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風刃の侍  作者: 綾粕一
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第一話

「数が一つ足りませぬが……」

 小蔵役の藤龍之進は帳面をくりながら首を傾げた。

「そんなはずはない。よく数えたのか」

 上役の御蔵役は龍之進に不審な目を向けた。上役といっても歳は龍之進より二つ若い三十だ。

「はい。何度数えても一つ足りませぬ」

 上役は龍之進から帳面をひったくると記帳されている数を指でなぞった。そして棚にきちんと整頓されている米俵の個数を数え始めた。

「むむむ、ない。確かにない。一つ足らぬではないか。龍之進、なんとしことだ」

 上役は龍之進に詰問した。

 しかしながら、数があわないのは龍之進の預り知らぬことだった。龍之進は几帳面さを買われて本日より小蔵役になったばかりである。

 龍之進は返答に窮した。

 上役もそのことに気づいたのか慌てて米蔵を出ていった。

 結局、自らにお咎めの累が及ぶのを恐れた上役は当時の小蔵役沢田新助をまずは謹慎処分としてその責めを負わせることにした。

「藤龍之進。貴公はお役目怠慢により訓戒といたす。左様心得よ。今後このような失態を招くようなことがあれば厳しき沙汰があると心得よ。よいな」

「ははっ! 承知仕りました」

龍之進は蔵奉行の叱責ですんだものの割り切れない思いで引き下がざるをえなかった。


 藤龍之進は士分の身ではあるが三十俵二人扶持の下級藩士である。

 藤家は東北にある花見藩に先祖代々仕える武士で、さして広くない土地に屋敷を藩主から与えられて、妻のお峰と住んでいた。

 米三十俵といっても、毎日の食べる分以外は銭に替えて生活費などに充てているので、それだけでは不足しているので内職などをしながら生計を立てていた。

 もっとも、近在の百姓などの庶民に比べれば、住む家や少ないとはいえ俸給が支払われるだけいくらかはましだった。

 そういうわけで藤家でも庭で畑を耕し人形作りの内職をしてかろうじて生計をたてていた。


 だけれども、龍之進には良き妻お峰がいた。子供はなく、親類縁者の間では肩身の狭い思いはしていたが、決して悲観はしていなかった。貧しくてもお峰との暮らしには満足していた。


「お峰、帰ったぞ」

「お帰りなさいませ。お疲れになったでしょう」

 龍之進は昼間のことは胸に収めて一言も愚痴ることはなかった。むしろお峰の明るい笑顔を見ると救われるのだった。

「旦那さま。今日はお咲坊と一緒にお花をいっぱい摘んできましたのよ。ほら御覧なさいまし、きれいでしょう」

 確かに床の間に置かれた竹筒には赤や黄色の可憐な草花が活けてあった。

 台所で夕餉の支度をしながらお峰は楽しそうに語りかけてくる。

「そうか。お咲坊は元気になったのか」

 お咲は隣の家の十二歳になる娘である。子供のいないお峰はお咲をとてもかわいがっていた。

「ええ、もうすっかり治りました。うれしそうに元気いっぱい飛び跳ねていましたよ」

 お咲は熱を出してこのところ床に臥せっていたのだった。

お峰は膳に雑穀飯と一菜一汁を乗せて龍之進の前に置いた。

「そうか、それはよかった。ところで、帰りがけに善九郎にあって、是非に稽古をつけてくれと頼まれてな」

「まあ。それでは、善九郎様は御前試合に出られるのですか」

「ああ、そうだ。よせばいいのに。物好きな奴だ」

 龍之進はわからんというような顔をした。

「まあ、そんなことを言っては気の毒ですわ」

「そうかな」

「そうですよ。善九郎様とて御前試合にでて武士として立派な試合をされればお殿様のおぼえもあろうかと存じます」

「なに、戦でもない限りは剣など役にはたつまい。今は天下泰平の世だ、剣の時代はとうに終わっている。そんなもの振り回しているより、こうしてお峰と静かに暮らしているほうがよほど幸せというものだ」

