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この地に渡る風 外伝  作者: 成田チカ
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外伝1 「ミトと五郎」 (前編)

長編小説「この地を渡る風」の外伝その1、今回の主人公は本編主人公アヤの育ての親、ミトと五郎の二人です。二人の出会いを書いてみました。

本編ご存知ない方のために少々説明しますと、ミトは異世界からアヤの生母(自分の姉)に頼まれてアヤを連れて異世界と現実世界を繋ぐ「門」を通って逃げてきた人です。

 一瞬、そこは天国かと思った。

 「門」から出ると、そこには穏やかな春の日差しが降り注ぎ、鳥が軽やかにさえずり、超が花々の間をひらひらと舞っていた。それは、ごく当たり前の春の風景だが、戦場から逃れてきたミトにとっては夢のような光景だった。

「きれ~い…」

 ぼーっと景色に見とれていたミトの耳に、赤ん坊のぐずった声が聴こえてきた。

「あ…。あ。あ、ああああ!」

 赤ん坊を抱く腕に、しっとりとした感触。そこで、ミトは重大な事実に気付いた。

「お、オムツの替え、持って来てない! ど、ど、ど、どうしましょう~。いやぁ~」

 ミトは半ば混乱しながら、辺りを見渡した。そこは野原の真ん中らしく、辺りには人家も道も見えない。ミトはとりあえず道らしきものを探して、赤ん坊を両腕にしっかりと抱きかかえながら足早に歩き始めた。道があれば、それはどこかの村か町に通じるだろう。

 しばらく歩いた後、遠くに畑らしきものが見え、その間に舗装された道らしきものも見え、ミトは安堵の息を漏らした。

(よかった。ちゃんと人が住んでるみたい)

 腕の中の赤ん坊は外の風景が珍しいのか、キョトンとした表情をしたまま大人しくミトの腕の中に収まっていた。

(いい子ね、アヤ…)

 ミトは姪に微笑みながら、人の気配を探し続けた。その時、遠くの方で何やら妙な音が聴こえた。

 ドッドッドッドドッ。ガッ。ドッドッドドッドッ。

(な、何かしら、あの音…)

 ミトは草の生い茂った場所を見つけると、その中に身を隠して息を潜めた。ドッドッという不規則な音は、少しずつミトのいる方に近づいて来ている。

(馬でも、牛でも無いわね。馬車とも違う…。でも、確かこっちの世界には魔物は出ないのではないの? それとも私、変な世界に来ちゃったのかしら?)

 音が近付くにつれ、ミトの心臓の鼓動が速くなる。ミトの只ならぬ様子を感じ取ったのか、腕の中の赤ん坊も一緒になって息を潜めているような気がするのが不思議だ。

 やがて、近くの林の中から音の主が姿を現した。

(何、かしら。変な乗り物…)

 それは今思えば単なるトラクターだったのだが、「こちらの世界」に来たことの無いミトにとって、それは未知の物体だった。

 その謎の物体は少し大きな振動を起こすとガガッと大きな金属音を立て、ミトの潜んでいる草むらの手前で止まってしまった。

「ひっ…」

 ミトは思わず声を上げてしまったが、咄嗟に口を赤ん坊を抱えていない方の手で覆って抑えた。幸い、未知の物体に乗っている男性には、その声は聴こえなかったようだ。

 そう。それには若い男性が一人、乗っていた。

「あー。やっぱりダメかー」

 男性はそう独り言を言うと溜息を突きながら運転席を降り、トラクターの後部からから工具箱を取り出すと、今度は前に回って何やら機械をいじり始めた。

(ああ、もう。どうしてこんなところで停まるのよ~。これでは、ここから動けないじゃないのぉ~)

 涙目になりながら、ミトは視線を腕の中の赤ん坊に移した。赤ん坊は眉間に皺を寄せながら身震いしている。

(あ…。こ、これは…。嫌な予感…)

 ミトがそう思った瞬間、かぐわしい臭いが漂ってきた。

(大きい方まで、腕の中でされるとはね…。はぁ。今日は私の人生の中で一番、色んな経験をしている日だわ…)

 ガックリとうな垂れるミトの腕の中で、赤ん坊が泣き出した。

(あああああああ!)

