外伝2 「イサと陸」 1
今回は本編で大活躍(?)した「ババ様」の両親、ヤマト第二皇女「イサ」と地龍の「陸」の物語です。前中後編の前編ということにしていたのですが、どうも3部作では収まりきれそうに無いので、予定変更です。
これは、今から三百年ほど昔の話―。
その日、地龍は意識の奥の深い場所で、その名を呼ばれた。
(ああ、私が選ばれたのか…)
王家に新しく姫が生まれたのが七日前。今日はその赤ん坊の「名付けの儀」が行なわれる日だ。王家の子供達は名付けの儀の時に庇護龍が決まり、庇護龍の加護の下、これからの人生を生きていく。
今までも、ヤマト七龍のうち、天龍以外の龍達は王家の嫡出子の庇護龍として彼らの人生を見守ってきた。それは地龍「陸」に関しても、例外ではない。
ただ、その日は何かが違った。
まるで、初めて庇護龍として呼ばれた時のように心臓の鼓動が早くなる。自分を呼んだ赤子の元へと辿り着くまでの間、胸が締め付けられるような不思議な感覚がした。
(何だ、これは…)
龍脈と呼ばれる龍の精神の通り道を泳ぎながら、陸の意識はその出口―赤子の待つ場所―へとただひたすらに急いだ。
空間に現れた光の中から陸が姿を現すと、名付けの儀が行なわれている広間から歓声が湧き上がった。
「地の龍の加護を受けし我が娘に、大いなる幸あれ!」
王の声が広間に響く。
陸はしきたり通りに王と王妃の前で跪いて一礼をすると、二人の間に置かれた小さなゆりかごに向かって歩み寄った。ゆりかごの中には色白の肌をした赤ん坊がすやすやと眠り、その傍らには黄金色の光を放つ龍の紋章が置かれていた。紋章は陸が近付くにつれ輝きを増し、陸が赤子をその腕に抱くと淡い黄金色の光で赤子を包んだ。
その日、姫は名を「イサ」と名付けられた。
当代のヤマト国王とその二人の王妃の間には、イサの他に二人の兄と一人の姉がいた。イサが生まれて三年後にはさらに妹が一人生まれた。王族の中で地龍が庇護龍なのはイサだけだったが、それがイサには不満だった。
ある日、中庭で兄姉達と遊んでいたイサが唐突に言った。
「お兄様もお姉様もずるい! どうして私の庇護龍だけ、あんなおじさんなのっ?」
「お、おじ…」
「あら、そこにいたの? 陸」
六歳になったイサは快活で物怖じしない性格のためか、思ったことをすぐに口に出す癖があった。今も偶然側を通り掛かった陸を見かけたイサが不意に口にしたことだということは、陸にもよくわかってはいたが、それでも「おじさん」呼ばわりされるのは温厚な陸でも思うところはある。
「おじさんとは、また…。私は若いつもりなのですがね?」
陸が溜息をつきながらそう言うと、イサは両頬をパンパンに膨らませながら言った。
「でも、陸が龍の中で一番年寄りじゃない!」
「と、年寄り…?」
小さなイサを前に大人気なく眉間に皺を寄せている陸を見て、側にいたイサの六歳上の姉、カヤが困ったように微笑んだ。
「あらあら、イサ? そのように物を言うものじゃないわ。それに、陸は確かに長男でいらっしゃるけれど、天龍様のほうが陸よりもよっぽど長く生きていらっしゃるのよ?」
「でも!」
残念ながら、イサは反論したがる年頃だ。
「天龍様はあんなに若くてカッコいいのに、どうして陸はおじさん臭いの!」
「おじさん、臭い…?」
呆然と呟く陸の傍らで、幼い姉妹の遣り取りを聴いていたカヤの守護龍、水龍の澪がクスクスと笑い始めた。
「笑うな、澪…!」
「で、でもぉ~。陸が、『おじさん臭い』だなんてぇ~。面白過ぎますぅ~」
コロコロと鈴が鳴るように笑う澪を見て、イサは大げさな溜息を吐きながら澪を見て言った。
「私も、澪ちゃんがよかったぁ~」
それを聴きながら、澪は微笑みながら言った。
「そんなことを思ってはだめですよ? あなたの魂が陸を選んだのですから。あなたにとって、陸が一番いい庇護龍なのだということですよ? それに、私達にとって、陸はとても素敵なお兄様なんです。そんな陸を独り占めしているイサ様が、私達は本当はとーっても羨ましいですよ~?」
澪の言葉を聴きながら、イサは自分の腰帯に付けられた龍の紋章を手にとって見た。イサの小さな手には大きく見える金の紋章の中心には、黄金色に淡く輝く龍がいる。
それは陸の分身。地の龍の欠片。この大地に豊かな実りの恩恵を与える者の印―。
イサは顔を上げると、陸に歩み寄って両手を陸に向かって広げた。
