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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

グレンモアの幽霊屋敷

作者: 田仲絵筆

「いやー、助かりました。この地方の通り雨は凄いと聞いていましたが、文字通りバケツをひっくり返したようで。あれだけの雨だと、蜜蝋を塗り込めた外套も役に立ちやしません。それにしても、まさかこんなところに立派なお屋敷があるとは」


 快活なカリムの言葉に、客人を先導して案内していたこの屋敷の使用人だという老婆がほほ、と笑った。


「先々代が変わり者でねえ。便の良いところよりも静謐さを好むような方でしたから、こんな辺境に屋敷を建てましたの。でも中に入って驚いたでしょう。立派なのは外見だけで、中身はとんだあばら屋だって。お恥ずかしい話、近年は財政が逼迫して、修繕費用も払えないものですから。誰が言い出したのか『谷間の湿地(グレンモア)の幽霊屋敷』だなんて呼ばれる有様ですわ」


 案内を受けていたのは、主人と従者に見える年若いふたり連れだった。連れ立って馬での旅程中に、大雨に当たってしまい、慌てて峡谷にぽつんと建っていたこの屋敷の門を叩いたのである。


 カリムという従者風の青年は陽気な男で、初対面の老婆ともすぐに打ち解けている。

 その後ろを歩く主人格の青年は、カリムとは対照的に寡黙な男だった。

 外套のフードをかぶったままなので、悪天候で薄暗い屋敷では鼻と顎のラインしかわからないが、それだけでも秀麗な顔立ちであることがわかる。


 雨宿りを乞う客人に当初は警戒心をみなぎらせて応対していたこの屋敷の使用人だという老婆は、カリムの人好きのする笑顔を見ると警戒を解いたように、「この分では止むまでに数刻かかるでしょうから」とふたりを中に招き入れたのだった。


「あばら屋なんて、とんでもないです。調度品も素晴らしいものばかりではないですか。高級な上に趣味も良い。この天気で暗いのが悔やまれるな。御当主はさぞかし洒落者なのでしょうね」


 周りを見まわしながらカリムが絶賛する言葉のとおり、家具は古いが仕立ての良いものばかりだった。そして屋敷の中は薄暗い。まるで暗幕でも張っているのではと見紛うくらいだ。

 良く見ると、窓という窓に内側から木の板が打ち付けてあるのだった。これでは晴れていても、陽の光は半分も入らないだろう。


 何も言わずともカリムの疑問を汲み取ったように、老婆が恥じたように俯く。

「侵入者を防ぐためですわ」

「と、おっしゃいますと」


「あなた方は悪さなんてなさらないでしょうから思い切って言いますわね。この屋敷にはもうずっと男手が無いのです。もっと言うと、ここに住んでいるのは当主であるお嬢様と年老いたわたくしだけ。もう何年も前から」

「それは……」

 確かにあまりに不用心だ。思わず言葉を失ったカリムの後ろで青年が驚いたように顔を上げたが、前を行くふたりに気づいた様子はなかった。



 通された客間もやはり薄暗かった。雨の音は弱まるどころか勢いを増しているように感じる。遠くでごろごろと雷鳴が鳴っているのが聞こえた。


「よかったら、何があったのか話してはいただけませんか。もしかするとお困りごとも、解決の糸口が見つかるかもしれません」


 カリムが言うと老婆は困ったような顔をしたが、久しぶりの来客に人恋しさもあったのだろう。茶器をふたりの前に置くと、カリムに促されるままに向いの椅子に座り、ゆっくりと話をはじめた。



 ーーわたくしがお仕えしていた先代の伯爵夫妻にはブランシュ様という、それは美しいお嬢様がおられました。ひとり娘なので、それこそ目に入れても痛くないといった可愛がりようでねえ。

 ええもう、これ以上は無いというぐらい、幸せな家族の光景でしたよ。


 ところがブランシュお嬢様は、屋敷の使用人と恋仲になってしまったのです。よりによって、従僕見習いの孤児の男なんかと!