 ミトはぎょっとして身を固めたが、まさか赤ん坊の口を塞ぐわけにもいかない。

「え…。赤ん坊?」

 驚いたような男性の声がした。

(ど、どうしましょう!)

 ミトの心配をよそに、赤ん坊はまだ泣き続けている。

「誰か、そこにいるのか?」

(絶対絶命…!)

 赤ん坊を抱きしめたまま、ミトはうずくまって何とか遣り過ごせないかと天に祈ったが、その祈りは見事に却下されたようだ。

「…あんたは?」

 草を掻き分ける音と同時に、男性の声がミトのすぐ上から降ってきた。だが、少し警戒心を含んだ男性の声が、ミトの身体を一層固くした。

「……」

 しばらくして、カサっという音が聞こえ、ミトのすぐ横から声がした。

「…大丈夫?」

 その声の暖かさと優しさが、ミトには嬉しかった。と、同時に、その安心感がそれまで保っていた緊張感を一気に押し流した。

「だ、大丈夫、じゃ…、ありません…」

 ミトは顔を上げると、ボロボロと泣き始め、同時に口から言葉もボロボロとこぼれ始めた。

「こ、この子の、オムツが、な、無くて…。ヒック。替えなきゃ、いけない、のに…。グスっ。で、でも、私、どう、したらいいのか…、わからなく、て…」

 ミトの涙にギョッとしながら、男性はミトの腕の中でぐずる赤ん坊を見て、さらにギョッとした。そして、辺りに漂う匂い…。

「あ、ああ。えーっと…」

 男性は立ち上がるとトラクターに慌てて戻り、後ろの方で何かをゴソゴソと探した後、ミトに駆け寄って来た。

「ほら、来いよ。あっちに小さな川がある」

 男性が言うように道を少し歩くと、林の間を流れる小さな川があった。幸い、水は冷た過ぎない温度だったので二人は赤ん坊をそこで少し洗うと、男性が持っていたタオルに赤ん坊を包んだ。お尻がきれいになったのが良かったのか、タオルの感触が気持ちいいのか、赤ん坊は気持ち良さそうに眠り始めた。

 赤ん坊の寝顔を見ながら、男性が小声で言った。

「その子…。君の子?」

 その言葉に、ミトはただ黙って首を横に振った。その顔を静かに見つめていた男性が、ミトに持ち物が何も無い様子を見て、ふと思い出したように言った。

「じゃ、乳はどうすんだ?」

「ち、乳って…」

 ミトは顔を一瞬、ぽっと赤く染めたが、すぐにハッとして青ざめた。

「あああああ! そうでした! 私ではこの子にお乳をあげられません! ど、どうしましょう~」

 慌てるミトに、男性は困ったな、と言う顔をしながら言った。

「ちょっと遠いけど、店に行ったら粉ミルクとか売ってるだろ? ついでにそこで紙おむつも買うといい」

「店…?」

 男性は頷くとトラクターに向かって歩き始めた。「来い」

 そのぶっきらぼうな態度に唖然としながら、ミトは慌てて彼の後を追った。

「あ、あの…。ありが…」

 ミトが礼を言いかけて口籠もり、立ち止まった。先にトラクターに辿りついた男性が後ろを振り返ると、ミトは立ち止まったまま俯いている。

「どうした?」

 男性が心配そうに声を掛けると、ミトは泣きそうな顔で言った。

「私、この世界のお金を持っていません…」

「は?」


(無一文…? 何だ、そりゃ?)

 男性は目を見開いて、目の前で赤ん坊を抱きながら俯いている女性を見た。よく見ると彼女は、以前テレビで見た韓国の時代劇に出てくるような衣装を身に付け、上品で細工の細かい髪飾りや耳飾なども身に付けている。

(どこかの芝居の練習か…?)

