嫌っていると思っていた兄から「大事だ」と言われ、イサはどう答えていいのかわからなかった。口から答えが出る代わりに、目から涙がこぼれ始めた。

「ちゃんと、戻ってきます…。お姉様と一緒に…」

「ああ。約束だ」

 そう言って微笑んだ兄を、初めて身近な人のようにイサは感じた。


「イサ様。寒くはないですか?」

「大丈夫! キリが風除けになってくれてるから」

 イサとキリの二人を乗せた地龍が、火龍と共に空を西に向かって駆けていた。

 出発する時に、イサとキリは初めて本物の龍を間近に見た。普段、人の姿をしている陸と焔は、人の姿では空を飛ぶことが出来ない。人の姿のままで空を飛ぶことができるのは龍の中では風龍の東風だけだし、東風にしても、近距離を「浮く」ことが出来るだけで、長距離を移動する時は、やはり龍の姿に戻る。

 初めて見る龍の姿の陸は壮大で美しく、イサは言葉を失ったまま、しばらくぼーっと陸の姿を見つめていた。

「イサ様。いかがなされました?」

 陸に声を掛けられ、イサは一瞬、目の前の黄金色に輝く龍が陸だと言うことを忘れて、普段の姿の陸を探してしまったほどだった。

 イサの警護も兼ねてということでキリがイサと陸に同乗することになったが、それを物ともせずに陸は精力的に空を飛んでいた。

「イサ。陸に飽きたら、いつでも俺に乗れ。俺の背は暖かいぞ?」

 焔が飛びながら冗談でそんなことを言っていたが、イサはいつまでも陸の背に乗って飛んでいたい気分だった。


 初日の夜、一行はヤマトと隣国、シンサイの国境に近い村で宿を取ることにした。村は山沿いにあり、村の近くから湧き出る温泉を引いた共同浴場が村の中にあった。

 宿で夕食を取った後、一行は宿の主人に村自慢の共同浴場を薦められ、そちらに向かっていた。

「このようなところで温泉に入ることが出来るとはな。お前は知っていたか? 焔」

「いや。温泉は俺より、どっちかというと澪の管轄だろ?」

 陸と焔が男湯の方へと行ってしまった後、イサが女湯へ入ろうとすると、キリが「私はここでお待ちします」と言って中へと入ってこなかった。

「あら、どうして? せっかくだし、一緒に入りましょうよ」

 イサが誘ってみたが、キリは躊躇ったまま、女湯の入口から中へは入ってこようとしない。

「いえ。でも、私は…」

「あ、もしかして―」

 イサが声を潜めてキリに尋ねた。「月のモノが始まっちゃった?」

「いえ。そういうわけでは…」

「恥ずかしいなら、私、極力見ないようにするよ?」

「いえ。私のことは、お気になさらずに」

 そう言いながら、キリは中から聴こえる村人の声を気にしている様子だった。それを見たイサには、心当たりが一つあった。

「なら、私も待つ」

「はい?」

「あの村人達がお風呂から出て来るまで、キリと一緒に待つ。だから、一緒に入りましょう?」

 イサの真っ直ぐな視線を受けたキリは、それで何かを悟ったらしい。キリはフッと表情を緩めると、イサに尋ねた。

「…ご存知なんですね?」

 イサはゆっくりと頷きながら答えた。

「…うん」

 二人はしばらくの間、中に入っている村人達が湯を済ませて浴場から出てくるまで、浴場の入口で待った。その間に湯を済ませた陸と焔が二人の前を通りかかり、彼らには先に宿に戻るように伝えた。

 やっと全ての村人が浴場から去ると、二人は脱衣場で衣を脱いで湯船に向かった。

「遅くなってしまって、申し訳ありません、イサ様。お身体は冷えていませんか?」

「気にしないでいいわよ、キリ。それから、この旅の間は『様』は無し! イサでいいわよ」

「そういうわけには…。陸様も『イサ様』と呼んでいらっしゃいますし」

「陸には私からちゃんと言っておくから、大丈夫。じゃ、こう思って? 今の私は単なる同僚。同じ立場の者同士で呼び合うのに、『様』は要らないでしょ?」

 キリは少しの間、無言で考えていたが、やがて顔を上げてイサに向かって微笑んだ。

「…そうですね。イサ」

「うん」

 イサは元気に頷きながら、身体を洗うキリを見た。

 噂で少し小耳に挟んだことがあったが、キリは亜人の血を引いているというのは本当らしい。服を着た姿は人間そのものだが、服を脱ぐと、服で隠れていた尻尾や、骨格の微妙な違いがよくわかる。

 加えて、今までの任務で負ったであろう様々な傷痕と、腰と太ももに入った変わった文様が刻まれた刺青が鮮やかに彼女の身体を彩っている。その姿は美しいが、同時に異質でもある。だからキリは村人達に見られたくなかったのだろう。

