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この地に渡る風 外伝  作者: 成田チカ
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外伝1 「ミトと五郎」 (後編)

 その晩、ミトは夢を見ていた。

 夢の中で、ミトは自分のかつての婚約者の幻を見た。彼はミトの幼馴染で、ミトは小さい頃から彼のことが好きだった。だが、姉と歳の近い彼は姉と仲が良く、いつも一緒にいたので、ミトはずっと彼は姉のことが好きなのだろうと思っていた。だから、彼から告白された時は夢ではないかと疑った。

 しかし、二人の婚約と前後して他国がヤマト国に攻め入り、そのまま戦が始まってしまった。ミトにとってショックだったのは二人の結婚式が延期になったことよりも、軍人である婚約者が戦に―それも前線に出なければならなかったことだった。

 幸運にも彼は何度も帰ってくることができた。だが、その度に疲労と絶望の色が濃くなっていく彼の表情を見るのがミトにはとても辛かった。

 最後にまた戦場へと戻る時、「これで全てが終わればいい」と彼は言っていた。だが、戦は終わらず、彼は戻ってこなかった。

 気が変になりそうだった。信じたくなかった。だが、現実は残酷なことに彼の亡骸をミトの目の前に突きつけた。傷だらけで血に汚れたその身体をミトは清め、祈りと共に土に還した。

 その、土に還したはずの彼が今、ミトの目の前に立って微笑んでいた。久方ぶりに見る彼の穏やかな笑顔に、ミトは涙が出そうになるのを堪えた。

「ミト。俺は…」

 懐かしい声がミトの胸に響いた。

「お前の幸せを、祈っているから」

 彼はそう言って微笑むと、闇に溶けて消えた。

「あ…」

 ミトが彼に何かを伝える間も無く、そこには闇だけが残った。

「相変わらず、せっかちな人…」

 ミトはため息を突きながら、その場にしゃがみ込んだ。

「全く、何しに来たのかしら…」

 独り言を言ってみるが、理由など、ミトにはよくわかりきっていることだった。

「私の幸せ、ですか…。私の幸せは…」

 ふと、五郎の顔が頭に浮かんだ。五郎の笑顔、弓を射る時の真剣な眼差し、アヤをあやす時の穏やかな微笑み、ミトを見るときの真っ直ぐな視線―。

「でも、私は…」

 そう思ったところでアヤのぐずり泣きの声が聴こえ、ミトは目を覚ました。

 アヤを抱きかかえ、音を立てないようにそっと部屋を出ると、ミトは台所へと向かった。すっかり慣れた手つきでアヤのミルクを作ると、アヤは一心不乱にミルクを飲み始めた。

 アヤがミルクを飲み終わり部屋に戻ろうとしたその時、ミトは居間の外に人の気配を感じた。そっと縁側を覗いて見ると、そこには五郎が横たわっている。

「!!」

 ミトは慌てて五郎を起こしにかかった。いくら暖かくなってきたとは言え、日の出ていないうちはまだ肌寒い。風邪でも引いてしまったら大変だ。

「五郎さん、五郎さん! 起きてください!」

 ミトが片手で揺すっても、五郎は「ん~」と言っただけで起きようとしない。

「五郎さん、風邪を引きますから、早く起き…。きゃっ」

 五郎を揺すっていたミトの手が捕まれ、ミトは腕の中のアヤと一緒に五郎の胸の上に倒れ込んだ。何事か判らないアヤはキャッキャッと楽しそうに笑っている。

 ミトは起き上がろうとしたが、五郎の腕がミトをしっかりと抱き締めていて、身動きが取れない。

「ご、五郎さん、五郎さん!」

「み…」

「もう…。五郎さん?」

 五郎は返事をせずに、気持ち良さそうに眠っている。その顔をアヤが楽しそうに掴んでいるが、五郎は熟睡しているらしく一向に目を覚ます様子は無い。

「五郎さん、息がビール臭い…」

 少し文句を言ってみながら、ミトはそのまま頭を五郎の胸に埋めた。五郎の心臓の音が心地良い。いつの間にか、アヤはすやすやと五郎の胸の上で眠っている。小さなアヤと体格の良い五郎の対比が何とも可笑しい。