 男性は息をゆっくりと吸い込むと、彼女に尋ねた。

「あんた…。どこから来たんだ?」

 その質問に、彼女の身体がビクっと反応し、彼女は無言のまま凍りついてしまった。

(訊いちゃいけない質問だったか…? まいったな)

 男性は自分の頭を掻きながら、何か彼女の緊張を解く言葉が無いか、必死に自分の少ないボキャブラリーの中から引き出そうとした。

「……いです」

 ふと、彼女の口から言葉が漏れ聴こえた。

「は?」

 男性が聞き返すと彼女は顔を上げ、今にも泣き出しそうな瞳のまま答えた。

「ここでは、ないんです。私は、ここの人間ではありません」

 そう言うと彼女はまた俯き、腕の中の赤ん坊に語りかけるように言った。

「ごめんなさい。今は、それしか言えません…」

「……」

(家出娘か? いや、でも、家出するような歳でもあるまいし…)

 男性はしばらくの間、俯いたままのミトを見つめていたが、気持ちを切り替えるように頭を掻くと、トラクターの前部へと回って何やらいじり始めた。

 待つこと数十分。やっとトラクターのエンジンが動き始めた。

「…乗れ」

「え?」

 ミトが顔を上げると、男性は既に運転席に座り、自分の横の少し狭い座席をポンポンと叩いていた。

「ここに座れ」

「あ、はい…」

 ミトは言われたとおりに男性の隣に座った。座席は、お世辞にも心地良いとは言えなかった。赤ん坊を抱えたままミトがとりあえず座先に落ち着いたのを見届けた男性は、ふと思い出したように呟いた。

「名前…」

「はい?」

 ミトが首を傾げると、男性はミトを真っ直ぐに見つめて言った。

「俺は五郎だ。早坂五郎」

「私は…。ミト、と呼んで下さい」

 五郎はミトに向かって少し微笑みながら頷くと、トラクターを発進させた。


 赤ん坊は「みるく」を良く飲んだ。それもそうだろう。「あの部屋」を去ってから、一口も何も口に出来なかったのだ。こうして元気に「みるく」を飲んでくれるだけでもありがたい。

 あの後、五郎はミトをとりあえず自分の実家に連れ帰ると、ミト達を自分の母親に預け、母親から買出しの品が書かれた紙を渡され、町にある店へと行ってしまった。

 五郎を待つ間、ミトは五郎の母、喜美子(きみこ)に促されるままに風呂に入り、自分と赤ん坊のアヤを洗い、喜美子が用意してくれた服に着替えた。喜美子はアヤには同居している長男夫婦の子供たちのお下がりだという服や玩具を出してきてくれた。