 ルシアンというその男はブランシュお嬢様の4つ歳上だったかしら。


 身寄りもない子供を利発だという理由で伯爵様が引き取ったのですが、まさかあのようなことになるなんて。


 確かに見目は良い子供でしたよ。黒い巻き毛と黒い眼をしていて、確かに見た目だけなら何処かの貴族の令息と言われても違和感は無いぐらいでした。

 でも、所詮は天涯孤独の身の上。まさか伯爵家のお嬢様とどうこうなろうなどと考えているとは思わないでしょう。


 そりゃあ、発覚した時の旦那様は大変なお怒りようでしたよ。この屋敷ではほとんど使われたことがない鞭を何処からか持ってきて、それでルシアンを打ち据えたぐらいですから。本当はその場で手討ちにしてやりたかったくらいだと思います。


 それを、お嬢様が泣きながら庇うものですから、せめてもの情けで、屋敷を放逐されるぐらいで済んだのですわ。


 ところが、どうやら家を出る前に、ブランシュお嬢様とあのルシアンは約束をしていたらしいのです。

 必ず立派になって迎えに来るから、それまで待っていてほしい、と。


 そんな口約束、少しでも世間を知っていれば鵜呑みにするはずはないのに、お嬢様は信じてしまわれたのです。恋は盲目とも申しますからね。


 当然、年頃の美しいお嬢様にとても良い縁談の話は降るようにありました。その中には、侯爵様からのお話しもあったのですよ。

 ところが、お嬢様はそのすべてを断ってしまわれました。


 誰が見ても願ってもない良縁だというのに、ブランシュお嬢様は、頑として絶対に受けようとはなさいませんでした。

 ーーええ、とうに屋敷を離れたあのルシアンに操を立ててのことでございます。


 それに伯爵様も、多少浮世離れしたところのある方でしたから、娘が頷かないなら受けるわけにはいかないと、お断りしてしまったのでございます。


 それでーーその、侯爵様です。格下の家から断られるなんて恥をかかされたと激怒してしまいまして、うちとの付き合いを一切やめると宣言してしまったのでございます。

 うちに出入りしていた商人や業者たちも侯爵様の顔色をうかがって取り引きから手を引いてしまったものですから、屋敷が経済的に孤立するまで時間はかかりませんでした。


 次々と使用人が辞めていく中で、ついに伯爵夫妻も心労で倒れてしまいました。

 そうやって、じわじわと真綿で締められるようにこの屋敷は傾いていったのでございます。


 そして、ついに残されたのはブランシュお嬢様とこの老いぼれだけになってしまったというわけです。

 

 どうですか。楽しい話ではないでしょう。


 ルシアンですか? もちろん戻ってきやしませんよ。調子の良い事ばかり言っておいて、今頃は何処で何をしているんだか。

 大方、すっかり都の暮らしに染まってしまい、ここでのことなど忘れて楽しくやっているんじゃないかしら。


 ブランシュお嬢様もすっかり気落ちなさって、そのおいたわしいことといったら。

 あの美しかったお嬢様がすっかりお痩せになって、呪詛めいた言葉しか吐かなくなってーー。



 そこまで一気に話した老婆が思わずといったように目元を拭うのと、それまで黙って話を聞いていた主人格の青年が立ち上がるのとが同時だった。


「ちょっと。貴方、何処へ」

 老婆の制止に耳を傾けることなく、客間を出て行こうとする。外套のフードが外れて、黒髪がこぼれた。

 そのまま青年は一目散に廊下を走り抜け、奥の階段を駆け上がって行った。


 カリムと老婆も慌てて後を追ったが、まるでこの屋敷を勝手知ったる場所のようにふるまう青年にはすぐには追いつけなかった。

 


 青年は迷いの無い足取りで、三階にある部屋を目指して行く。

「ブランシュ様!」


 青年の呼びかけと共に重厚な扉が開け放たれる。この部屋もまた薄暗かった。雨音と遠くの方でごろごろと鳴っている雷の音も、部屋を陰鬱に見せるのに一役かっていた。


 広い部屋には天蓋に覆われた寝台があり、その上に人影があるのがかろうじてわかる。

 この部屋の主であろう人影は、ぶつぶつと何かを呟いている。

 雨音に紛れそうなほど平坦で小さなそれは、一見鼻歌にも聴こえるが、よく聞くと怨嗟の言葉なのだった。

 

