表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

フグと家計簿

作者: たんすい
掲載日:2025/10/13

 「僕と結婚してほしい」

 その言葉は、豆腐みたいに四角くて、口の中で形だけが残った。

 彼の声は真面目で、少し固かった。

 私は三十二歳だった。

 友達のほとんどは結婚して、年賀状には子どもの写真。

 白い服と花束、笑っている顔。

 そのどれもが、もう遠い場所の出来事のように思えた。

 「うちの親は仲が良かったけど、お金で苦労したんだ」

 「君をお金で苦労させたくない。だから、しっかり計画を立てたい」

 そう彼は言った。

 愛の代わりに、計画があった。

 私は、うなずいた。うなずくしかなかった。

 ただ一つだけお願いをした。

 「今飼っているフグを連れて行きたいの」

 彼は少し眉をひそめて、それから「まあ、いいよ」と言った。

 その言葉の端に、かすかな妥協の匂いがした。


 結婚して最初の春、私たちはよく散歩をした。

 夕方、電気を消して出かける。節電のためだ。

 細い道の端を並んで歩く。

 まだ会話は途切れず、私はそのたびに、何かを守っているような気がした。

 家に帰ると、彼は家計簿をつけ、私はフグに餌をやった。

 水面に落ちたアカムシを、フグが吸い込む。

 それを見ながら、私は少しだけ息をついた。

 「今日も黒字だ」

 彼はそう言って、家計簿の端を撫でた。

 私は、フグの背中を見ていた。


 一年が過ぎた。

 散歩の距離は変わらない。けれど、話すことは減っていった。

 夕食はいつも、豆腐か卵焼き。それに味噌汁。

 電気代は安く、水道も節約した。

 その代わり、夜の部屋は少し寒かった。

 家計簿のページをめくる音が、毎晩のBGMになった。

 その音に合わせて、フグが水槽の中をゆっくりと泳いだ。

 水が少し濁るたび、私は水換えをした。

 そのたびに、彼は横目でこちらを見て、少しだけ顔をしかめた。

 「また水、替えるの?」

 私がうなずくと、彼は小さく息を吐いた。

 「水道代、けっこうかかるんだよな」

 私は笑ってごまかした。

 その夜、彼は水槽を避けるようにして歩き、

 寝る前に小さくため息をついた。

 私はそれを聞かないふりをして、フグの泳ぎを見つめていた。

 ガラスの向こうの水の音が、私を少しだけ温めてくれた。

 散歩の途中、道端に咲いたタンポポを、私はつい見てしまう。

 前なら、彼が「春だね」と言ってくれたかもしれない。

 今は、何も言わない。

 彼の目は、家計簿の数字しか見ていないようだった。


 三年目の春。

 「フグの餌、ちょっと高くない?」

 彼がそう言った。

 私は頷いて、アカムシの代わりに人工飼料を試した。

 けれど、フグは口をつけなかった。

 何度も、何度も試した。

 丸めた餌が水の中でほどけて、濁っていく。

 そのたびに、胸の奥が沈んでいった。

 冷たい水に落ちていく粒を見ながら、私は自分が拒まれているような気がした。

 何度目かの夜、フグがゆっくりと近づいて、

 その小さな口で、ほんの少しだけ餌を食べた。

 私は息を詰めたまま、水槽の前に座りこんだ。

 胸の奥がじんわりと温かくなった。

 泣いた理由は、自分でもわからなかった。

 たぶん、やっと赦されたような気がしたのだと思う。

 それから私は、水槽の前に座る時間が長くなった。

 それでも散歩だけは続けた。

 楽しいとも、つらいとも思わなかった。

 ただ決まった時刻に出て、決まった道を歩いた。

 風が吹いても、話さなくても、それは一日の終わりの儀式のようだった。


 五年が経った。貯金は二千万円を超えた。

 彼は家計簿を見ながら言った。

 「フグの餌代が高いね」

 「もうこれ以上は……」

 「貯金さえあれば、大丈夫なんだ。君を不幸にはしない」

 その言葉に、私は何も返せなかった。

 私は自分たちの食事のいりこを砕き、アミエビを粉にして、フグの餌を作った。

 台所の光の下で、粉をこねる。

 手のひらが白くなった。

 それを見て、彼は「偉いな」と言った。

 家計簿のペンが、すべるような音を立てていた。

 フグの水槽だけが、私の世界の全部になっていた。


 私はあることに気づいた。

 この子が死んだら、もうフグを飼えなくなる。

 唯一の世界が消えてなくなる。

 だから、繁殖させようと思った。

 水温を変え、光を弱くした。

 ある夜、小さな卵がいくつも浮かんだ。

 それを見たとき、私は息を呑んだ。

 水槽の中で命が生まれる。

 私の中では、何かが終わりかけていた。


 六十歳になった。貯金は九千万円を超えていた。

 そんなとき、私は病気になった。

 入院して、点滴の管が腕に刺さる。

 夜、夫が病室に来る。

 「お金はある。大丈夫だ」

 そう言って、笑おうとしていた。

 私は首を振った。

 「もう、大丈夫よ」

 それが最後の言葉になった。

 夢の中で、水槽が見えた。

 光がゆらいで、フグが泳いでいた。

 あの子たちが、私を呼んでいる気がした。


 妻が死んだ日、家計簿を開けなかった。

 数字が、何の意味も持たなかった。

 豆腐を食べても、味がしなかった。

 部屋の隅には、水槽があった。

 フグたちは、妻の作った餌を食べていた。

 私は初めて、何のために貯めていたのかを考えた。

 妻のためだと思っていた。

 けれど妻はもういない。

 夜、水槽の前に座った。

 フグが泡を吐いた。

 その泡が、何かを言いたげに見えた。

 私は、妻の代わりに水を替えた。

 水槽の中で、光がゆらいだ。

 あの光の向こうに、妻が立っている気がした。気づけば頬が濡れていた。

 翌朝、家計簿の最後のページを破った。

 その裏に、一行だけ書いた。

 ――いくらあっても、もう君に会うことはできない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