「キリって、キレイよね…」

 湯船の中からイサがポツリと呟いた。

「は? 今、何と…?」

「キリはキレイだって言ったの。はっきりとこうだっていう言葉が見つからないんだけど、独特の、神秘的な絵を見てるみたいっていうか…。あ、剣を振るってる時のキリも舞を舞ってるみたいでキレイだけどね」

 イサの言葉に、キリは少し哀しそうな顔をしながら言った。

「全ての人が、あなたのように考えるわけではありませんから…」

「どうしていつも隠してるの? ヤマトには亜人も沢山住んでいるんだから、別に隠す必要なんて無いじゃない?」

 イサの直球な問に苦笑しながら、キリは答えた。

「意地、ですかね」

「意地?」

 イサが聞き返すと、キリはニッコリと微笑みながら頷いた。

「ええ。私は、私の力が、自分に流れる亜人の血のせいだとは思いたくないんです」

「誰もそんなこと、思ってないと思うけど? 皆、キリが努力してるの知ってるよ?」

「それでも、中には私の能力は亜人の血が入っているからだと、そう言う輩も多いのですよ」

「でも、キリの剣の腕前は事実じゃない? 変なの」

 イサの言葉に、キリは一瞬目を丸くしたが、すぐに声を上げて笑い始めた。

「何で笑うのよ~」

 イサがキリの笑う理由がわからずに膨れていると、身体を流し終わったキリが笑いながら湯船に入ってきて、イサの向かいに腰を落ち着けた。

「私は、あなたのその真っ直ぐな心根が羨ましいわ、イサ」

「もっと色々考えてから物を言えって、ライタお兄様からはいつも叱られるけどね」

 イサが皮肉を言うと、キリはライタとイサの遣り取りを想像しながらクスクスと笑い、そして言った。

「私は、あなたがそのまま変わらずにいて欲しいと思っていますよ?」

「本当?」

 嬉しそうに微笑むイサに、キリは頷いた。

「ええ。本当です」

 二人はゆっくりと湯船に浸かりながら、色々な話をした。家族のこと、紫影の訓練のこと、そしてこれからのこと。

 湯から出て宿に戻ると、待ちくたびれた陸と焔は既に自分達の部屋で眠っていた。イサは自分とキリにあてがわれた小さな部屋でまた少しキリと話をすると、旅の疲れが出たのか、深い眠りへとあっと言う間に落ちていった。


 二龍は途中で休憩を入れつつも西に向かって飛び続け、眼下の風景は農地、町、山地、平野、都市、砂漠と、日に日に姿を変えていった。始めはこの風景を素直に楽しんでいたイサだったが、エスタの地が近付くにつれ、心の中に徐々に不安が降り積もるのを感じた。

 ワトを発って5日後、この大陸で一番大きな砂漠を抜け、乾いた荒地を半日ほど飛んだ後、遠くの地平線に陽炎のように大きな集落が見えてきた。

「あれだな」

「ああ」

 陸と焔はお互いに確認すると、その大きな集落まで半日ほどの距離にある小さな村の近くに降り、そこで龍から人の形へと変化した。

「ここからは少々時間が掛かりますが、陸路を行きます。あの村で少し首都についての情報も得たいですし…」

 そこまで話して、陸はイサが遠くに見えるエスタの首都、エスターナの方角を見つめたまま動かないのに気が付いた。

「イサ。イサ、聞いていますか?」

「えっ?」

 イサはようやく自分が呼ばれているのに気付き、声のする方に振り返った。そこには、呆れ顔の陸が立っていた。

「大丈夫ですか? イサ」

「あ、ごめんなさい。何?」 

 陸は一つ小さな溜息を吐くと、イサに言った。

「これから、この近くの村に立ち寄り、情報を少し集め、今晩はそこに泊まります。エスターナには明日の早朝発ち、陸路で向かいます。以上、よろしいですか?」

「は~い」

「…本当に、大丈夫ですか? イサ」

 心配そうにイサの顔を覗き込む陸と目が合い、イサは慌てて目を反らせた。

「な、何でもないよ? 大丈夫!」

「嘘ばっかり」

 陸がそう言うと同時に、イサの頭に陸の大きな手が乗った。軽くイサの頭を小さな子供にするように撫でる陸の掌から、暖かい体温を感じてイサは涙を流しそうになって、必死に堪えた。だが、イサの努力を押し流すように、陸の穏やかな声が聴こえた。

「私が、あなたの庇護龍だと言うことを忘れたのですか?」

「わ、忘れてないよ?」

「私には、あなたの心の揺らぎが伝わってきているのですがね…?」

 イサは何とか誤魔化そうとしたが、相手は自分の魂と繋がった庇護龍だ。誤魔化しても意味が無い。

「…ずるいよ」

「そうですね」

 陸は包み込むようにイサを抱き締めた。

「何が、そんなに不安なのです?」

 陸の言葉が優しく身体に響いてきて、イサの口からは言葉が次々に溢れ出した。

「わ、私…。本当にこのまま、お姉様に会っても大丈夫なのかな…? お姉様は、本当に助けて欲しいと思ってらっしゃるのかな? もし、私のしていることが、何の意味も成さなかったら…? 私、本当にこれでお姉様を救えるの?」