 ーーわたくしは、騙された

 ーー貴女を愛していると言ったのに

 ーー結婚しようと、そう言ったのに

 ーー成功して絶対に戻って来るって

 ーーお父様にも家の者にも認めてもらおうって

 ーーだから、お父様と喧嘩をしても、お母様を泣かせても、諦めなかった

 ーー縁談だって受けなかった

 ーーだから、ずっと貴方だけを待っていたのに

 ーー全部、嘘だったのかしら

 ーールシアン


 カリムと老婆が追いついた時、青年は寝台に近寄って、天蓋の薄布を剥ぎ取るところだった。


 老婆が慌ててそれを止めようとするが、枯れ木のような細腕で止められるわけもない。


「ブランシュ様! 私です、ーー俺です、ルシアンです」


 薄布が剥ぎ取られると同時に、薄暗い部屋が一瞬白く光った。一拍おいて、耳をつんざくような雷鳴が鳴る。

 その光で、クッションにもたれるようにして横になっていた寝台の人影の輪郭が一瞬だけ鮮明になった。


 すぐに暗くなったものの、目に焼きついた光景に青年ーールシアンとカリムは戦慄した。


 長い金髪の巻毛。蝋よりも青白い顔色。干からびた皮膚。鼻は崩れ落ち、くちびるの無い口からは歯が覗いている。閉じた眼は眼窩のかたちに落ち窪んでいた。

 到底生きているとは思えない。寝台の上にいたのは、とうに息絶えた少女の亡骸だったのだ。



「そん……な、ブランシュ……」

 青年が茫然としたように手を伸ばし、やがて立っていられなくなったように膝をついた。


「やはりお前だったか」

 血の底を這うような声は、カリムの隣で成り行きを見守っていた老婆から発せられたものだった。


「お前が、お嬢様を! この屋敷を、こんな目に!!」

 そう言って膝をついている青年ーールシアンに飛びかかったのはもはや上品な家政婦ではなかった。髪を振り乱し、口は耳まで裂け、吊り上がった目からは血の涙を流している。


 カリムはこの老婆もまた、この世の住人ではないことを悟った。


 老婆だったものに首を絞められながら、ルシアンは苦しそうにもがいていた。


「違うーー戻って来るはずだったんだ。都で成果を出した俺は、いくばくかの財産と供のものと共に、馬車に乗っていた。……だがっ、その道ゆきで盗賊に遭ってしまい、この屋敷に辿り着くことができなかったんだ……っ」


 ぎりぎりと締めつける手を必死で押し返し、必死で言い募るルシアンの声は老婆の耳には入らないようで、力は緩まる気配がない。


 それを黙って見ていたカリムはふと思いついたように、懐に手を入れた。

「ご主人」

 それどころではないルシアンに、小箱を黙って渡す。

 手のひらにすっぽりと収まるほどの大きさのその黒い箱は、ビロード張りで、ひと目で中に大切なものが入っているとわかる。


 野盗に襲われた際もそれを持っていかれることがなかったのは、ルシアンがそれをがっちりと握り込み、見つからないようにしていたからだ。


 青年は大事なものを思い出したように眼を見開くと、なおも締め付けてくる老婆だったものを押しやりながら、かろうじて寝台の上の亡骸にそれを渡そうとする。

「ブランシュ様、これを…………っ」


 放り投げられた形になった箱が、どうしたはずみかゆっくりと開いた。


 中からこぼれ落ちたのは、見るからに高級な指輪だった。

 銀の土台に、大きな一粒のダイヤモンドがついている。

 薄暗い部屋にあって、輝きを放っているようにさえ見える。ーー否、それは本当に光っていた。


 その時、ほとんど骨となった寝台の上の遺体が、ぎこちなく動いた。


 まさかと眼を見張るルシアンとカリムに見られながら、腕がゆっくりと伸ばされる。


 骸は指輪が放つ光に照らされるように、段々姿を変えてゆき、その指先が指輪に触れる頃には、少女の輪郭を取り戻していた。


 落ち窪んでいた眼窩と頬はふっくらとした輪郭を取り戻し、ぱさぱさだった髪はつやつやと蜂蜜のような金髪だ。頬は薔薇色に染まり、ぱっちりと見開いた瞳は緑がかった青で、見ていると吸い込まれてしまいそうな秋の空のようだった。