「陸、肩車して?」
陸は少しその大きな身体を屈めながらイサと目線を合わせた。
「…またですか?」
困ったようにそう言う陸に、イサは元気に首を縦に振りながら言う。
「陸の肩車が一番なの」
「私は『おじさん』ですからね」
自嘲気味にそう言って肩をすくめる陸の顔を、イサはその小さな手でしっかりと挟み込み、陸の目を真っ直ぐに見つめながら言った。
「陸の肩車が、い・ち・ば・ん、なの!」
そのあまりにも真剣な眼差しに、陸はフッと軽く微笑みながらひょいっとイサを軽々と持ち上げ、自分の肩に乗せた。陸の肩の上で、イサは楽しそうに笑っている。
しばらくそうしながら辺りの風景を何となく眺めていると、不意に陸のつむじの辺りで小さな声がした。
「陸、さっきはごめんね?」
陸は声の主の方を見ずに柔らかい微笑みを浮かべると、黙ったまま優しく声の主の膝をポン、と軽く叩いた。
(わかってますよ)
陸の答えが伝わったのか、陸の頭上からイサの笑い声が聴こえる。
(わかってますよ。私の小さな姫君)
イサが十歳になった頃、姉のカヤの婚姻の日取りが決まった。相手はヤマトから遠く離れたエスタと言う国の皇太子で御歳十八歳。二人の結婚は、カヤが生まれた時に双方の国同士の間で決められていた。
式の三ヶ月前に、エスタからカヤに結婚準備を整えるためと言って豪華な布や宝石が送られてきた。エスタは砂漠の中にあるような乾燥した土地柄だが、豊かな宝石や鉱物の産地であり、経済的には豊かな国だとイサの家庭教師が言っていた。
「見て、お姉さま! この織物、すごく素敵!」
「ええ、そうね…」
「やっぱりエスタの翡翠はキレイねぇ…。この指輪の金細工もキレイよ、お姉さま」
「ええ…」
豪華な品々に囲まれながらイサは浮かれていたが、それと反比例してカヤは少しずつ沈んでいった。イサは姉の体調が悪いだけだと思い、最初はあまり気に留めなかったが、次第にカヤが部屋に籠りがちになると心配してカヤの見舞いに頻繁に訪れるようになった。
その日、いつものようにイサがカヤの部屋に見舞いに訪れると、閉じられたカヤの部屋の扉の向こうから、何やら言い争っているような声が漏れ聴こえた。
(まさか、お兄様と喧嘩…?)
声は一番上の兄の声に似ていた。イサは二番目の兄とは母が同じということもあって仲がいいが、一番上の兄である皇太子のライタは、いつも走り回っているようなイサのことを口やかましく怒ったり嫌味を言ったりするので、イサは苦手だった。
イサはカヤの口論の相手がライタであることを想定し、音を立てないようにそっと扉を開いた。窓からの逆光でよく見えないが、部屋の中にはカヤともう一人、イサの知らない若い男性がいた。
「…申し上げたはずです。私は他国へ嫁ぎ、いずれはその国の王妃となる身。あなたにはもう、お会いできないと…」
「しかし、あのままでは、俺の気持ちは納得いかない!」
「お願いです。勝手なことはわかっています。どうか、今までのことは忘れて…!」
「無理だ!」
「ん…」
二つの影が一つに重なり、声が途切れた。
イサにはそれは衝撃的だった。
目の前の姉は、まるで知らない誰かのようだった。いつもはたおやかにイサのどんなワガママも微笑みながら聴いている姉が、まるで炎に包まれたように、イサの知らない男と口付けを交わしていた。
ゴトッ。
重い物が落ちた音がして、二人はパッとお互いの身体を離し、音の元を凝視した。僅かに開いた扉の先に床に落ちた本と、その先に呆然と佇むイサがいた。
「イ、イサ…?」
姉の声で名を呼ばれ、イサはハッと我に返った。イサは自分でも気付かぬうちに手に持っていた姉に返そうと思って持って来ていた本を腕の中から落としたらしい。
「あ、あ、えーっと、あの…。ごめんなさい!」
イサは慌てて扉を閉じると、本の事も忘れてその場から駆け出した。
「…何があったんです?」
イサの頭上から、優しい陸の声が心地よく響いた。
「泣いてばかりいては、わからないのですが…」
フウ、と陸は溜息を一つ吐くと、自分の胸の中で泣き続けるイサの頭をそっと撫でた。
(…気持ちいい)
陸の掌の感触に安らぎを感じながらイサは涙で湿ったままの頬を陸の衣に埋めると、そのまま目を閉じた。陸の衣からは仄かに森の香りがして、イサはゆっくりとそのまま眠りに落ちていった。