(私は、どうすればいいのでしょう…)

 その答えは自分の中にしかないと言うことは、ミトにはよく分かっていた。


「ミトちゃん、大丈夫?」

「あ、何とか…。ケホッ。お手数をお掛けして、申し訳…ありません、恵、さん…。ケホッ」

 五郎の義姉、恵はミトにコップに入った水と風邪薬を手渡しながら「いいって」と言って微笑んだ。

 結局、あの後ミトもそのまま縁側で寝てしまい、起きた時にはミトだけが風邪を引いていた。

「全く、あんた達も縁側で何やってたんだか~?」

 ミトは真っ赤になりながら、必死にコップの中の水で風邪薬を一気に流し込んだ。

「べ、別に、何も…」

「五郎さんは朝御飯食べた後、あたし達の顔を見ないようにして慌てて畑に行っちゃったしさ~。もう、今朝、お義母さんがあんなにはしゃいでるから、何事かと思ったわよ」

 ミト達は朝、五郎の母、喜美子に発見された。喜美子は三人の姿を見て、三人をすぐには起こさずに恵と一也を呼んで一緒に鑑賞して楽しんでいたらしい。

「お義母さんも、黙って見てないで、毛布くらい掛けてあげればよかったのにねぇ…」

「はぁ…」

 ミトがそう言いながらモゾモゾと布団の中に潜り込むと、恵が言った。

「で、やっぱり二人はそういう関係なんだ?」

「ち、違います!」

 ミトが布団の中から答えたが、恵はそれだけでは納得できないらしい。

「…そうなの?」

「……」

 布団に潜ったままのミトは黙ったままだ。

「私は、二人はお似合いのカップルだと思うんだけどな」

 布団が少し動いて、ミトの声が中から聴こえた。

「…私では、ダメです」

「どうして?」

「私は…。私では…」

 ミトはそう言いながら、布団から少しだけ顔を出した。

「私は、子供を産めないんです」

「…そう、なの?」

 ミトはゆっくりと頷くと恵を見た。

「話すと長いんですが、以前住んでいた土地で、ちょっと無茶をやらかしまして…」

 戦争が始まって初期の頃、祖父母が住んでいる街への他国の侵略を食い止めようとして、焦ったミトは自分の力量以上を必要とする術式を無理に発動させてしまい、その反動で生理が止まってしまった。あれから二年以上、ミトには生理が来ない。

 婚約者にはそのことを正直に告げたが、彼はそれでも構わないと言ってくれた。

 だが、アヤや甥っ子、姪っ子と一緒にいる五郎を見ると、彼には子供が沢山いるような家庭がよく似合うと思う。

「五郎さんには、私よりももっと、五郎さんにお似合いの方がいらっしゃると…思うんです」

 ミトの言葉を聞いて、恵はいたずらっぽい笑顔を浮かべながら肩をすくめた。

「そんな人がいたら、あの人もとっくに結婚してると思うけど?」

「それは…。ごもっともです」

 ミトと恵は、お互いの顔を見合わせながら笑った。

「私も一也さんも、お義母さんも、皆、あなたにここにいて欲しいと思ってるのよ。五郎さんのことを抜きにしても、私達は皆、あなたとアヤちゃんのことは、うちの家族の一員だと思ってるから」

「恵さん…」

「ま、今はゆっくり寝て、風邪を治してね。何か欲しい物があったら言って? あ、アヤちゃんのことは、今日は私とお義母さんで面倒見てるから、心配しないでね?」

 恵はそう言うと立ち上がり、ミトの部屋から出て行った。

(家族、ですか…)