 それはとても愛らしい少女だった。

 そして花びらのような唇がにっこりと笑った。


「ーーお帰りなさい、ルシアン」



 ルシアンは泣き笑いのような表情になると、寝台の前に跪いた。

 いつの間にか元の姿に戻った老婆は離れて、彫像のようにぴくりとも動かない。


「……随分と、待たせてしまいました」

「ええ、本当に。すっかり待ちくたびれてしまったわ」

 沈痛な懺悔に冗談まじりに笑う少女に、ルシアンは恥いったような顔をする。


「こんなにかかるはずじゃなかった。どれだけ出世しても、旦那様に認めてもらえる気がしなくて、気づいたらこんなに経っていた」

 そう言って俯いた。

「……まさか、屋敷がこんなことになっていたなんて」

 


「あなただけのせいではないわ。わたくしも何度も考えたの。どうしてこんなことになってしまったのかと」

 そう言って、少女は慈愛にも似た笑顔を浮かべる。


「ばあやとふたり屋敷に残されて、不審者に怯え暮らす日々の中であなたを恨んだり後悔もずいぶんしたわ。それで、わたくしはどうすれば良かったのか考えるの」

 そして悲しそうな顔で、選択肢を羅列した。


「あなたが屋敷を出る時に、家族を捨てて一緒に付いて行くと言えば良かったの? 戻らないあなたをただ待つばかりではなくて、追いかけたら良かったの? それとも高貴な方からの縁談を受ければ良かったのか。ーーそもそも、あなたと約束などしたのが間違いだったのかしら」


 困り切った表情をするルシアンに、ブランシュは小首を傾げて見せた。

「何度考えても、ほかの選択肢があったとは思えないの。もう一度やり直せるなら、もっと上手くできるかもしれないけど。でも過ぎた時間は戻ってこない。待っていることしかできなかったわたくしの元へ、あなたは戻って来てくれた。だからもういいのよ」


 そして、指輪を摘み上げると、かざすようにした。


「ねえ、もしかしてこの指輪は、わたくしの幼い頃の戯れごとをきいてくれたのかしら」


 ルシアンも照れたように笑う。

「ええ。あの頃の俺は、あまりに無力だった。それでもあなたの望むことなら、なんでも叶えてあげたかったのに。それにしたってあなたの願いはあまりにささやかで、それさえ叶えてあげられない自分が、あまりにも情けなくて」


 その時、カリムの脳裏にも、存在しない記憶が流れ込んできた。まだ恋人同士になる前の、今よりうんと幼いルシアンとブランシュの姿が浮かび上がる。



 ーーねえ、ルシアン。わたくしあの星がほしい。おひさまもおつきさまもみんなのものだけど、あれだけたくさんある星のひとつなら、わたくしがもらってしまっても、だれも困らないでしょう。


 ーーはあ。言うに事欠いて星ですか。そりゃあ腐るほどありますけどね。届くわけがない。だいたいあんなもの、太陽がちょっとでも出たらすぐに見えなくなるようなちんけな光ですよ。そんな不確かなものを欲しがるのはやめた方がいい。


 ーーどうしてそんなこと言うの!? あなたにはわたくしのためにがんばってみようという『きがい』はないのかしら。わたくしはただ、どんなにたよりなくても、自分のためだけに光るものがほしいだけなのに。


 ーーいやだから、無理なもんは無理なんだって。まったくこのガ、お嬢ちゃんは。あ、おい、待てこら。泣くなって。あんたを泣かせたって知ったら、また旦那様に怒られちまう。…………悪かった。いつか、採ってきてやるから。約束します。だから、泣くな。



 そんな会話を、幼いブランシュとルシアンは幾晩もしたのだろう。

 そして成長して、とんだ世迷言を話してしまったと恥いるブランシュとは反対に、ルシアンはそれをいつまでも覚えていたのだろう。



「まあ、ブランシュ様が欲しがっていたものには到底及ばないかもしれませんが。俺にとってはそれが精一杯の代物で」

 軽く屋敷のひとつやふたつ建てられるであろう高価な指輪をまるで卑下するような口調のルシアンにブランシュが首を振る。

「そんなことないわ。とてもきれい。ありがとう、ルシアン」


 ルシアンは指輪を見つめて微笑むブランシュの指先からそっとそれを摘んだ。

「すっかり遅くなってしまいましたが」

 片手にブランシュの左手、もう片方の手に指輪を持ってそれを嵌めながら、恭しく語りかける。

「どうか私と共に人生を歩んでいただけませんか。永遠の忠誠と献身を捧げるとお約束します」


 ブランシュは言葉ではなく笑みでそれに応えた。長い間、どんな困難に置かれようとも誰のものにもなろうとしなかったブランシュにとって、言葉による返答はむしろ無意味だったからだ。