「イサ…」

 イサは顔を上げると、陸の顔を見ながら訴えるように言った。

「ねえ、陸。私達、本当に『正しいこと』をしているの?」

 陸は柔らかく微笑むと、イサの頭を少し撫でた。

「残念ながら、それは私にもわかりません。ただ、私たちはこれが正しいと信じて行なっている。そうではありませんか?」

 陸の問に、イサは黙って頷いた。

「私達はカヤ様を救いたい。そしてそれを正しいことだと信じている。それはもしかしたら、エスタの王家にとっては正しくないことかもしれません」

「…うん」

「しかし、私たちはカヤ様にとって正しい道を探すために、ここに来たのではないのですか?」

「うん。でも…」

「でも?」

 イサは俯いたまま、バツが悪そうに言った。

「…上手く、いくかな?」

 陸はフッと軽く笑った後、声を上げて笑い始めた。

「何よ。何が可笑しいの?」

 膨れっ面のイサを見て、陸は笑いながら答えた。

「いえ…。いつものあなたはどこへ行ったんです? そんな、弱気な…」

 陸の答えを聞いて、イサはムッとしながら尋ねた。

「じゃ、『私らしい』って何なのか、教えて?」

 陸はにこやかに微笑むと迷いも無く言った。

「元気で、思ったことをすぐに口に出し、傍若無人で負けず嫌いで無鉄砲」

「何よ、それ!」

 子犬のようにキャンキャンと反論するイサに、陸は余裕のある口調で付け足した。

「ま、これは表向きですけどね。実際のあなたは繊細で、傷つきやすいし、意外と臆病なところもあって、人一倍頑張り屋。涙もろいし、女の子らしい、可愛い一面もある」

 陸の言葉を聴いて、イサは呆気に囚われている。その顔は見る見るうちに赤く染まっていった。

「か、買いかぶってない?」

 真っ赤になりながら照れるイサを見ながら、陸は得意気に笑った。

「あなたはまた、私があなたの庇護龍だということを忘れていらっしゃる」

 ハハハと笑う陸を見て、イサが叫んだ。

「もう、いい! 陸のスケベ!!」

 イサの台詞に、少し離れたところで二人の様子を伺っていた焔とキリがギョッとした面持ちでこちらを見た。

「ス…? な、何故です?!」

 狼狽する陸を睨みつけながら、イサが言った。

「だって、いっつも私の心を読んでるみたいで…。何か、覗かれてるみたいなんだもの…!」

「のぞ…! いえ、私は決して!」

「何だ~? 陸、ダメだぞ、イサの着替えを覗いたりしちゃ~」

 焔がニヤニヤと笑いながら近付いてきた。

「陸! い、今のは…」

 キリの目が吊り上がっている。まずい。本気だ。キリはかなり殺気立っている。

「いや。誤解だ。私は別に、何も…」

 うろたえる陸に、さらに追い討ちを掛ける様にイサが言った。

「陸のバカ! 皆、行くわよっ!」

 イサは踵を返すと、近くの村に向かってズンズンと歩き始めた。

「あ、イサ、待って!」

「おーい、イサ~。一人で行くのは危険だぞー?」

 イサの後を追ってキリと焔が小走りに陸の横を駆け抜けていく。

「…全く、年頃の女の子は厄介ですね」

 陸は溜息を吐きながら彼らの後を追った。


 四人が訪れた村は、オアシスに隣接して造られた小さな村で、この辺りを旅する隊商の休息地として発展したらしい。

 四人はその日の宿を定めると、各々外で散歩や買い物をしながら、首都エスターナやエスタ王家についての情報を仕入れていた。イサはキリと二人で村の中を歩きながら、子供達から最近の近辺の話や隊商から聞いた王家や街の話を聞き、そのまま少し歩いて村はずれにある泉へとやって来た。

「この辺りにしては、豊かな水の量ですね」

 キリが水辺で屈み込みながら言った。

「そうね。水もきれいな方かなぁ」

 イサも屈み込んで手から水を汲んで飲もうとすると、遠くから「飲んじゃいかん!」と叫ぶ声がした。慌てて顔を上げると、そこには老婆が一人、立っていた。

「飲んじゃいけないって…? こんなにキレイな水なのに?」

 イサが尋ねると、老婆は頷きながらこちらへ近付いてきた。

「ああ。見た目はきれいだがの。飲みたいなら、一度沸かしてからの方がええ。でないと、腹壊すぞ」

 イサとキリはお互いの顔を見合わせ、そしてまた泉へと視線を移した。

(こんなにキレイな水なのに…?)