 しばらくすると、五郎が乗っていった軽トラックが家の敷地に入ってくるのが見えた。車を停めると、五郎は両手一杯の買い物袋を提げながら家に入ってきた。

「ただいま。母さん、これ」

「悪いけど、台所まで持ってきて~」

「ああ」

 ミトが五郎の後を付いて台所に入ると、五郎と喜美子は買い物袋から哺乳瓶や粉ミルクの缶を取り出していた。

「哺乳瓶って、何か色んな種類があるんだな。紙オムツも、あれにサイズがあるなんて、聞いてねーぞ」

 五郎が頭を掻きながらそう言うと、喜美子が笑った。

「いい勉強になったろ?」

「…いや」

 五郎はそう言いながら、大きな塊をミトに向けて差し出した。

「ほら。紙オムツ」

「あ、え、はい? えーっと、これは、どうすれば…」

 紙オムツの「徳用パック110枚入り」と書かれたパッケージを見ながら目を白黒させているミトを見て、五郎は唖然とした。

「俺に訊かれても困る。俺だって、知らん」

「え…」

 二人は紙オムツのパックをしばらく凝視していた。

「この…。ここにある絵姿の子供のようにすればいいのでしょうか?」

「そういうもんだろ? …多分」

「えっと、じゃあ…」と言いながらアヤを台所のテーブルに寝かせようとしたミトを、喜美子が制止した。

「ああ、ミトさん。オムツ換えは居間でやってちょうだい?」

「あ、はい…」

「五郎はタオルでも持って行ってあげなさい」

「…ああ」

 ミトがアヤを抱えて居間で待っていると、五郎がタオルと紙オムツのパックを持って来た。二人はタオルを敷いた上にアヤを寝かせると、パックから紙オムツを一つ取り出した。

「えーっと…。こう、かしら…?」

 とりあえず、見よう見真似で付けてみる。

「いいんじゃないか? 多分、そんな感じだ」

 五郎が曖昧な相槌を入れた。

「見たこと、ないんですか?」

「甥っ子や姪っ子が付けてるのは見たことあっけど…。自分で替えたことはねーからな」

「…なるほど」

 二人が床に寝そべったアヤを見ながら困惑顔をしていると、喜美子が哺乳瓶に入れたミルクを持って居間に入ってきた。

「できた? あらやだ。足の周りのひだが中に入っちゃってるわよ」

 喜美子がアヤの側に座りながら、アヤの紙おむつの足回りを直していく。

「これが漏れ防止に大事なのよ。はい、出来上がり。はーい、アヤちゃん、ミルクでしゅよぉ~」

 喜美子が意気揚々とアヤを抱きかかえ哺乳瓶の先をアヤの口元に近づけると、アヤは自然にそれを加えてミルクを飲み始めた。

「…子供って、これが食べ物だって判るんでしょうか」

 ふと呟いたミトの言葉に、喜美子がケラケラと小気味の良い声で笑った。

「本能ってやつじゃないのかねぇ…。お腹が空いてたんだね、この子は。ちょっと多めに作ってよかったよ。あ、ミトさんもお腹空いてるかい? すぐにご飯の用意するからね。じゃ…。ほら」

 喜美子は哺乳瓶をくわえたままのアヤをミトに渡すと、急いで台所へと戻っていった。台所から喜美子の声が響いてきた。

「飲ませ終わったら、ちゃんとゲップさせるんだよ?」

「はい」

 台所に向かって返事をすると、ミトは視線をアヤに戻した。一心不乱にミルクを飲んでいたアヤは、物凄い勢いで哺乳瓶を空にした。

「豪快な飲みっぷりだな…」

 呆れた口調で五郎が呟いた。それに吊られて、ミトはつい、笑顔になってしまう。

「ふふ」

 つい数時間前に出会ったばかりなのに、今こうして二人でアヤの顔を見て笑っているのが不思議なほど自然だった。

「…で」

 五郎がニヤッと笑いながら言った。

「ゲップのやり方は、わかってるんだろ?」

 五郎の問に、ミトは真顔で答えた。

「いいえ。全く判りません」

「は?」

「五郎さん、やり方を御存知ですか?」

「…俺に訊くなよ」

「…ですよね」

 二人は同時に溜息を突き、そして同時にお互いの顔を見合わせながら笑い始めた。


 その日の夕食の後、居間でテレビを珍しそうに見ていたミトは、いつの間にかそのまま寝入ってしまった。

「あらあら。この子ったら、ぐっすり寝ちゃったわ」

 喜美子が小声で笑いながらそう言うと、五郎が無言で立ち上がった。

「…客間に布団敷いて来る」

「お願いね」

「ああ」

 喜美子はテレビの音量を少し小さくすると、ミトとその傍らで眠るアヤを見つめた。

(何があったかは知らないけど…。まだ若いのに、自分の子でもない赤ん坊を抱えて…。難儀だこと…)

 ミトは自分のことをほとんど話すことは無かったが、アヤが自分の実の姉の娘であることと、その姉に頼まれてアヤを連れて「遠くの土地」から逃げてきたことは話した。

(誰も知らない土地で暮らすのは、心細いだろうにねぇ…)

 喜美子は旅行以外にこの土地から出たことが無かった。数年前に亡くなった夫は、一緒にこの土地で育った幼馴染だった。だから、彼女には小さな赤ん坊を抱えて見知らぬ土地に行くなんて、喜美子にとっては恐怖以外の何物でもない。

(できるかぎりのことを、してあげたいねぇ…)

 喜美子がお腹を空かせてぐずり始めたアヤをそっと抱きかかえていると、五郎が客間から戻ってきた。

「布団、敷けたぞ。ああ、赤ん坊、起きちまったか…?」

 五郎の視線は喜美子が抱いているアヤと、床で寝ているミトの間を何度か往復した。

「五郎。あんた、ミトさんを客間に運んでくれるかい? あたしは、アヤちゃんにミルク飲ませたりするからさ」

「ああ、わかった」

 五郎はそう言うと、床からミトをひょいと抱きかかえた。

「襲うんじゃないよ?」

 喜美子の軽口に五郎が苦笑する。

「しねーよ」

「あらら」

「ったく」

 五郎はミトを抱えて居間を出て行った。

「照れちゃって…」

 喜美子は五郎の去った後を見ながらクスリと笑い、台所へと向かいながら腕の中のアヤに向かって微笑んだ。

「アヤちゃんにだって、パパは必要でしゅよね~?」


(あれ? ここは…?)