カヤの部屋の前から逃げ出したイサは、気が付いたときには陸の部屋にいた。運良く部屋にいた陸に事情も説明せずにそのまま泣き付き、現在に至る。
(いつも、こうだな)
陸は自分の胸の中で眠り始めた小さな姫君を見つめながらそう思った。いつの頃からか、イサは自分でも無意識のうちに、何か嫌なことがあると陸の元へとやって来て、何も言わずにただ陸の側で泣き続ける。
一番上の兄に苛められた時や、二番目の兄と些細なことで喧嘩した時。妹とおもちゃの取り合いをして怒られた時。母が亡くなった時―。
(いつまでこれが続くんでしょうね…)
苦笑しながら陸はそう思っていたが、それと同時にその日がいつまでも来なければいいのにと思う自分もいた。
(愚かな…)
自嘲した笑みを浮かべながら、陸は側の窓から外を見た。夕暮れ色に染まる空と溶け合うような海を見ながら、それがまるで自分とイサのようだな、などと考えて、さらに落ち込んでみる。
(私は龍で、彼女は人の子だ…。私はこの子の庇護龍であるというだけだ)
夕日が沈み、空と海の境界線がわからなくなる。
(そう。ただ、それだけのこと…)
夜が訪れ、外には暗闇が穏やかに広がっていた。
カヤが婚儀のためにエスタ国へと旅立つ前日、イサはカヤに呼び出され、カヤの部屋にいた。あの一件以来何となく気まずくなり、イサはカヤを避けるように暮らしていたので、カヤと二人きりで会うのは本当に久しぶりのことだった。
「何か…。変な感じね」
カヤが茶を淹れながら、ふとそう呟いた。
「へ、変って…?」
ドギマギとしながらイサが言うと、カヤはフフッと笑いながら言った。
「イサ…。ごめんね?」
二人はしばらくの間、お互いをただ見詰め合っていた。遠くで潮騒が聴こえ、風が中庭の木々を渡る音が聴こえる。
不意にカヤがフッと寂しげに微笑みながら呟いた。
「女って、つまらないわね」
「えっ?」
イサが聞き返すと、カヤは近くの椅子に座りながら言った。
「女なんて、単なる道具でしか無いんだもの。いくら勉強しても、私達が国を動かせるわけじゃない」
「そんなこと…」
そんなことない、と言おうとして、イサは口をつぐんだ。さすがのイサでさえ、何故カヤの婚姻が出生とほぼ同時に計画されたのかは知っていた。
カヤの庇護龍は水龍の澪。だが、澪は皇太子、ライタの庇護龍でもある。国は水龍の加護を、未来の王たる皇太子に集中させたかったのだ。だから国はカヤを国外へ出そうとした。
国を出ても、よほど人としての道を踏み外さぬ限り、水龍の加護の力は弱まりはしても無くなることはない。水龍の加護を欲する乾いた国など、この大陸の南側には余るほどある。水の精霊を持たず、水の恩恵を受けることができない国は、この世界には意外と多いのだ。そういう国は他国の水の加護を持つ王族を婚姻と言う形で受け入れ、その場を凌ぐ。エスタはその中の一国であったに過ぎない。
資源の均衡を取れた上で、さらに子宝にも恵まれるなら、それはこの上ない有益な「道具」だ。
「私はね、ずっとあなたが羨ましかったの。この国で唯一、土の加護を受けたあなたが。あなたはそのお陰で、この国で大事にされて、一生この国で生きていくのですもの…」
龍だけではなく、龍に庇護される王家の者がいてさらに庇護の力は強まるという昔からの言い伝えがある。それ故、王家で現在、唯一地龍の庇護を受けるイサは、将来の結婚相手も国内で求められ、一生ヤマトの地を離れることなく暮らしていくのだろう。
「私ね、本当は、お嫁になんて行きたくない。顔も見たことの無い人と結婚なんてしたくない」
俯きながらそう言うカヤは、未だかつて無いほど弱々しく見えた。
「この国を離れたくない。例え結ばれなくても、あの人がいる場所で生きていたかった…」
カヤの言う「あの人」とは、先日イサが偶然に二人が抱き合っているところを見てしまったあの男性のことなのだろうとイサは思ったが、そのことについて口にするのは火に油を注ぐようなものだということを頭の片隅で何故か理解していた。
それに、あの一件の後、風の噂で城の近衛隊の騎士の一人が何かの罪に問われ、地下牢に幽閉されていると聞いた。イサには幽閉されている人物が、あの時イサがカヤの部屋で垣間見た人物と同一人物だという確信があった。
「イサ…」
ふと呼びかけられてカヤを見ると、カヤの瞳からは涙が次々に溢れ出ていた。それが秋の日の草に付いた露のように美しくて、イサはしばらくカヤの顔に魅入っていた。