「ここも、昔はそのまま飲めたんじゃがの。この数ヶ月、ここの水を直接飲んで腹下した者が大勢出ての。以来、沸かしてからしか飲まんようになった。こんなことは、久しぶりじゃて」

「久しぶり…? ってことは、前にもこうなったことがあるの?」

「ああ。あの時は…。あれは、わしがまだ娘だった頃でな。先王が異国から水の姫様を娶られて…。水が豊かになったと思って喜んでおったら、その数年後には全ての水が濁ってしもうた。水が濁ってしばらくしてから、水の姫様が病で亡くなったと知らせが出ての。今回はあの時ほどではないが…。皇太子様の水の姫様は幸せではないのかの?」

 老婆の言葉を聞きながら、イサは考えていた。濁った水。病んだ心。数ヶ月前から? それは、子供が出来たことがわかった辺りから?

(急がねば…!)

 イサがキリを見ると、キリは真剣な眼差しでキリに頷いてくれた。

 二人は水辺から立ち上がると、老婆に向かって一礼をした。

「ありがとう、おばあさん。お陰で、お腹を壊さなくても済みそうです」

 老婆は少し照れながら「いやいや、お役に立てたならいいんですよ」と言って去っていった。

 イサは泉の水を少し水筒に汲み入れると、キリと一緒に泉を去った。

 宿に戻ると、イサとキリは泉で聞いた話を陸と焔に伝えた。

「なるほど。確かに、庇護を受けた者の心が病むと、その力に影響を及ぼしますが…。この遠く離れた国で、それほどとは」

 イサは何やら考え込んでいる陸の隣に座っている焔に視線を移した。

「それでね、ちょっと試しに見てみようと思うんだけど。焔、手伝ってくれる?」

「んあ? 面倒な術は御免だぞ?」

「でも、焔じゃないとできないことよ?」

「面倒くせ~」

 ブツブツと文句を言う焔を尻目に、イサは泉で汲んで来た水を、宿の女将に借りた大きな鉄製の入れ物に入れた。

「焔~」

「ちっ。面倒だな。来るんじゃなかった」

 焔は文句を言いながらもイサの側に来て床に座り込み、イサが床に置いた入れ物の上に両手をかざした。それと同時に、イサは術式詠唱の形に入る。

「沸!」

 焔の声と同時に焔の両手が炎に包まれ、入れ物の中の水が沸き上がる。

「潜みし念、影に巣食う意、形を成して我に見せよ…」

 イサが唱えると、入れ物から湧き上がった蒸気が宙で集まり、何かの形を作り上げていく。それは人の形のように見えた。

『何故…』

 蒸気で形作られた影がうめき声を搾り出した。

『何故、私が、このような辱めを受けねばならないの…? もう、イヤ…』

 影に向かって、イサが違う印を結ぶ。

「時の影を見出せ。念を辿れ…」

 影が形を変え、それは鏡のようなものに変わる。中には白黒の映画を観るかのように、色あせた風景が広がる。その中に、「彼女」はいた。

(やはり、カヤお姉様なの…?)

 鏡の中のカヤは以前よりもすっかり痩せ細り、疲れた精気の無い顔をして殺風景な部屋の中にいた。そこはベットとテーブルと椅子が置かれただけの、小さな部屋。とてもではないが、皇太子妃の部屋には見えない。