 ミトが目を覚ますと、そこは朝の光がうっすらと差し込む、優しい空間だった。

(えーっと、私はどうしてここにいるのかしら…?)

 ミトは布団に横になったまま、昨日起こった出来事を頭の中でおさらいしていく。

(お姉さまからアヤを託されて、「門」を通って、原っぱに出て、変な乗り物に乗って…。と、言うことは、ここは五郎さんの家で…。あら? 私は昨日、どうやってこの部屋に来たのかしら?)

 違和感を覚えて、ミトは身体を起こした。遠くの方で、人の気配と物音がする。その音の中に赤ん坊の声が混じっているのを聞き取った瞬間、ミトは跳ね起きた。

「あ、アヤ!」

 ミトが慌てて居間へと駆けつけると、アヤは五郎の腕の中で哺乳瓶をくわえていた。

「おう。おはよう」

「お、おはようございます」

 五郎にそう言いながら、ミトは自分が顔も洗っていないことに気が付いた。とりあえず手櫛で髪を整えると、ミトは五郎の腕の中で気持ち良さそうにミルクを飲むアヤを見た。

「ああ、良かった…」

「アヤは昨日、母さんと一緒に寝たんだ」

「ええっ!」

 驚いたミトの姿を見てケラケラと笑いながら、喜美子が台所から顔を出した。

「ミトさん、ぐっすり眠ってたからねぇ…。ほら、こっちに朝御飯用意できてるから」

「す、すみません…。何もお手伝いできませんで」

 ミトが恐縮しながら台所に向かうと、喜美子は笑って言った。

「いいのよ。気にしない、気にしない! さ、食べちゃって」

「はい…。いただきます」

 ミトは喜美子が用意してくれた朝御飯を食べ始めた。夕べも思ったことだが、この異世界の食事は、何故かミトが生まれ育ったヤマト国の食事に良く似ていた。そう思った瞬間、ミトの胸に何やらじわじわとした染みのようなものが広がっていった。

「どうかした?」

 喜美子の声にハッとして、ミトは自分の箸が止まっていたことに気が付いた。

「あ、いえ…。美味しいなって思って…」

 ミトの言葉に、喜美子はただ黙って微笑み返した。


 食事を終えて居間に戻ると、床に敷かれた座布団の上でアヤが眠っていた。

「あら? 五郎さんは…?」

 ミトが辺りを見回すとやがて物音が階段の方から聞こえ、五郎が姿を現したが、その姿は先ほどとは打って変って凛々しいものだった。

「……」

 無言で袴姿の五郎を見つめていたミトに、五郎が首を傾げながら尋ねた。

「…どうかしたか?」

 ミトは慌てて首を横に振った。

「あ! いえ、あの、その格好…」

 五郎は「なんだ」と言いながら声を出して笑った。

「ああ。弓道着を見るのは初めてか? 今日はこれから弓の稽古があるんだ」

「弓?」

「ああ。町に弓道場があってな。俺はそこで週末、稽古をしてる」

「弓の、お稽古…?」

 小さな少女のように興味深げに尋ねるミトが、五郎には何故だか愛らしく見えた。

「…何だ、興味あるのか?」

 五郎の問に、ミトは戸惑いも無く答えた。

「はい。私も弓をやっていましたから」

 ミトの答えに五郎は少し驚いたようだったが、すぐにフッと穏やかな笑みを浮かべた。

「なら、あんたも一緒に行くか?」

「よろしいんですか? あ、でも…」

 パッと笑顔で答えた後、ミトが表情を曇らせた。

「私がやっていた弓は、ここの弓とは違うと思います…。それに、アヤもいますから」

「あら、アヤちゃんならあたしが面倒を見てあげるから、行ってくればいいじゃないの」

 台所の方から喜美子の声がした。

「え? でも…」

 戸惑うミトに、台所から出てきた喜美子が笑顔で言った。

「子供も孫も大きくなっちゃったから、たまには赤ちゃんの世話をしたくなるのよ。だからアヤちゃんはあたしに任せて、ミトさんは五郎と一緒に行って、ちょっと楽しんでいらっしゃい」