「イサ。あなたは、あなたの風の赴くままに生きていって欲しい。運命に遮られること無く、あなたの風が導くままに…」
カヤはそう言いながら首に掛けていた自分の首飾りを取ると、それをイサの首に掛けた。
「お姉さま。これは…?」
首飾りの先に付けられた小さな鏡のようなものを見つめながらイサが問い掛けると、カヤはただ黙ったまま頷いた。
「いつか、これが必要になる日が来るかもしれないでしょうから」
「お姉さま…?」
「あなたが、持っていて? お願い…。おね、がい…」
いつもとはまるで逆で、その日はイサの胸の中でカヤが泣いていた。自分を押し殺すようなカヤの嗚咽を聞きながら、イサはよく陸が自分にしてくれているように、カナの背中を優しくさすっていた。
翌日、カヤは「幸せな花嫁」を見事に演じながら、エスタへと旅立って行った。
その後、幽閉されていた騎士がどうなったのか、今となってはイサにはわからない。
「―この秋には三人目の子供も生まれる予定になっていて、ますます忙しくなりそうです。それでは、イサも身体には気をつけて、他の皆様にもよろしくお伝え下さい、ですって…」
カヤの結婚から六年後。イサは十六歳になり、エスタから届いたカヤからの手紙を妹に読み聞かせていた。
「カヤ姉さま、相変わらずお幸せそうね?」
妹は無邪気にそういって微笑んだ。
「そう、ね…」
イサは短くそう言うと、開け放たれた部屋の窓から外を眺めた。イサの部屋からは、ヤマト国首都、ワトの城下街が見える。
「それでは私、この後予定があるから。またね、イサ姉さま。今日はありがとう」
妹が心ここにあらずと言った状態のイサに形ばかりの挨拶をして部屋を去ると、イサは先ほど妹の前で読み終えたばかりのカヤからの手紙を持ち上げ、術式を小さく呟いた。
イサの術式詠唱が終わると手紙はボウっと淡い光を放ち、手紙の上のカヤの書き文字が紙の上でゆらゆらと揺らめいた。イサはそれを見ながら一つ深い溜息を吐くと、首に掛けられた首飾りの飾りを手に取り、別の術式を呟き、鏡のような飾りを注意深く覗き込んだ。
鏡の中にはイサが手に持っているカヤからの手紙が映っている。だが、そこに書かれている言葉は数分前に読み上げたものとは大分異なっている。
「くっ…」
目を背けても、背けられるのはそこに浮かび上がる文字だけ。現実は、いくらイサが目を背けても、常に「そこ」から動かない。
そこに書かれているのは、カヤの哀しみと苦しみ。
自分に見向きもしない夫は愛人を寝室にはべらせ、自分は城の中から出ることも許されず、公務からも遠ざけられ、ただ客人のように与えられた部屋で日々を過ごすだけ。子供は最初の子供だけは皇太子の血を引いているが、二人目と今カヤが宿している三人目は父が違う。二人とも、皇太子の弟君との間に出来た不義の子だ。
この六年間、姉がズルズルと深淵の底へと堕ちて行く様を、イサはカヤから与えられた「真実の鏡」とそれを扱う術式で見てきた。表面上は幸せな皇太子妃を装うカヤの明るい内容の手紙の裏に、カヤはイサに宛てて全ての真実を吐き出していた。きっと、そうすることでしか精神を保つことができないのだろう。イサの感情が時には激しい怒りを、時には絶望を伴って鏡の中で揺らいでいた。
「お姉さま…。エスタは、助けに行くには遠過ぎるわ…」
ヤマトからエスタまで、陸路で一ヶ月はかかる道程だ。そんな距離を、ワトから一度も外へ出たことの無いイサが旅をするなど、不可能に近い。
「オイラが連れて行ってやろうか?」
不意にどこからか声がして、イサがギョッとしながら声の主を探すと、窓の外に風龍の東風がふわふわと身体を宙に浮かせながらイサの手の中のカヤからの手紙を盗み見していた。
「…相変わらず神出鬼没なのね、東風」
イサがサッと手紙を隠すと、東風は宙に浮いたまま胡坐をかきながらニヤリと笑った。
「そんなにエスタに行きたけりゃ、オイラが連れてってやるのに」
「バカ言わないで。あそこに行くのに、一月もかかるのよ? どう考えても行きと帰りで二月以上かかるじゃないの。そんなに長い旅、できないわよ」
呆れたようにそう言い放つイサに向かって、東風はフフンと鼻で笑った。
「バカはそっちだろ? オイラを誰だと思ってる?」
「…風龍。それが何か?」
「で、オイラは今、何をしてる?」
「何って、浮いて…。あっ!」
