フグと家計簿
一
「僕と結婚してほしい」
その言葉は、豆腐みたいに四角くて、口の中で形だけが残った。
彼の声は真面目で、少し固かった。
私は三十二歳だった。
友達のほとんどは結婚して、年賀状には子どもの写真。
白い服と花束、笑っている顔。
そのどれもが、もう遠い場所の出来事のように思えた。
「うちの親は仲が良かったけど、お金で苦労したんだ」
「君をお金で苦労させたくない。だから、しっかり計画を立てたい」
そう彼は言った。
愛の代わりに、計画があった。
私は、うなずいた。うなずくしかなかった。
ただ一つだけお願いをした。
「今飼っているフグを連れて行きたいの」
彼は少し眉をひそめて、それから「まあ、いいよ」と言った。
その言葉の端に、かすかな妥協の匂いがした。
二
結婚して最初の春、私たちはよく散歩をした。
夕方、電気を消して出かける。節電のためだ。
細い道の端を並んで歩く。
まだ会話は途切れず、私はそのたびに、何かを守っているような気がした。
家に帰ると、彼は家計簿をつけ、私はフグに餌をやった。
水面に落ちたアカムシを、フグが吸い込む。
それを見ながら、私は少しだけ息をついた。
「今日も黒字だ」
彼はそう言って、家計簿の端を撫でた。
私は、フグの背中を見ていた。
三
一年が過ぎた。
散歩の距離は変わらない。けれど、話すことは減っていった。
夕食はいつも、豆腐か卵焼き。それに味噌汁。
電気代は安く、水道も節約した。
その代わり、夜の部屋は少し寒かった。
家計簿のページをめくる音が、毎晩のBGMになった。
その音に合わせて、フグが水槽の中をゆっくりと泳いだ。
水が少し濁るたび、私は水換えをした。
そのたびに、彼は横目でこちらを見て、少しだけ顔をしかめた。
「また水、替えるの?」
私がうなずくと、彼は小さく息を吐いた。
「水道代、けっこうかかるんだよな」
私は笑ってごまかした。
その夜、彼は水槽を避けるようにして歩き、
寝る前に小さくため息をついた。
私はそれを聞かないふりをして、フグの泳ぎを見つめていた。
ガラスの向こうの水の音が、私を少しだけ温めてくれた。
散歩の途中、道端に咲いたタンポポを、私はつい見てしまう。
前なら、彼が「春だね」と言ってくれたかもしれない。
今は、何も言わない。
彼の目は、家計簿の数字しか見ていないようだった。
四
三年目の春。
「フグの餌、ちょっと高くない?」
彼がそう言った。
私は頷いて、アカムシの代わりに人工飼料を試した。
けれど、フグは口をつけなかった。
何度も、何度も試した。
丸めた餌が水の中でほどけて、濁っていく。
そのたびに、胸の奥が沈んでいった。
冷たい水に落ちていく粒を見ながら、私は自分が拒まれているような気がした。
何度目かの夜、フグがゆっくりと近づいて、
その小さな口で、ほんの少しだけ餌を食べた。
私は息を詰めたまま、水槽の前に座りこんだ。
胸の奥がじんわりと温かくなった。
泣いた理由は、自分でもわからなかった。
たぶん、やっと赦されたような気がしたのだと思う。
それから私は、水槽の前に座る時間が長くなった。
それでも散歩だけは続けた。
楽しいとも、つらいとも思わなかった。
ただ決まった時刻に出て、決まった道を歩いた。
風が吹いても、話さなくても、それは一日の終わりの儀式のようだった。
五
五年が経った。貯金は二千万円を超えた。
彼は家計簿を見ながら言った。
「フグの餌代が高いね」
「もうこれ以上は……」
「貯金さえあれば、大丈夫なんだ。君を不幸にはしない」
その言葉に、私は何も返せなかった。
私は自分たちの食事のいりこを砕き、アミエビを粉にして、フグの餌を作った。
台所の光の下で、粉をこねる。
手のひらが白くなった。
それを見て、彼は「偉いな」と言った。
家計簿のペンが、すべるような音を立てていた。
フグの水槽だけが、私の世界の全部になっていた。
六
私はあることに気づいた。
この子が死んだら、もうフグを飼えなくなる。
唯一の世界が消えてなくなる。
だから、繁殖させようと思った。
水温を変え、光を弱くした。
ある夜、小さな卵がいくつも浮かんだ。
それを見たとき、私は息を呑んだ。
水槽の中で命が生まれる。
私の中では、何かが終わりかけていた。
七
六十歳になった。貯金は九千万円を超えていた。
そんなとき、私は病気になった。
入院して、点滴の管が腕に刺さる。
夜、夫が病室に来る。
「お金はある。大丈夫だ」
そう言って、笑おうとしていた。
私は首を振った。
「もう、大丈夫よ」
それが最後の言葉になった。
夢の中で、水槽が見えた。
光がゆらいで、フグが泳いでいた。
あの子たちが、私を呼んでいる気がした。
八
妻が死んだ日、家計簿を開けなかった。
数字が、何の意味も持たなかった。
豆腐を食べても、味がしなかった。
部屋の隅には、水槽があった。
フグたちは、妻の作った餌を食べていた。
私は初めて、何のために貯めていたのかを考えた。
妻のためだと思っていた。
けれど妻はもういない。
夜、水槽の前に座った。
フグが泡を吐いた。
その泡が、何かを言いたげに見えた。
私は、妻の代わりに水を替えた。
水槽の中で、光がゆらいだ。
あの光の向こうに、妻が立っている気がした。気づけば頬が濡れていた。
翌朝、家計簿の最後のページを破った。
その裏に、一行だけ書いた。
――いくらあっても、もう君に会うことはできない。