 ミトは自分の本当の家族を、ヤマトで起こった戦の中で、全て亡くしてしまった。たった一人生き残っていた姉ですら、もう生きてはいないと心のどこかが告げている。

「お前の幸せを、祈っているから…」

 そう告げる元婚約者の声が、ミトの頭の中で何度も何度も、呪縛のように木魂した。


 五郎が畑から作業を終えて家に戻ると、居間で兄嫁の恵と母の喜美子が時代劇の再放送をテレビで観ながら茶を飲んでいた。その傍らでは、アヤが気持ち良さそうに昼寝をしている。

「あら、早かったんだね」

 喜美子がそう言うと、恵が振り向いてニヤッと笑った。

「ミトちゃんなら、風邪薬が効いたみたいで、部屋でグッスリ眠ってるわよ」

「あ、ああ。そう。ありがとう」

 そのままミトのいる部屋へ向かおうとする五郎を、喜美子が止めた。

「様子を見に行くんだったら、その前に着替えて手ぐらい洗ったらどうなんだい?」

「あ、ああ」

 五郎が自分の部屋へと向かうのを見届けると、喜美子と恵は二人揃って溜息を突いた。

「大丈夫かしら、五郎さん」

「本当だねぇ…」

 しばらくすると、作業服から着替えた五郎が居間を横切って台所へ入った。恵はそれを見届けると立ち上がり台所へ行くと、ちょうど水を飲んでいた五郎に声を掛けた。

「五郎さん、ちょっといい?」

「…ああ」

「ミトちゃんのことなんだけど…」

 恵はそう言った後、言うべきかどうかを迷い、意を決して五郎の目を真っ直ぐに見つめた。

「あの子、自分はあなたの子供を産めない身体だから、あなたとは結婚できないって、そう言ってたの」

「何、で…?」

 五郎が戸惑いを隠しきれないのが、恵にはよくわかった。だが、遠慮している場合ではない。

「あなたには、子供がたくさんいる家庭が似合うからって…。何かあの子、そのことをすごく気にしてるみたいだった」

「俺、子供欲しいとか、あいつに一言も言った覚えが無いんだけどな…」

 五郎の一言に、恵は驚いたように両目を見開いた。

「え? あ、そうなの? 私、てっきりあなたが、うっかりそんなこと言っちゃってたのかと…」

「いや」

 静かに首を横に振る五郎に、恵が困ったような顔をして言った。

「ごめんなさい…」

「いや、ありがとう。それで、何となくわかった」

「何が?」

「あいつが、何となく時々俺との間に距離を置く理由」

 恵は始め、ぽかんとした顔をしていたが、すぐにニッコリと笑顔になった。

「あらあら。そういうのに鈍感な人かと思ってたのに、意外だわ」

 感心したようにそう言う恵に、五郎が首を傾げながら尋ねた。

「は? 『そういうの』って…?」

 恵は一つ、溜息を突いた。

「前言撤回。あなたって、やっぱり鈍いわ…」


 ミトは布団の中でよく眠っていた。

 五郎がミトの額にそっと手を置くと、少し汗ばんだ額からは、朝感じた程の熱は感じなかった。

(大分、落ち着いたか)

 今朝、起きた時には正直ビックリした。自分の居た場所にも驚いたが、それ以上に自分の胸の上で眠っていたミトとアヤを見つけた時は「心臓が飛び出るほど驚く」とはこういうことを言うのだなと思うほど驚いた。

 喜美子に起こされた後に居間での朝食の時、アヤはいつもの通り元気にミルクを飲んでいたが、ミトは熱で真っ赤な顔をしたままボーっとしていた。兄嫁の恵はそんなミトを見て少しからかって楽しんでいたが、それが風邪を引いた熱から来ているものだとわかると、すぐに家中が大騒ぎになり、原因を作った五郎は喜美子と恵から説教を受けた。

(原因を作ったって言われても、なぁ…)