目を見開くイサの前で、東風は得意気にフワリと飛びながらイサの部屋の中に入ってきた。イサはその姿を見ながら、興奮した様子で言った。
「飛んで行けばいいって、そういうこと?」
「その通り」
「飛べば、どのくらいでエスタに着くの?」
「ん~。五日くらいじゃね?」
東風の答えに、イサはあからさまにガッカリしたようにうな垂れた。
「…それでも五日はかかるのね」
東風はイサの反応に不満気に答える。
「んだよ。エスタに行くには、山越えとか色々あるんだぜ? しかも、途中はずっと砂漠だし…。どう考えたって、五日は必要だろ?」
「もっと早く行けないの?」
「無茶言うなよ。ヤマトの外に出たら、オイラたちはどうしたって力が落ちるし」
「…そうなの?」
イサの問に、東風とは違う低い声がイサの背後から答えた。
「その通りですよ」
「く、陸! い、いつの間に…?」
顔を真っ赤にしながら問い掛けるイサを見ながら、陸は溜息を一つ吐いた。
「一応、お伺いは立てたんですが、反応がありませんでしたので。非礼はお詫びいたします。で、東風にそそのかされて本当にエスタに行かれるおつもりですか?」
呆れたような陸の口調に、東風があからさまに苛立ちながら言った。
「んだよ! カヤを助けたいのは、お前だって同じだろ?」
「それはまぁ、そうですが…」
陸達の会話を聞きながら、イサはふと、あることに気付いた。
「どうして…? どうして、カヤお姉さまのこと、知ってるの…?」
イサはカヤからの手紙を妹に読み聞かせることはあっても、他の誰かに見せたことは一度も無い。
「どうして、お姉さまが苦しんでること、知ってるの…?」
「それは、私が伝えたからです」
少女の声がして振り向くと、そこには澪が立っていた。
「私はカヤ様の庇護龍。カヤ様の感情は、遠く離れていても感じることができるんです。特にこの数年、カヤ様からは痛みしか感じなかったので、思い切って陸たちに相談してみたんです…。でも、私たちは勝手にこの地を離れることは、許されません…」
いつもはおっとりとしている澪の切羽詰った様子を見て、イサは決心を固めた。
「決めた。お姉さまを助けに行く」
「ほ、本当ですかぁ~?」
澪が顔を輝かせながらイサを見上げた。イサは澪に頷くと、陸と東風に向き直った。
「陸には一緒に来て欲しい。東風は…シラギお兄様の庇護の仕事があるからヤマトから離れられないよね?」
「なら、シラギも連れてきゃいいじゃん?」
東風の軽い返事を陸が諌める。
「バカ者! 第二王子が忍び込んだら、先方が侵略しに来たのかと誤解するだろうが!」
「じゃ、オイラはダメか~」
「それなら、俺が行こう」
開いたままのイサの部屋の扉から、火龍の焔が入ってきた。
「俺なら、今は王家直系の庇護の任は無い。それに、砂漠越えをするなら、俺は暑さに強いから適任だ」
淡々とそう言う焔を、何故か全員が驚いた顔をして見つめていた。
「な、何だ…?」
周りの空気を異様だと思ったらしい焔が眉間に皺を寄せながら尋ねた。
「あ、いや…。面倒臭がりのお前から立候補されるとは思っていなかったものでな」
陸が頭を掻きながらそう言うと、焔がニヤリと笑った。
「…面白そうだからな」
「ああ、何だ。そっちか」
二人の遣り取りを聴きながら、イサは澪と一緒にクスクスと笑った。
「さて。後は、いかにしてここを抜け出すか、だが…」
陸の言葉に、全員が現実に引き戻された。
「やっぱり、黙って行ったら怒られるよねぇ…」
「上様はご存知だからよしとして。問題は王か?」
「あと、エスタからカヤ様を連れ出す口実ですねぇ~」
「う~ん…」
その場にいた全員がそれぞれ唸りながら考え始めた。その時、廊下の方から声がした。
「何やら楽しそうだねぇ、お前達?」
「うわっ!」
全員が驚いて扉の方を見ると、そこには皇太子ライタと第二王子シラギが立っていた。
「お、お兄様方…。あ、えーっと…」
焦るイサを横目に、ライタはイサの部屋の中を興味深げに見渡しながら歩み寄ってきた。
「おかしなこともあるものだ。どうして僕の庇護龍が、イサの部屋に…?」
イサは覚悟を決めて腹を括るとライタに向き直り、堂々とした態度で答えた。
「あら。女の子同士で話が弾むことは、よくあることです。お兄様」
「『女の子同士の話』…? でも、ここにいるのは、圧倒的に男性の方が多いよね?」
(ほんっと、やな奴!)