 喜美子の申し出にミトは少し考え、そして口を開いた。

「では…。お願いしてもよろしいですか?」

 ミトがおずおずと尋ねると、五郎と喜美子はそろって笑顔で頷いてくれた。

「俺の服を貸してやる。母さんのじゃ丈が合ってねーよ」

 五郎はミトが着ている喜美子から借りたTシャツとスウェットパンツを見ながらそう言うと、自分の部屋へと戻っていった。ミトは背が高いわけではないが、喜美子が小柄なのでどう見てもパンツの丈が足りていない。

「あの子の服じゃ、かえって大きすぎるんじゃないかねぇ…」

 喜美子の言葉に、ミトはクスクスと笑っていた。


 初めて見る弓道場は清廉な空気が漂う中に心地よい緊張感の張り巡らされた場所だった。静けさの中に、衣擦れの音、弓を引き絞る音、矢を放つ音と遠くの的に矢が当たる音が繰り返される。

(何かの儀式みたい…)

 この空気は、ミトにヤマトでの式典や祭事を思い起こさせた。たったの1日しか離れていないにも関わらず、それらはまるで妙に遠い昔のことのように感じられる。

 弓を引く五郎は見たことも無いような鋭さを秘め、力強かった。弓の型を繰り返す所作が、まるで舞いを舞っているかのようにも見える。

 永遠に続くのではないかと思われるその動作の輪が突然ふっと途切れ、五郎が後ろで見学していたミトに振り返った。

「…やってみるか?」

「よろしいんですか?」

「ああ。こっちに」

 ミトは言われるままに五郎の側に歩み寄った。

「ここに立って、足は、そう。そのくらい」

 弓を渡されて、ミトは弓の端から端までを注意深く眺めた。

「…弓、長いんですね」

 ふと呟くと、五郎の声が後ろから聴こえた。

「あんたがやってたのは、アーチェリーか?」

「あーちぇ…。はい?」

「いや、いい。矢はこれ」

「はい」

 弓が長いせいか、矢もミトが使っていたものよりも随分と長いような気がした。

「一応、型っていうか基本動作があるんだが、今はとりあえず気にしないで、あの的に向かって1本撃ってみろ」

「…よろしいんですか?」

「ああ」

「では」

 ミトは目を閉じ、一つ深呼吸をした。ゆっくりと瞼を上げ、的を見据える。五郎はその揺るぎの無い真っ直ぐな視線を見て、少し息を飲んだ。

(目つきが、変わった…?)

 ミトは慣れた手つきで矢を番え、弓と一緒に上に持ち上げると、ゆっくりと引いた。その時フッと風が入り、後ろで一つに束ねられているミトの黒髪をかすめて首筋を軽く撫でた。

 ヒュっと矢が空を切る音が聴こえ、矢が鈍い音を立てて的に当たった。

「へ…え。初めてにしては上手いな」

 矢は的の中心から15センチばかりずれた場所に刺さっていた。

「いいえ。やっぱり弓の長さが違うと、引きの時の力の入れ加減を変えなくてはいけないのですね…」

 ミトはそう言いながら、引きの練習をしていた。

「…もう一本、行くか?」

「はい!」

 ミトは嬉しそうに返事をすると五郎から矢を受け取り、それを番えるとゆっくりと弓を引いて放った。

放たれた矢は的の中心を僅かにそれた場所に刺さったが、目の前のミトは首を傾げながら残念そうな声を出した。

「うーん。やっぱりこれは、練習が必要ですね…」

「は?」

「だって、真ん中に当たっていません」

 不満気に大真面目な顔をしてそう言うミトを見ながら、五郎は呆れて言った。

「いや、でも的には当たってるぞ?」

 その言葉に、ミトは首を横に振った。

「でも、私が狙っていたのは真ん中です」

「そ、そうか…」

「あら。真ん中以外の何処を狙うんです?」

「…だよな」

「そうです」

 自分はとんでもない女を拾ってしまったかもしれない、と五郎は心の中で呟いた。


「…上手いんだな、弓」

 喜美子に頼まれた買い物を済ませて家に帰る途中、車の中で五郎がミトに言った。ミトはフフっと笑うと、何かを思い出したように少し辛そうな顔をして俯いた。

「…父様が、小さい頃に私とお姉様に手ほどきして下さったんです。私、小さいときからお姉様には何をやっても敵わなかったけど、弓だけは、絶対に負けなかったから…」

「その、お姉さんって言うのが、アヤの…?」

 ミトは黙って頷いた。

「そうか」

 ミトに尋ねたい事は沢山あった。だが、それは今はまだ、訊くべき時ではないと五郎にはわかっていた。それがわかっているのに、何故か妙に歯痒かった。普段、自分は他人にこんなに干渉することは無いのだが、何故だろう。昨日出会ったばかりのミトのことをもっと知りたいと思ってしまう自分がいて、五郎は少し戸惑った。