 ミトの話から、縁側で寝ていた五郎に気付いて起こそうとしたミトが巻き添えを食ったということはわかった。それにしても、無意識だったとは言え、ミトを抱き寄せたまま眠ってしまった五郎には立つ瀬が無かったし、ビールだけでそこまで泥酔していた自分にもビックリだ。

(疲れてたのかな、俺…)

 五郎はミトの枕の横に落ちていた小さなハンドタオルを拾うと、それを水につけて少し冷やして絞った。それをミトの額に置いた時、ミトの口が微かに動いた。

「…さい。まも、れ……」

 タオルの置かれた影から、一筋の水滴がミトの頬を流れた。

 五郎が寝ているミトの頭を優しく撫でると、ミトは安心したようにまた深い眠りに落ちた。

「何があったか、知らないけど…。俺がちゃんと二人を守るよ」

 五郎はそう言いながらミトの手を握った。ミトの手は、五郎の両手の中にすっぽりと収まってしまうほど小さかった。五郎は包み込んだミトの手に囁くように呟いた。

「だから、一人で頑張るなよ…」


 翌日にはミトの風邪もよくなり、ミトは五郎に「無理をするな」と言われつつ、日中一緒に畑で作業をしていた。

「はぁ~。やっぱり、身体は動かさないとダメですねぇ~」

 一つ大きな伸びをしながら、深呼吸をするミトを見ながら、五郎が笑った。

「だからと言って、あまり無理しないでくれよ? お前が倒れると、また俺が母さんや義姉さんに文句を言われる。あの人たち、俺よりもお前の方が大事だからな」

 少し不貞腐れたような五郎の声に、ミトは笑った。

「何か、五郎さんが駄々っ子みたい…」

「うるさい」

 プイっと顔を背けてしまった五郎の広い背中を見ながら、ミトはクスッと笑った。

「…あのさ」

 五郎が後ろを向いたままミトに声を掛けた。

「はい?」

「俺、子供はアヤだけで十分だから」

「は?」

「気にするな。母さんだって、もう十分沢山孫がいるから、これ以上いらないだろ」

「え?」

 ミトは五郎が何故子供の話をしているのかわからずに、キョトンとしたまま立ち尽くしていた。ミトが何も言わないのに気付いた五郎が慌てて振り返ってミトを見ると、ミトは目をキョロキョロと動かしながら何かを考えているようだった。