イサはムッとしながらも軽く深呼吸をしてライタに言った。
「澪と話をしていたら、他の方々もいらっしゃったんです。それだけです」
「の、割には…。何やら全員で考え込んでいたようだけど…?」
探るようなライタの言葉に苛立ちながら、イサはライタに睨みつけた。
「…いつから見てたのよっ」
「この兄に向かって、その言葉遣いはどうかと思うよ、イサ?」
ライタはフッと視線を下に落とすと、イサが持っていたカヤからの手紙をサッと取り上げた。
「あ!」
「ふぅーん。この筆跡は、カヤだね…? 『本当は』何が書いてあるんだい? 最近、どうも頻繁にお前宛に幸せ自慢をしてきているようじゃないか」
ライタはイサの胸元からカヤに貰った「真実の鏡」の付いた首飾りを掴み、それを無理矢理自分の方へと引き寄せた。
「痛!」
「兄上? 何を!」
慌てたシラギがライタを止めようとしたが、ライタは既に術式を唱え始めているところだった。イサは、この鏡がライタとカヤの生母が嫁入り道具として持参したものだということを、すっかり忘れていた。
「真の姿を映せ!」
「ダメ!」
イサはライタの腕を押さえようとしたが、ライタはビクともしなかった。だが、術式を唱え、鏡を覗いているライタは凍りついたように動かなかった。
「こ、これは…? 一体…」
イサはライタの腕が小刻みに震えるのを感じていた。
「お兄、様…?」
恐る恐る見上げると、そこには唇を噛み締めながら静かに涙を流すライタがいた。
「あ、兄上…?」
シラギがライタの肩に手を置くと、ライタはシラギに鏡を覗くように命じた。
「これを、ですか…?」
シラギもまた、鏡を覗くと同時に顔色を失っていった。
「こ、これは…? そんなことが…」
「イサ」
未だかつて聴いたことも無いような悲しみに溢れた声でライタに呼びかけられ、イサは全身を硬直させた。その様子を見て、陸が素早くイサの傍らに寄り添った。
「ライタ様。どうか、今ここでご覧になったことは内密に…」
「お前達も、知っていたのか?」
袖で涙を拭いながら陸に問い詰めるライタの目は、真紅に染まっていた。陸はその眼を真っ直ぐに見返しながら答えた。
「はい。澪が感知することができます故」
ライタはイサに向き直ると、イサの肩を掴んだ。その瞬間、イサの全身がビクっと跳ねた。
「イサ。他の手紙は? 持っているのなら、全て出せ!」
イサはフルフルと小刻みに首を横に振った。だが、ライタはイサをさらに威嚇する。
「イサ。持っているのだろう?」
「だ、ダメです! お兄様には、お見せできません!」
「出せ!!」
ライタの怒鳴り声に反応してビクっと大きく震えたイサの身体を、陸がライタから庇うように優しく抱き締めた。
「ライタ様。カヤ様からの書状は全て、後ほどそちらにお渡しいたしましょう。今は、どうかお引取りを」
陸の姿勢を見計らったシラギが、ライタと陸の間に割り込んだ。
「兄上。私からもお願いします。これ以上、イサをお責めになるのはお止め下さい」
シラギに促され、ライタは無理矢理自分の荒立った感情を押さえ込むと、その場にいた全員にライタがカヤからイサに宛てた手紙に全て目を通すまでの間、城から外へ出ることはならぬと申しつけて去っていった。
イサはライタとシラギが去った後も、しばらくの間、陸の腕の中で震えていた。陸はいつものようにイサの頭を撫でると、穏やかに言った。
「イサ様…。もう、大丈夫ですよ?」
「うん…。もう、少し…」
「はい」
しばらくして落ち着きを取り戻すと、イサは本棚の隅から木箱を取り出し、陸に差し出した。
「これを…。ライタお兄様に」
「これが?」
イサは黙って頷き、木箱の蓋を開けた。中にはぎっしりとカヤからの手紙が詰められていた。
「燃やした方がいいと思ってはいたんだけど…。できなかったから」
イサはそう言って先ほどライタとシラギが読んだ新しい手紙を木箱の端に加えると、元のように蓋を戻した。
「それから、これも…」
首から「真実の鏡」の付いた首飾りを外すと、イサはそれを木箱の上に置いた。
「陸。私がそれをライタ様の元へと届けます」
澪がそう言って木箱に手を添えた。
「ライタ様も、カヤ様も、私が庇護する方々です。あなたはここで、イサ様の側に…」
そう言いながら哀しげに微笑む澪を見て、陸は頷いた。
「ああ。では、お願いする。だが、くれぐれも転んで手紙を廊下にぶちまけることのないようにな」
「もう~。信用ないですねぇ~」
澪は苦笑しながら木箱を陸から受け取ると、イサに一礼して部屋を出て行った。
イサの部屋の扉が閉まって少しすると、遠くの方で物音がした。
「あっ!」
ゴトン!