 その中にいるカヤは何かに気付き、そちらを見る。そこからは一人の若者が入ってきて、強引にカヤを引き寄せた。必死に拒むカヤ。そして―。

「イヤァ!!」

「イサ、もういい!」

 悲鳴を上げたイサを、陸が目隠しをするかのように抱き留めた。それと同時に術式が解かれ、鏡は蒸気に変わり、天井に昇って消え去った。

 イサの悲鳴を聞きつけたらしく、部屋の外が少し騒がしくなり、宿の女将が部屋まで訪ねてきた。

「大丈夫ですか? お客様」

 少しだけ開いた扉から恐る恐る中を覗く女将に、陸が微笑みながら答えた。

「ああ、すまん。ちょっと、この子が昼寝中に悪い夢を見たようだ」

 陸の言葉を聞いて安心したのか、女将が扉を大きく開けた。

「あ、あら、大変。何かお茶でもお持ちしましょうか?」

「いや。もうすぐ夕食の時間だから、その必要は無い。気持ちだけ有難く受け取ろう」

 女将は安心したように安堵の息を漏らした。

「そうですか…。では、私はこれで」

 去ろうとした女将を、キリが呼び止めた。

「あ、女将さん。この器、ありがとうございました」

 キリが床から鉄製の入れ物を拾い上げて女将に返すと、女将はまだほんのりと熱を帯びた器を不思議そうに眺めながら言った。

「あ、いえいえ。また何か入用でしたら、おっしゃってくださいな」

「ええ。ありがとうございます」

 扉が閉められ、扉の向こうからは女将が階段を下りる音が聴こえた。

 陸はイサを抱きかかえたままイサの寝台に腰掛けると、それに習ってキリも向かい側の自分の寝台に腰掛けた。

「あれは…」

 キリがポツリと呟いた。

「皇太子妃の部屋には、見えませんでしたが…。まるで、カヤ様が幽閉されているかのような…」

「ような、と言うよりは、俺にはあれは幽閉にしか見えなかったけどな」

 床に座っている焔が冷たく言い放った。

「一体、何が起こっているのだ…?」

 眉間に皺を寄せながらそういう陸の腕の中で、イサが呟いた。

「私は…。お姉さまが幽閉されているのは、知ってたの」

「えっ?」

「そんなことは、一度も…」

 驚く皆の声を聴いて、イサは陸の腕の中から顔を出した。

「でも、お姉様は『部屋に閉じ込められてる』って書いていただけだから…。まさか、あんな扱いを受けてるなんて、思わなかった…!」

 イサの両目から、ボロボロと涙がこぼれ始めた。

「あ、あれじゃ、まるで罪人扱いじゃないの…! お姉様は、この国の皇太子妃なのよ? なのに、どうして…?」

 泣いているイサの頭を撫でながら、陸が口を開いた。

「私が驚いたのは、この村の人々の話と、今見た状況が全く違うからだ」

「へ?」

 イサとキリが両目を見開きながら陸を見た。陸が静かに頷き、焔が話し始めた。

「そうなんだよなぁ~、俺達が聞いた話だと、皇太子と皇太子妃は仲睦まじく、公務にもいつも共に出席されて、そのおしどり夫婦ぶりを内外に見せつけてるって話でさ。何か、おかしくね?」

 焔の言葉に、皆がお互いの顔を見合わせあった。

「そ、それって、おかしいよ! だって、お姉様は閉じ込められてて、部屋から一歩も外に出られないのに?」

「これは、私の勝手な想像ですが…」

 キリが静かな口調で言った。

「もしや、カヤ様に似せた、もう一人の皇太子妃がいる、ということでは?」

「ま、それが妥当な線だよな」

 焔の言葉に、陸が頷いた。

「じゃ、何? 王家では、お姉様が幽閉されてて、ニセモノがのほほんと皇太子妃として暮らしてるってこと?」

「そういうことですね」

「何よ、それ!!」

 イサが勢いよく立ち上がり、その拍子にイサの頭が陸の顎にぶつかった。

「いった~~~い!」

「くぅぅぅぅ」

 二人がイサの寝台の上でお互い顎と頭を抑えながら悶えていると、呆れた声でキリが言った。

「きっと、今のは()くなという、神のお達しですね」

「こんなお達し、いらないー」

「こっちも、御免こうむる…」

「とにかくさ」

 焔が言った。

「明日、エスターナに入るだろ? そしたら、何とか王宮の中に入り込む方法を見つけようぜ。あと、この国の鳳凰(ほうおう)はどこにいるんだか、知ってるか?」

「鳳凰…?」

 イサが涙目になりながら頭を押さえつつ何とか身体を起こして尋ねると、焔が頷きながら答えた。

「ああ。この国の守護精だ。ヤマトで言う、俺達みたいなやつらだ。ただ、この国はヤマトで天龍に当たる天鳳(てんほう)天凰(てんおう)がいるだけで、ヤマトみたいにそれぞれの自然界の要素を司る精霊がいるわけじゃない。だから水の力が弱くて、水の庇護を受けたカヤが花嫁として連れて来られたんだ」

 焔の言葉に頷きながら、ようやく身体を起こした陸が言った。

「彼らなら、そろそろ我等がここにいることに感づいても良さそうなものですがね」

「えっ? どうして?」

 驚くイサを見ながら、陸は冷静に答えた。

「我ら、精霊族はお互いを感知することが出来ます。それに、各々、自分達の庇護する土地に対する縄張り意識は強い。だから、この地を庇護する彼らは、異質の我らが侵入したことを感知しているはずです」

 そんなことを言っていた矢先、宿の女将から客人が訪れていることを知らされ、念のためにキリと一緒に出迎えに行った陸が連れて来たのは、一組の同じ顔をした若い男女だった。

