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フグのいる家計簿

作者: たんすい
掲載日:2025/10/13


 「僕と結婚してほしい」


 その言葉は、豆腐みたいに四角くて、口の中に形だけが残った。


 彼の声は真面目で、少し固い。


 私は三十二歳だった。


 友達の多くは結婚し、年賀状には子どもの写真が並ぶ。

 白い服と花束と、笑っている顔。


 どれも、もう遠い出来事のように思えた。


 「うちの親は仲が良かったけど、お金で苦労したんだ」

 「君を同じ目に遭わせたくない。だから、きちんと計画したい」


 愛の代わりに、計画があった。


 私はうなずいた。

 それ以外の選択肢を、持っていなかった。


 ひとつだけ、お願いをした。


 「今飼っているフグを、連れて行きたいの」


 彼はわずかに眉を寄せ、それから言った。


 「……まあ、いいよ」


 言葉の端に、薄い妥協がにじんでいた。



 結婚して最初の春、私たちはよく散歩をした。


 夕方、電気を消して外に出る。節電のためだ。


 細い道の端を、並んで歩く。


 まだ会話は続いていた。

 私はそのたび、何かを繋ぎ止めている気がした。


 帰ると、彼は家計簿をつけ、私はフグに餌をやる。


 水面に落ちたアカムシを、フグが吸い込む。


 それを見て、ようやく息をつく。


 「今日も黒字だ」


 彼はそう言って、紙の端を撫でた。


 私は、フグの背中を見ていた。



 一年が過ぎた。


 歩く距離は同じまま、言葉だけが減っていった。


 夕食は豆腐か卵焼きに味噌汁。

 電気も水も、きちんと節約されていた。


 その分、夜の部屋は少し寒い。


 ページをめくる音が、毎晩のBGMになった。


 そのリズムに合わせるように、フグが水槽を回る。


 水が濁るたび、私は水を替えた。


 「また?」


 彼は視線だけを向ける。


 「水道代、かかるんだよ」


 私は笑って、やり過ごす。


 その夜、彼は水槽を避けて歩いた。

 寝る前、小さくため息をつく。


 私は聞こえないふりをして、ガラス越しの水を見つめた。


 わずかな揺らぎだけが、部屋に残っていた。


 散歩の途中、タンポポが咲いていた。


 以前なら、何か言葉があったはずだ。


 今は、ない。


 彼の目は、数字のほうを向いている。



 三年目の春。


 「フグの餌、少し高くない?」


 私は頷き、安い人工飼料を試した。


 フグは口をつけなかった。


 何度も落とす。

 何度も濁る。


 水の中でほどけていく粒を見ながら、胸の奥が沈む。


 拒まれているのは、餌なのか、自分なのか。


 ある夜、フグが近づいた。


 小さな口で、ほんの少しだけ食べる。


 私は息を止めたまま、その場に座り込んだ。


 理由はわからない。


 ただ、赦された気がした。


 それから、水槽の前にいる時間が増えた。


 散歩は続いた。


 楽しくも、苦しくもない。


 決まった時間に出て、同じ道を歩く。


 それだけが、一日の終わりになった。



 五年。


 貯金は二千万円を超えた。


 「餌代、高いね」


 「これ以上は……」


 「貯金があれば大丈夫だ。君を不幸にはしない」


 私は何も返さなかった。


 いりこを砕き、アミエビをすり潰し、餌を作る。


 台所の光の下で、粉をこねる。


 手のひらが白くなる。


 「偉いな」


 彼はそう言った。


 ペンの音だけが、よく滑った。


 水槽だけが、私の世界になった。



 この子が死んだら、終わる。


 そう思った。


 だから、増やそうとした。


 水温を変え、光を落とす。


 ある夜、小さな卵が浮かんだ。


 息を呑む。


 水の中で、命が増える。


 その一方で、私の中では何かが静かに終わっていた。



 六十歳。


 貯金は九千万円を超えた。


 私は病気になった。


 病室。点滴。夜。


 夫が来る。


 「お金はある。大丈夫だ」


 笑おうとしている。


 私は首を振る。


 「もう、大丈夫」


 それが最後になった。


 夢の中で、水が揺れていた。


 フグが泳ぐ。


 呼ばれている気がした。



 妻が死んだ日、家計簿を開けなかった。


 数字が意味を失っていた。


 豆腐の味もしない。


 部屋の隅に、水槽がある。


 フグは、妻の作った餌を食べている。


 何のための貯金だったのか、初めて考えた。


 妻のためのはずだった。


 その妻は、もういない。


 夜、水槽の前に座る。


 フグが泡を吐く。


 何かを言いかけているように見える。


 私は水を替えた。


 ガラスの向こうで、光が揺れる。


 その向こうに、妻がいる気がした。


 頬が濡れていた。


 翌朝、最後のページを破る。


 裏に、一行だけ書く。


 ――いくらあっても、もう君には会えない。

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