「あ、あれだ」

「はい?」

 ミトが顔を上げて五郎を見た。丁度信号待ちになり、車が止まると五郎はミトを見て言った。

「行く場所が無いなら、うちにいればいい」

 ミトは目を大きく見開きながら驚いたが、その後しばらくの間、眼を左右に泳がせながら何かを考えているようだった。

「何か、問題でもあるのか?」

 不安に思った五郎が尋ねると、ミトは一瞬ハッとしたが、すぐに「あ、五郎さん、信号…」とだけ言って俯いてしまった。

 その後、二人は家に到着するまでの間、一言も話すことは無かった。


 正直な話、五郎の申し出はミトにはとてもありがたいものだった。いや、ミトだけではない。アヤにとっても、それはとてもありがたいことだ。だが、自分がそれに甘えてしまっていいのかどうか、ミトにはわからなかった。

 あれこれと思案に暮れるミトの気も知らずに、あっという間に一月が過ぎた。

 その間にアヤはすっかり喜美子と五郎に懐き、そればかりか、ミト達が初めてやって来た時には友人の結婚式に出席するために留守にしていた長男一家にもアヤは懐き、可愛がられていた。長男一家も、初対面の時の喜美子がそうだったように、ミトとアヤを意外にもあっさりと受け入れてくれた。

「あら、ここには余ってる部屋は沢山あるんだし、好きに使うといいわよ。それに、アヤちゃん、とっても可愛いし」

 長男の妻である(めぐみ)は二人を歓迎してくれたし、長男の一也(かずや)はミトの身の上を聞いて涙を流しながら「好きなだけいてもいいんだよ」と言っていた。一也と恵の二人の中学生の子供達も、お姉さんと妹が同時に出来たようだと言ってミトとアヤをすんなりと受け入れてくれた。

「ここの人たちは、とてもいい人たちばかりですね」

 畑仕事を手伝いながらミトが五郎にそう言うと、五郎はブッと噴出して笑った。

「うちの家族がこの土地の人間全部と同じわけじゃない。どっちかと言うと、うちの家族は皆、人情家でおせっかいで楽天家だからな」

 そう言う五郎もよくミトとアヤの面倒を見てくれていて、今ではアヤのオムツ換えも難なくこなすようになった。

(それでも、私はこの家の人間ではないですし…。いつかはちゃんと外で仕事を見つけて、あの家を出て自立するべきですよね、やっぱり…)

 ミトはそう思っていたが、それは同時に不安も呼び起こす。それほど、早坂家はミトとアヤに安らぎを与えていた。

 ミトが早坂家に居候するようになってすぐに、五郎は念のために地元の警察に勤める友人に連絡を取り、ミトとアヤの身柄を調べてもらっていた。もし、家出人として捜索願いが出されているようなら、きちんと本来の家族がいる場所へ返すのが一番いいと考えていたからだ。だが、一月経った今でも、ミトとアヤに該当する家出人は見つかっていない。最近では友人からの連絡を聞く度に、五郎は安堵の息を漏らしてしまう。

(何だ、これ。変だな)

 そう思いながら、五郎は数メートル先で作業をしているミトを見た。ミトはタダ飯を食べるのは嫌だと言って、五郎の農作業や家のことを色々と自ら進んで手伝ってくれている。始めは色々と知らないことのほうが多くて戸惑っていたようだが、元から頭のいい人なのだろう。すぐに勝手を覚え、今では色んなことによく気が付いて家族を助けてくれている。

 農作業に出る時は、喜美子が家でアヤの面倒を見てくれるのが常だ。喜美子の茶飲み友達の間でも、よく笑って愛嬌のあるアヤは人気があるらしい。この二人がある日、あっさりとあの家からいなくなってしまうことを想像すると、五郎は妙に気持ちが沈んだ。