 二人は男は天鳳、女は天凰と名乗った。


「皆さんがこちらに向かっているであろうことは、数日前から感じていました。ただ、目的がエスターナだという確信を持ったのは昨日のことですが」

 天鳳はそう言いながら、衣の合わせから一巻の巻物を取り出した。

「それは…?」

 イサの問に、巻物を広げている天鳳の代わりに天凰が答えた。

「これは、エスタ王宮の見取り図です。軍部の警護職から、拝借して参りました」

「拝借、と言えば聴こえはいいですが、ま、無断で失敬してきたと言うか…」

 天鳳が悪びれもせずに答えた。

「天って付く精霊さんたちって、どこの国でも何でもありありなの?」

 素直に陸に尋ねたイサに、陸が苦笑しながら答えた。

「いや、うちの上様はその、ああいう正確なだけで…」

「うちの兄様も、こういう性格なだけですわ」

 天凰がコロコロと笑いながら答えた。天鳳と天凰は双子の兄妹なんだそうだ。二人とも見た目は十八、九歳くらいに見える。

「現在のエスタ王家のあり方には、我らも思うところがある。水の加護を受けた娘を妻にすればそれでこの地の水が保たれると容易に考えているのには頭が痛い」

 天鳳が忌々しげに呟くのを、王宮の見取り図を囲みながら全員が注意深く聞いていた。

「確かにこの地において、我らが授けることの出来る水の恩恵は微力です。ですが、水の娘を引き込んだところで、その力が及ぶのはエスターナとその周辺のみ。国を救うことにはなりません」

 強い口調でそう言い放つ天凰に陸と焔は頷いたが、イサは納得がいかなかった。

「そんな! では、ではカヤお姉様は、一体何のためにここに来たのです?」

「水の庇護を受けた娘を妻とすることで、国民を安心させるためですよ」

 天鳳が冷たく言い放った。

「もう、過去に何度我々が忠告したか知れません。最初のうちだけは我々の話も聞き入れてくれていましたが、三代前の王は我らの進言をこれ以上聞けぬと言って、我らを王宮の一角にある塔へと幽閉しました」

「ま、幽閉といっても、われらは元の姿に変われば抜け出ることが出来るがな。しかし、数十年前に最悪の事態が起こった」

「あ、あの、水が濁ったっていう…?」

 イサの言葉に、天凰が哀しげな顔をして頷いた。

「お聞きになられたのですね、あの話を」

「うん。今日、ここでおばあさんに会って、その人が昔、水が濁って、その後に水のお姫様が病で亡くなったって…」

「あの時の水の姫君は、自ら命を絶たれたのです」

「えっ?」

 驚く一行を前に、天鳳と天凰は言った。

「あの方は、三代前のエスタ王に遠国より嫁がれた水の庇護を受けた姫君でした。ですが、すでに恋人がいた王はその方のことを疎んじられた。頼れる者が誰もいない遠国の王宮の中で、姫君は次第に心を病まれた。と、同時に周囲の井戸や泉の水が濁り始めたのです」

「私たちは王に姫君を大切になさいませと助言しましたが、聞き入れてはいただけませんでした。それどころか、王は姫君が心の病であることを内外から隠すために幽閉なさった」

「まるで、今カヤお姉様に起こってることと同じような状況ね」

「…それも御存知で?」

 天鳳からの問に、イサはしっかりと頷いて答えた。「ええ。知ってるわ。さっきもここの泉の水を使って見てみたし」

「なるほど。それなら、話は早い」

 天鳳は身を乗り出すと、王宮の見取り図の北東にある建物を指差した。

「カヤ様は今、ここにある塔に幽閉されておいでです。ここに至るまでの間、残念ながら、王宮内部を通過せねばなりませんが…」

 カヤが幽閉されていると言う塔は軍部の建物の一部で、否が応にもその近辺を通らねば、カヤが幽閉されている部屋へと通じる階段に辿り着けない。

「変なところで頭が回るのね、この国の王家って…」

「この建物を設計し、建てられたのはエスタの五代目の王で、あの方は軍略に優れた方でしたので…」

 天凰が申し訳なさそうに言った。

「失礼ですが、イサ様とキリ殿は、どのような力をお持ちですか?」

 天鳳の問に、キリが答えた。

「イサは術式と投刀に長けております。私は剣ですね」

「なるほど。お分かりかと思いますが、我々も地龍、火龍と同じで、人相手の戦では援護をすることしか許されません。ですので、お二人だけで塔へ向かわれるのは、やはり無謀だとしか言うことができません」

 天鳳の言葉に頷きながら、天凰が口を開いた。

「我らの術で目をくらませるとしても、やはり実戦の出来る方があと二、三人はいた方が確実かと…」

「鳥を飛ばして、近隣に潜む者達を呼び寄せましょうか…」

 キリの提案に、イサが頷いた。

「そうね。こっちも本当に入るとなると、やっぱり少しは準備が必要だし…」

「鳥、ですか…?」

 不思議そうな顔をして尋ねる天凰に、イサは笑顔で答えた。

「そう。鳥って呼ばれる術式なんだけど…。見てて?」

 イサはそう言って印を組み、術式を唱えた。

「出でよ、風に乗せて影の言の葉を伝えしもの…」

 イサの合わせた掌が淡く光り、それは大きな光の珠に変わった。イサはそれを自分の額に近付けると念を込め、それを持ったまま開け放たれた窓へと向かった。イサが光の珠を窓から外に向かって解き放つと、それらは五羽ほどの小さな鳥へと姿を変え、空へと飛び立って行った。