「あ、もしかして」

 ミトが何かを思いついたように言った。

「恵さんから、お聞きになったんですか? その、私が…」

 五郎は気まずそうに「ああ」と言うと、ミトから目を反らした。

「すまん…。俺が聞いちゃいけない話だったか?」

 この問に、ミトは「はい」とも「いいえ」とも答えることが出来なかった。

「え、と…」

 ミトが五郎にどう返事をしたらいいのか迷っていると、五郎がミトに近付いて来たと思うと、ミトの両肩にガシっと手を乗せた。

「結婚しないか?」

「は?」

「俺と、結婚しよう!」

「え? ええ? えええええ?」

 ミトの脳内に大小さまざまな「?」が激しく飛び交った。そのために無口になってしまったミトを見て、五郎が悲しそうな顔をする。

「…嫌か?」

 ミトは慌てて首を横に振り、それを見た五郎の顔がパーっと晴れやかな笑顔で一杯になった。

「それじゃぁ…!」

「っていうか、あの、色んな段階を全部端折ってらっしゃるような気がするのは、私だけですか?!」

「え?」

 二人はお互いの顔を見合わせた。ミトの瞳があまりにも真剣で、五郎は逆に笑ってしまった。

「何が可笑しいんです?」

「いや。だって。あんたが、すごく真剣だから…」

 笑い続ける五郎に向かって、ミトは両頬を膨らませた。

「私は真剣そのものです! だって、私達は今、結婚について話している最中なんですよ?」

「そう、だよな。うん」

 五郎が笑いを何とか腹の中に納めると、一つ軽い咳払いをしてミトに向き直った。

「俺も真剣だよ? 結婚しよう、ミト」

 ミトは五郎の瞳を真っ直ぐに見つめながら言った。

「本当に、よろしいんですか?」

「何が?」

 五郎が首を傾げた。

「何がって…。えーっと…」

 ミトが言葉を捜し終わらないうちに、五郎が言った。

「こっちは何も問題ないぞ?」

「『こっちは』って…。それじゃ、まるで私が悪いみたいじゃないですかっ!」

「まあな。この状況じゃ、お前の気持ち次第だろ? うちの人間でこの結婚に反対する奴はいないぞ?」

 それはそうだろう。皆、ミトのことを可愛がってくれている人達だ。いつまでも居て欲しいとまで言ってくれている人達だ。彼らがこの結婚に反対する理由は何一つ無い。

「それとも…。やっぱり俺じゃ、ダメか?」

「ダメじゃないです。それどころか…」

 続きが言えずにミトは俯いた。

「ミト…」

 五郎の優しい声が、ミトの頭上から降り注いだ。

「このまま、一緒に暮らそう? もう、お前のいる生活が、俺にとっての当たり前なんだよ」

「でも、私では…」

 呟きかけた言葉が、五郎に顔を両手で包まれた途端に掻き消えた。

「言ったろ? アヤ一人で十分だ。お前とアヤがいれば、それで俺は満足だ」

 ミトの瞳から涙が零れ落ちて、目の前の五郎の長靴の上にぽとりと落ちた。

「本当、に…?」

「ああ」

「側にいて、いいんですか?」

「もちろん」

 五郎はミトを抱き締めた。

「俺が二人をちゃんと守るから、だからお前は俺の側にいろ」

 ミトが涙でぐちゃぐちゃになった顔を上げると、五郎の優しい笑顔がすぐ側にあった。ミトはその笑顔が自分のあるべき場所なのだなと思った。そう思ったら、自然に声が口から出ていた。

「はい…」

 

 その後は、目まぐるしく日々が過ぎていった。

 五郎と二人で喜美子に結婚することを伝えると、喜美子はそれを早坂家連絡網を使って五郎の兄姉全てに知らせると同時に、あっという間に結婚式の日取りと会場(とはいっても、町の会館だが)を決めてきた。こちらの結婚式の様式を全く知らないミトにとって、これはとても有難かった。何しろ、色々と準備をしなければならないものが多いらしいのだ。それを喜美子は毎日ウキウキと準備に走り回っている。

「お義母さんのあの行動力は、一体何処から来るのでしょうか…」

 町の貸衣装屋で花嫁衣裳の試着をしながらミトが尋ねると、一緒に来ていた恵が笑いながら言った。

「そりゃぁ、あなた達が『よくわからないから手伝って欲しい』なんて言うからよ。自分の子供達があんまり手伝わせてくれなかった分、張り切ってんのよ。それにさ、あなたはあの人にとっては、娘みたいなもんじゃない?」

「娘、ですか…」

「あら、私だって、五郎さんの相手があなたで嬉しいのよ? もし二人が上手くいかないんなら、五郎さんを追い出してもミトちゃんには家にいて欲しかったんだから~」

「お、お義姉さん、それは…」

「何だよ、俺を追い出してもってーのは」

 五郎が試着室の外から声を掛けてきた。やはり、二人の話は試着室の外に聴こえていたようだ。だが、恵はそれをわかっていたようだ。

「あら~。聴こえてた? それはそうと、そっちはどう?」

 恵が声を掛けると、外から「あ、う、うん。まぁ、こんなもんか…?」とモゴモゴとした声が聴こえてきた。それを聞きながら、恵が苦笑して「ちょっと見てくるね」と言って試着室を出た。今度は試着室の外から、恵と五郎の声が聴こえてくる。