 ルシアンも最初からわかっていたように指輪を嵌め、ふたりはじっと見つめ合い、そしてくちづけを交わす。


 その途端、部屋に光が満ち、かつて屋敷にいた者たちーー亡くなった前当主と多くの使用人たちが満面の笑みでふたりを見守り、万雷の拍手をする光景が見えたような気がした。

「騙していたわけじゃなかったのねえ」と使用人の老婆が呟いたような気もした。


 ただそれも一瞬のことだったので、もしかすると老婆の言葉も祝福する者たちも気のせいで、拍手だと思ったそれは雨音だったのかもしれない。


 そして、光はやがて指輪に収束してゆく。


 気がつくとカリムは薄暗い部屋で、相変わらず衰えることのない雨音をひとりで聞いていた。

 部屋には彼の他に一切の人影は無かった。

 ただ寝台の上に、少女の遺体があるだけである。


 その薬指には、銀色の指輪が嵌っていた。




「やれやれ、ようやく離れてくれたか」

 カリムは溜息をついた。


 カリムが沼地でぼろぼろの馬車の残骸を見つけたのは何日か前のことだ。

 おそらくは野盗にでも遭ったのだろう。元々は仕立ての良かったであろう馬車は、金目になりそうな装飾の類いはすべてはぎ取られていた。


 そして遺体が三体。

 ほとんど骨だけになっていた上に、こちらも衣服や装飾品はほとんど無くなっていたが、成人男性ーーおそらく主人と御者と召使いのものと見られる亡骸が野晒しになっていた。


 カリムは生前は地位のある人物だったと思われる亡骸に軽く黙礼をして通り過ぎようとしたのだが、ふと何かを庇うような体勢が気になって手を伸ばしてしまったのが良くなかった。


 遺体が大事そうに握り込んでいた小箱に触れた途端に、それまで誰も居なかったはずの真後ろから人の気配を感じた。

 振り向くと騎乗した身なりの良い男性がいた。服装からいって目の前の遺体の生前の姿であることはすぐにわかった。


 これは望みを叶えてやるまでは何処までも付いてくる気だな、と悟ったので、小箱のみをふところに入れ、まわり道になるが、彼のーールシアンの目的地に付いてくるしかなかったのだ。


 そして、ルシアンの望みは叶えられた。



 カリムが馬に乗り、無人の屋敷を後にする頃には、雨が上がってすっかり晴れ渡った夜空が広がっていた。

 生きている人間は近くにはいないが、豪雨のあとの晴天を歓迎するかのような虫の声がうるさいくらいだ。


 結局、遺体もその指に嵌ったそのままにして出て来てしまった。指輪は売ればひと財産になるだろうが、その代わりあの屋敷中の元住人たちの怨嗟も付いてくるだろう。

 さすがにそれはごめんだった。


 それにしても、すっかり回り道をしてしまった。まあ遅れた分は、夜通し馬を進めれば挽回できるだろう。

 そう思いながら手綱を握り、空を見上げる。


 降るような星空だった。

 中天にまたたくひときわ明るい一等星に目を留めた。ブランシュが欲しがったというのはあの星だろうか。


 思わず手をかざしてみる。指の間から星が見えた。こうしてみると、あの指輪のようだ。骨ばった指と指の間に、放射状に伸びる光芒を見て、カリムは小さく笑った。

読んでいただいて、ありがとうございました。

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 雨の中、没落した貴族の屋敷を訪れる訳ありの客人、という定番の冒頭部でありながら新鮮みがあるのは、活き活きと描かれた登場人物の会話文と描写のためでしょうか。  何よりも後半の展開には感嘆するばかりでし…
面白かった。 少し長いのが気になるが、悪くない語り部と、緊張感も演出され、見事な短編だ。
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