 龍之進はお峰の手を取り自分の頬にあてた。

「まあ、旦那様ったら」

 お峰はうれしそうに顔をほんのり赤らめた。



 春の雪解け水をたっぷり含んだ大河は悠然と流れていた。

 川の向こうには雪を頂いた山々が峨峨と立ち並んでいる。

 藤龍之進と山井善九郎は河原で木刀を構えて向かいあっていた。もっとも龍之進の顔にはいかにも面倒だという表情がありありと見て取れた。

 すでに一時もの間、善九郎の稽古に付き合っていたのだ。稽古はできるだけ早く切り上げて今日のおかずにと目の前の川で魚の一匹でも釣って帰りたかった。そうすればきっとお峰も喜ぶだろうとそんなことを考えていた。

 一方、善九郎の方は額に汗をかき真剣な面持ちで盛んに声を発していた。

「龍之進! 今一度だ。参るぞ」

「わかった。もう一回だけだぞ……」

 善九郎は龍之進の返事もそこそこに木刀を上段に構えグイと足を一歩進める。

「んーいやー、とお!」

 奇妙な気合とともに鋭く打ち込んできた。善九郎の立ち筋は決して悪くはなかった。グッと踏み込んだ木刀の先が龍之進の喉元を突く。腕に覚えがなかったらたちどころに喉を突かれていただろう。しかし、龍之進はスッーと体をかわしながら、善九郎の腹に木刀を打ち込む。

「うっ! 参った!」

 善九郎は木刀を放り投げてその場にへたり込んでしまった。

「龍之進、やっぱりお主には適わぬ。お主が出れば必ず瓜生に勝てるのに。残念だ」

 善九郎は自分が負けたことよりも、竹馬の友が御前試合に出ないことの方が悔しかった。

「まあ、いいではないか」

 もっとも龍之進はまったく興味がなかった。

 山井善九郎は龍之進と違って馬持ちの中級武士であり町奉行の与力の長男である。いずれは父の後を継いで与力になる男だ。

 二人の身分は随分違うが、幼いころから妙に馬があい、ともに親友として認め合っていた。


 そのとき、三頭の騎馬武者がどっとかけてきた。先頭を駆けてくる白馬にまたがった武将は朝日に照らされきらきらとした陣馬織を羽織っていた。一目見て藩主とわかった。

「あ、殿!」

 善九郎は慌てて裾を払い、その場にひざまずき深々と頭を下げた。龍之進もそれに見習う。

 藩主はまだ若くて、先代が昨年、病でなくなり跡を継いだばかりだった。若い藩主はよく野駆けをするのだった。

「そのほう、名を聞こう」

「は、山井善九郎と申します」

「うむ、その方ではない」

 藩主の馬はきらびやかな馬具を着していた。藩主はまたがったまま声を少しあらげた。善九郎は恐縮し頭を地面にこすりつける。

「藤龍之進と申します」

 龍之進は答える。

「見事な腕だ。どこの流派だ」

「は、恐れ入り奉ります。何流というほどのことはございませんが、我が師長谷部陣右衛門殿より教示されましたゆえにございまする」

「ふむ、そうか。あいわかった」

 気まぐれな若い藩主はまたも馬首をめぐらして風のごとく去っていった。警護の武士は慌てて後を追う。

「ああ、驚いた。まさかこんなところまで朝駆けとはな」

 善九郎は立ち上がって見送る。龍之介は地面に坐ったまま難しい顔をしていた。


「お峰、どうした食が進まないではないか」

 妻の峰は暗い顔をして箸を膳の上に置いた。山菜と今朝釣ってきたばかりの川魚が一匹それに粟ご飯に汁の質素な夕食。普段は近所の子供が悪さをしただの、隣のお咲坊がどうのこうのと明るく話すのだが、今夜に限っては沈痛な面持ちだった。

「なんだか心配です。お殿様にお目をかけられたのです。もし御前試合にでもでるとなると……」

「はははは、心配いたすな。わしのような下級武士がそのような試合に出られるはずがないではないか」

 実のところ、龍之進もその不安は大きかったが、わざと明るく振舞っていた。しかし、峰は夫の気持を察していた。

「それはそうですが、あなたさまほどの腕を持つものは藩内にはいないのですよ。今まで知られなかったのが不思議なくらいです。よりによってお殿様の目に止まったとなると……」

「そう案ずることはあるまい。御前試合といってもいわば形式的なものにすぎない。第一、今年も瓜生殿に決まりであろう」

「そこでございます。先代のお殿様はあまり武芸に熱心ではありませんでしたが、若殿様はそうお考えになるでしょうか」

「……」


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