「あら、馬子にも衣装。いいんじゃない?」

「…馬子は余計だ」

「やっぱり、五郎さんは和装よねぇ…。タキシードとか着るより、こっちの方が断然似合うって。演歌歌手みたいで」

「……」

「何よ。相撲取りみたいって言うより、ましでしょ?」

「そんな例えしかねーのかよ」

「悪かったわね」

 二人の遣り取りを聞きながら、ミトは笑った。ふと前を見ると、そこには華やかな内掛けを羽織った自分の姿が鏡に映っている。鏡の中の自分の後ろに、試着室に入ってくる喜美子の姿が見えた。

「あら、素敵。いいんじゃない?」

「あ、お義母さん…」

 喜美子は「よいしょ」と言いながら両腕で持っていた買い物袋を床に下ろすと、ミトの側に来て内掛けの裾を手に取った。

「どう? ミトさん、こういう花嫁衣裳を見るのも初めてだって聞いたけど…」

「ええ。でも、こちらの花嫁衣裳って、重いのですねぇ…」

 ヤマトの花嫁衣裳も華やかだが、これほど重くはない。

「何か、お布団を二枚重ねして羽織っているような気分です…」

 ミトの言葉に喜美子はケラケラと声を上げて笑った。

「そうねぇ。洋式に比べると大分重いけれど…。でも、あなたも五郎も、和装の方が似合うと思って」

「お義姉さんもそう仰ってました」

「でしょう? 恵さんも、私と趣味は似てるのよね。あたし達、ほら、二人とも時代劇好きだし?」

 そう言いながら喜美子は鏡の中のミトを見ると、ゆったりと微笑んだ。

「不思議な縁だねぇ…。あの日、アヤちゃんを抱えたあんたを五郎が連れてきた日にゃ、どうしたもんかと思ったけどねぇ…」

 それを聞いて、ミトはフフと小さく笑った。

「その割には、お義母さんは随分と落ち着いていらっしゃったような気がしますけど…」

「あらそお? うーん。まぁ、困った時はお互い様だしねぇ…。でも、五郎が出会ったのがあんたで、本当によかったよ」

 ミトは喜美子に微笑むと、涙を堪えながら言った。

「私も、あの時出会ったのが五郎さんで、本当によかったと思ってます」


 結婚式の前日の晩、ミトは恵からいらなくなった段ボールの小箱を譲り受けると、部屋にしばらく籠っていた。

 今、ミトの目の前には二つの金のメダルのようなものが畳の上に置かれている。一つには龍、もう一つには朱雀が浮き彫りにされいる。ミトが元々住んでいた「ヤマト」国で「紋章」と呼ばれる身分証明書のようなものだ。龍はアヤのもの、そして朱雀はミトのもの。アヤの紋章は、こちらに来る時にアヤが来ていた産着の中に隠されていたのを、洗っている時にミトが見つけた。

 来る時に身に付けていた髪飾りや耳飾は処分できても、紋章だけは処分できなかった。これはヤマトと自分達を繋ぐ唯一の鍵だと、ミトはそう信じていた。それは未練ではなく、言うなれば自分達がここに存在する理由のようなものだ。だが、それをアヤに話すのは、アヤが大人になってから。それも、この世界に根をしっかりと下ろした後がいいだろうと、ミトはそう思っている。

「それまでは、封印ですね…」

 ミトは少し感慨深げに自分の紋章を床から持ち上げると、じっとそこに刻まれた朱雀を眺めた。初めてこの金の朱雀の紋章を祭祀省長官から授けられた時、彼女は自分が誇らしかった。その時の自分を思い出し、ミトはフフフと笑った。