「どうかしたんですか?」

 近くでミトの声がしてハッと顔を上げると、いつの間にか五郎の側に来ていたミトが心配そうな顔をして五郎を見つめていた。

「あ、いや…。そう言えば、ミトさんは、彼氏とか、いないの?」

 誤魔化し半分に咄嗟に出したその問に、ミトは少し俯きながら答えた。

「……いました、けど…」

「あ、ごめん」

 言い辛そうなミトの声音を聞き取って五郎がすぐに謝ったが、ミトは哀しげな笑顔で首を横に振った。

「いいんです。亡くなったんです」

「えっ?」

「結婚を約束した人でした。でも…。せんそ…じゃなくて、えっと、そう。事故で…」

「…ごめん」

 再び謝る五郎に、ミトは首を横に振って何とか笑顔を作ろうとした。

「いいんです。別に…。仕方が無かったんです。仕方、が…」

 堪えようとしたのに、思い出した途端にその時の感情が激流のように溢れてきて、涙が止まらなかった。

「ごめん」

 そう言った五郎の声が近いなと思った瞬間、ミトの頭は五郎の大きな手に引き寄せられ、額が五郎の胸に押し付けられていた。

「ごめん。嫌なことを訊いた」

 目の前の五郎の作業着のカーキ色がぼやけて滲んでいった。ミトはしばらくの間、そのまま嗚咽を上げながら泣いていた。五郎はその間、ただ黙って胸を貸してくれた。


 その晩、五郎は独りで家の縁側に座り、庭を見ながら缶ビールを飲んでいた。日中は大分暖かくなってきたとはいえ、夜はまだ少し冷える。

「そこにいたか」

 長兄の一也がそう言いながら、やはり缶ビールを片手に五郎の隣に座った。

「お前がフイっと消えちまったんで、ミトさんが心配してたぞ」

 五郎は居間の方を振り向き、他の誰も彼らを見ていないことを確認すると、溜息を吐きながら言った。

「…地雷を踏んじまったんだ、今日」

 五郎はそう言うと、ビールを一口飲んだ。

「自爆したのか?」

 一也が面白半分にそう言うと、五郎は少しうな垂れた。

「…どうなんだろうな。余計に前が見えなくなったって感じだ」

 一也は五郎の様子をチラッと横目で見ると、クッと笑った。

「何が可笑しいんだよ」

 五郎がふて腐れてそう言うと、一也が笑いながら「いや、すまん」と言った。

「二十六になって、お前にもようやく初恋か?」

 まだ笑っている一也を見ながら、五郎が機嫌悪そうに言った。

「…バカを言え。俺の初恋は小学校の時に経験済みだ」

「そんなの、恋の内に入るか。バカ」

「……」

 二人はしばらく、無言でビールを飲みながら庭を見ていた。庭の隅には、母の喜美子が趣味で植えている小さな花々が夜風に揺れていた。

「兄さんは…」

 ポツリと五郎が呟いた。

「ん?」

「兄さんは、どうして義姉さんと結婚しようと思ったんだ?」

「あー」

 一也は少し顔を赤らめながら俯き、五郎がよくやるように頭を掻いた。

「ま、なんだ。あれだな。『こいつと毎日一緒に暮らすのも悪くない』って言うか…」

「…そんなもんか?」

「まあな。朝起きて、あいつが笑顔で『おはよう』って言って、俺が『おはよう』って返して。その時に、何かこれはいいかもしれんなー、と。そんな感じだったかな、俺は」

「……」

 空には綺麗な三日月が出ていた。

「お前は、どう思ってるんだ?」

 一也が唐突に五郎に尋ねた。

「どうって?」

「ミトさんのこと」

「あー」

 今度は五郎が少し顔を赤らめながら俯き、頭を掻いた。

「いて欲しいって、思ってるよ。ここに。出来ればずっと」

「…そうか」

 一也はそう言って立ち上がると、五郎の肩に手を置いた。

「なら、そう言ってあげればいい」

 そのまま居間に入ろうとした一也を、五郎は振り向かずに呼び止めた。

「ん?」

「ありがとう」

「ああ」

 一也はフッと微笑むと、そのまま居間へと入っていった。五郎はしばらくの間、縁側で月を眺めていた。

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