「まぁ。ヤマトには美しい術があるのですねぇ…」

 天凰がゆったりとそう言うと、天鳳が頷いた。

「ああ、風雅だな。エスタの下賎な術士共に見せてやりたいよ」

「下賎?」

 イサが怪訝そうに聞き返すと、天鳳が苦々しい顔をして言った。

「ああ。この国の術士共は呪詛が大好物でね。陰湿で、僕は好きじゃない」

 心の底からの憎悪を見せてはばからない天鳳を見て、イサは悲しいと思った。彼らは本来なら、王家や国と共にあるべき存在。それが、こんなにも王家とこの国を嫌っている。それに比べて、自分は何と恵まれたことか。天龍は飄々とした態度をしてはいても、それは彼が王家を信頼しているからで、決して彼らを蔑んだ態度を取ったことは無い。

 イサがそんなことを考えていると、誰かがイサの頭に手を置いた。この手は陸だろうと、手の主を辿らずともイサにはわかる。イサは気持ちをしっかりと切り替えながら言った。

「明日、予定通りエスターナに入ります。それから、どうやって城内に入り込むかを考えましょう。ある程度の準備が出来たら、きっと他の紫影達も揃うはずです」

 天鳳と天凰はそれで了解し、明後日に彼らの宿泊先を訪れることを約束してエスターナに帰っていった。


 翌朝の早朝にオアシスの村を出発した一行は陸路を数時間歩き、昼前に首都エスターナの門へと到着した。

 砂嵐を防ぐためと言う理由で高く作られた塀に囲まれたエスターナは丸い形の都市で、その円の中心にエスタ王宮がある。

 街の中の建物はヤマトのように平坦では無く、ほとんどが三階又は四階建ての石造りの建物で、それらが隣り合って建っている。

「何か、圧迫感があるわねぇ…」

「ワトと、かなり趣が違いますね」

 一行は一番賑やかそうな大通りを歩きながらそこに立つ店を物色し、宿の情報などを仕入れながらそぞろ歩いた。

「そこのかわいいお嬢さん! どうだい、エスタ産のこの翡翠は? お嬢さんの目の色に合うと思うよ!」

「えーっと、結構です…」

「そこのキレイなおねえさん! うちの首飾りがお似合いだよ!」

「今は入用ではないので、失礼」

 イサとキリは店先に所狭しと並ぶエスタ産の宝石の数々に眩暈を覚えながらも、一行街の中心部にある広場と、その隣に門を構える王宮を目指した。

「さ、さすがは宝石の産地…。何なの、あの店の数々は…。あー、目がくらくらする」

「私も驚きました。あのような宝石が、ここでは野菜のように叩き売られるのですね。いやはや、文化の違いと言うか…」

 イサとキリが広場の噴水の脇で座り込むと、陸と焔が笑った。

「二人とも。今回の目的は買い物ではないのですから、もっとしっかりして下さい」

「そうだぜ。ま、俺に手持ちの金があったら、耳飾でも買ってやったんだがなぁ、キリ」

 この旅の間で、どうやら焔はキリが気に入ってしまったようだ。

「結構です。装飾品は剣を振る時に邪魔になりますから」

「寝る時は剣は振らないだろ?」

「寝る時ならば、なおさら装飾品はいらないのでは?」

「わかってないねぇ、キリ。さてはお前、男いたことないだろ」

「し、失礼な!!」

「はーい、はいはい。痴話喧嘩はその辺で終わらせといてね。今すべきことは買い物でも、痴話喧嘩でもないのよね~?」

 イサが無理矢理二人の間に割って入ると、キリと焔がバツが悪そうにお互いに顔を背けた。

「えーっと、昨日ので言うと、あそこに見える塔がそれっぽいよね?」

 四人は王宮の敷地内の北東側にある塔を見つめた。

「あれでしょうね。その他に塔といえば、反対側にある北西の物と、最北にある物がある程度ですから」

 イサの隣に立つキリがそう言うと、他の二人も頷いた。

「判りやすくて助かるわね」

「見た目だけならな」

「問題は中、ですか」

 王宮もぐるりと高い塀で囲まれていて、外からでは中の様子を窺い知ることができない。

「どうしたもんだかねぇ…」

 四人が城を眺めていたそのすぐ後ろで、一台の馬車が停まった。

「そこの娘!」

「は?」

 イサが振り返ると、高級そうな馬車の中から若い男の声がした。

「そうだ、そなただ。娘! 近う寄れ!」

「はい?」

 イサが首を傾げていると、馬車の側にいた馬に乗った騎士風の男が「何をしておるのだ。若君からの命なるぞ。早急に馬車に近寄られよ!」と厳しい口調でイサに言い放った。

「寄れって言われても、ねえ…?」

「私がお側におります故」

 キリが小声でイサの耳元でそう告げると、イサは頷いて数歩馬車に近付いた。すぐ後ろにはキリが立ち、数歩離れたところで陸と焔が周りを警戒している。

 イサが近付くと、日除けが降りたままの馬車の窓から声がした。