「ミト、まだ起きてるのか?」

 襖の向こうで五郎の声がした。

「あ、はい。何か御用ですか?」

「いや、えーっと、別に…」

 五郎の声が妙にぎこちない。

「…眠れないんですか?」

 ミトがそう言うと、五郎の声が小さく「ああ」とだけ答えた。

 ミトは手早く紋章をそれぞれ違う布で包み、小箱に入れて蓋をした。襖を少し開けると、そこには五郎が立っていた。

「縁側にでも、行きましょうか?」

「そうだな」

 二人は縁側に出ると並んで腰をかけた。今日は午前中まで雨が降っていたせいか、少しまだ空気が湿っているような気がした。

「明日は天気がいいみたいですよ?」

 ミトが空を見ながらそういうと、五郎が頷いた。

「お式、大丈夫でしょうか」

「…俺に訊くな」

「ですよね」

 二人は微笑みながら空を見た。うっすらと雲のかかった空に、月が見え隠れしている。

「…何をしてたんだ?」

 五郎がポツリと呟いた。「夕食の後、ずっと一人で部屋にいただろう?」

 ミトはすぐには答えずに、雲が月から離れていくのを見ていた。

「けじめを、付けてました」

「けじめ?」

「ええ。ここであなたと生きていくって決めたから、そのけじめを」

「…そうか」

 ミトは黙って頷いた。

 二人の間に沈黙が流れたが、それは穏やかな沈黙だった。確かな信頼のある、穏やかな空気が二人の間に流れていた。ミトは目を閉じ、五郎の肩に頭を乗せると、フフっと笑った。

「これから、よろしくお願いしますね、五郎さん」

「ああ」

「三人で、幸せになりましょうね?」

「ああ。三人で、な」

 五郎の顔がミトに近付き、二人は唇を重ねた。これからこんな時間が続いていくのだと思うと、ミトは嬉しかった。

 幸せで穏やかな時間。

 それをミトに与えてくれるこの世界と、この世界に自分とアヤを送り出してくれた姉に、ミトは心から感謝していた。


 翌日、ミトは「早坂ミト」になり、アヤは「早坂綾」になった。

 三人の時間は穏やかに過ぎ、赤ん坊だった綾も二人の愛情に育まれてすくすくと健康に育った。

 

「えーっと、確かここに…。あ、よかったぁ。あった~」

 ミトは押入れの中から古ぼけた小さなダンボールの箱を見つけると、それを引き出して蓋を開けた。中には、布に包まれた塊が二つ、入っていた。

 ミトはそれを一つずつそっと取り出し、畳の上に置くと、所々が少し黄ばんだ布の包みをゆっくりと外した。中にあるのは、色あせずに金色に輝く「紋章」…。一つには龍、そしてもう一つには朱雀が浮き彫りにされている。

「まさか、これが必要になる日が本当に来るとはねぇ…」

 そう言いながらも、ミトの口元は微笑んでいた。

「これも、お姉さまのお導き、かしら?」

 ミトが感慨深げに二つの紋章を見つめていると、遠くの方で五郎の声がした。

「おーい。そろそろ行かないと、電車に乗り遅れるぞー!」

「あ、はーい。今行きまーす」

 ミトは二つの紋章をそれぞれまた布で包むと、それらを自分のハンドバックの中に入れた。

 大学生の娘、綾から電話が掛かってきたのが昨日のこと。話を聞く限り、ヤマトから綾を迎えに来た者達がいるらしい。綾にはいずれ本当のことを話そうと思ってはいたが、まさかその日がこのような形で訪れるとは思いもしなかった。

「さて。では、参りますか~」

 ミトはそう独り言を言うと立ち上がり、五郎が待つ玄関口へと向かおうとして、居間に飾ってある喜美子の写真の前で立ち止まり、写真に向かって手を合わせた。

「お義母さん。どうか、綾を見守ってあげてくださいね?」

 どこの者とも知れぬ自分に、我が子のような愛情を注ぎ続けてくれた人。ミトがこの世界で生きてこれたのは、五郎のお陰でもあるが、義母の力も同じくらい大きい。その義母も、数年前に老衰で眠るように亡くなった。

「おーい。何やってんだー? 早くしろー。綾が待ってるんだろー?」

「はいは~い」

 ミトは小走りで玄関口まで急いだ。

 家の周りの畑の風景はいつもと変わらない。だが、この日が綾にとって大きな節目になるような、そんな確かな予感をミトは感じていた。

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