「きゃぁ~!」
イサの部屋にいた全員が、お互いの顔を見合わせて溜息を吐いた。
「オイラが行って、助っ人してくるわ」
「…俺も行こう」
東風と焔が、廊下に盛大に箱の中身をぶちまけたであろう澪の救済に向かった。
「だから言ったのに…」
陸は頭を抱えたまま、椅子に座り込んだ。
その後五日間、ライタからは何の音沙汰も無かった。イサは自分に何か咎めがあるのではないかと不安に思い、眠れぬ日もあり、心配した陸がイサに付き添っていた。
六日後の午後、晩餐の時間にイサの侍女が晩餐の場所の変更を伝えてきた。
「あちらの部屋を使うなんて、変よね?」
普段、王家の晩餐は二階の中広間で合同か、各自の部屋で分散して行なわれる。それが、その日に指定されたのは、イサは滅多に足を踏み入れない三階の奥にある小広間だった。
イサが指定された時間より少し早く部屋に到着すると、そこには既に天龍を含む七龍と第二王子シラギが揃っていた。
イサは部屋の中の面子を確認すると、首を傾げながらシラギに尋ねた。
「お兄様。これは、一体何の集まりなの?」
その問にはシラギではなく、側に座っていた天龍がクスッと笑いながら答えた。
「さあねぇ~」
久しぶりに会う天龍は、幼い頃に一度会った時と同じままの美しい姿でゆったりと椅子に腰掛けている。
「お久しぶりです、天龍様」
「ああ、久しぶり、イサ。しばらく見ない間に、随分と綺麗になったねぇ…」
「あ、ありがとうございます」
イサは頬を赤らめながら、自分の席に着いた。
時刻になると、王、王妃、ライタの三人が共に姿を現した。
(と、言うことは、今日は妹以外の王家全員と、七龍だけ…? 何なの…?)
全員が席に着くと、王が簡単な乾杯の音頭を取り、食事が始まった。食事中は皆、とりとめも無いような話をしていたが、食後の茶が出てくると、王は給仕に人払いを申し付けた。人払いが済むと、王は単刀直入に話を切り出した。
「皆。今日、ここに集まってもらったのは、エスタに嫁いだカヤのことについて話すためだ」
「えっ?」
イサが思わず上げてしまった声を聴いて、ライタが頷いた。
「お前から渡されたカヤの書状を全て読み明かした後、父上に奏上したのだ。案ずるな」
イサは、まさかライタが父王に事実を告げるとは思ってもいなかった。大体、カヤは他の家族に心配させないために、イサにだけ術式を施した手紙を送って寄越していたのだ。これでは、本末転倒だ。
「お父様。あの…」
イサが恐る恐る父王に声を掛けると、父王は真っ直ぐにイサを見つめ、頷きながら言った。
「イサ。今まで、お前にだけ苦しい思いをさせてしまったな。カヤの苦しみを、お前にだけ受け止めさせていたとは。辛かったろう?」
「いえ。あの。わた、し…」
何かを言おうとしたが、もう何を言おうとしたのかが判らなくなるほど、イサはボロボロと泣き始めた。カヤが嫁いでから、いや、カヤと恋人の姿を目撃したその日から、イサの心の中ではカヤの苦しみが雪のように降り積もっていた。その苦しみは、イサが死ぬまでずっとそこで凍ったまま残るのだろうと思っていた。だが、今ここで、自分だけがその重みに耐える必要は無いと、そう言ってもらえたのだ。
止まらない涙を何とか拭いながら、イサは父王に向き合った。
「お父様。私、お父様にお願いがあります」
「うむ。申せ」
「私、ここにいる陸と焔と一緒に、お姉さまに会いにエスタへ行こうと思うんです。行っても、よろしいでしょうか?」
「今日の集まりは、そのことを話すためでもあるのですよ?」
王妃がやんわりと微笑みながら言った。王妃はライタ、カヤ、そして妹の実母だが、イサの生母である第二王妃が亡くなった今では、シラギとカヤの義母でもある。
「『そのこと』って…?」
イサが首を傾げながら尋ねると、父王が言った。
「カヤは嫁いだ身とは言え、ワシのかわいい娘であることには変わりが無い。そして、お前達も気付いているように、このまま放って置くのは可哀想だ。出来れば助け出してやりたい。だが、表立ってそれを行うことはエスタ国に不名誉なことになる。ことは穏便に行なわねばならぬ」