「うむ。よし。そなた、その出で立ちは旅の者か?」

「はい。そうですが…。それが何か?」

「余に仕えてはどうだ?」

「はい?」

「余の側女(そばめ)にしてつかわす」

「どうして?」

「そなたが気に入った」

 声の主に対して、イサはフフンと鼻で笑った。

「って、今会ったばかりで、どこが気に入ったんだか?」

 声の主も負けてはいない。

「そなたの顔と姿が気に入った」

「ああ、そういうこと」

「名誉なことだぞ?」

 この言葉に、イサは冷たく言い放った。

「顔も知らない誰かの愛人になることが、名誉?」

 イサの言葉に、男の笑い声が聞こえ、日除けが上げられて中から浅黒い肌にはっきりとした顔立ちをした男性が顔を出した。

「これでそなたは余の顔を知った。ついでに教えるなら、余の名はウィレムと言う」

「と、言うことは、あなたがウィレム皇太子殿下?」

「うむ。その通りだ。で、どうだ? 余の側女になる決心はついたか?」

(王宮の中に入るのにはいい機会だけど、この人の側女っていうのがねぇ~)

 しかし、イサにはこの機会を逃す訳にはいかなかった。

「…いいわ」

「イ…!」

 陸はイサの名を呼ぼうとして堪えた。カヤの夫君であるウィレム王子は、きっとイサの名を知っているはずだ。

 イサは後ろを振り向いて三人に近付くと、ウィレムに聞こえない様に小声で言った。

「キリ。後で鳥を送ります。陸と焔は、私が王宮に入ったことを鳳凰に伝えておいて? あの二人が側にいたら大丈夫でしょう?」

「本当に、お一人で大丈夫ですか…?」

 心配そうな顔をする陸に、イサは笑顔で答えた。

「うん。ちゃんと繋がってるから」

 そう言ってイサは胸の前をギュッと衣の上から掴んだ。そこにあるのは、旅の間は隠し持っているイサの地龍の紋章。その少し浮き出た輪郭を見て、陸はフッと笑みを浮かべた。

「そうですね。私達は常に繋がっています」

 陸の言葉に、イサは元気に頷くと「じゃ、行って来る!」と言って馬車に向かって歩き始めた。イサが近付くと馬車の扉が開き、ウィレム王子の勝ち誇ったような顔が見え、イサが乗り込むと扉が閉じられ、馬車がゆっくりと王宮の門へと向かって走り始めた。

 馬車が門の中へと消えて行き、見えなくなると、焔が陸の肩を掴んだ。

「お前さぁ、本当によかったわけ?」

 陸は焔の期待を裏切り、落ち着き払った真面目な顔で答えた。

「そんなわけ、ないだろう」

「でも、側女ってことは、お手つきされる可能性だってあるだろ?」

「そんなことはさせん!」

 陸の剣幕に、焔は両目を見開かせながら息を飲んだ。

「あ、そう、なんだ…?」

「無論」

 二人の様子を見ていたキリが、陸に問い掛けた。

「何か、いい策があるのですか、陸?」

 だが、その問に陸は首を横に振った。

「いや。それをこれから、宿で考えよう…」

「何だよ。期待して損した」

「うるさい!」

「もう、おふたりとも。イサから頼まれたことはきちんとしてくださいね?」

「わかってる!」


 その晩、宿に三人が落ち着いた頃、イサからの鳥が飛んできた。キリが受け取って読み取ると、鳥は役目を果たし、空気に溶けて消え去った。

「イサの様子は?」

 心配そうな顔をした陸が尋ねると、キリは笑顔で答えた。

「今日はとりあえず寝床と衣装を与えられ、明日からの仕事の内容を他の側女に教わったそうです。今晩は無事なようですよ?」

 キリの言葉に、陸は安堵の息を漏らした。

「とりあえず、こちらも鳳凰に知らせは送った。だが、何とかして早く城の中に潜伏した方が良さそうだな」

「そうですね。やはり、イサ一人だと心配です。私は他の紫影との連絡がありますから、しばらくはここにいた方がよさそうですが、陸だけでも、城内に入った方が良さそうですね」

 キリの言葉に焔も頷いた。

「そうだな。イサは一人だと、突っ走りかねんからな」

「ああ、その危険性もありましたか」

 陸がふと漏らした言葉を、キリと焔は聞き逃さなかった。

「え、と。じゃ、何の危険性だと…?」

「わ、私は、その。イサの身を…」

 モゴモゴと口籠もりながら、陸は顔を真っ赤にして黙ってしまった。

 キリと焔はお互いに顔を見合わせながら笑った。

「何を笑っているのだ」

「いやぁ、あんたもイサが大事なんだなと思ってさ」

「それは、大事だろう。私は彼女の庇護龍で…!」

「はいはい」

 三人はその晩、狼狽する陸を肴に真夜中過ぎまで飲み明かした。

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