「はい…」
「エスタに残るか、ヤマトに戻るか、それともどこか他国へ向かうのか…。それはカヤに直接問わねばならぬ」
王の言葉に頷きながら、王妃が言った。
「出来ればわらわが行って、カヤを助けてやりたい。でも、それはこの身では叶わぬこと。イサ。あなたがエスタに向かいたいと言うのであれば、我々はあなたのために、出来うる限りのことをしましょう」
「ほ、本当ですかっ?」
興奮したイサの言葉に、王と王妃が同時に頷いた。それを見ながら、ライタが口を開いた。
「俺も、シラギも、エスタ国の王家に顔が知られているし、王子が極秘に国に侵入したとあれば、それは外交問題に発展しかねん。だが、お前なら、万が一見つかっても何とか誤魔化す方法はいくらでもあるからな」
「誤魔化すって…」
困惑するイサを見ながら、シラギが笑った。
「僕らよりも、今のお前の方が身軽だということを兄上は仰りたいんだよ」
「身軽、ですか…?」
「ああ、そうだ」
ライタが頷く。
「今のお前には公の役職も無く、婚約者もいないから他家に迷惑がかかることも無い。遊学中だとでも言っておけば、ま、何とかなるだろう」
ライタの言葉を聴きながら、イサは小さな溜息を一つ漏らした。
「それって、私はふらふらと遊び歩いてるって思われているということですよね…。はぁ」
「ああ。まさか、ヤマトの第二皇女が自ら王家の影として暗躍しているなんて、世間には言えないだろう?」
「えっ?」
ライタの言葉に驚いたシラギが声を上げた。
「兄上。それは一体、どういう…」
「どういうもこういうも、そのままの意味だ。お前には知らせていなかったが、イサは八つの時からその素質を見込まれて、紫影の訓練を受けている。そのことを知っているのは紫影の連中と父上、母上と僕。それから…七龍、かな」
「いや。僕らは『感じ取っていた』だけで、知っていたわけじゃないよ?」
天龍がそう言うと、他の六龍が同時に頷いた。
「陸は知っていたかもしれないけどね」
「まぁ、私は、イサ様の庇護龍ですから」
本当は、陸はイサが紫影の訓練中に倒れた時にそれを感知して、助けに来たことがあった。だが、そのことはイサも陸も、他の誰にも話したことが無い。
「知らなかったのは、僕だけ、ですか…?」
まだ考え込んでいるシラギに、王が笑いながら言った。
「お前はすぐに顔に出るからな、シラギ。お前にはいずれ話そうと思っていた。それが今回の件で、少し早まっただけのことだ」
「は、はい…。では、イサがエスタに向かうのは、ある意味安心だということでしょうか?」
シラギの問に王とライタが頷いた。
「ああ。しかし、いくら陸と焔も付いて行くとはいえ、やはりもう一人補佐を付けた方が安全でしょうか。いかがお考えになられます? 父上」
ライタの問に王は天井を見上げ、少し手で顎をさすりながら考えていたが、やがて「そうだな」とポツリと言うと皆に向き直った。
「念のため、紫影を一人つけよう。人選はライタ、お前に任せる」
「御意」
「シラギ」
「はい、父上」
「お前は使節としてエスタに行ったことがある。イサ達にエスタ周辺及びエスタ王都、王宮内のことを出来る限り伝えておくように」
「はいっ」
王は一呼吸置くと、イサの名を呼んだ。
「イサ」
「はい、お父様」
王とイサはお互いを見つめあいながら微笑んだ。
「準備が出来次第、エスタに発ちなさい。準備に必要なものは全て取らせる。何なりと言うがよい」
穏やかな口調で王が告げると、イサは椅子から立ち上がり、王に向かってヤマトの最敬礼を取った。
「ありがとうございます。お父様」
顔を上げて自分を真っ直ぐに見つめる娘を見ながら満足そうに頷くと、王は「では、本日はこれまでとする」と言って立ち上がった。
王の合図で、皆がそれぞれ帰途へと着いた。その途中、王妃はイサの前に立つと微笑みながら言った。
「イサ…。ありがとう」
「お礼は、ちゃんとお姉さまを連れ戻してからいただきます。お義母様」
「ええ、そうね」
王に従いながら立ち去る王妃の後姿を見送りながら、イサはカヤを必ず連れ戻して帰ってくると心に固く誓った。